ハルは遠くに高らかな笑い声を聞いた。
酷く狂った様な笑い声。
楽しくて仕方ない。
悲しくて仕方ない。
虚しくて仕方ない。
全てを諦めた、その先に行ってしまった笑い声。
(…五月蠅ぇ…。やめろ。)
聞いてて気持ち悪い。不快で、このまま聞いていたら、
自分まで狂ってしまう気がして‘ゾクッ’ときた。
丸まって耳を塞いでみたが、遠い筈のその笑い声は止まない。
体を硬くしてじっと笑い声に耐えているハルの後頭部を、
     ッグボフッッ!
殴る者が一人。凶器は…砂が入った靴下…そう表現するのが
手っ取り早いか。
痛みを感じたと同時に、ハルは気絶した。
闇の中での事だった。
笑い声は途切れる事無く。
              *
ラガイ中尉は難しい顔をして、今届いた書類に目を通し終えた。
上層部からの情報によると、昨夜ラスが宿へ押し入った事件で、
思わぬ収穫があったらしい。
なんでも、軍のレポートにない兵器を少女が所持していた、と言うのだ。
因って今現在、少女の捕獲へ部下をやっている…そうだ。
捕獲の理由を部下に教えず、大量殺人をやらかした少女である。と、した様だ。
全く、上の考える事には反感を覚えずにはいられない。
しかもだ、その少女の仲間と思しき者のの一人は自分の友人で、
軍に捕まれば命が危ないのだ。
自分は体液や血液、その他の反応なり細胞なりを採取されただけで済んだが、
友人の場合はそうはいかないだろう、腑分けされ、研究サンプルとして…。
中尉はそこまで想像してゾクリとする。
頼むから何とか逃げてくれ。
出来るなら、仲間の少女も。他の仲間も。
自分の執務室を意味もなく、忙しなく、ぐるぐると往復しながら、祈る。
「クソ…胃に穴が空きそうだ…。」
                 
           *

マキアは床に伏せながら思う、
もう一体何なのよ…停電したり、シキの旦那とハルの坊やがいなくなったり、
礼儀作法のなってない軍の関係者かなんかはドアを壊してドヤドヤ入ってくるし、
しかもよりにもよってリリュンちゃんを大量殺人罪?死体?全く訳が分からない。
でも軍の頭が固ぁいお偉いサン達が考える事って、
大体は一般庶民の私達には善くない事が多いのは知ってる。
だから取り敢えず言ってみる。
「何かの間違いじゃなくて?ここには大量殺人をする様な危ない子はいないですよ。」
暗闇の向こうから憲兵が答える。
「庇い立てするとロクな事はないぞ。そこにいる少女は危険人物だ。
あんた等も殺され兼ねない。被害が増えないうちにこっちに引き渡してくれ。さあ。」
上から物を言う態度、頭から決め付けて突っ走る典型的な`お役人様タイプ'だ。
口八丁であしらって兎に角追い出してしまおうと決めた時だ、リリュンが
立ち上がって憲兵に尋ねた。
「私、何をしたんですか…?」
声が震えている。
「…‘何をしたんですか?’…だと?シラをきるつもりか?あんなに多くの犠牲を
出しておいて…よくもそんな事が言えたものだな…っ。」
「ちょっと!リリュンちゃんが怖がってるじゃない。
怒鳴らないと会話出来ないの?ドアだって壊して開ける物じゃないのよ憲兵さん?
いい歳なんだから冷静になりなさいな。」
リリュンに代わってマキアが答えた。
「……な…然し乍らね、そこにいる少女は大量殺人罪で逮捕状も出てる。
あんたが庇い立てしたところで、これは変わらん。それに、犯人でなければ
本人が容疑を否認するでしょう?」
憲兵はリリュンの返答を待つ。
「………………。」
リリュンはそれに答えない。
「…ほら、否定もしない。まぁ潔いと言えばそうか…。」
「リリュンちゃん…?」

‘違います。私はやってません!’
自信を持って言えない。
昨日の夜、自分は兵士二人を窒息死寸前まで追いやったのだから。
しかも、過去がない今の自分には、過去の自分が何をしていたのか
見当もつかない、責任も持てない。
自分の知らない過去で、何かとんでもない事をしでかしていたのかもしれない。
もし、憲兵の言う事が本当なら…。
自分が怖い。過去が怖い。
だから反論もしなかったし、逃げようともし無かった。
…違う。出来なかった。
やっていたかもしれないから…。

「大量殺人って…いつの話しさ?」
憲兵が迫って来ても、微動だにしないリリュンを見かねて、リズが
身を伏せたまま憲兵に向かい、疑いを投げかけた。
憲兵はお互いにちょっと目配せをしてから、
「…市民に言うのは禁じられている。」
「…じゃ、ボクは教えてもらえるね。市民じゃないから。」
「!!…少年、この少女の仲間か?なら、連行させてもらうぞ。」
「何処へ?」
「…何処へ…って…、まずは刑務所の尋問室だろうな…。」
「だろうな…って、随分無責任だね。憲兵さん達、本当は上から何も
知らされてないんでしょ〜。だから大量殺人がいつの話しかも知らない。
違う?」
おどけた口調だが、リズにも考えがある。リリュンが大量殺人を犯したっていうのは
8割方ウソ。でも火のない処に煙はたたない。本人は気付いていないけど、
2割の真実はリリュン自身が握っている筈。
リズに図星を突かれた憲兵達は返す言葉もない。上から何も知らされてない、
つまり下っ端の証。仕方なく情けない声で、
「…大人のお仕事に口を出すなよぅ…少年…。まぁいい、二人とも連行させて
もらうぞ。」
暗い厨房の中へ憲兵達がせまる。
「…尋問室に‘黒のペンキ屋’はまだあるのか…?」
ぼそっとガシキが呟いてリリュンの横へ立つ。
声のトーンがどこか疲れている。
憲兵達は子供と女性の三人しかいないと思っていたところから、
いきなり男の声がした事に驚きながらも、
「…よく‘黒のペンキ屋’なんて知ってるな…。前科でもあるのか?」
「…昔、世話になったからな…。その様子だとまだある様だな…。」
「尋問には時として必要なものだからな。」
「在らぬ疑いで女子供まで塗り潰すつもりか?」
「仕事なんだよ。邪魔するな。」
「………連行は…させない。」

マキアは憲兵とガシキの会話を聞きながらリズに、
「…ね、‘黒のペンキ屋’って何?尋問室にペンキ屋ってあるものなの?」
ひそひそと尋ねる。リズもひそひそと答える。
「隠語だよ。」
「どう言う意味なの?」
リズは少し間をおいてから本当に小さな声で、
「…拷問。」
            
気付いたら、口が先に動いてしまっている。
昔の感傷や軍への反抗意識から、たった今、‘連行はさせない’などと
ほざいてしまった。
黒のペンキ屋…。
容疑者や罪人が拷問を受けた際、飛び散り流れる血が赤黒く乾き、変色する。
拷問官が鞭や鎖を振るうほど石造りの部屋は血を吸って黒くなる。
忌まわしい記憶。


ただリリュンはとてもじゃないが大量殺人などするようなイカレた人物では
ないだろうし、リズが言う様に憲兵クラスの…言わば下っ端に何も知らせてない
という事は、軍の権力者が何か企んでいる証拠だろう。
何より、リリュンの様な若者が軍の企みのために罪を着せられ、尋問や、最悪の
場合、拷問を受けさせられてしまう。
それに耐えられない。
軍は自らに有益なら何だってする。
しかも軍にとっての有益とは、戦においての有益で一般市民には有害にすらなり得る。
それは身に滲みてよく分かってるし、知っている。
だから、軍や戦の駒として犠牲になって欲しくない。

 妻が…そうであった様に。