【−理−】


 ある自然界の理には次のように記されていた。
――人と精霊とが互いに交わることは永久に不可能――‥と。
 そう、不可能な事なのだ。自然界の理に例外などありえない。
 それはこの世界が誕生する以前に創造主が定めた、生きていく上での枷。
 永久に外れることの無い、そう永遠の‥。


 自然界の理。
 頭では理解していた。それも暗唱できる程度には。
 ‥理解しているつもりだった。
 だが現実とはそう上手くいくものではなかった。
 葉色の長い髪が乱れるのも気にも留めない様子でかの少女は走り続けていた。
 黒ぶちの眼鏡を掛けた青年と共に。
 鬱蒼と生い茂る森の中を、何処を目指すというわけも無く。
 ただ‥ただある存在から逃れることだけを考えながら。
「‥っはぁ‥っはぁ‥」
 見つかってはならない。決して、そして絶対に。
 後の末路など目に見えている。
 あの方は私の息の根を摘むおつもりなのでしょう。
 そして共にいる青年の尊い命までも…っ!!
 世界の理は生命の理。
 理‥つまりは道理、世間で正しいと認められた、行いの筋道。
 それに反すること、それは世に悪影響を及ぼすきっかけになりかねない、重大なこと。
「‥っはぁ‥っはぁ‥」
 ―――――くそっ!
 身体を包む白い衣が一歩踏み出す度に足に纏わりついてくる。
 苛立ちと迫りくる不安とで胸が圧迫される。
「………っあ!!」
 意識が周囲から内へと向かいすぎたため危うく前に倒れこむところだったが、傍らを走っていた青年がタイミングよく彼女を支えた。
 気をつけて、と一言添えながら。
 少女は少々緊張がほぐれたように小さな笑みをこぼしながら一言礼を述べ再び走り出した。





 幸せな日々がずっと、ずっと続けばいいと思っていた。
 このまま二人だけで、誰にも見つからぬ遠い地に飛んでいこうかとも――実際に空を駆ける乗り物などまだ存在しない世界なのだが――笑いながら話した。
 青年は一見地味な男だった。決して不細工というわけではなかったが、美男という言葉とも縁遠いようなそんな青年。
 だが身なりはともかく、彼はとても知識人だった。
 彼は世の自然界について人間なりによく知っていた。
 自然界の弱肉強食、植物の生命活動など様々な知識を身につけていた。
 彼に何故そのような知識を持っているのかと一度訪ねたところ、彼は『自然学者』なのだそうだ。
 葉色の髪の少女は自然をこよなく愛していた。
 そのため彼との会話はいつもとても楽しいものとなった。
 初めて会ったときはなんとも思わなかったのに、今は何か小さなモヤモヤとした感情が心の奥で渦巻いている。
それは嫌なものではなくて、むしろ心地よいモヤモヤで……。
 何はともあれこの幸福な時が永久に続けばいい、ただそれだけを願いながら二人の時を楽しんでいた。


 だがその夢は儚く散ることとなってしまった。
 あの者に気づかれてしまった。
 あの者が許すわけはなかったのだ、葉色の髪の少女と学者の青年の――精霊と人間の種族を越えた思いを…。


「……………………っ」
 急に少女は進めていた足を止めた。後ろに続いていた青年もまた足を止める。
 その目に映るものは彼らの今もっとも会いたくない人物だった。
『我は哀しい』
 そういうと何処からともなく現れたその者は静かにこちらに近づいてきた。
 彼女は反対の道へと逃げようとしたが、足が――‥動かない。
 彼によって動きを封じられてしまったのだ、彼の万物を司る力によって。
 彼は同じくして動きを封じた青年をよそに、少女の方へと近寄ってきた。
『我はぬしが理に背を向けるようなことをする者ではないと信じていた‥』
 にも関わらずぬしはその者を選んでしまったというのか。
 己の生命に危機が訪れると分かっていても。
 万物を司る力を持つ者はじっと少女の瞳を見つめた。
 少女にはその視線を逃れるという術がなかった――そして自らの限界にも気づいていた。
「…もう無理です」
 少女は静かに微笑んだ。目頭に何かがこみ上げて来るのを感じながら。
 もうこの思いをこれ以上内に留めておくことなどできない…出来やしない。
 そう思ったから。彼女は抵抗することなどしなかった、全てを肯定した。
「私、彼を愛しています。これ以上ないというくらい」
―――こんな気持ち、初めてです。
 彼女は自らの心中を偽り無く語るとハラハラと涙を流した。
「私…彼と離れ離れになる事なんてできません…っ」
『それがぬしの最後の言葉か?』
 かの者は表情一つ変えずに少女に訊ねる。
 だが少女はかの者から視線を外し、俯いたまま沈黙していた。
 かの者がその長い人差し指を少女の額にそっとあてようとした時傍にいた青年が声を荒げた。
「……っ彼女に触れるなっ!!!」
 おそらく場の異様な雰囲気を感じとったのだろう。
 額には脂汗がじんわりと滲んでいる。
 だがかの者はそんな青年の様子など気にも留めない様子で続けた。
『――――――』
 彼が聞きなれない言葉――おそらく古代語なのだろう――を発すると同時に辺りがまばゆい光に包まれた。
 全てのものが無に帰ったかのような、そんな白い空間が暫く続いた後光は次第に引いていった。
 光が引いた後瞳に入ってきたもの――――――――それは力なく崩れ落ちた、かの少女の器だった。
 青年は声にならない叫びをあげながら少女に走りよった。身体の自由をうばう術はすでに解けていた、そしてかの者もその場から忽然と姿を消していた。
「‥――――――‥。」
 いくら青年が必死に呼びかけようとも、揺さぶろうとも、指一つ動かさなかった。
 少女の唇の色は熟れた桜桃のようなみずみずしい色が保たれている。肌にも弾力がある。
 そのせいか少女はただ眠っただけのように見える。
 だが一つ問題があった――――――――――――息をしていない。心の蔵の鼓動も、脈もない。
 つまり今の彼女の身体は体温のない糸人形――マリオネットも同然だった。
「…う…わぁーーーーーーーーっっ!!!! 」
 青年は力なくうな垂れる少女を力強く抱きしめ名を呼び続けた。
 だがその黄橙色の可愛らしい瞳が開らくことはついになかった。