第一遊   異界 前編






 見渡す限りに広がる草原。数十メートル先を通る舗装されていない道、目の前にあるのは幅およそ三メートルあまりの緩やかな流れを湛える川。
 その先に見えるのは街だろうか。たくさんの建物、その中心に一際大きな建築物が見える。
 しかしそのどれもが晶にとって見覚えのあるものではない。
 あえて見た事があるといえば、学校で買わされた国語や世界史の資料集のなかでくらいだろうか。
 視力が抜群にいい晶にはその建物がよく見えた。
 朱塗りの柱に黒い瓦屋根。五重塔のようにされた天へとそびえる尖塔。街にはアスファルトなどなく、ただ乾いた土の広い道が通っている。
 人の格好こそ遠目ではよくわからないが、少なくとも現代日本の人々がする格好とはひどく違う。それはまさしく“古代中国”と呼ぶに相応しい姿であった。
 呆然としている晶の手にあった『書』が、風に吹かれてさらさらと砂になって舞っていく。驚く彼女を尻目にしまいには欠片も残さず消えてしまった。
「…なんだよ、これ……」
 まったく訳がわからなかった。
 これが夢でないことは、空気の匂いと五感を刺激する全てものが伝えてくる。
 ただ解るのは、この状況を引き起こしたのは今しがた風化するように消えてしまった“書”であると言う事。
 しっかりと握り締めていた鈴が音を響かせる事ができずにカチリと鳴る。その感覚が妙にリアルで、意図せず苦笑が漏れる。
 あまりに唐突な風景の変化に足の力が抜けてその場にぺたりと座り込む。
 そよそよと春めいた風が頬を撫でる。
 まったりとした気候。
 のびやかでのびやかで。




 平和。




 この場所にとってそれがとても重要であるのだと感じた。
 根拠も理由もない。なにせ今初めて見た場所だ。
 ただ感じただけである。
 初めて見た場所なのになぜか近親間を覚える。
 そんな自分の感覚に気が狂っているのかとも自嘲した時、ふと背後に人の気配を感じて振り返った。
「…………」
 そこに居たのは少女。随分と小柄で色素の薄い少女だ。年は自分よりやや下のように思われた。どこか幼さの残る雰囲気で何故か腕の中には猫が一匹。驚いた様子でこちらを見ている。
 可愛らしい容姿をした少女だ。どう間違っても『綺麗』ではなく『可愛い』タイプ。服装は普通に現代にいるようなもの。
 だから晶はどれが“本当”なのか混乱してきた。
 あの眼下に広がるものがただの大規模な映画かなにかのセットに見えてくる。しかしながら晶がついさっきまでいたのは孤児院の園長室。
 これが現実であるならここはどう間違っても“現代日本”ではない。このような広い場所はそうないと言う前に、普通に考えたら場所が突然変わることそのものがありえないのだ。だが晶の感覚はこれが夢だとは思わせてはくれない。
 しかも少女の気配は最初まったく無かったのだ。それなのに突然そこに現れた。歩いてきたとか近づいてきたのとは違う。まさに降って湧いたのだ。
 二人はお互いになぜか何も言えずにただ見てるだけ。
 少女も随分驚いているらしい様子から、どうやら彼女も突然ここに現れてしまったかのような印象を受ける。
 何が起きているのだろうか。
 一体自分に何が起こった?
 晶がそうして悶々と悩んでいると、可愛らしい少女がおずおずと口を開いた。

「あ、あの……ここ、どこですか?」


 間。


「……………」
 晶はつい無言になってしまった。口が上手く動かない。
 ごもっとも、とも言える質問。少女は見た目も可愛らしいなら声も可愛らしかった。

 可愛いのはいいのだ、別に。
 ただ質問に答えるのは無理なのだ。なにせ晶だって今の状況がよくわかっていない。
「…こっちが聞きたい」
 やっと出した声は途方に暮れたようだと、自分でも思いながら晶は答えた。わからないのは本当だ。突然の出来事を引き起こしたのは自分のような気もしているが、確信も証拠もない。
 だがやはり原因は自分のような気がしてならない。
 後ろめたさと罪悪感が意味もなくのしかかる。
「あ、自己紹介しな…しませんか?」
 一人で沈んでいた晶に明るい声が掛けられた。
 普通に喋ってから敬語に無理矢理直したのが見え見えで、晶はつい笑いを漏らす。
 笑う晶を不思議がっている少女はあくまで真剣だ。
「??」
「あはは、いや、タメ語でいいよ、別に。 自分は晶。東条晶。好きに呼んで。こっちも好きに呼ぶから。こないだ高校卒業したばっかの十八歳」
 和やかな雰囲気に安心したのか、少女も晶と同じように自己紹介をする。
「私は木ノ葉雀、十七歳で次は高三になるの。この猫はシャケって言うんだ」
 そう言いながら猫を撫でる。シャケは気持ちよさそうにのどを鳴らして上機嫌。
 実に平和そうな光景ではある。ただこの空間の異質さを無視すれば、だが。
 おかしいのだ。
 なぜこんな所にいるのか。
「あ、ショウってどんな字書くの?」
 ニコニコと笑みを浮かべた少女・雀は興味津々と言った体で尋ねてくる。
 だから晶も自分の一瞬浮かんだ悩みなど忘れてしまった。
「水晶の“晶”。珍しいみたい」
「へぇー。私のお父さんもショウなんだ。字は違うけど」
 そうして二人で少し話をしていた。
 その内容はまちまちで、例えば年齢について。
 雀のことを最初十四,五歳だと思っていたと言ったら怒られた。気にしているらしい。
 四弦の事も聞かれたが、これは自分でもよくわかっていないので説明は上手く出来なかった。
 和やかな時間。
 何事もなく過ぎていくかに思われたその時間。
 しかし運命はそうはさせてくれなかったらしい。
「……!?」
 馬の蹄の音がした。しかもこちらに向ってきている。
 思わず晶は立ち上がり布を隠すと、反射的に雀を庇うような体制をとる。雀はやはり随分と小柄で、身長百五十ちょっとの晶よりも小さかった。
 何事かと思い目を凝らしていると、前方―――つまり街の方から―――馬車がやってきた。正しくは馬車とそれに付き従うように歩を進めるもう一頭の馬とそれに乗馬している男。
 豪奢な馬車だ。立派な馬が二頭でそれを引いていて、御者までいる。御者の服装はどこか兵士のような印象を受けるがそれが豪華なものには変わりない。それに付き従っているもう一頭の方は護衛かなにかであろうか。
 一般的にその馬車にはとても地位の高い者がいると考えるのが妥当だ。もっともここがどこかわからないのでそうとも言い切れないのだろうが。
 御者が晶達を認識したのか、小窓から中へと声をかけている。声は遠くて聞こえない。
 止まるかと思った馬車はしかしすぐには止まらずに、晶達のすぐ前まで来て止まった。
 二人とも、何がなんだかわからない。
 しかし御者はなんの躊躇いもなく台を取り出し馬車の出入り口に置くと扉を開けた。
「………」
「………」
 何が出てくるのかと固唾を呑んで凝視していると、ゆったりとした実に優雅な動作で一人の男が出てきてこちらに顔を向けこちらに向ってきた。


(誰だ……!!)


 これが、晶の感想であった。
 出てきたのは男。それは間違いではない。歳は四十代ほどの男だ。格好は赤を基調とし、馬車の外観通り豪華。だが豪華と言っても無駄に華美なのではなく品のある豪華さだ。素人目にも判るほど質のよい布を使っている。身長はなかなかにあるようで、晶より頭一つ分近く高い。顔もいたって上々、黄色人種と思われる容貌。鼻の下のいわゆるチョビ髭と言われるような髭と顎鬚が印象的だ。どこか愛嬌がある雰囲気のせいで吊り目であっても見る者に威圧感を与えない。どことなく威厳はあるが、決して近寄りがたいものではなかった。しかし晶にとって問題だったのはそのような事ではない。馬車が豪華だった時点で中に乗車している人物のどれほどかは―――わかりたくなくても―――判るし想像がつく。それでもこれはなんだ、と思ったのには訳がある。
(なんなんだ、その中国皇帝みたいな被りものは!!)
 そうなのだ。晶にとって気になったのはそれなのだ。博士帽に似たものを何十倍何百倍にも豪華にしたようなあの被り物。まさしく皇帝の被っていたものそっくりのそれ。つまり、“帝冕(ていべん)”。
 少女の方はそれがなんなのかなどまるでわかっていない様子ではあったが晶にはすぐに解った。伊達に首席だったわけではない。知識は無駄に多いのである。
 呆然としている二人に、その豪華な格好の男は顎に片手をやり感心した風な声をあげた。
「ふむ。これが例の者たちか。それ見ろ蓮、ワシの言った通りだろう。わざわざ王冕を被ってきた甲斐があったと言うものだ」
 得意げにそう言うと、護衛と思しき男が馬から下りて彼の横につく。
 背のずいぶん高い男だ。体中に傷のある、鋭い目つきの若い男。歳の頃は二十代半ばかそこら。短い髪は豪華な男に比べ随分と無造作。腰には大きな剣を差している。
 そう、剣。曲刀。蛮刀ともとれるもの。
(剣…剣……………剣!?)
 本物なんて日本刀を博物館で見た事がある程度だったと思った晶であるが、そこでふと気がついてしまった。
 なんでこんなにも自然に帯刀しているのか。
 日本は平和な国で、そんなものを大っぴらに所持していたら銃刀法違反で捕まる。
 映画撮影風景には見えない。と言うことはつまり。

 どこか別の世界。

 可能性としてはそれが最も高い。ほぼ百パーセントでそうだろう。こんな場所は世界広しと言えども聞いた事も見た事もない。
 認めたくはないがそうとしか考えられない。これが夢ならどんなに嬉しいことだろうか。
「籐様、それは結構ですがこれからどうするおつもりですか」
 蓮と呼ばれた傷の男は淡々と尋ねる。その様子に豪華な格好の男―――籐は少し不満気だ。苦悩している晶を気遣うのは雀だけだ。
「ふん、どうするも何もつれて行くに決まっておろうが」
 やはり得意気、自信満々に言うと彼は馬車へと戻っていく。
 唖然とする晶と雀。
 気のよさそうな御者の青年が二人を馬車へと誘導した。
 状況が全く飲み込めなかったが強引に押し込められてしまったのは、まぁ仕方のない事だったのかもしれない。