リリュンはあまりにも突然の『罪状』を押し付けられて恐怖と混乱の真っ只中。
 ガシキは静かに怒りを灯し、見えないはずの憲兵を威圧的にじっと睨み付けている。 
 このままでは争いになること間違いなし。しかしそうなることは、面倒であることこの上ない。しかも取り返しの付かないことにもなりそうだ。

 こうなったら、仕方がない。


 逃げよう。


 頭の固い、そして悪い軍から逃げるには、手っ取り早くその影響を受けない場所へ行くのがよい。
 アデューク大陸に割拠する国々、最大たるはディスポリス。その影響力たるや、受けていない場所の方が少ない。ディスポリスの軍隊、その力が及ばない地域など数えるほどしかない。つまり、大抵の場所は、『軍』というものによって繋がりを持っている。
(……厄介だな)
 まさか、これは“彼”の思惑によるものではあるまい。彼が関わるのは専ら神職者。もちろん、可能性がないわけではないけれど。
 今の状況から抜け出すには、逃げるのが手っ取り早い。
 軍が支配しない―――否、出来ない地域は宗教国家であるムーナとサーナ、リザイア大陸、中立国家であるメティシア、そして……ティカ。
 ティカはアデューク大陸にありながら、リザイアを信仰する宗教国家。ムーナの姉妹国とでも言えよう。巨大な湖である極海に面した国。最大の問題点を述べるなら、ディスポリスとの仲が険悪極まりないというところか。
 地理的な問題で、逃げるならそこしかないだろう。もちろん『全く別の場所』もあるが、そこに行くことは大いに躊躇われる。それにティカはここからも比較的近い。一月もしないで着ける場所なのだ。それにこの身体―――『リズ』なら、ばあの国は顔パスできる。
 暗闇の中でうんうんと頷く。
 行き先はそこにしよう。だがその前に、しなければならないことがある。
 大量殺人など、リリュンがするはずがない。そもそも、そんなことをしている暇などなかった。それに、リリュンから大勢の他人の血臭はない。大量殺人、きっとそれが起きたのは最近のこと。もしそれをやった者であったなら、必然的ににおう。それを感じることが出来ないような身体ではないのだ、この肉体は。優秀な魔術師である、リズの身体は。
 捏造された証拠など、消してしまえばよい。紙に書かれたものであるから、それを燃やしてしまえばそれでいい。
 目の前にいる憲兵達。もちろんそれは視覚で目に映る事はないが、リズにはわかる。かしこにあるもの全てが、事細かに見て取る事が出来る。見る、というよりは感じるといったほうが正確かもしれないが。
 この闇は、人為的に作り出されたもの。炎を灯しても、明かりが灯ることはない。
 それでも分かるのは、ひとえに存在が人間でないからかもしれない。
 夜は、自分の時間だ。
「ねぇ、憲兵さん。じゃぁさ、その令状とかいうのは本当にホンモノなの〜?」
 ことさら子供らしく、相手に不快感を催させるような声をわざとだす。
 今にもガシキにつっかかりそうになっていた憲兵の動きが、ぴたりと止まる。
 先ほどまでのやりとりも相まって、今の憲兵に冷静な判断など出来ない。焦った様子で胸元を探り、一枚の紙を取り出した。
「これだ!」
「真っ暗だから、ホンモノかなんてわからなくない? 鼻紙とかだったら最低だよねぇ」
 くく、と喉で笑う。 それから、足音を立てないように、動きを気付かれないようにと憲兵の目の前まで移動する。
 鼻紙ではないのは分かっている。もしそうならば、感触ですぐに気付くだろう。
「そんな訳があるか、私は胸元に、これしかいれていないのだからな!」
 さも偉そうに、自信満々で紙を突き出す。
 それにリズはしてやったりと笑みを浮かべた。
 あとはこの紙を媒介として、それに関連する資料という限定をつけて、『燃やす』魔法をかけてしまえばいい。何もない状態でそれを行う事は出来ないが、なにかしら関わりのあるものさえあれば話は別だ。
 軽く息を吸い込む。
 そして、
「ふっ!」
 吹きかけた。

 ぼっ

 明かりはつかないのに、音だけがした。直後にめらめらという小さな音、続いてはらはらと軽いものが落ちる音がした。
 憲兵の手に残っているのは、紙のほんの端っこ、一センチにも満たない真っ白な紙片のみ。驚きに手の力が抜けると、その紙片さえ落ちて、やがて灰となってしまった。きっと今と同時に、関連資料も燃えて灰になっているだろう。魔法の火、対象外に燃え移ることもないだろう。少なくとも、今リズが行った魔法はそういうものだ。
「…………燃やしたのか」
 ぼそり、と小さい声でガシキが呟いた。
 リズは心の中で、大当たりだよガシキ、と盛大に笑っていた。さすがに今ここでそうするわけにはいかないので実際にはしないのだけれど。
 軽い足取りで自分の荷物を持つと、リリュンの手を引く。
「え?」
「ほら、憲兵さんは忙しそうだし、そろそろ町を出ましょう、ってこと。ほら、オニィさんも行くよ?」
 月が綺麗な晩ですからね。
 おちゃらけてそう言った。誘導されるままにリリュンとガシキも荷物を持つ。
 呆然としている憲兵を無視して、三人はそのまま扉まで向かう。
「こんな形になっちゃって残念だけど、マキア、ボク達はもう行くよ。ご飯おいしかったよ、ほんと。今度また食べさせてね〜」
 見えないながらもそう言う。
 ガシキも聞こえるか聞こえないかほどの声ではあったが、感謝の意を丁寧に述べた。
「え、あ、あの、ありがとうございました!!」
 焦ったリリュンは、見えもしないのに何度も頭を下げた。そしてその間に、リズは仕上げをしようと憲兵達に視線を向ける。
 それは殺気にも似た、鋭利な視線。向けられた者にしかわからないそれは、真っ直ぐに憲兵を貫く。
 背中が凍るような錯覚を、与える。
 無言の圧力。
「……手出し無用、ってね」
 小さく、呟いた。それは近くにいたリリュンや、憲兵にしか聞こえなかった。
 一体なにが手出し無用なのかと疑問を浮かべるリリュンだったが、自分に向けられた言葉ではないと分かり興味を失った。
 扉をあけて外へ出る。空に浮かぶ月は細く、影は深く広く、そして濃い。
 今一状況がつかめていないリリュンは、おろおろと様々な方向に視線を向けている。それから屈んで、小声でリズに囁きかける。
「あ、あの、ハル君はいいの?」
「あー、坊ね。ちょっと急いで迎えに行かないとね……」
 居場所は分かるのか、と冷静に問うてくるガシキに、リズはもちろん、と堂々と答えた。そして、ボクについてきて、とも。
 言うが早いか、リズは走り出す。
 場所は、月が、空気そのものが教えてくれる。たとえ土地がアデュークであっても、夜は『リザイア』の時間。
 ただ感じるままに、伝わるものを頼りに走った。


 リズの服装が昼間のままであったため(もちろんカツラもつけたまま)、やや走りにくかった。しかしそれはこの妙な光景を助長する材料でしかない。根本的に、今の三人は傍から見て激しく『妙』であった。
 可愛らしいがガリガリの小さな少女が身の丈に会わない大荷物を持ちながら走り、その後ろを華奢な少女が追いかけ、さらにそれを背高―――それどころか大男と評してなんの問題もないサイズ―――の男が追う。はっきり言ってオカシイ。そして怪しい。
 誰もそれを見ていないことが、唯一の幸いであった……。









 そんなこんなで妙な三人が必死に走っているころ。
 暗いくらい、地の底のような場所で彼は必死に働いていた。そこは死んだ生き物の魂が生まれ変わるまでの時を過ごす、いわば待合室的な場所。その場所にある、とある部屋が彼の仕事部屋であった。
 巨大な机、そこにうず高く積みあがった書類を次々と処理するが、それが終わる気配は一向にない。高い背もたれの椅子に、背中を曲げて羽ペンを持つ。まるで、机に噛り付いているようにも、それは見える。
 病的、むしろ病人そのものの白い肌、漆黒の瞳に長い髪。本来は秀麗であろうその顔は、激しいまでの目の下の隈によってすでに台無し。纏う衣装まで黒一色、室内も暗いためその様は実にクライ。おまけに猫背である。根暗を連想しても誰も文句はいえないだろう。時折咳き込むその様が、病人らしさに拍車をかける。
 これでも彼はいわゆるところの『神』であった。しかも創世神が直々に生み出した存在。リザイア神とアデューク神の次に作られた、彼らの弟とでも呼ぶべき存在。
 司るものは命、名をティンク。生と死を管理する神。しかしその容貌から、死の神だとの勘違いを生み出す困った神様でもある。
 彼は一枚の書類を見ると、不機嫌そうに眉間に皺を寄せた。そして読み終わると同時に、脇にあった呼び鈴をがさつな動きでめちゃめちゃに振る。本来は涼しげな音を奏でるはずのそれも、彼の手に渡れば不快な騒音を生み出す公害物質に早変わりである。
 そうして不快騒音を撒き散らしながら、ティンクは大声で叫んだ。
「六八一年前に死亡、アデューク大陸ティカ出身、去勢済み、享年十三歳、砦の森で死亡したリズ! 私の前に三秒以内に来たまえっ!!」
 一気にそれだけ言い終わった途端、彼は盛大に咳き込んだ。
 リズという名前はそれこそ腐るほどある。むしろ腐っているのではと思わずにいわれないほど、ある。そのため、ここまで細かく言わないと目的の魂はでてこない。
 ただでさえ猫背の背をさらに曲げているその前に、呼ばれた『リズ』が颯爽と現れた。
 茶色の髪と瞳、真っ白な肌、小柄でガリガリの身体。勝気な目は、少年らしい若々しさと、どこか老獪した光を宿す不可思議なもの。
「はーいはい、きましたよ。なんの御用で?」
 わざとらしく畏まった口調で、『リズ』は用件をさっさと言えとティンクを急かす。
 しばらくむせていたティンクは、この悪ガキはと内心悪態をついてから、体勢を立て直す。
「ごほ、リズ、お前は一度リザイア様のところへ行け」
 何の前置きもなく、本当に用件だけをティンクは言い渡した。
 それに不満を漏らしたのは、他ならぬ『リズ』。
 確かになんの御用かとは尋ねたが、これでは理由もなにもわかったものではない。
「なんでまた」
「……姉上は、今、不安定だ。兄上とのこともある。私の役目は命の管理のみで、関わらねばならぬことではないがな」
 やはり、放ってはおけない。
 そう言って、ティンクはどこか遠い目をする。

 彼にとっての兄とは、アデューク。姉は、リザイア。
 今の彼等の関係を知っているがために、放っておくことができない。
 永い時間を生きるがためにできた長すぎる時間、それが生み出した意識の齟齬。
 創世神の意図などまるで分からないが、なぜ彼らの関係の要素に“それ”までいれてしまったのか。
 いれなかったなら、このようなことにはならなかっただろうに。

 昔に、思いを馳せてしまう。けれどそうしたところで今が変わるわけでもなく、自分や兄や姉の役割が変わる事もない。
「今、姉上には余裕が必要なのだ」
 まるで自分に言い聞かせるように呟かれたそれに、『リズ』は小さく頷くしか出来なかった。