黒い、蛇と飛竜、そして鳥が混ざったような巨大な生き物――黔晃が、島の上空に現れる。
 ナカに渦巻くのは何万年もの間に積み重ねられ肥大化した、憎悪そのもの。
 紅い羽を広げるその姿は勇猛であり、禍々しくもある。
 その黒い主の近くに、ふと一つの気配が現れる。
 心地よい月の灯りとはまるで違う、目を射るような力強い太陽の光だ。
 本来ならば魔を避け、滅するはずのその光。しかしそこにあるのはどこか暗い影を落とした陽光であった。
 彼はゆっくりと黔晃まで近づくと、こう言った。

「久しぶりの外の世界だ。存分に暴れて見せろよ?」


 言われるまでも、ない。


          *


 地竜を走らせ、とうとう聖域へと入る。
「お主ら、赤い線は見えぬのか?」
 ガルドルのその言葉に、リズは元気よさそうに「見えないね」と返す。ハルにいたってはなんだそりゃ、という顔をしていた。
 二人には境界線である赤が見えない。
 島の意思。まさにそれであるのかもしれない。
 そうか、と呟いたガルドルを、リズはどこか悲しげな目で見る。


 得るものがあれば失うものがある。失うものがあれば、得るものがある。
 何を失い、何を得るのかはみな違う。それでも、何をしてでも失いたくないものがあるのを知っている。
 この山を登ったところで、この島の“黒い主”は待っているのだろう。自らを封印し続けてきた者達を憎んで。そしてそこにはきっと“奴”もいる。
 いることは判っているのだ。行きたくはない。けれどそれでは結局、昔を繰り返すだけだ。逃げることで他人を傷つける。
(また、失ってしまう)
 嫌だった。なによりもそれが怖かった。
 今の自分にどこま出来るのかは分からない。それでも、行かなくてはならない。
 この島を守ろう。
 この、悲しい二人を守ろう。
 そして大切な仲間を。たくさんの、命あるもの達を。


 ぐん、とスピードをあげた地竜にしがみつく。この細い軟弱な腕ではいつ振り落とされるか分かったものではない。
 森の木々が別れ、開かれた場所にでる。
 そこにあるのは巨大な湖。
 まるで巨大な噴水のように水が噴き出していた。この島全土にいきわたる水を生み出している湖が暴走したように雨を降らしている。
 ガルドルが手綱を引いて地竜を止めると、身軽な動作で飛び降りる。リズもそれに倣い、彼ほどに滑らかではないにしろ、地竜の背から飛び降りた。
 すぐ後ろにいたユキシロとハルが追いついて、横に並ぶ。
 皆一様に表情は硬い。
『来たな』
 地に直接響くような“声”が、空から降ってきた。
 見上げた場所にいたのは、黒き主。黔晃と呼ばれ、古より恐れられ、そして強大な力を持った魔族。その身に量れぬほどの憎しみを宿し復習を願う、黒き主。
 ハルはその巨大さに目を奪われる。そして肌で直に感じる力の差。正直、足が竦む思いだったが、彼のプライドがそれを許さない。
 髪で隠れている紫の瞳を吊り上らせ、黒き主を指さして叫ぶ。
「お前なに偉そうにしてんだよ! 卑怯だぞ、降りて来い!!」
 怖いもの知らずここにあり。
 だが他の三人はそう言う訳にもいかない。特にリズは黔晃とは違う気配を感じ取り、身をこわばらせる。
 いることは分かっていた。しかしなぜ、“彼”は黔晃の隣にいるのだ?
 ここからではあまりに遠く肉眼で見ることは不可能。しかしこれほどの距離であれば、いくらここがニフだと言っても気配は感じることが出来る。
 昔に比べ、どこか暗い光。強さ自体は変わらない。むしろ強くなっているとも思うのに、根本的なところでなにかが歪んでいる。
(―――あの時と、同じ)
 体が知らず知らず、震えてくる。
(駄目だ。ここで自分が動かなければ、他の者達がどうなるというの)
(力を持っているのに、使わないで後悔したくない)
(大丈夫、大丈夫。何とかなるじゃなく、なんとかしなくちゃいけない)
(失いたくないと、思ったのでしょう!?)
 自分にそう言い聞かせて、無理やり震えを押さえ込む。顔をきっと上げて空を睨み付ける。
 この体でどこまで出来るだろうか。
 この器で、どこまで力を使えるだろうか。
 それでもやらなければ。
 ぎりり、と歯を食いしばった時、空から再び声が降ってきた。
『…小僧めが』
 吐き捨てるような口調。同時に何か衝撃波のようなものが発せられた。それは水を切ってこちらへと向かってくる。
 ここに今いるのはそれを避けられないような者ではない。しかし一つかわすと、また次々と攻撃が加えられる。
 避けることはできる。しかし相手は空の上、こちらからの攻撃が届かない。少なくとも物理攻撃面では。
 せめてあそこまで行かなくてはならない。
「ユキシロ、ボクは上に行く!」
 言うが速いか、両手で軽く印を組む。
 するとふわりと体が浮かぶ。
 驚くハルに一度笑って見せてから、宙を踏んだ。




 ユキシロが止めるまもなく“リズ”は空を駆けていった。
 その時にリズが纏っていた魔力に月の気配はなかった。そのことに、ユキシロは疑問を覚える。
 あの魔力はリザイア神のものではない。どう見ても他人、それも人間の魔力だった。
「リズ、お前抜け駆けだろッ!?」
 一人で空を飛んだリズに、ハルが悪態をついている。黔晃も興味が雑言を吐いたハルから、近くに飛んできたリズにいったらしく下への攻撃が一時的に止んだ。
 今にも地団太を踏みそうな雰囲気の少年を、ガルドルは複雑な表情で見つめている。
 これからどうすればよいのだろうか。
 黔晃を封じる?
 しかし力の衰えた今の状態でそれができるのだろうか。
 自らの両手を見つめて、ユキシロは途方にくれた。
 その時のことだった。
「頭!」
「ガルドルさーんっ!!」
 少し離れたところから、声がした。
 ガルドルは視線をそちらにむけると、そこには三人の人間と一頭の地竜。
 ミカヤ、リリュン、そしてガシキがそこにいた。
 なぜと思うが、そんな暇はなかった。

 彼らに気づいた黔晃が、咆哮をあげた。


 キシャァァァァァッッ!!!!!


 凄まじい風と、憎悪の念の篭もった光が向かってきた。
『我こそはこの島の真なる主! この島の支配者也! 白き主など認めぬわ!!』
 突然のことに反応の出来ない三人。
 避けられない。そう思った。
 目を瞑り、衝撃がくるのを待つしかなかった。


「……?」
 ガシキがいつまでも痛みも何もこない事を訝しみ、うっすらと目を開ける。
 視界にあるのは、白だけだった。

「ユキシロ!!」
 ガルドルの老いてなお張りのある声がすると、目の前の“白”はゆっくりと崩れ落ちる。
 一体、何が起きたのだろう。


 咄嗟に庇ったはいいが、予想以上の傷を負ってしまった。
 ガルドルが必死の形相をしてこちらを見ているのが気配でわかる。
『こんなものか、白の主!』
 嘲笑を含んだ声が降ってくるが、それはどうでもよいことに思えた。
 まだ死んではいけない。そう思うのに、最期に彼が近くにいてよかったなどと感じてしまっている。もう自分は死ぬのだと悟ってしまっている。
 それは駄目なことだ。まだこの島の“主”としての役目を全うしていない。
 そう思い直し、ユキシロは悲しいまでの幸福感を振り払い身を起こした。




 リズは宙を走るように移動し、黔晃の元へと急いだ。
 黒き主はリズの存在に気づいたらしく、その巨大な尾でもって攻撃を加えてきた。
 ギリギリで避けるも、これをまともに食らったら内臓破裂ではすまないことを想像してぞっとする。
(こんなサイズ、反則だよ)
 蛇のような形をしたその巨体、リズの百倍以上の大きさは軽くある。どうすればこんなものが生まれるのかとこの世界の不思議を感じてしまった。
 神は決して万能ではない。
 この言葉を、しみじみと感じる。
 どれほど強い力を持っていようとも、中身は人間や魔族と大差ない。喜び、悲しみ、怒り、そして時には憎む。心を持った、一個の存在にすぎないのだ。
 なぜこんな存在があるのだろうか。
 自分自身そう呼ばれる存在であるのに、疑問を持たずにはいられない。
 なぜあのヒトは、このような存在を作り出したのだろうか。
 迷う。
 ここにいることを、迷ってしまう。
(…考えても、ここにいることは変わらない)
 だから進むだけだ。そう思った時、下のほうで声がした。
 ミカヤ達が、きてしまったのだ。
 危ない。
 しかしもう遅かった。
 黔晃が咆哮をあげ、その体から美しいと思えるほどの、けれどとてつもなく凶悪な光が彼らを襲った。
 間に合わない。
 視線をやった先、ミカヤ達と光の間に白が割り込んだ。
 直後に聞こえたのはガルドルの悲痛な叫び。
 唇をかみ締め、リズは再び上空を見やった。
 ユキシロならば、あの攻撃を受けてもまだ生きていられる。あの中の誰かが必ず受けねばならぬのであったなら、生き残れる可能性があるのはユキシロだけであろう。もし自分が下にいたとしても、その事実は変わらない。この体は、あの攻撃に耐えられない。
 あともう少しで届く。
 ぐっと拳を握った。だが、リズの必死の思いもむなしく、黔晃へと辿りつく前に妨害者が現れた。
 目の前に自分と同様に浮いているのは、一番会いたくなかった人物。
 褐色の肌に黒い髪と瞳。年のころ十五、六歳ほどの少年だ。しかしリズは彼を知っている。とてもとても、昔から。
 たとえその色が違うものであったも、彼を間違えるはずがない。
「久しぶり、だな。何百年ぶりだ? なぁ、答えてみろよ」
 ふつふつと湧き上がる憎念を隠しもせずに、彼はそう言った。
 大丈夫、そう思っていたはずなのに体が言うことを聞かない。ゆっくりと近づいてくる男から、逃げることすらかなわない。黔晃が下に向かったのを、止められない。
 とうとう手を伸ばせば触れられるほどの距離まで来て、彼は止まった。まじまじとリズを眺めて、眉根をしかめる。
「……? リィア、お前…その体はなんのつもりだ?」
 その言葉に、リズははっとして体を引いた。やっと動いた体は、まだかすかに強張ったままだ。それでもなんとか距離をとろうとする。
 怖い。
 逃げたい。
 けれど出来なかった。そうしてしまえば彼はきっと、この島ごと滅茶苦茶にするに違いなかった。そしてまた、自分がまた昔を繰り返すだけだと分かっていた。
「……ルク…」
 ぽつり、と自然に声が漏れた。
 とても小さな声だったが、それは彼に聞こえたらしい。怒りの形相も顕に、それでも無理に押し隠そうとしているのがわかる。
「お前は、あの坊主に“リズ”って呼ばれてるみたいだな。ならそうだな……俺は“アーク”だ」
 リィアと呼ばれたリズがルクと呼んだ少年は、自らをアークと名乗った。
 それをリズは悲しげな目で見る。その瞳にはどこか後悔の念も浮かんでいた。
「あの下にいる奴らが、今のお前の仲間か?」
「そ、それがなんだっていうのさ!」
 焦りを覚えて、リズが声を荒げた。
 だからなんだというのか。
 彼らが大切で、だからなんなのか。
 答えはわかりきっていても、そう言った。
 案の定、アークは酷薄な笑みを浮かべてこう答えた。
「…なら、この俺があいつらを殺してやる」
 リズに背を向けて、下へと彼は向かった。
「ルク!!」
 名前を必死に呼んでも彼は振り向いてもくれない。当たり前だ、今は“アーク”なのだから。
 アデュークは変わってしまったのだ。
 そう理解はしていても、やりきれなかった。

 リズは急いでアークの後を追った。




 なんとか起き上がったユキシロを、庇うようにガルドルは立った。上空からこちらへと向かってくる黔晃の瞳が禍々しく光る。巨大な口を開けて、咆哮を上げる。その羽が当たった木々が無残にも折られていく。
 ここまでくる途中でミカヤから彼の知る限りの情報を聞いたガシキとリリュンだが、いざその黔晃を目の前にすると一体自分達に何が出来るのかと思ってしまう。
 ミカヤは動かない左腕をだらりとたらし、右手に刀を構える。たとえどうなろうとも、客人を守ろうとする覚悟がそこにはあった。
 来る。そう構えた矢先、突然の闖入者があった。
 一人の少年だ。腰に剣を一振り携えただけの、年若い少年。しかしそこから溢れる感情が、空気が、彼が只者でないことを知らせてくる。
 ビクリ、とユキシロの体が震えた。その口からかぼそく声が漏れる。
「…太陽、が」
 そう言った彼女を、少年―――アークは器用に片眉をあげて見やる。口元には余裕の笑みが浮かぶ。
 その後ろ、すぐそこに黔晃が来ていた。だがアークはそれをちらりと見るだけですぐに見向きもしなくなった。
 ユキシロが素早く動き、黔晃の矛先を移させる。せめてリリュンやガシキ達から遠ざけたかった。
 ふわりと浮く彼女の体。すぐにそこは激戦区と化す。ガルドルも頭としてそちらへと向かった。
 結果、残されたハル達とアークが対峙する形となった。
 アークはす、と視線を流す。ミカヤ、ガシキ、リリュン、ハル。順繰りに見てから、くつくつ、と喉で笑った。
「なんだよ」
 むっとした顔と声で、ハルは下から睨めつける。
 だがアークは笑顔を顔に貼り付けたまま両手を前に突き出す。その手に金色の光が収束しだした。
 まずい、とガシキの本能が警鐘を鳴らす。あいつは危ない。見た目は少年でも中身は明らかに違っている。その違和感はリズに似ていて、けれどそれよりもはるかに凶悪。笑ったままで、人を殺すのだとすぐに気づく。
「おい、逃げろ……!」
「逃がすかよ!!」
 ガシキの言葉が終わらないうちに、その両手から一つ、光が放たれた。
 凶悪な熱、灼熱の光。悪意を持ったそれは、容易く人を殺めるだろう。
 横に飛ぶことでガシキはそれを避けた。しかしその光が通過した部分の地面は無残にも焼け焦げ、後方で木々が燃えていた。
 空から降ってくる水が、それを消していく。
「ほぅ…よく避けたな」
「危ねぇだろ!」
 ハルが抗議の声をやや離れたところからあげた。それは吼える、という表現が見事に当てはまる。
 そちらをちらりと見たアークは、次はお前か、と呟く。
 再び手に収束していく光。
 だがそれが放たれる前に、ミカヤの刀がアークを急襲した。
 攻撃はかわされたが、代わりに光は消えた。刀を構えるミカヤに、アークも己の剣を構える。
「いい度胸じゃねぇか」
 剣を振りかざし、向かってくる。
 そう思われた。
 思われただけで、それは違ったのだ。
「リリュン!!」
 ハルの叫びが聞こえた。
 金色の光が、リリュンへと向かっていた。
 一体いつそれを放ったのか、まるでわからない。
 魔族だからこそできる速度でもってハルはリリュンの前に立ち憚った。しかし間に合ったからといってリリュンを助けられる保証はない。二人ともお陀仏という可能性が非常に高かった。けれどやらないでは、いられなかったのだ。
 ぎっと光を睨みつけた。
 くるならこい。
 なぜかハルは自分が死ぬ気がしなかった。誰かが死ぬなどとも思わない。このような状況でありながらも、彼はそう感じた。
「あ!?」
 迫り来る金色の光が二人を飲み込もうとしたとき、そこに銀色の光が割り込んできた。
 銀は金を相殺して、粒子となってハルとリリュンを包んだ。
 やわらかな月の光。
 その“銀”がやってきた方向には、肩で息をするリズの姿があった。
 両手を前に突き出す形で宙に浮いていたが。ゆっくりと地上へ降りてくる。
 遠目ではわからないが、たった一人、ミカヤはその異変に気づいた。
 リズのその突き出された両手、その指、十本全ての先が弾けとんでいた。皮がめくれ上がり、骨が見て取れる。手のひら全体も皮が向けて赤い繊維が見えていた。しかし異常なことに、そこから血は一滴も漏れていない。
「リズ様…?」
 呼びかけられ、リズは手を握り見えないようにする。何も言うな、とその目は語っていた。
 アークはそんなリズを見ると、納得したと言わんばかりの表情を浮かべる。
「なるほど、な。道理で変なわけだ」
 一度ハル達を見回して牽制をかけた後、アークはリズへと近寄っていく。
 そしてその耳元で呟く。
「……死体を使ってるなんて、な」
 その言葉は、リズの中に冷たく響いた。
 湧き上がったのは、怒り。
 瞬間的に体中の魔力が膨れ上がる。
 ほんの一瞬。
 リズの全身が白く光った。
「!?」
 それに驚いたのは、他でもない、最も近くにいたアークだった。自分の体が消えていくのを感じていた。
(強制空間転移か!)
 さすがだ、と思う。
 腐っても神は神。
「………アデューク大陸に来い」
 必ずだ。
 消える寸前に彼はそう言った。それはリズにしかきこえないほどの大きさだった。
 やがて光が収まると、そこにアークはいなかった。
 一体なんだったんだと戸惑うガシキ達だったが、いつまでもそうはしていられない。
 謎の少年は消えたが、黔晃はそのままだ。今はユキシロとガルドルが必死に戦っている。
 それを目に入れたリズは手を握り小さく言葉を呟く。すると先ほどとは違う淡い光が傷を包み、消し去った。
 手はすっかり元通りだった。
「…ミカヤ、秘密ね」
 無理に笑っているとしか思えない笑顔だった。




 やはり、この体では無理だ。
 そうリズは判断した。
 他人の体で自分の魔力を扱うには、限度がある。無理に使ったのが今だ。たいした威力でもないのに、両手はボロボロになった。この体が無理をせずに使えるのは、体そのものに残っている“リズ”の魔力だけ。手を治療するだけならばそれで事足りるが、それ以上になったら難しいだろう。精神と体、両方が正しくそろって、初めて魔法はその本来の力を見せる。片方だけでは駄目なのだ。
(体さえあれば)
 しかしそれを悔やんでも仕方のないこと。だがこれから先のことを考えれば必要になってくるだろう。
 だがとりあえず、今は黔晃をどうにかせねばなるまい。このままではユキシロはおろか、島全体がなくなってしまうだろう。
「皆は、少し待ってて!」
 心配そうに見てくるリリュンにはとっておきの笑顔もつけよう。うまく笑えているかは分からないけれど。ガシキは賢い人だ。頷いているのが見えたから安心。彼はあれで結構お茶目なことをしでかすが、やはりいざと言う時はまとめ役になってくれるだろう。
 まだ体の震えは止まらない。なんて脆弱な心だろうか。腹を決めたはずなのに、簡単に揺らいでしまう。
 移動する時間も惜しい。急がなくてはいけないのに。けれど彼らに見られる訳にはいかないのだ。少なくとも、今はまだ知られたくない。
 なんとかガルドルのところまで辿りつく。
 彼らの体はボロボロ。この短い時間でこれだ。予想以上に黔晃の力は強くなっているのかもしれない。
「…ガルドルさん、この体をちょっと預かっててくれないかな」
 意外な言葉だったのだろう。彼は訝しげな表情をした。
 たしかに突然こんなことを言われは謎に思うだろう。しかし説明をしている時間はない。
 リズは一方的によろしく、というとその体をガルドルに預けた。驚いたガルドルはその体を思わず支えるが、ユキシロが気になって仕方がない。
 そんな様子に内心微笑を漏らすも、リズは意識を集中する。
 ガルドルの腕の中で、リズの体が重みを増した。まるで意識を失った人間のように。
 すると彼の目の前で、信じられない光景が現れた。
 リズの背中から、何か半透明のものが浮かび上がってきたのだ。それはまるで幽霊。髪の長い、どこか幼さを残した表情の女性が、さなぎから孵る蝶のように“リズ”から出てきたのだ。顔は“リズ”とそっくりであった。
 それはふわりと顔を上げると、空―――ユキシロと黔晃の元へと飛んだ。
「リザイア様!?」
 ユキシロの傍まで来ると、リズ、否リザイアは彼女の額に触れる。
 零体であるから決して直接に触れることはかなわないが、それは冷たくも暖かい。やわらかな空気で傷ついたユキシロを癒していった。
『これで、平気だよ。ガルドルのところへ行ってあげて』


 ユキシロが降りていくのを見届けると、リザイアは再び上昇をする。
 “リズ”の体にいるよりも、こうして零体だけでいる方がまだ力を使えた。
 まだこの姿を見せたくない。
『…あなた、は誰だ』
 急におとなしくなった黔晃は、その懐かしい気配に躊躇を覚える。
 やわらかい月がそこにあるような錯覚を覚える。
 月は今、頭上に輝いているというのに。
 リザイアはゆるく微笑むと、黔晃の額の部分までやってくる。
『お迎えに来たよ』
 そっと額をなでるような仕種をした。
 黔晃の中に心地よい気配が流れ込んでくる。生まれた場所、そして還る場所―――そう思えるような感覚。
 だがそれを拒む心があるのも事実だった。それは奥深くに根付き、還ることを頑なに拒んでいる。
『我はこの島の真の主。取り戻すまでは…』
『…手に入れて、どうするの?』
 ぽつり。まるで独り言のような問いかけだった。
 手に入れてどうするの。
 支配してどうするの。
 強くなって、それでどうするの?
 結局は空しいのだと、彼女は言った。
 恨みからくる行動の先にあるのは、幸福でないことを知っていた。
『そろそろ、君は憎しみから解放されるほうがいいんだよ』
 だから還ろう。
 そう言って、黔晃の三つ目の瞳に口接けた。
 安心させるようなその力が流れ込み、やがてそれは体をほどいていく。
 尾から始まり、ゆっくりと上へ上へと。とうとう頭も消え、残ったのは赤い色をした淡い光。
 リザイアはそれを愛おしそうに抱きしめた。



 噴水と化していた湖が収まり、夜が明ける。
 何もかもが消えてなくなったかのような錯覚。
 体に戻った“リズ”はガルドルに礼を述べたあとに、つけたす。
「…黒き主は、いなくなりました。この島にあった恩恵も、徐々になくなっていくでしょう」
 だがガルドルが知りたいのはそんなことではない。
 “リズ”の正体もなんとなくわかる。
 けれどやはり、それをちゃんと知りたいと思うわけでもない。
 もっともっと、彼にとって大切で重要なことがある。
「ユキシロは…」
 彼にとって大切なのは、彼女。
 体ではなく、心の深いところでの絆をもつ、そのひと。
「大丈夫。力はなくなってしまうけど、ね」
 のこりの寿命もきっと、短くなるだろう。けれどそれは人間にしてみれば長い時間。短くなってもせいぜい普通の人間と同じ程度になるぐらいだろう。
 次に白子が生まれることもないだろう。ユキシロが、最後の『白子様』になるのだ。
 全ては島の意思。けれど必要なくなったからといって、今ある命を摘み取ることはしないはずだ。
 ユキシロもそのことが分かるはずだ。
 この島も、新しくならねばならないのだろう。
「おーい、リズ君大丈夫ー?」
 離れたところから、リリュンが駆け寄ってくる。そのあとにミカヤ、ガシキ、ハルと続く。ハルはどこか仕方なさそうだ。出番をとられてふてているのかもしれない。
 何があっても変わらないその態度に、つい笑いが漏れる。
「なに笑ってんだよ」
「いや、ホント、キミおもしろいよね。さすが坊」
「坊って呼ぶなっつってんだろ!!」
 それでも笑うリズ。リリュンもガシキもつられて笑っているから性質が悪い。しかも、いつもはうろたえているミカヤも今は笑っている。
 どいつもこいつも。
 さらに機嫌を悪くしたハルは、そこでふと思い出す。
 先ほどの、男のことだ。
「なぁなぁ」
「なに?」
 突然真面目になったハルに、笑ったままリズは返事を返す。
「さっきの黒い髪の男、誰?」
 その台詞に、リズの動きが凍りついた。
 なにかまずいことだったか、ともハルは思ったが、別段おかしなことは言っていない。いたって普通のことだ。
 どうやら二人が知り合いらしかったので聞いてみただけだった。
 だが凍り付いていたリズは顔をうつむかせて、自分を抱きしめるように両腕をつかむ。その体は震えていた。
「おい、リズ?」
 あわててその顔を覗き込もうと近づいた。

 ドン!

「うわっ」
 思い切り突き飛ばされたハルは尻餅をつく。突然の変化に、皆驚いた顔をしている。
 リズは震えたまま頭を左右に強くふる。まるでいやいやをする子供のように。
 何かをひどく恐れているようだった。
 ガシキやミカヤが近づこうとすると、後ずさって逃げる始末。
「…リズ君?」
 見かねてリリュンが声をかけると、リズはなにか助けを求めるような目で周囲を見渡す。そうしてリリュンを見つけると、その背後に隠れるように抱きついた。
 ハルがかっとなるが、尋常でない様子に動きを止めた。
 一体何が起きているだろうか。
 わからないままだけれど、このままでいても仕方がない。とりあえず砦へ戻るためにとミカヤは地竜を呼んだ。



 砦へ戻る間も、リズはリリュンから離れようとはしなかった。