月は満ち、また消える。
 日は昇り、また沈む。
 ――なのに今、何故二つの光が輝くのか。禍々しい太陽が、我を呼ぶのか。

 この島を語ってはならない。
 この島を起こしてはいけない。

 深い深い、山の頂の湖の奥底で。光すらも届かぬ闇の中で。
 二つの力によって封印されていた“奴”の力がゆっくりと解放されていく。
 この島は、“生きて”いるのだった。


「――まずい」
 ガルドルは天井の崩れ落ちた“主”の岩室の底で、足下の木々の根が、その葉が、いや――…この島が蠢く様を全身で感じていた。徐々に揺れは大きくなり、その場に居た何人かは立っていられなくなり、地面に膝をつく。
 決してただの地震では、ない。揺れている、のではない。
 ――…動いているのだ。
「ガルドル! 彼が――…彼が目覚めます!」
 ユキシロに“奴”の力を押さえ続ける事は不可能に近くなりつつあった。――そして、今“白弦期”の月の力の封印が、破られようとしていた。何者かによって。
 ガルドルとユキシロは、決して交わる事は無いはずの視線を交差させた。
 ――時間が、無い。
 “主”として、“頭”として。この島に住む全ての者達を守る、この“島”によって選ばれた守護者として。――しなければならない事は、分かっていた。
「晃月団! 急ぎ砦と港へ向かうのだ!! 森と海に皆を近付けてはならぬ!!」
 ガルドルは先程までの騒ぎを止める為に連れて来た仲間の晃月団に向かい、そう叫んだ。揺れに耐えながら何とか立っている晃月団の一人がそれに返す。彼は伝令係だった。
「仰せの通りに! ですが――…頭はどうなさるのですか!?」
「儂はユキシロと共に聖域へ向かう」
 ガルドルはそう言うと肩にかけていた黒い毛皮をばさりとかなぐり捨て、懐に入れていた笛を取り出し、地竜を呼んだ。この島で一番速い地竜だ。しかし今は地竜が来るまでの、ほんのわずかな時間ですらも惜しく感じられる。
「お一人で、ですか? 危険です!」
「案ずるな、一人ではない」…―――ユキシロ。貴女がいるなら。
「ボク行くしね」 突如会話に割り込んで来たのは子供だった。それを聞いたユキシロは「リザ――…いえ、リズ様、危険ですわ」と、リズと呼ばれた子供の客人の同行を止めようとする。ガルドルもそれに同意見だった。大事な客人を危険な目に遭わせては行けない。
 ――それに、赤い糸が見える者に聖域の地を見せてはならぬ。
 地竜が到着した。他のものより体格的にがっしりしていて、その色は黒い。頭の地竜である。そしてリズは地竜が来るや否やその背によじ登った。
「頭! 早く!!」
 そう言われ仕方なくガルドルも地竜にまたがる。本来一人乗りだが、リズ程度の子供なら問題は無い。ガルドルは自分の刀がちゃんと腰に固定されているかどうかを確認した。
「リズ…殿。危険だ。下りてはくれまいか?」
 言っても無駄だと、そう感じたが一応言ってみた。しかし聞き入れられた様子は無い。
「リズ君! どこ行くの?」 リリュンがリズを呼ぶ。ガシキはこちらを見ている。
「皆は危ないから晃月団の人達の傍を離れちゃ駄目だよ! ユキシロ、準備はいい?」
「なっ…てめぇ…何訳分かんねぇ事しようとしてんだよ!」
 それを聞いたリズは少し寂しげな声で、いいよ別に坊は知らなくてもいい事だし、と言った。それを実際にハルが聞き取れていたら彼は怒っただろうが、地鳴りで声が届くことはない。
「少しだけ待って下さい」
 ユキシロは見えない目をリズに向ける。そして今度はルグ達の方へと向き直った。
 その毅然とした姿に、彼に見せた弱さはない。ユキシロはルグを呼び寄せると、彼女の種族の言葉で語りかける。他の魔族の仲間は、先程騒ぎを起こした者達を羽交い締めにしていた。
「ルグ、ヤフリア ク ヒータ」
 ――ルグ、その者達を放してあげなさい。
 ルグはそれを聞くと、毛皮に隠れて分かり辛いが、“そんな馬鹿な”といった表情をした。無理もない。彼女達にとって彼等は主の為とはいえ、主の客人に牙をむいた者達なのだから。
 そして、ルグが“主”に歯向かう者を許せない理由はそれだけではない。
「クヌ ラ イードウ ゼドゥーガ チェダッ!! ウヤ ランビドッ!!」
 ――この恩知らずの恥知らずのクズがッ!! 一族の恥めッ!!
 ルグは羽交い締めにされている者達に向かって罵声を浴びせた。それをユキシロが止める。
「ウォルエ ル ガーラ」
 ――お止めなさい。
 300年前にこの島を襲い、毒矢によってユキシロの光を奪ったのは、ルグ達の祖先の魔族だった。島は彼等を滅ぼすことを望んだし、ユキシロも彼等を処刑する事はできたけれど。
 彼女は、誰も殺さなかった。彼等一族がそれを忘れる事はない。だから――許せないのだった。それでもユキシロに諭され、ルグは苦々しい様子でそれに従う。
「シズレスル イズハ リュ アイジ。ポティーア ウヤニ エガ ファルク。ハティ ガシェ…チルシ アリュート」
 ――この場所はもしかしたら崩れるかもしれません。皆の事が気がかりです。この島から皆を守りなさい。……貴方達しか、いないのです。
 ルグは覚醒した“島”の恐ろしさを知らない。この島の大半の魔族と人は、白弦期の聖域でガルドルとユキシロが“彼”を押さえる為に、その力を使っている事を知らない。当然、彼女は島の何が危険なのかを理解できていなかった。だが、ルグは事態の深刻さを悟ったらしい。
「…ヒータ ク ルフト!」
 ――そいつらを離せ!
 ルグは苦々しく仲間に向かって叫ぶ。そして、ユキシロに一礼すると仲間と共に穴の底を力強い、一跳びの跳躍で上まで移ると、そのまま森の中へ消えて行った。晃月団もそれに続く。
 彼等の役割と果たす為に。
「行きましょう」
 ユキシロの冷気が一層強いものになった。
「少年、振り落とされるでないぞ」 自分の前に座る不思議な少年は、しっかりと地竜の首につかまる。
「坊、ちゃんと逃げなよ?」 リズはまだ腕を押さえているもう一人の少年に向かってそう言った。
「なッ――…」

 長年この島の水によって育て上げられた、この島の土が、水が、木々が。魔族と、人間の体が。
 血が、ざわめいていく。
 “黒い主”である黔晃の血が含まれた水で生かされた儂のこの体も。ユキシロの身体も。
 また、島の、“奴”の一部なのだ。

「行くぞ」
 地竜が足下の岩を蹴り上げ、崖となっている岩室の壁を跳び越えた。ユキシロもそれに続く。
「頭ッ!!」
「リズ君!!」
 晃月団の誰かとリリュンが背後でそう叫んだが、その声はもう届かない。

  ギシャアアアアアアッ

 島中の木々の葉を揺らし、空に奴の咆哮が響く。
 それは、何万年にも及ぶ封印から、“奴”が解き放たれた事を意味していた。

         *

「私は――…」
 気付けば自分は応急処置を施され、治療台の上に寝かされていた。
「痛ッ!」
 首をもたげようとしたが上手くいかない。視線だけを泳がせると、上着は脱がされていて、そのかわりに包帯やら布やらが巻かれているのを見る事ができた。白い布に、所々血がにじんでいる。
 ――ここは…砦? 何で…
 今朝から客人三人を砦まで案内しようとしていた。先に行ったハルを見失い、別々に探して、しばらくしたら何か大きな音が、落ちる音がして、ガシキとリリュンを見付けて、残りの二人は穴に落ちたらしくて、でもそこは“彼等”の場所で、嫌な感じがして、それから――…
 ――殴ら…れたんだった…こんな時期、だもんなぁ…
「…気が付いたのか? ミカヤ」
「副長!」
「全く無理をしおって。ただでさえ身体も丈夫な方では無いというのに。お主、あそこで頭が助けに来なかったら殺されても文句は云えなかったんじゃぞ」
 晃月団の副長ムラジは、嗄れた声でそう言った。聞けばガルドルと同年代である彼はガルドルとは違い、腰は曲がり背も低く、顔も態度も完全に老人のそれである。
 しかし、老いても枯れても彼はガルドルを支える晃月団一の腹心だった。
「…ッすみません…」
 それに比べて自分はどうだろう、と憧れの対象であるムラジを前にミカヤは考える。
 他の仲間に比べ、体も弱く緊張すれば胃痛に悩み、体力もある方ではなくて、忍具の扱いと勉強だけは常に一番だったけれど。
 ――ホント駄目だ…
 大きく息をつてぼんやりと天井を見る。そういえば、彼等はどうしたのだろう。
「騒ぎは何とかなった。静かに寝ておれ」
「副長…客人は…」 声を出すのも辛い。喉の震えが傷に響く。
「はて…? あの少女の客人の事か?」
「他にも…あと三人、いらっしゃったのですが…」
「……お主が“主”の森から運ばれて来たのは半時程前じゃが、それはお主一人、じゃったな」
「そう…ですか…」
 左腕がまるで動かない。鎮痛剤が打たれているらしく痛みはあまり無いが。動かせばやはり痛い。よくは見えないがきっと折れている。魔族である彼等の爪に掻かれた傷は深く、熱を帯びていた。殴打された箇所は数知れず。鏡は無いが、顔は相当酷いものになっているだろう。
 ――当分、動けないかも知れないな…
 ――でも、生きてるし。
 皆が無事で、怪我したのが私一人で済んだのなら、それでいいや。
 そう、思った時だった。

 ゴウン

 砦が、森が、揺れた。
「地震……?」
 ミカヤ達の居る“頭”の住まう気にも、震動が伝わって来る。医療器具の並んだ台が倒れ、大きな音が医務室全体に響いた。
「違うぞ…ミカヤ、あれを見い」
 そう言うとムラジは、部屋の窓から外を指した。
 遠く離れ、立ち入る事が恐れられている聖域がある山も、ここからなら良く眺めることができる。しかし、見慣れたものである砦の山は、今は違ったものとしてミカヤの瞳に映った。
「聖域……が…」

 山の頂上、言い伝えによれば川の源泉である湖があるといわれるそこから、巨大な水柱が上がっていた。
 白弦期の穏やかな月の光を受けて、きらきらと輝いて、雲を破り、空高く吹き上がったそれは途中で広がって、島の上に水の膜でもう一つの天球を造り出した。
 まるで、この島を空から覆い隠してしまうかのように。

「何という…事だ」 ムラジの目が大きく見開かれる。低い地鳴りはずっと続いている。
「封印が解かれる等と…古の災いが蘇ってしまう…!」
「封…印? ムラジ様…古の災いとは…何なのですか……?」 この島に自分の知らない伝承があっただろうか。薬草、地形、魔族と、彼等の言葉。今はもうこの島に眠る数々の英雄の話。
 島にある話なら、本なら全て読んだ。この島についての知識なら、長老達にだって負けはしない。
 ――いや。
 ミカヤにも知らない事はあった。頭だけが読める禁書と、頭しか知らない記憶。
「ムラジ様!! 副長ッ!! 一大事ですッ」 扉に体当たりする様に、仲間の一人が飛び込んで来た。腰の曲がった副長は、それに応える。
「頭からの伝令か」
「…ハぁッはぁッ…自分も…よくは分からないのですがぁッ…島が…襲いかかってくる…と…」
 息も絶え絶えに彼はそう告げた。終わりの方はあまり聞き取れなかった。ずっと走り通しだった様子で、そのまま彼は床にどうと倒れ込む。
「遂に…奴が……“黔晃”が…」 ムラジは目を閉じ、天を仰ぐ。
「“黔晃”?」
 何故だろう。その名前を聞いたとき、全身の血がざわめいた。
 さっき襲われた時に感じた悪寒よりもずっとずっと強いそれに、背筋が凍り付く。

  ギシャアアアアアッ 

「まずい――…始まるぞ」 空気を揺さぶり、部屋の中のガラスでできた器具が全て割れた。
「“始まる”?」 耳をつんざく様な“何か”の咆哮は、島中の木々と、網膜を震わせて――樹の下、砦の中から悲鳴があがったのは、その時だった。

 うわあああッ

「――!!」 ミカヤは驚いて動かない首を無理矢理動かして、窓の外を見た。そこで彼が見たものは、彼の想像を絶する光景だった。方向はそう、砦と森との境目、大門の方向か。
 人が、飛ばされていた。晃月団の一人だった。軽々と放り上げられたそれは宙を舞い、ゆっくりと下方へ向かっていく。気を失っているようで、このままでは。
「っな――…マズイ!!」
 たとえ晃月団とても人間。気絶したままあの高さから落ちて、無事でいられる訳が無い。思わず目を背けようとした、その時だった。地表まであと数メートルという所で、下から仲間の一人が軽々とジャンプして、気絶したもう一人を支える。
「…良か…った…」
 しかしそれも束の間。再びどこかで誰かの悲鳴が響く。ミカヤは先程人が飛ばされた辺りに視線を戻し、目を凝らして木々の間に何が見えるか探ろうとした。夜の闇の中、砦の中の赤いかがり火と月だけが自分の視力の助けになってくれる。常任には夜の森はただの黒い影としか認識できなくても、ニフの晃月団の一人である彼には葉の一枚一枚、そして葉に覆われたその向こう側までを見通す事ができた。それもみな――酒の力である。
「ミカヤ、あれを見ろ。大門の壁の外だ」
「あれは――…蛇?」
 ――いや……根だ。
 その地に深く根差したはずの根が数本、地面から飛び出して胴体の太い蛇のようにその表面に付いた土をはじき飛ばしながら、その先端を空中にゆらがせている。
「な…何なんですかアレは一体!!」
 砦の外の木々から、一本二本と、根が鎌首をもたげた蛇のように。梢を抜けて立ち上がっていた。
「ミカヤ…お主は、この島の川を流れる水について考えた事はあるかの?」
「え?」
 彼は重々しい口調で、“奴”について語った。

 人がこの島でまだ生きていなかった頃の話である。
 この島には一匹の“黒い”主がいた。彼は島の全てを支配し、土地を枯らせ、山の頂より流れ出した水を殺した魔族の地で赤く染めた。黒く長い尾を持ち、揺らぐ炎と見まごう紅い翼で空を舞った。
 しかし、島は生きていた。ある日突如として現れて以来、長い間ずっと耐えてきたのだった。
 黒い主はある時、更なる力を手に入れる為に、島を丸まる一つ自分の一部として取り入れてしまおうと考えた。だが、それを知った島が大人しく黙っている訳が無い。
 島は“黒い主”を封印してしまおうと考えた。そして、“白い主”を一匹つくり上げた。

「ユキシロ様は島の一部なのじゃよ」
 砦の中の騒ぎはどんどん大きくなっていく。地鳴りは止まない。

 島の力を分け与えられているとはいっても、“白い主”が一人だけでは心許ない。“奴”の力は強大で、彼等だけでは“奴”を封印する事はできなかった。島は考え抜いたあげく、島でも魔族でも、神でもない“人間”に助けを求める事に決めた。この砦に住む人々の祖先がそれだった。島は彼等の中でも限りなく自分たちに近い感覚を持つ人に自らの力を分け与え、定住の地を持てなかった彼等に安住の地を与える代わりに、“頭”には島で“白い主”と共に“黒い主”を封印し続ける事を約束させた。

 “黒い主”と“島”の力は、三月に一度の“白弦期”に、二つの力は最も強くなる。
 “島”と“頭”と“白い主”は、白い月が完全に満ちたその時、山の頂上の湖の真上を飛んでいた“黒い主”を、島の奥底、深い深い深淵に封じ込めた。
 以来、封印が解かれた事は無い。

「じゃが、奴は生きておる。白弦期の度に暴れだし、その身を岩肌に打ち付け、再び自分がこの島の“主”の座に戻ろうとしておるのじゃ」
「湖底で暴れる“黒い主”……では、白弦期の度に川の流れが増すのはその為なのですか!」
「左様。だが、それだけではない」

 “黒い主”は何度も、何度もその黒い巨体を岩に打ち付け、その度に血が滲んで、流れていった。
 “黒い主”の地は水に溶け込んで、そのまま川の水と共に流れ出し。
 この島の水と共に、少しずつ島に生きるものすべての体に、溶け込んでいったのだった。

「そんな」
「もう解ったじゃろう? ミカヤ。この島に生きる全てのものには、同じ血が流れておる」
 生まれた時から、生まれるよりも、ずっと前から。水に、酒に、空気に、この身に。
「憎い、殺したい、壊してしまいたい、そんな欲の渦巻く、黒い黒い血が」
 樹の下から悲鳴が聞こえる。背筋が凍り付く。
 砦の、中で。
「“黒い主”の血がな」

 壊してしまえ。殺してしまえ。

「うがあああッ!!」「――!!」
 突然、横で息を切らして倒れていた砦の晃月団の伝令係が、二人の方へ襲いかかってきた。
「下がっていろ!」
 ムラジはミカヤを曲がった小さな背で庇い、腰に差してあった短刀を抜いて構える。それに対して伝令係が背中の鞘から抜いた刀は大きな蛮刀。彼は……笑っていた。
 正気を無くした伝令係は副長のムラジに向かい刀を振り下ろした。しかしムラジはその刀を短刀で受けて止める。狭い部屋に鉄と鉄がぶつかる音が響いた。
 ――そんな……仲間同士が戦うなんて!!
 現実離れした出来事の数々に気を失いそうになる。
「はあッ!!」
 二つの刀が離れ、伝令係の男は刀を引く。横に引いて、ムラジの胴を裂くつもりだ。ムラジはそのまま相手の刀が横に薙がれ、当たる前に――跳んだ。
 蛮刀の切っ先がミカヤのいる寝台のシーツを裂いていく。勢い余った刀は台に刺さると動かなくなってしまった。ムラジは空中から勢いをつけたまま、
「目を覚ませ!!」
 手に持った短刀の柄を返し、伝令係の頭――額に装着した兜目掛けて、振り下ろした。兜の上からとはいえ脳天を打たれた事には変わりがない。ガツリという音がした後、彼はそのまま倒れ込んだ。気絶――してしまったらしい。
「奴の意志に負けた者はこうなる」 ムラジは短刀を鞘に戻しながら言った。
「か、彼は大丈夫なのですか!?」
「大丈夫じゃ。ホレ」 隣でうめいている様な声が聞こえた。ムラジは近寄ると伝令係の頬をパンパンと叩く。「何時まで寝とるんじゃ。起きんかいホレ!!」
「う…あ…あ…副長!? 自分は一体…」
「島の者に急ぎ伝えよ。人が暴れ始めたら、額を狙えとな。砦の中に居れば木に襲われる事はない。皆を集め、この頭の樹の下の広場で、女子供を根から守るのじゃ」
 正気に戻った伝令係はそのまま部屋を出て行こうとした。が、それをミカヤは止める。
「待って下さい!! リズ様達は…客人達は今どこに居るのですか!!?」
 ――彼等はこの島の事を知らない。
「リズ…ああ、あの小柄で色の白い子ですか? 彼は頭と一緒に地竜に乗って行ってしまわれました。ユキシロ様も一緒です。残りの皆様は…どうなさったのでしょう? 私はとりあえず伝令をここまで運ぶ事しか考えてなくて…」
「行きがけにリズ様は何か言ってませんでしたか!?」 この状況に、あのメンバー。嫌な予感が。
「えーと…地鳴りが酷くて…でも、自分は頭のすぐ傍にいたので…。確か…こう言ってましたね。『坊、ちゃんと逃げなよ』…坊って…あの白い髪の子供の事だと思」
「大変だ!!」
「何じゃ一体! 大変なのはお主の体の怪我の方じゃッ!!」 老いた副長が叫ぶ。
「ハル様が!!」
「春でも夏でも、どっちだっていいわい!!」
 そうじゃないですよ客人の名前ですよ白髪で小柄で魔族の子供(思春期)で決めゼリフは『この世で一番知られている超ニンキボーイ…ハル様だ!!』で酒に弱くてリズには何故か弱くて……等と説明する暇はミカヤには無かった。
 問題はそう、一番最後に挙げたそれだった。ハルのリズに対する対抗心。嫌な予感の源泉。
 ――リズ様に逃げろと云われてハル様が黙っている訳が無い!!
 ミカヤはそう確信した。リリュン様とガシキ殿が残っていたとしても、きっと彼を止める事はできない。むしろそんなハル様を心配して付いて行ってしまうに違いない。あの場に晃月団の仲間が残っていたとしても、地竜より速く走れるハルは止められない。
 ――まずい。
 この森に、彼等だけで。
「お主は寝ておれ。傷に響くぞ」
「こっちの方は我々でなんとかしますから、先輩は寝ていて下さい」
 ムラジと伝令係の後輩は動こうとするミカヤを止める。まただ、とミカヤは思った。昔からそうだ。体が弱いから、いつもいつも皆に心配されてた。それだけ大事に思われていた、と思うと、皆がそうしてくれる事はとても嬉しかったけど、大事な任務だけは、いつも外されていた。
 いつだって、そうだった。一人前とは、認められなくて。
 人に隠れて落ち込むミカヤに、案内役としての才能がある事を見抜いたのは頭のガルドルだった。
 以来、時折本来の仕事からは慣れて、島のガイドの代わりを務めるようになった。
 そしてミカヤは思う。もし、あの時彼に声をかけられていなかったら、自分はどうなっていたのだろうか、と。頭の中にあの日のガルドルの言葉が蘇る。

 ――ミカヤよ、確かに島の外での仕事に比べ、中での仕事は地味かも知れんがの、島の外と中、魔族と人を結びつけ、この島の素晴らしさを伝える仕事は、お主にしかできぬのだ。客人をもてなし、守る事こそ、案内役の仕事だ。

 ――守る。
 そうだ。
「先輩は寝ていて下さい。客人達なら、他の誰かが――…」
 もう、嫌だ。

 ミカヤはシーツを、何とか動く右腕で掴み、上体を無理矢理起こそうとした。あばら骨にもヒビが入っているらしく、みしりみしりと体の中で何かが軋む。
 痛い。
「ぐうッ…!」 傷ついた体で起き上がるのが、こんなに辛いなんて。
「先輩!」
「止めろ、傷が開――」
「止めないで下さい!! もう嫌だ!! 僕はもう子供じゃない!! いつまでも病人扱いしないで下さいッ!!」
「ミカヤ…」
 少し大声を出しただけで激痛が体中を走り、息が荒くなる。傷口が熱い。
 ミカヤは息を整えると、ムラジの顔を正面から静かに見据えた。
「僕の服と……他に、酒と薬一式を袋に入れて持ってきて下さい。聖域へ、彼等を追います」
「先輩…」
「彼等の案内役は――僕です」

 二人は、もうミカヤを止めたりはしなかった。

「ミカヤ。これを持って行けい」 地竜にまたがろうとするミカヤに、ムラジは何か渡そうとする。手渡されたそれを見てみると、ドングリ位の大きさの、きれいな緑色をした勾玉だった。
「? 勾玉なんて、何の為に使うんです? ただの宝石ではないんですか?」
「左様。この島の外の人間が持つときはな。だが、この島の中で、この島の水によって生きる者が持てば、お主を助け、我等ニフの民に流れる血の力を強めてくれるじゃろうて」
「いいんですか?」
「勾玉には島の力が宿っておる。純粋な結晶じゃ。“黒い主”なんぞには負けん」
「――有り難うございます」 ミカヤは深く深く、ムラジに礼をした。
「先輩!! これ…!」 さっきの伝令係が何かを抱えて頭の樹の下から、こちらまで走ってくる。それはハルを探す際にリズが置き忘れて行った彼の茶色いカバンだった。
「届けてあげて下さい。困ってたみたいなんで」
 そう言うと彼は砦の中の騒ぎを止めに街中へ駆け出して行った。ミカヤはその後姿を見送ると、細い細い鋼の刀を背中に背負う。彼の本来の仕事、護衛の時しか使わない日本刀。でも、これまで実際に振るわれる事は無かった。
 だけど今は――違う。
 自分の任務を果たす為、自分の役目を貫く為に。
「それでは――行って参ります」
 ミカヤはムラジに言い残すと、彼の地竜を駆り、“黒い主”の血によって人々が争い合い、いくつかの家からは煙が上がっている、そんな砦の中を。
 風の如く走り抜けて行った。

 地鳴りは止まない。この島の疼きも止まらない。
 ミカヤは空を仰いだが、そこに、彼の見慣れた夜空は無かった。
 ――皆、頭、どうか無事でいて下さい…!
 水の天球の向こう側にあるであろう白い月に、ミカヤはそう願った。

 一方、砦に残ったムラジは、もう見えなくなったミカヤの行った先、水を吹く聖域に目を向けた。
「儂等も…老いたな。ガルドル…」
 同い年の親友は、今や数万年の眠りより目覚めた存在に戦いを挑もうとしている。
「副長! 晃月団三十七班中三十班、揃いました!! 残り七班は砦内の騒ぎを止めさせています!」
 ムラジはゆっくりと振り返る。頭の樹をぐるりと石畳で囲んだ広場に、彼の部下がびっしりと並んでいた。黒い衣に赤い頭巾の晃月団に向かい、ムラジは叫ぶ。
「聞けい皆の者!! これからが正念場じゃ!! ニフに災いなす者に、我が晃月団の誇りと意地、知らしめてくれようぞ!!」
 ――そうだろう? ガルドル。
 地鳴りに、“黒い主”の咆哮にも負けない晃月団の鬨の声が、森に響いた。

         *

 森を抜け、頭とリズの乗った地竜は草木も生えない岩場を走っていた。夜の空気はニフ全体を包み、強くそして凍えるような風が山の岩肌を滑って行く。
 山腹から眼下に広がる樹海を見下ろせば、木々の間を白い霧が流れていくのが見えた。
 そしてガルドルはリズに視線を向ける。生気を持たない人間のような肌の色をした少年は、ガルドルの視線を背後に感じてか後ろを振り返った。互いの目が合う。ガラス玉のような瞳だ。
「もう、いいんじゃないかな? もう奴を――封印しても意味なんてない」
 この子供は、一体何を知っているのだろう。
「いつか、終わらせなきゃいけないんだよ」
 リズと呼ばれた少年は、どこか悲しそうに言った。

 リズには、いや、リザイアには分っていた。
 この島に降り掛かった古の災い。それを払った時に、必ず得るものがあり、そして――何かを失う。
 この場に居合わせたからには、何とかして手を打たなくてはならない。
 リズはガルドルと乗っている地竜から、すぐ横にいる、白い冷気を放つユキシロを見た。この島の守護者、白い主。そして、“黒い主”を封印する為に島によってつくられた、この島の分身。
 きっと、彼女自身にも、もう分っているはず。
 リズは天を仰いだ。水の天球の向こうに、星を感じる。でも、白い白い月は、見えない。そして、忍び寄る“彼”の気配を、山の頂きにいるであろう“奴”の気配と共に感じるのだった。

 ユキシロは、おぞましい黒い念を感じていた。そして、自分を責めた。
 何万年と言う長い月日にわたって解かれた事のない封印が、自分の力の衰えによって解かれてしまった事に。そして再び、あの黒い主を封印する力が、もうほとんど残っていない事に。
 しかしユキシロは逃げない。
 彼女の愛したこの島を、森を、海を、人を、魔族を。そして――
 ユキシロは見えない金色の瞳でガルドルを見た。
 彼等を、この島を、守らなくてはならない。たとえ、私の体が焦がれ、消えてしまおうとも。
「ユキシロ? どうかしたか?」
「いいえ――…急ぎましょう。夜が明ける前に」 しかし、本当の夜はこれから始まる。
 もしかしたら、ガルドルと過ごす夜はこれで最後かも知れない。何故だか、そんな気がした/

         *

 古の“黒い主”はゆっくりとその紅い翼を広げ、血のような色の三つの目を開く。
 最後に月を見てから、どれだけの月日が流れただろうか。
 白い白い月と闇が、この体に力を与えてくれる。黒い鱗が震えた。

 あいつが来る。白い奴が。憎い憎い奴が。