いる。
 そう、彼は思った。
 いまだ完全とは程遠い力しかないけれど、その気配を違えるはずがなかった。
 勘違いなどありえない。間違いなど、ありえない。彼女のその気配、本質を表すそのニオイを自分が間違えるはずがないのだ。
 あれから、どれほどの時間が流れたことだろう。どれほどの間、あの存在に焦がれてきただろうか。
 嗚呼。この小さな島の中に、彼女がいる。力の流れを辿ればすぐにわかる。だがそこまで。この妙な慣わしのある島は気配も一種独特で、あらゆる魔力のニオイが拡散されてしまっている。これでは場所を特定することはできない。だが、とも思う。
 逃げるなら追いかけるまで。
 そう彼は決める。本能の赴くままに下された決断だった。
 まずは姿をどうにかせねばなるまい。このまま半幽体でいるわけにもいかない、仮の体が必要だ。姿形は…そう、昔の頃に似せよう。人間たちにあまり警戒されない年齢―――十五、六歳の頃がいい。髪と瞳の色はどうしようか。いっそのこと全く関係のない色にしよう。ならば、黒。深淵の色、咎人の証。今の自分には、なんと相応しい色であろうか。
 まるで陶酔するかのように、彼はどこか遠くを見てニヤリと笑う。砂浜に降り立った足元から順に光が放たれ形を成していく。やがて出来上がったのは一つの少年。褐色の肌に、深淵の色をした瞳。風になびく漆黒の髪は腰ほどまでもある。服装は上下ともに黒で統一され、腰に一振りの剣を佩いている。人が見れば『甘い顔をしている』と評されるであろう容貌、しかしそれはどこか酷薄そうな表情を浮かべていた。
 脳裏に人影がよぎる。やわらかな色の髪をなびかせ、その真白な腕で宙をかいて舞う姿。ずっとその映像を浮かべていたい。今すぐにでも掻き消してしまいたい。矛盾する感情が入り乱れる。
 目を隠すように両手を顔にあてて、夜空を見上げる。もちろん手で塞がれ空を見ることはできないが、何があるかなど容易に思い浮かべることができた。ただ眼裏に焼きついた人影が一向に消えてくれない。

 誰よりも大切、何をしてでも守りたい。
(どんなことをしてでも壊してやりたい)
 誰よりも、何よりも愛しい。
(どれほど憎んでも、憎み足りない)

 いとしい。
 にくい。

(憎い)

 彼は両手を空に伸ばす。届かないものを求めて。

「待ってろよ…捕まえて、滅茶苦茶にしてやる…………………リィア」
 まるで呪詛のように―――実際そうであるのかもしれないが―――、けれども最後の言葉は滲み出る愛しさが拭えない。


 愛しさは、憎しみへ。しかしその中でもどうしてもなくならない愛しさがある。
 彼はそれに、気づいていない。



         *

 リザイア神の力の及ぶ地域を、一般的に『リザイアの範囲内』と言う。アデューク神の場合は『アデュークの範囲内』。この世界はそうして分けられている。『リザイアの範囲内』での基本的な特徴は森が多いこと、広範囲での農耕に向いていないこと、そして魔族が多く住んでいること。『アデュークの範囲内』の場合は平地が広いこと、広範囲での農耕に適していること、人間が多く住んでいること。うまい具合に逆なのである。そしてニフはもちろん、リザイアの範囲内に存在している。
 夜、月の晩。砦の外にリズ達はいた。
(…きもちいい)
 顔に当たる風が心地良いのは空気が綺麗だとかそれだけではない。
 自分に合っているのだ、この場所が。薄暗い森、湿った空気、そこかしこにある魔族と生い茂る木々の気配。
 そもそもなぜここ、砦の外にリズ・ガシキ・リリュンがいるのか、そしてなぜハルがいないのか。その答えは簡単だ。
 ハルが、いなくなったのである。
 今朝砦に向かう時に、彼は一人自らの足で走ることを選んだ。なるほどハルに魔力はないが、常人離れした身体能力が有り余っていた。地竜と同等かそれ以上の速さで走ることができたのだ。これでなぜ以前リズが追いかけていくことができたのかは随分謎ではあるが。
 速いのはいい。その後が問題だったのだ。
 感心する皆をよそに、調子づいたハルは走りに走った。しかし彼は砦の場所を知らなかった。そうしてなるものは得てして決まっている―――迷子だ。
 地竜に乗っているにもかかわらず置いて行かれた形となった四人。仕方がないので一応砦まで言ってみたが、もちろんハルはいない。これはもう探すしかない。森の中であるから、大型の地竜は邪魔。よって徒歩。リズも大きな荷物は置いてきた。砦にいた人たちも探してくれるとの申し出を受けたが、見知らぬ人間にハルが付いて行きそうにないと思われたので丁寧に断った。ちなみにミカヤは別方向を探してくれている。土地に不慣れな者が離れるのはよくないから、だそうだ。
 そうして探し回り、今に至る。一向にハルは見つからないまま夜になった。
「おーい、坊ぅー、いたら返事しろー」
 もう何度呼んだかわからない言葉を繰り返す。
 呼ぶたびに自分の声が木霊するだけだった。ガシキは目を凝らして闇を見つめ、リリュンは控えめにハルを呼びながら歩いている。
 今度も何の反応もないだろうと高をくくっていたが、意外にも予想は外れた。
「……何か、聞こえるぞ」
 ガシキの呟くような言葉に、リズとリリュンは耳を澄ませる。
 そうすると確かに声が聞こえる。かすかであるが、怒っているような雰囲気。
 間違いないと確信し、リズはひとつ深呼吸をする。
「―――おーい、坊ッ! いるんだったら返事しろッ!!」
 叫んだ。
 多分今までで一番大きな声であっただろう。
 すると思ったとおり、向こう側から「坊って呼ぶんじゃねぇ―――ッ!!」との抗議が聞こえてくる。
 元気そうだ。それに一同は顔を見合わせほっとする。
 あれだけ威勢よく叫べれば何も問題はないだろう。きっとただ怒っているだけに違いない。
 合流しよう、と声のした方向へ歩を進める。聞こえ具合の感じからしてすぐに合流できるだろう。
 視界に白が入ってきて、先頭を行くリズが歩を早める。後方とは随分距離ができてしまったが、そんなに問題になるほどのものでもない。
「あー、やっと見つけたよ。ホントどこ行ってたのさ、キミは」
「うるせーよ」
 軽口を叩きながら近寄る。お互いほっとして、足元など見ていない。
 それがまずかった。
 あと数歩で相手を殴れる距離といったところで、地面がなくなった。
「え?」
「あ!?」
 両名、驚きの声をあげてガシキとリリュンの視界から消えてしまった。
 目を見開く二人をよそに、リズとハルの呻き声が聞こえた。少ししてからリズが「お二人さん、穴があるから気をつけてー!」と言ったので、どうやら無事であるらしい。


 リズとハルが落ちたのは、岩室。ヒヤリとした空気が体を包む。
 一体どこまできていたのかと思えば、随分奥深いところまで来ていたらしい。リズは舌打ちをしたい気分になった。
 ここは“主”の岩室だ。気配と空気でわかる。
 そして、その気配はこちらに近づいてきている。
「っつー。てか寒いぞ、ここ」
 落ちたときに尻を打ったらしい。痛そうに尻をさすりながらハルはぼやく。
 確かに寒い。地上もそこそこに寒くはあったがここほどではない。
 だがリズは特にそれを気にすることもなく、じっと奥を見つめる。やがてそこから白いぼんやりとした光がやってくる。
 ハルも遅ばせながらもそれに気づいて身構える。
(―――主)
 以前に会ってからどれほど時がたっているのだろうか。ぼんやりと考える。だがそんなこと思い出したところで何の役にも立たない。
 ちらりと横を向けば、息を呑んで紫の瞳をこれでもかと言うほどに見開いているハル。
 なぜそんなに驚いているのかとも思ったが、この“主”の特性を考えれば当たり前のことだとわかる。
 見る者によって、その姿の見え方が変わる。それがここの“主”だ。今リズが見ている彼女の姿と、ハルが見ている彼女の姿は違うカタチだ。同じ存在を見ているのにその映り方は違う。なんとも奇妙で不思議な存在であると、リズは常々思う。ハルの目にはどのように彼女は映っているのだろうか。気になることではある。
「…お久しぶり、ユキシロ」
 にこりと笑みを浮かべる。しかし“主”―――ユキシロは疑問に思ったのだろう。戸惑いに気配が揺らぐ。
 一方でハルが「知り合いなのか!?」と眉をしかめて問いかけてくる。しかも今にも襟首をつかんでがくがくと振り回されそうな雰囲気だ。実際、すでに彼の手は襟首にかけられている。
「彼女はこの島の“主”だよ」
 どうどう、となだめるように手をあてながら答えてやる。しかしその動作が子ども扱いだと思ったのだろう、先ほどとは違った意味合いで眉が寄せられている。
 何か文句を言おうとしたハルであったが、体を包む空気が一段と冷たくなったことにはっとする。
 ゆっくりと近づいてくる冷気。ユキシロだ。
「あなた…は……?」
 まさに美声と呼ぶに相応しい声音であった。耳に心地よく響く、安らぎを与えるような声だ。
 リズはそれに懐かしさを覚えると同時に、やはりこの状態ではわからないかと苦笑を漏らす。
 知らせねばと思う。この島の中でなら、魔力を放出したところでそう目立ちはしない。むしろこの島そのものの気配に覆い隠され、紛れてわからなくなるのだ。場所の特定などできない。どうせこの島にいることはばれているハズなのだから、その中で何をしたところで別段目立つこともない。
 だから大丈夫。
「あー、ボクは「俺様はこの世で一番知られている超ニンキボーイ、ハル様だ―――ッ!!!」
 何かを喋ろうとしたリズのセリフは、キラキラと輝くハルによって遮られた。
 妙な沈黙があたりを支配する。しかしハルはそれに気づく様子は欠片も、ない。
 『あなたは』と問われて、彼の目立ちたい精神が刺激されたらしかった。ユキシロは反応に困ってしまっている。
 リズはこめかみに青筋を浮かべて、ハルの耳を思い切り引っ張りつねる。
「うあ゛―――ッ、痛い痛い痛い!!」
「人がしゃべろうとしたとこを遮るなんて、イイ度胸じゃんか、この馬鹿坊がっ」
「坊って呼ぶんじゃねぇ、この餓鬼がぁッ!」
 この不毛な言い争いに嫌気がさして、リズが先にやめる。ハルを地面に叩きつける、という形をとって。
 大きくため息をつく。せっかくシリアスだったのが台無しだ。
「……はぁ。ごめんね、騒がしくて」
 そう言いながら、気分を落ち着かせる。
 ちゃんとここで自分の存在を明かしておかねばと思う。そうせねば、彼女はただただ戸惑いを抱えるだけだ。戸惑いという名を冠した、恐怖そのものに。
 きっと気づいているはずだから。あの、太陽の存在に。
 リズはそこまで考えて、目を一度伏せる。するとどうだろうか。今までのふざけた雰囲気などまるでなかったかのように、がらりとその纏う空気を変貌させた。
 すっと瞼が開かれたとき、その瞳は藍色であった。否、実際瞳は茶色のままではるのに、印象だけが藍色となったのだ。漏れ出る魔力がそうさせていた。
 さすがにハルでもリズの変化は感じることができた。その場に流れる魔力のニオイ。どこか安心する、懐かしさと暖かさのある夜のにおいだ。理屈もなにもなしに、印象として浮かぶのは『夜』と『月』。
 なぜリズからそんなモノが流れてくるのか、ハルには不思議で仕方がなかった。
 ユキシロも驚いたようだった。それと同時に、何か納得もしている。
「思い出してくれた?」
 やわらかい笑みを作って、この島の“主”を見やった。