人通りの少ない夜の道。
 街灯の電球に次々と電力が供給されていく。
 その町に流れる川にかかっている橋を通っていた買物帰りの和子は、下の方から聞こえる赤ん坊の泣き声に気づいた。
 何事かと思い橋から身を乗り出してみる。
「…まぁ」
 驚きの声をあげて、彼女は慌てて橋の横にある階段を降りて川辺へと向う。
 向った先、丁度橋のふもとの部分。
 そこに赤ん坊がいた。
 赤ん坊は何か三味線のような楽器と一本の巻物―――時代錯誤もいいところだ―――とともに、大きな青色をベースとした布に巻かれて泣いていた。
 捨て子だろうか。
 そう思った和子は手に提げていたビニール袋を下に置き、赤ん坊を抱き上げた。
 このような場所に、しかも妙な状態でいた赤ん坊。まだ産まれてやっと離乳期に入ったかどうかと言う雰囲気のそれ。明らかに捨て子である。
「なんて酷い」
 そう言って赤ん坊をあやす。しかし一向に泣き止む気配はない。
 このまま放っておく訳にもいかない。どうせなら自分の家―――孤児院に連れて行くべきだろう。
 だが名前もわからない。置手紙くらいあってもよさそうな捨て方であるのにだ。
 仕方なく、和子は巻物を手に取る。だがその巻物は全く開かなかった。ただ巻物の表面に貼ってある紙には漢字で『晶 帰還之書』とある。
 一体その文になんの意味があるかは解らない。しかし名前が『晶』であることは何とはなしに想定できるものであった。
 ただ読み方はわからない。どこにも振り仮名などないのだ。
「…“あきら”?」
 ためしに呼んでみる。このぐらいの成長段階であれば、自分の名前にくらいは反応を示すかもしれない。
 最初にあきら、と呼びかけては見たが、何の反応もなかった。
 赤ん坊は相変わらず泣いている。
「“しょう”?」
 訓読みが駄目なら、音読み。安直にそう考え呼んでみたわけであったが、あながちそれは間違ってはいないようだった。
 ぴくり、と赤ん坊が反応したのだ。泣くのを止めて和子の方を見やる。
 和子はその様子に安心してやわらかく微笑んだ。
 どこか人懐っこい、暖かい微笑み。


「よろしくね、“晶”」






























 三月末、春。
 晶は高校も無事卒業してのんびりとしていた。
 就職先は自分が育った孤児院。だから特に気にする事はない。
 高校では奨学生として過ごすために成績をよくしていたため、教師達には進学を勧められたが晶はそれらを断って就職をしたのだ。


「あー、春かぁ…」
 庭に植えられている桜は満開。
 晶の手にあるのは不思議な楽器。一見三味線のようだが、弦は四本。捨てられていた時に持っていたと言うが、それから十七年以上皮の張替えはされていない。糸も替えていない。にもかかわらず音の変化がないと言う、実に不思議なものだ。皮も糸も一体なにで出来ているのかさえわからない。裏面には青色の龍と赤色の虎の模様が描かれている。晶はこれを便宜上『四弦』と呼んでいるがそれが正しいかはわからない。
 手に持ったバチで一度かき鳴らす。妙に澄んだ音が部屋に響く。開け放しの窓から吹き込んでくる風が一つに結い上げられた黒髪を揺らす。
 正面で三味線を持って柔和に微笑む園長―――晶にとっては養母だ―――がいることで余計にのんびりとしてしまう。初老の女性である院長・和子は、実に温和な人だ。
 今日は二人で各々の楽器での演奏をしていたのだが、突然和子は黙ってしまった。どこか寂しそうな顔をしている。
 晶はただ和子が話すのを四弦をいじりながら待つ。
 どれだけそうしていたかは判らないが、何かを覚悟したかのように和子は一つ息をはいて思い口を開いた。
「…晶」
「はい」
「実はあなたを見つけたとき一緒にあったものはもう一つあるのです」
 あまりに唐突な内容の言葉に、晶は一瞬呆気にとられた。
 自分が捨てられていたのは橋の下。
 一枚の大きな布に四弦と共に包まれていたという。その布は常に肌身離さず持ち歩いている。
 だがそれら二つ以外にも持ち物があったということ以上に、それを今まで和子が言わなかったという事に驚いた。
 驚く晶をよそに和子は棚の引き出しから一つの巻物を取り出して「これです」と言いそれを手渡す。
 受け取ったそれには『晶 帰還之書』と書かれていた。
(帰還の書? 晶って私の事か?)
 解らない。
 だがぱっと見た限りそうとしか思えない。自分が持っていたというのだからきっとそうなのだろう。だが帰還、とは一体どこへの帰還なのだろうか。
 戸惑って和子を見ると、哀愁のようなものを浮かべた顔と視線が合った。
「晶、布は持っていますか?」
「持ってますよ」
 いつも肌身離さず。そう言ったのはとうの和子であり、またその言いつけを晶は守っている。
 勿論今もである。
「……なんだかそれを開いた時、あなたはどこか知らないところへ“帰っていく”ような気がします」
 そう言った和子は常に彼女がお守りとして持っている鈴を晶に渡し、四弦もしっかりと持たせ、それから巻物を開くように言った。
 訳がわからなかったが、そうせねばならない気がして言われたとおりに巻物の紐を解く。
 何故だかそれが躊躇われる。
 もう戻れなくなる気がして。
 しかしなぜそう思うのかもよくわからなかった。






 ゆっくりと開かれた巻物は眩い光を放ち、晶を飲み込んだ。


 光が消えた後、部屋には巻物も、四弦も、晶本人すら消えていた。
 残された和子は少し俯いて何も言わなかった。