彼等はアデューク大陸に向かうのだという。それもそうかとリリュンは思った。当然だ。
 ――ハル君や皆は…もともと目的を持って旅してたんだから…
 あれから口をきかないリズは自分の腕にしがみ付いている。この子もまたハルに同行し、彼の依頼主という人の元にいくつもりだったのだ。しかし、自分は。過去を持たない存在が、いかに精神的に無力か、という事を思い知る。……私は、どこに行けばいいんだろう。
 シキはハルと共に、ガルドルとこの島を出る方法について話している。ガシキはと言えば、怪しげなシキを時折ちらりと見つつも、何も語らず静かに酒を飲んでいた。彼はこの島の酒が気に入ったらしく、砦に帰った翌日にガルドルによって開かれた宴で、彼と飲み比べ対決を行い、一度はある意味(肉体的にも精神的にもその他の意味においても)一種危険な状態に陥りつつも、翌日には復活してミカヤの所に見舞いに行く前まで酒造所に何やら話を聞きにいったりしていた。そこの、今は亡きダル・ガンという名の人物は他の大陸にまでその名を轟かせる有名な酒造所主だったそうだが、それについて説明してくれるミカヤは今、ここにはいない。
 ――はぁ。
 思わず下を向き、ため息をついてしまった。と、くい、と袖を引かれる。リズだった。
 彼は一声も発する事無く、どこか奥行きのない目でじっとこちらを見上げてくる。
 この子は、何を言おうとしているのだろう。
「お主達は、いかがする? 今日中に発つか?」
 ガルドルはガシキとリリュン、そしてリズに声をかけた。ガシキは黙ってちらりとハルの方を見ると、(ついでで良いなら…)という感じでうなずいた。
「して、リリュン殿は?」
 私、私は――…
「……私も…宜しくお願いします」
 また、言ってしまった。先を考えない嘘。この名前だってそう。ハルに言った事だって、そうだった。
「何だよお前もアデュークかよ」
 凄く後ろめたい気分になった。まっすぐにこちらを見てくるハルの紫色の瞳。
 目を合わせるのが辛かった。怖い。でも、
「え? あはは……うん、アデュークに行ってみるのも、いいかな――…って思って! 私まだあの大陸の事とか、良く分かってないんだ、だから、いいかな、って思ったの。若いうちは色々やってこうかなって」
 笑って、そう答えた。
 嘘だ。
 分からないのは全て。
「何だよ若いうちって。お前変」 ハルは“何だそりゃ”という表情をしている。
「…変、かなぁ?」
「変。」 ハルは腕組みををしてふんぞり返り、そのままごろりと床に寝転んだ。
「あははは…」
 いいんだ。これで……きっと。
 不思議な出会いをした四人は、こうしてニフを離れる事になった。



 黔晃が滅んだといっても、暦の白弦期が終わった訳ではない。黔晃が存在する事によって山の頂より流れる川の水量が増した事でこの島のの周辺の海流は変化していたのだが、実際の所黔晃が居る時程とまではいかないにしても、白弦期の力はこの島自体にも作用していたので、月の影響もあってか川の流れによって海流が変化している事に変わりはない。船を出せるにしても多少の危険が伴う。
 だが、最後の最後まで旅人に尽くすこの島の住民達は、彼等の出立の為に船を出してくれようとするのだった。
 あの後、急を要するシキの希望に応え、リリュン達とガルドルは晃月団の護衛を引き連れ、港まで地竜に乗り移動を始めた。まだ後何日か滞在するものと思っていただけに今回の話が出た事で急に何やら騒がしくなってしまい、結局ミカヤに別れを告げる事はできなかった。リリュンは例の地竜の背にリズと二人で乗り、皆と共に森の中に進んでいた。
「ええッ!! おじぃさんと頭って同い年なんですか!!?」「ほっほっほッ!! 見えんじゃろう?」
 一緒に見送りとして来ていたおじいさん…晃月団の副長ムラジとも話をした。腰が曲がりながらもきびきびと若い晃月団の人達に的確な指示を下す彼を見てリリュンは初めてムラジの力が強い事を思い知り、「えッ…じゃぁ副長って呼びます!!」と言ったが「おじぃさんでかまいませんぞ」と返された。
「先代の頭にはよく勝負を挑んだ事もあったのう? ガルドル」
「うッ…そ…それを云うなムラジ…!! 止めんか恥ずかしい!!」
 何か触れられたくない事があったのか、何故かガルドルは赤面している。
 「何だよ、何かあんのかよ」ムラジとガルドルの会話に興味が湧いたのか、ハルが口を挟んできた。更にガシキも興味を示したようだ。…もっとも、彼等はリリュンより前に地竜に乗って進んでいるので見えるのは背中だけ。だがあからさまに彼のフードがピクリと動いたので、そうらしいと分かる。
「何何? 何かあるんですか〜?」 こうなったら尋くしかない。
「ガルドルはの、そりゃあもう闘争心ばかり強くての、小さい頃から既に儂等の中でも頭としての頭角を示す程の人物じゃった。忍びの術にも長けていての、じゃが……」
「そ…その先を言うな――っ!!」
 その後のムラジの言葉を、彼の配下も含めたその場に居た全員が聞き取ろうとした――が、ムラジの言葉はガルドルの大声によって完璧にかき消されてしまい、彼の秘められていたであろう過去が明かされる事はなかった。
 ――…ちょっと気になったのにな。
「なんつー声だよ」
 人より耳聡いハルと晃月団の面々はその声に両耳を塞ぎ、塞ぎそびれたリリュンは彼の声のせいでしばらく周りの声が聞き取れなかった。


 そうこうして騒いでいるうちに、地竜は港に到着した。
 初めてここに来たのが数日前。なのに一連の騒ぎで一部の家は焼け、周囲の木々の根が暴れた為に至る所に地割れが出来てしまっている。ミカヤが自慢にしていた石畳も所々めくれ上がっていた。夕日は寄せてくる夜に、まるで抗うかの様に、紅い光を放って家々を照らし出している。
「夜の船旅は危険だが…それでも行くのか? 案内役は付けた方が良いのではないか?」
 晃月団によって用意された船(シキの小舟は危険である上に店員オーバー確実だった。)の前まで来た時、船頭なんか要らないというシキの言葉を聞いてガルドルはそう言った。
「まぁ急ぎますんでね」
 さらりと言ってのけたシキに、ガルドルは静かにそうかと頷く。
「アデュークまでだったな。船は出せるが海流に阻まれ、航路が狂ってしまうかも知れん。…そこでだ」
 夕日の沈む海を背に立ったガルドルはそう言うと、指をぱちりと鳴らした。
 すると、突如として海面がせり上がり。一匹の魔族が姿を現した。
 額に一本の角が生えた、船の倍以上はある巨大な犬のような姿をしている。水面から首を突き出したそれは、犬が濡れた毛の水滴を払うのと同じ動きで、頭を振って盛大に水滴を週に飛ばすと一声鳴いた。巨大な外見に似合わず可愛らしい声だとリリュンは思った。
「ユキシロからの命を受けて来たのだ。船は彼に引いて行って貰おうと思う。途中で進路を変更したり行き先が明確であるなら伝えると良い。賢いからな。人の言葉で言っても理解できるのだ。船は乗り捨てて行ってもかまわないぞ」
 晃月団が数名船に乗り込むとユキシロの使いである犬に似た魔族と船とを革のベルトで繋げ始めた。ガルドルは彼等の方をしばらく眺めていたが、リリュン達の方に向き直る。
「黒い主は永劫去る事の無き災厄として伝えられて来た。封ずる事は出来ても去らせる事は出来ぬ存在だったのだ」
 ガルドルは、ふっと…リズを見た。リズはガルドルの方を一応見てはいたのだが、リリュンの袖をしっかりと掴んで背中に隠れるようにしていた。まるで何かに怯えるように。
「この恩はどのような礼を以てしても返せる物ではない。それで――」
 ガルドルが言葉を続けようとした、その時だった。地竜と共に黒い固まりがなだれ込んで来た。
「ムラジ様酷いですッ!! この僕に内緒で客人をお送りするなんてッ!!」
 ミカヤだ。
 何でここに。
「…来ると思った」 ムラジが額の兜を押さえながら“やっぱり来たか”といった様な声を出した。
「絶対安静!? 治りが遅くなる? それとこれとは話が全ッ然別です別!! おぁ痛ッ!!」
 怒鳴るだけ怒鳴ると傷の痛みがぶり返してきたらしく、ミカヤは急にうずくまり静かになった。周囲の空気も一瞬静まり返り、地竜の上で前傾姿勢で丸まり動かないミカヤに人々の視線が集中する。彼は…大丈夫なのだろうか。
「ぐ……あ…おぁ……」
 悶え苦しむミカヤ。さすがにこれはまずいと同様に感じたらしいガルドルの周りの晃月団が急いで地竜から彼を下ろそうとした時。
 彼は震える、かろうじて折れていない方の腕をゆっくりと上げ、皆が固唾をのんで見守る中……

 親指を立てた。

 ――な。
 そして。
「だははははッ!! 凄えよミカヤ!!」
 見送りに来ていた人々の内の一人(海の男)の笑い声が突如として港中に響き、それにつられて笑いの渦は一気に人々の間にまで広がっていった。
「皆の者!! 見るがいい!! ミカヤこそが我が島一の案内役にして誇り高き晃月団の義士! 黒き主からこの島を救い、この海にその名を馳せる英雄なり!!」
 ガルドルの声を聞いたミカヤは、苦しそうな所はそのままだったが、嬉しそうだとリリュンは思った。
 黒い主の血がこの島から消えた訳ではない。この島が本来の姿を取り戻すまで何百年かかるか分からない。黔晃の血がこの島から薄れ、消えていくまで、この島に生きる全ての者は黒い主の地を背負い生きていかなくてはならない。
 でも、とリリュンは思う。
 ――この人達なら、きっとこの島を守り続けていってくれる…
 彼等を見ていると、そんな気がした。


 船の準備が整った。
「バイバイ…地竜君…」
「じゃぁな、ケダモノ」
「シャアアアッ!!!」 それまでおとなしくリリュンになでられていた例の地竜は、ハルのケダモノ呼ばわりが気に障ったらしく、急に機嫌が悪くなった。と、地竜の視線がガシキの視線と重なる。
「……………………。」「……………………。」
 両者の間を流れる妙な沈黙。しかもそこに流れていた空気は決して気まずそうな、嫌悪なものではなく、リリュンはむしろこれは無言の会話なんだろうなと思った。
「……何だよお前ら」
「ハル君が行っちゃった後、こっちでも色々あったからね――。ねぇ二人共?」
 事情を知らないハルは“訳分かんねぇ”と一言言うと、ガシキはガルドルの方に向き直り、
「それでは、そろそろ出立させて頂きます」と言い、慣れた動作で恭しく礼をした。
「……お世話に、なりました」 その横でリリュンも礼をした。更にその横で小さくリズも頭を下げる。シキを皆の所まで連れ戻して来たハルもがシキにならった。
「大陸には我がニフの民も多く住んでおる。また任務でアデュークに行く事もあるからの、儂やミカヤが再び客人殿と会う事もあるかも知れんわい」
「そうですよ!! ムラジ様の言う通りですよ。仕事中の仲間にも会う事もあるだろうし…それに……いつかまたこの島にも…ついでで良いですから…来て下さいね」
 彼の言葉の終わりの方はもう、泣いているようにさえ聞こえた。顔は見えなかったけれど。
「ミカヤさん…」
「お主達に渡すものがある」
 ガルドルはそう言うと、懐から小さな黒く四角い物体を取り出し、リリュンに渡した。よく見ればそれは小さな小さな木で出来た箱であり、箱の上面だけが赤く、晃月団の印が白い線で描かれている。金属でも入っているのか分からないが、見た目によらずずしりと重かった。目の高さまで持ち上げて眺めていたが、ハルがややその手よりも低い所から尋いてくる。
「何だそれ」 リリュンはハルが見やすい様にと手の位置を少し下ろす。
「今その箱の中身を教える訳にはいかぬ…ははは、そう不機嫌な顔をするな。明けた所で年老いたりする訳ではないから安心せい!!」
 リリュンは一瞬ハルが老人になった姿を想像し、失礼だなと思いながらも(心の中で)一人笑った。
「この先旅の途中で再び危険な場に行く事もあるかも知れん。もし困る事があればその箱を使うと良い。遠く離れても尚、この島がお主達を守り助ける事だろう」
「ふーん…じゃぁリリュンが持ってろよ」
「あ、うん、分かった…ありがとうございます、ガルドルさん」
「礼を言わねばならぬのは我等の方だ。お主達には本当に感謝している。人間や魔族達の事だけではない…この島、そしてユキシロの事も。この島から危機は去った。もし何かあればニフの民は必ず力になるだろう……またこの地に来てくれるな?」
「はい」
「この世で一番知られている超ニンキボーイッハル様の事を忘れんじゃねーぞ」
「ああ……お主達の旅の無事を祈る」


「行っちゃいましたね……」
 ミカヤは遠く離れていく船を見送りながら、ぽつりとそうもらした。ユキシロの使いの魔族の泳ぎはとても速く、夜が空を完全に覆う頃にはもう、ミカヤの目でも彼等の船は見えなくなっていた。――ここ数日間は、本当に色々な事があった様な気がする。
「寂しいなぁ……」
 もともと客人の多い島だ。割によく来る商人とは違い、一度きりで二度と姿を見せなかった旅人の方が圧倒的に多い。島から旅人をお送りする時は、同時に一生の別れの場でもあるのだ。
 それで、仕方がないと思っていた。当たり前の事だと。それなのに。
 再びあの不思議な旅人達に会えたら、と自分は望んでしまっている。
「あ痛ててて……」「大丈夫ですか? 先輩? …あ、ムラジ様」
「全く、無理をするからじゃ。……早く傷を治せよ」 ムラジはそう言い残すと、そのまま去って行った。
「……ケガ、治ったら今度キャエルちゃんのお店で何かおごりますよ、先輩」
「……コロッケ定食がいいなぁ……」
「はいはい」
 そう、まずは頑張ってこの怪我を治そう。それから勾玉を頭にお返しして、復興作業を手伝って。――もしかしたらまた、あの四人に会えるかもしれない。
 ……頑張ろう。

 今宵もまた月が昇る。今日もまた、星が多かった。



 ガルドルはユキシロの岩室にいた。
 彼女の岩室は先の騒ぎでその外縁が崩れ落ち、その穴は今ではゆるやかな凹みとなって周辺を木々に守られているようにしている。ユキシロとガルドルは、その中心にいた。
「前より空が広く見えるな……」
 黔晃が消えた事でユキシロの“この島”に与えられた役目は終わった。ガルドルは正直な所、この島に封印されている黔晃が消える事を恐れていた。“黒い主”が消える事はそのまま彼がユキシロを失う――彼女の死を意味していたからだ。
 だから、もし封印が解け、彼とユキシロが二人で黒い主に戦いを挑まなければならなかった時、ガルドルは黒い主からこの島を守らなければならない。奴を殺さなければならない自らの“頭”という立場を捨ててしまいたいとさえ思った。
 ――あの時、リザイア様の助けがなければ。
 暴れだした黔晃はもう止められなかっただろう。島の力を借り、ユキシロと共にたとえ黒き主をこの島から消し去る事が出来たとしても、その代償として彼は大切なユキシロを失う事になるのだ。
 しかし、神の力により黒い主は消え、ユキシロもまだ生きている。
「ガルドル? そこに居るのですか?」
 返事のかわりにガルドルはユキシロに触れる。以前より弱々しい声。触れてももう、前程の冷たさをこの手に感じなくなってしまった。彼女は力を失い、確実に衰え始めている。きっと自分の事も以前に比べると、そこにいる、という気配が他の木々やそういったものの気配に比べ、感じ難くなっているに違いない。もっとも彼女はそんな事を自分に言ったりはしなかったが。
「……不思議な花だ……」
 黔晃が消えた後ユキシロの岩室に戻って来てみると、崩れ落ちた岩室の底じゅうに、ガラスの様な透明な花弁を持ったヤマユリにも似た花が生えていた。一つ一つにつきと星の光がうつりこみ、夜の闇の下、きらきらと輝き、時折吹く穏やかな夜風に静かに揺れている。
「主としての力を、私は失いました。主としての力を使って、この花を見る事はできません。でも……星の光に包まれているのでしょうね…私達は」
 ユキシロはもう、太陽の夢を見ない。
 ガルドルは、それでいいと思う。彼女はようやく静かな眠りにつく事ができるのだ。
 自分が先にこの世を去るか、それとも彼の愛する彼女の方が先か。
 いずれにしろ、彼女は彼女に残された時を、安らかに過ごす事ができる。
 たとえ死という形で別れてしまおうとも。
 彼は、それで幸せだった。


 ねぇ ガルドル?
 私は もう貴方の気配をこの身で感じる事は叶わないけれど

 貴方の声が聞こえたから、それでいいと思うの
 私が居なくなっても、貴方がいつか私の姿を思い描いてくれたら、それでいいの
 初めて会った日の事を覚えてる?
 まだ小さかった貴方は、病気で死んでしまった先代の頭だった彼女の事を思い出して泣いていた
 私も何度も頭の死を見送ってきたけれど、正直に云うと
 あの時の私はまだ自分が本当に大切に思う人を市という形で失う事の悲しさを……きっと知らなかったのね
 失うのが当たり前だと思っていたの
 でも今は違う
 ――――そうよね? ガルドル?


 ユキシロは一度、ガルドルに微笑みかけると、その金色の瞳をゆっくりと閉じて、ぱさりと小さな音を立てて、地にその白い体を横たえた。

「ユキシロ? 眠っているのか?」

 ガラスの様な花の花弁が、軽い音を立ててかすかに風に舞う。
 ガルドルはただ静かに、夜空を見上げた。