そう広くはない廊下を歩くハルの足取りは速い。それにつられリリュンは自然と引き摺られる形になった。何とかして追い付こうと小走りになってはみるが、きっと無理な話で。
 部屋のすぐ傍、階段降り口付近に差しかかった時、急にハルは立ち止まった。
「………重い」
「え?」
 一瞬何を言われたのか聞き取れず、リリュンはハルの表情をやや後方から伺おうとするが、ハルのその褐色の肌の色とは対称的な、雪の様に白い前髪が彼の表情を隠していた。
「…んだよ、てめぇ」
 そう言いながらハルは急にこちらを振り返り、目を細めてリリュンに睨むような視線を送る。私が一体どうしたのだろうか? 結局分からず、思考が停止する。射るような視線が痛い。
「離せよ」
「? …あ」 そう言われて初めて、自分がやけに身長に合っていない彼の上着の、手が出ない程に長いその袖の部分だけをずっと握り締めていたことに気が付き、慌ててその手を離した。
「ッご、ごめん、」
 その後に“なさい”と続けようとしたが、言い終える前に彼は階段を飛び下りていったらしく、気付けはその少年の姿は彼女の前から消えていた。それ程高くないとはいえ、それなりに高いのに、まるでためらう様子はなかった。走り去る足音だけが階下から響いてくる。
 だが、心なしか「離せよ」と言われた時に、少し不機嫌そうないつものハルの表情に加え、少しためらっている、というか何というか。不思議な空気があったような気がしたのは気のせいだろうか。
「……気のせい、かな」
 実際に握ったのは手ではなく袖だったとしても、それを嫌がる人はいるらしい。
 リリュンにとっては少し嬉しくさえあったので、この発見は少し彼女を寂しくさせた。
 少しの間そのままぼんやりとしていたが、階下から「早く―――!!」とリズの呼ぶ声がして、リリュンは急いで急な会談を駆け下りて行った。


「遅いよ―――。キミはともかく、坊はもうちょっと早く来れない? 窓飛び下りるとかしてさあ」
「うるせぇよ」
「まぁまぁ二人共、いいじゃないですか。ケンカするにも何も、まずは食事が先ですよ。えーと…それからガシキさん。明日の行程の事もあるので今日行く所ではあまり呑まないでおいて頂けますか? 砦の方には既に使いを出しておきましたので」
 解った、と言うかわりに、ガシキは静かに視線だけで返事をした。ミカヤの表情はリズ、ハル、ガシキと森の中で出会った直後よりは大分なじんだらしく、柔らかいものになってる。
 何かと胃を抑えている所を目にする時が多かったので、リリュンは安心した。
「それでは行きましょうか」



 初めて互いの存在を知ったのはいつだったか。
 時の中に埋もれたそれは、遠い日の出来事だった。



 深い森の中の一角に、クレーターにも似た岩室があった。島の中でも割と高地に位置するその場所にそんな巨大な穴ができているのは、おそらく地中深くを流れていた地下水や雨水が周囲の岩盤を長い長い時をかけて浸食し、上の地層を陥没させた為である。
 いつしかその穴の上にも木々の根や葉が中央部分を円の様に残して覆うように生えて天井を造った。天井の穴から陽と月の光が射し込んでくる。
 それもまた、太古の話である。
 そんな、島の住人ですら立ち入る事の無い静かな穴の中に、周囲を凍てつかせる白い冷気を放ちながら、氷塊を背にして、ゆっくりと流れる時の中にその身を浸すように目を閉じて、“彼女”は、そこにいた。
 彼女は、この森の事ならどんな事であろうと、その身に起こった事として感じる事ができた。そして今も、その冷気の向こう側に誰かの存在を感じる。魔族たちでは、ない。
 こんな所に一人で来る人間を、彼女はたった一人しか知らない。
「今宵も良い月だな、ユキシロよ」
 ユキシロと呼ばれた彼女は、その閉じた瞳をゆっくりと開け、金色の瞳を“彼”に向ける。
「この目は見えなくとも、星の光は感じますわ。…今日も、呑みに来たのですね」
 砦の者達はどうにも酒には弱くてな、と言いながら、彼――ガルドルはその姿を現した。遥か昔に彼女の目は光を失い、彼女はガルドルの顔すら知らなかったが、気配だけで十分だった。
 長い付き合いだった。彼がわざわざ白弦期に、一人でここに来るなんて事は。
「…何か、あったんですか」
「…矢張り、お主には隠せぬか…。島の外の者の存在を感じるのだ。そのうち一人には会ったが、少々変わった娘でな。その他にもミカヤのよこした使いはあと」
「三人、ですね」  ――夕方、だったか。彼女が不思議としか言いようのない異変を感じたのは。
「さすがだな」
「その少女も含めて、ですが、彼等に邪気は感じられませんわ。大丈夫です。ただ――」
「ただ?」
「そのうちの一人が、何故だかとても懐かしいような、そんな気がするのです。4人とも他の旅人とは全く異なる気を放っていますが、そんな事よりも」
「まだ、あるのか?」
 声を低めてガルドルが尋いてくる。ここから先は、自分しか感じていない事のようだった。
「ガルドル、今は確かに夜、なのだすか?」 それだけは、確認しておきたかった。
「何を…一体どうしたのだ、ユキシロ」
 ユキシロの身体は寒くもないのに震え、止めようとしても上手くいかない。ガルドルにはこの島の“主”である、名前の通りに真っ白な彼女から、先ほどよりも強い冷気が放たれているのを感じた。
 それは周囲にあるものを次第に凍てつかせていった。腰に下げた水筒の中の酒も、凍って音を立てる。
 ――目が見えなくなってから、こんな事は…初めてです…
 人間の言葉にならない震える声で、彼女は言う。その瞳は、伏せられていた。
「何処からか…昼夜を問わず…強い陽の光を感じるのです…昼はまるで太陽が二つあるようで…夜は月が出ているのに、太陽もあるような、そんな気がするのです…」
「ユキシロ…」「私は…自分の感覚が来るってしまったとしか、思えないのです」
 たとえこの島の“主”と対の存在であり、感覚を同じくする“頭”でも、所詮は一介の人間だった。彼には島の外の事までははっきりとは掴めないのだった。この島の魔族の長たる彼女とは違う。
 ――頭になり…ユキシロと出会って…長い時が経った…
 幾度となく、この島を襲おうとする国や、魔族の群れとは、力を合わせて戦った。
 森に火を放たれた事もあって、その度に多くの犠牲を払いながらも火が燃え広がるのを防いだ。
 魔族達には治せない病気は砦の者達が治し、人知を超えた魔族達の力は自然災害を予知した。

 互いに、支え合ってきたのだ。
 ――なのに、対であるべき自分が、こんなにも彼女の事を支えたいと思っているのに。
 彼には、彼女にかけるべき言葉が見付からなかった。
 種族の違いを超えた関係であっても、長い時を共に過ごす事ができても、どれだけ近くにいても。
 種族が違う事だけは、どうしようもなかった。

 ……儂は

「…もう、私の主としての役目はきっと、終わりに近付いているのですわ」
 島を統べる“主”としての力が衰えた者は、その役目を終えて土に還る。
 それを決めるのは、島の意志だった。

「次の白子が山の頂より生まれた時に、私は」
 最後まで聞きたくない。
 ガルドルはその拳を爪が食い込む程に握り締め、深くその頭を垂れた。
 彼女は一体、これまでに何人の“頭”を見送ってきたのだろうか。
 人間である自分はきっと耐え切れないに違いない。彼女は違うのだろうか。魔族だから。
 ―――もう慣れた事、として。いつかは自分の前からいなくなる存在だから。
 いや違う。ガルドルの中で何かが強く頭を振った。
 どれだけ長い時を生きてもなお、彼女は先代との別れを嘆いていた。その時になって初めてまだ若かった頃のガルドルは、ユキシロが万能な神ではない事を知ったのだ。
 どれだけユキシロがこの島に生きるものすべてを愛していたとしても、この島の木以外は、皆彼女の前から去ってしまうのだった。――誰かの死、という形で。魔族であろうと、人であろうと同じだった。
 周囲の魔族に心配をかけたくないから、一人きりになれる白弦期の夜にこの岩室の中で、いつも静かに自分を残して逝ってしまった者達に思いを馳せた。そして、今。

 ――今度は、儂を残して逝ってしまうのか?

 ガルドルは静かに手を伸ばし、そっとユキシロに触れ、自分の頬を彼女に寄せた。
 その冷たさは、数十年前と何一つ変わっていない。
 肌に感じるものが寒さから痛みに変わっても、頭は主の傍を離れなかった。
 ガルドルもまた、静かにその目を伏せた。

 あまりの冷気に頭上の葉が凍り付き、白い霜を纏って降り注ぐ。
 ユキシロは見えない目でそれを見た。



 実際の所、300年前の魔族の襲来時にその目に毒矢を受けて、彼女の両目の光は永遠に失われてはいたし、それからというもの主としての力が少しずつ衰えてきたのは確かだが、彼女の役目が終わるのはまだ先だろうと、彼女自身そう思っていた。
 ユキシロが恐れたのは、この頃ずっと目の見えない彼女が感じた、強い陽の光の方である。日に日に強くなっていくそれは、いつも地上を照らし出していた太陽の光とは違う。
 同じものだが、生きているような、そんな気がするのだ。
 その光に身をさらしていると、身体が炎に巻かれ焦がれているような光景を彼女に想起させた。
 あまりに非現実的なので、ついに自分の主としての能力を失ったと思ったのだ。

 見えない瞳を閉じると、黒衣の青年が見えたような気がした。これで何度目だろう。
 ――こんな幻に惑わされたくない。
 ユキシロは、今はもう現実の事だけを考えていようと思った。

 氷の粒子が舞った。



 ―――この子、肌の色白いなぁ…
 リリュンは、テーブルについて思い思いに呑み食いしている3人をかわるがわる見ていた。一人で森をさ迷っていた昨日に、今日の自分を想像する事はできただろうか、と考えてみる。
 ――不思議な商人の子供の、リズ君。髪が白くて人込みが嫌いでアデューク?に行くつもりだったらしい、よくリズ君と騒いで遊んでいたりするハル君。さっきからずっと呑んでるのに、若い人達みたいにすぐには酔っていない、かなり静かなガシキさん。(別名、おにぃさん。)説明好きで胃が弱い晃月団のミカヤさん。
 よく考えてみれば、ハルはリズと遊んでいたのではなくつっかかっていた、様な気もするが。
 そういえばリズの言っていた「リザイアの恵みはいらんかね?」のリザイアとはなんだろう。“恵む”からには人の名前のような気もするが。ハルの「アデューク大陸」にしても同じだった。大陸と付く所で地名な事は確実だったが、それがどこにあるかまでは見当もつかなかった。遠いのか近いのか。大きいのだろうか。この島よりも? ディスポリス? ティカ? 砦の森? 砦とはここの砦とはどう違うのか。
 ――さっき、去勢…って言ってたなぁ…
 ちらりとリズに視線を送る。その時リズはハルの深酒を止めようと悪戦苦闘していた。
 原因を作ったのはミカヤである。もとはといえば、この一言だった。
『あまりにも成分がキツいので、大人はまあ意識を保っていられる程度に控えられるならそのままで、子供だったら8倍で薄めても二日酔い確実なので、祝い事の時以外は深酒禁止って事になってるんですよ』
 そんな彼はテーブルに突っ伏して酔って眠ってしまっている。眠る寸前にリズはここのお代ってどうなってるのさ、と確認をするのを忘れなかった。ろれつの回らない舌で今日はタダでぇす、と彼は答え、そして…本格的に眠ってしまった。それも30分前の話だ。
 “子供”という言葉を聞くだけでも嫌なのだろうか…
 リズが止めるのも聞かずハルはひたすらに呑み続けている。
 その視線の先にあるのは、思案に耽っているのか一人静かに、だがハイペースで呑むガシキ。
「坊〜、もう止めなって」
 だがハルは止める様子がない。ボク知らないよ吐いても、と言ったリズはリリュンの視線に気付く。
「どうしたの〜?」
「あ…ううん…何でもない…明日は砦の方に行くってミカヤさん言ってたのに、大丈夫かなぁって思って。それだけ」
 ――本当に、それだけ、だったろうか。
 ――リズ君が、去勢された事。
 この子は、この事でどれだけ辛い思いをしたんだろう。
 だが、実際にそんな事を聞ける訳がなかった。他人の傷においそれと踏み込んではいけない。
 ――過去に
 ――何も無いから、余計に知りたくなるのかもしれない。
 自分に語れる事など。私を構成するべきものは無いというのに。なのに、自分はこの子に。
「…二人とも、仲良しさんだなぁって思って」
 結局、口に出たのはそれだけだった。――辛い? なんて、誰が聞けるだろうか。
「……まぁね。坊はこんなだけど」 そう言ってリズはハルを指さす。
 一瞬間があったような気がしたのは気のせいだろうか。と、そこに店のおばさんがやって来た。
「んまッ!! まぁたこの人こんなに酔いつぶれてッ!! あんた胃が弱いって言ってたじゃないのかい! ……まーったくしょうがないねぇ…すいませんねぇ旅人さん。この人話長くてハメは外すけど、まあこの島一のガイドだからさ、許してやって頂戴」
 大声で話しながらその店のおばさんはテーブルの上の余計な皿を下げた。
「あらやだ!! この子水で割らないで呑んでんじゃない!!」
「あ」 リズとガシキとリリュンは同時にハルを見た。
 何だか、嫌な予感が。


 長い夜になりそうな、そんな気がした。