太陽が落ちて、星が輝き始める。あと一刻もたてば見事な月が浮かぶだろう。ふわりと風に混じってかおる匂いは、潮のそれ。
 人がやってくる気配を感じながら、リズは手際よく服を着る。コートは生乾きだがこの際気にしない。先ほどまでは夕陽と闇に紛れて肌の色など気付かれもしなかったが、ニフの人間は妙に夜目がきいたり聡い者が多い。下手にこの死人の様な肌の色を見られては後々面倒だ。
 まだ本調子じゃない。いまだに体は微かに震えているし、思うように力を操れていない。肌の色をどうにかできていないのがいい証拠。
(とうとう、期限切れか…)
 壊れてしまった封印。人間から見れば途方も無い時間であったが、自分達にしてみればそこまで長い期間でもない、だが決して短いとは決して言えない束縛の時間を“彼”に与えた。それを与えたのは他ならぬ自分。そうしてしまう状況を作ったのは“彼”であったが、その彼が行動するまでに至った原因は自分にもあった。
 封じられた、と言う様な他人事ではない。封じたのは自分。罪を起こした、ではなく罪と呼ばれるその行動を引き起こさせてしまったいくらかの原因も、他ならぬ自分にあった。最初の期限はすぐに近付いてきた時、怖くて仕方が無くて、無理矢理引き伸ばした。その引き伸ばした時間も、とうとう終わった。
 まだ、怖い。怖くて怖くてどうしようもない。あの男の気配を感じただけで、取り乱した。力―――さすがに少し、ではったが―――を暴走させて、いまだに制御しきれていない。
 真っ白な手、まるで血の通わない人形か死体そのものかのような手に、仕上げとばかりに皮手袋をキュッと嵌める。大丈夫、なんとかなる、そう思い込もうとした。
 そもそも、だいたいなんでよりによってこの島に流されたのかを考える。少し思考するだけでも答えはでるのだが、今の今まで無理矢理意識を背けていた。
 明らかに人為的。明らかに故意。しかもそれを出来る人物を悲しいかな、リズは嫌というほど知っていた。
「さーて、二人とも服着たほうがいいよ? なんかお迎えきちゃったしネ!」
 荷物を背負い込んで、火にあたっているハルとガシキに声をかけた。心の中は悔しさでいっぱいだが、こうなったら仕方がないと諦めよう。
 ハルがなんで、と言う顔をしていたから川上の方向を指を指す。その間にもガシキはしっかり身支度を整えていた。
 少し目を凝らせば、地竜に乗った人影が見えた。二頭の、細身の地竜がこちらに向かって走ってきていた。
 地竜はさくさくと静かに音を立てながら軽快に走ってきて、リズ達の横で止まった。一匹は上手い具合に止まったが、後方を走っていたもう一頭は十メートルほど先までいってようやく停止していた。どうやら乗り手があまり慣れていないようだ。そして地竜は静かに走っていたとは言っても『走っていた』事に変わりは無い。不運なことに、ハルは巻き上げられた砂を顔面に喰らっていたのだ。「ぶッ」と言う声が聞こえたような気もしたが、リズもガシキも、果ては地竜に乗っていた人物さえも見て見ぬふり、気付いていて気付かぬフリをした。
「……よ、ようこそ客人、わたくしはミカヤと申します」
 近くに止まった地竜に乗っていた男が、どうにかして笑顔を浮かべる。微かに引きつっていて、どうにも無理しているようにしか見えない。まだ歳若いと思われるニフの青年は、苦労性なのではと思わせる雰囲気があった。
「こんにちは。客人のガイド、ご苦労様」
 取り敢えず、リズもにこやかに返す。もうハルは無視。ガシキがやや心配そうに見てはいるものの、結局無口な彼は見ているだけだった。
 せっせとハルが砂を落としていると、先ほど遠くで停止した地竜がミカヤの隣についた。乗っていたのは一人の少女。黒い髪に、白濁した色と夜色の変わった組み合わせの瞳をしている。邪気のない表情で、一般的に綺麗と称される顔立ちだがどちらかと言うと可愛らしく見えた。見た感じ年の頃十七、八ほど。だがなによりもリズが気にかかったのは、その気配。
 人間じゃない、とかそう言った種族による気配ではない。あえて言うならそれは『何者でもない気配』。否応無く違和感を醸し出す、妙な存在。人間にはわからぬであろうその違和感。ハルも気付いているだろうか。
「ボクはリズ。商人だよ」
 にっこり笑って「リザイアの恵みはいらんかね?」と続けると、少女は意味が判らないのかきょとんとしていた。なぜこれほど満ち溢れた商人の常套文句を知らないのかは相当謎だが、基本的に善良な子のようである。
 後方でハルが地竜に向かって文句を叫んでいたが、リズに拳によって撃沈された。ミカヤの腹(特に胃の辺り)をさすっているような光景を視界に納めたが、やはりこれも気にしないことにした。


         *


 結局ニフの習わしにならい、ミカヤにくっついていくことになった。この土地の地竜は賢く、笛を吹くとどこからともなくやってきたのだ。一体どうやって躾けたのか。
 例の不思議な少女はこちらが自己紹介をすると、躊躇いがちにリリュンと名乗った。妙な間があったのが気にかかる。
 ハルが中々機嫌を直そうとしないので、仕方なくリズは「これはハルって言う名前でね、坊って呼んでるんだ」と紹介しておいた。(もちろん、彼はひどく怒ったが。)
 港町に付いた頃はすでに夜。とりあえずは宿を取り休むこととなった。ミカヤの説明によると、昨晩は砦の者の多くが件の“歓迎会”で酔いつぶれたそうだ。
 酒、と聞いたガシキが興味津々でミカヤと話していた。彼にしては珍しく饒舌。なんとなく隣で聞いていたハルは、アル中め…と呟くのを忘れない。
「それにしても、あなた方は一体どういったいきさつでここに?」
 ミカヤの発したごくごく自然な疑問。リリュンも不思議そうに見つめてくる。
 だがそれを尋ねられたリズ、ハル、ガシキの三人は顔を見合わせてなんとも言えない微妙な顔をする。
「…ん、まぁ簡潔に言うと、成り行き三人組が船の難破にあって流れ着いた…って感じ?」
「あー、色々抜けてる気もすんけど、そんなだろ」
「……結構省かれてるが、な」
 嘘は言っていない。省略されてしまったところは多い。しかしそれを説明するのはどうにも面倒そうだった。
 少なくともリズはそう思った。やりたいこと、少し知らねばならないことがあったのも理由だ。
 今は分からない事が多い。確かめたい事がある。そして、それはこれから自分がどうするか、という事にひどく重要な事だった。だからハルとガシキには悪いが、ここは少し抜けさせてもらう事にする。
「詳しい説明は残り二名に頼んだ」
 すちゃ、と効果音がつきそうな動作をすると、リズは肩掛け鞄だけを持って部屋を出ようとした。
 だが勿論そんなことを言われてハイそうですか、と何も聞かずにはだしてくれないらしい。戸惑うガシキの顔に、ハルの逃げるなよオーラ。そして訝しげに細められたミカヤの目。状況が把握しきれていないのは、変わった瞳の少女。
「どちらにいかれるのですか?」
 行き先を言わねばならないらしい、とリズは諦めにも似た笑みを浮かべる。
「ちょーっとお出かけしてくるよ。安心して、別に密猟とかそーゆー悪い事するわけじゃないから。明日の朝には絶対戻ってくるから、安心して待っててネ」
 返事を待たずに扉を抜け出る。
 数瞬音が消えたが、すぐに背後から話し声が聞こえてきたことに安心して外へ向かった。


 リズの去った部屋で、残された四人は数瞬呆然とした。
 妙な沈黙が横たわる。
 長いような短いその時間を打ち破ったのは、胃の弱そうな青年ことミカヤであった。
「…あの商人の方は、一体何者なのでしょうか」
 部屋の扉を見つめながらの呟きだった。
 それを聞いた、リズの連れ―――と言うことになっている―――ハルとガシキは顔を見合わせて首をひねる。
「変な餓鬼じゃん、どう見ても。っつーかメチャクチャ怪しい商人だろ、アレ」
「……確かに、変わってはいるが…」
 どうにもこうにも返答に困る。自分達もついこの間出会ったばかり。しかも考えれば考えるほどリズは大して自分の事を話していなかったようにも思う。三人が三人とも、お互いの事を詮索しない上に自分の事も話そうとしなかったのだから、当たり前と言えば当たり前の事だった。それを考えたら、リズはまだ自身のことを話していたほうかもしれなかった。
 変な餓鬼、としか形容できないハルにフォローをいれようとしたガシキだったが、結局のところなにも言う事がなかった。
「あー、なんか砦の森で育ったとか、去勢されてるとかは言ってたけどよ」
 思い出した、といった風に軽く口にする。重さがあると、つい軽口になってしまう。むしろそうでもしなければ怖い話題だった。
 ピクリ、と反応したのは初耳のミカヤとリリュン。
 何の前置きもなしにこの手の単語がでてくれば普通の反応であろう。
「きょ、去勢って、あの、その」
 わたわたと慌てた様子のリリュンは、どこか幼さを感じさせる。頭ではわかっていても、うまく受け入れられないのかもしれなかった。
 彼女の肩を軽く叩いてガシキは落ち着くように諭す。最終的にリリュンは「うぅ〜」と言って頭を抱えてしまったが。
 一方ミカヤは手を顎にあてて何か考える仕種をしている。なにやってんだコイツ、とハルは冷めた目でじぃっと見つめてみるものの、反応はない。どうも今日は人に無視される日らしい。不幸とは重なるものだというのは、一体どこのだれが言い出したのか。当たりすぎていて気持ち悪い、と白髪の少年は思った。
「ミカヤさん、どうかされましたか」
 ガシキが静かに問いかけると、ミカヤは少し慌てた様子で手をひらひらと振って見せた。
「いや、その、古い文献を思い出しまして。それに太陽の大陸のある国が、攻め込んだ国の男を、まぁなんて言うか、去勢、して、月の大陸の近しい森に流した…と言うのがあったのですよ」
 太陽の大陸、つまりはアデューク大陸。月の大陸、それはリザイア大陸を指す。そしてアデューク大陸に最も近いリザイア大陸の森と言えば、それは砦の森。
 そう、途切れ途切れではあるが、丁寧にミカヤは説明をした。なるほど、と納得しているのはガシキで、つまらなそうにしているハル。リリュンと言えばやはり何かが分かっていないらしく、疑問符を大量生産していた。
「ってかだからなんだっての、それが」
 もどかしい台詞に辟易としたハルが結論を求めて目を細めている。生来気が短いらしく、胡坐をかいた足を上下小刻みに揺らしていた。
 そう言われて、ミカヤは一層戸惑ったような顔を浮かべて頬を掻く。
 話したところでどうともならないかもしれない。下手をすれば客人の機嫌を損ねるのではとも考えた。
 しかし、彼は誘惑にかてなかった。
 ――――――――――説明、したい。
 彼は、几帳面で真面目で、そして説明が好きなのであった。
「あー、その攻め込んだ国って言うのが今で言うディスポリスで、攻め込まれた国がティカ、なんですけど」
「それが何か関係あんのかよ」
「…最後まで聞いてください」
 別段珍しいことではない、と口を挟まれミカヤは眉根を寄せる。
 ディスポリスは典型的な軍神アデューク崇拝の軍事国家。アデュークはリザイアが魔法を司るのとは逆に、武を司る。だから戦争を好む国は自然、アデュークを祀る。一方ティカはアデューク大陸にありながらも、リザイアを信仰する変わった国だ。そんな国をディスポリスが排斥しようと攻め込むのはなんら不思議ではない。今だって小さな諍いは起きているのだから。
「………まぁとにかく、ですね。ディスポリスが実際にそうしていたらしいのはいいですが、それをしていたのは、今からもう何百年も前までのことなんです」
 今はもう、やっていないのです。
 そう最後に付け加えた。
 別に、リズはティカの出身だとは言っていない。
 だが去勢、砦の森。この二つのことからミカヤはその『古い文献』を思い出したのだ。
「彼は見るからに十代ですから、別に関係はないのですが」
 ははは、と彼は笑った。
 ハルが何かにひっかかりを覚える。だがそれを思い出す事が出来ない。
 誰かに聞いてみたいが、ガシキとミカヤで二人は既に別の話題を持ち出していた。リリュンはとっくのとうに話題を把握しきれていなかったらしく、未だに疑問符を処理できずに混乱真っ只中。
 イライラする。
 なにかが引っかかる。でもわからない。だから、訳も分からないのに余計に腹が立ってくる。
 と、その時。
「?」
 ぽんぽん、と頭を軽く叩かれている。まるでそれは子供をあやしているかのよう。
 思わず顔を上げると、そこにはニコニコを笑顔を浮かべる、つい先ほどまで頭を抱えていた少女、リリュン。
「………なんだよ」
 子ども扱いにむっとして、声を低めた。
 しかしリリュンはそれに気にした風もなくにこやかに笑顔を浮かべ続けて、こうおっしゃった。
「元気だして、坊くん」
「―――――ッ」

 直後に、ハルの絶叫(『坊って呼ぶな』)が近所迷惑なぐらいに響き渡った。
 勿論リリュンには、一欠けらの悪意も、ない。






 一方、ハルが叫んでいるなど露知らないリズは、人気の無い海岸まで来ていた。
 件の少年ではないが、イライラとした様子を隠しもせずに海を睨んでいる。
 一度大きく息を吸って、
「―――セリブ! さっさと出て来い!!」
 怒気を孕んだ声で、沖に向かって叫んだ。
 すると柔らかな潮の香りが漂い、やがてその中心に一人の青年が現れる。
 どこか甘い雰囲気の顔立ちで、しかしながら体格はしっかりしている。ゆったりとした衣を纏い、たくさんの小さな色とりどりの玉をあしらった飾り紐を腰にいくつも巻きつけ、手足には金色の華奢な腕輪をいくつもつけている。柔らかな淡い水色をした髪をふわふわと潮風に漂わせて、碧の瞳は真っ直ぐにリズを見つめていた。
 創物神リザイアの副神、海神セリブ。
「はーいはい、お呼びですかーぁー?」
 いかにもわざとらしい間の抜けた声で彼はだらだらと喋った。
 それがリズの不快感を掻きたてるのは至極当然。手を頭にやって、髪の毛をがしがしと引っ掻き回す。
「…お前、他に言う事があるでしょ」
「んー、あ、助けてあげたんですから、お礼言ってくださいよ。褒めてくれても嬉しいですが」
 さぁ褒めろと言わんばかりに、いけしゃぁしゃぁとセリブは腕を組む。勿論リズはさらに怒りを募らせる。こめかみの血管が浮き出ているように見えるのも、気のせいではなかろう。
「はいはい、よう出来ました。で? わざわざボクたちをこの島に連れてきた理由は? あのリリュンって子のこと、押し付けたでしょ?」
 イライライライラ。足で砂を小刻みに叩きながら矢継ぎ早に言葉を発する。それは形式上問いかけであったが、すでに確認をとるだけのものであった。
 セリブはそんな様子のリズに苦笑をもらし、「やっぱ何でもお見通し?」などと言って頬をかく仕種をする。
 非常に、わざとらしかった。
「お前とボク、一体どれだけ長い付き合いだと思ってるの。それくらいわかる」
「じゃぁきかなきゃいいじゃないですかー」
「…最後まで話をきけ。だいたいね、今ほとんど力を使えないこのボクに、一体なにが出来るってのさ。あと、お前はボクに言いたいことがあるんじゃないのかい?」
 ちらり、と海上に浮かぶセリブを見やる。
 二人の付き合いは決して短いものではない。むしろ長すぎると言っても過言ではない。それほどの仲であるのだから、大抵の考えはお互い読む事が出来た。
 だからこそ、直接本人の口からきかねばならない事がある。
 予想や確信を、本当に信じられるものにするために。言質をとる、そのために。
 すぅ、とセリブの顔からふざけた雰囲気が消えていく。残るのは、人としては整いすぎた神の顔。
 常人であったなら耐え難いような沈黙。しかしリズは何一つ動じることなくただただじっと碧を見つめる。
「やはり誤魔化せません、か」
 リズの視線から逃れるように首を巡らし、月の輝く空を見上げた。
 星の輝きは月光に霞んでしまいいまいちはっきりはしない。中にはかき消されて見えなくなっている星も数多くあるに違いない。
 それはまるで大きな目立つ存在があることによって忘れられてしまう人々に似ていた。
「あの方が、目覚めました」
「それくらいわかる」
 にべもなく言い放つ。眉根は少し寂しげに、悔しげに、そしてどこか切なげに寄せられている。
 茶色の瞳が深い藍色の輝きを灯していた。どこからどう見ても茶色であるはずなのに、セリブにはそう見えた。押さえていても、時折感情の乱れによって滲み出る魔力がそうさせていた。それは魔族、あるいは力のある魔法使いでなければわからぬような些細な変化。
「…まだ、身体は見つけていません。船を壊したあなたの魔力のニオイを嗅ぎ付けて、もうすぐやってくるでしょう」
 もう予想ではなく、確定事項。彼は必ずやってくる。“いつか”という未確定な部分を持ちながらも、外れることの無い予知に他ならない。
 爪を軽く噛みながら、リズは俯く。
 いつか来る事はとうの昔にわかっていたこと。むしろわかりすぎていた事。だが、しかし。
 頭が理解できても、それを受け入れられる心の余裕が、無い。
 どうすればいいか、この言葉だけがぐるぐると頭の中を巡っている。答えはいつも出ない。ずっとずっとそうだった。そうして今も、勿論答えはでない。
 ただ解っているのは『怖い』。それだけだ。
 だが取り敢えず今はセリブに何か応えなくてはならない。その考えだけが今のリズの口から「ありがとう」と搾り出させた。
 そんな様子を見せた海神はまるで自分のことのように切なく表情を歪め、まるで独り言のように呟く。
「あなたは、僕にまで、その口調のままなんですか」
 少し軽い雰囲気をのせた。それはリズの硬くなった感情を柔らかくする。
 自然と足元に向けられていた視線は上へ、セリブへと向けられる。目の色もすっかりただの茶色。大きすぎるような感さえあるその瞳に映るのは、どこまでも続くような海原とそこに浮かぶ海神。
「…この姿で“私”じゃただの女だよ?」
 眉を微妙に寄せて苦笑い。
 それに対応するように、セリブはいつもの調子で軽い笑みを浮かべて「確かに」と言った。
「それじゃぁ、リリュンって子と、とりあえず行動するよ。どうせお前は面倒ごとがいやなだけなんでしょ? ボクはそろそろ戻るよ」
「はぁ、よく僕を理解してくれてるみたいで助かりますよ」
 お互いに顔を見合わせてまた笑った。
 ふわりと風が舞い上がり、柔らかな潮の香りが鼻をつく。
 セリブが海に帰るのだ。この柔らかなかおりはその証。
 去り際に彼は一つ恭しく礼をして、挨拶を交わす。
「―――それでは、海神セリブ、これにて御前を失礼します。どうか無理をなさぬよう願います。よい夢を、リザイア様」
「えぇ、不甲斐なくてすまない。お前も、無理せぬように」
 最後だけは、昔の、本来の口調で返した。
 去り際に見せた、セリブの顔はどこか嬉しげであった。




 すでに気配の失せた海原を、静かに見つめる。
 寄せては返す波の音だけが淡々と響く。空に輝く星も月も優しげに地を照らす。その光は太陽のように目を射るような、暖かさを与えるようなものではない。リズにとって、否、リザイアにとってそれは、確かに己自身。夜の闇は安らぎと力を与える自分の時間。
 いつか、ちゃんと話すことが出来るだろうか。つい最近知り合ったばかりの、それでもなぜか心を許せてしまうような、そんな彼らに、自分の事をちゃんと話せるだろうか。それとも本格的に彼等を巻き込む前に、離れた方がいいのだろうか。
 本当は答えはでているのだ。無難に過ごさせるなら、離れた方がいいに決まっている。
 だがそれでも、心は正直で。彼等と一緒にいたいと思ってしまうのだ。それにもう遅いと、解ってもいる。もうすでにこちらの問題に、彼等を巻き込んでしまっているのだ。
 どんなに後悔するかも知っているのに同じ事を繰り返す。今度こそは、と心のどこかで思ってしまう。
 これはやはり自分の罪だろうか?
「…長い間、ヒトリでいすぎたのかな……」
 そう、長い間、特定の人間と行動を共にしていない。別れが辛いからと、遠ざけてきた。
 結局それでも自分はまた、人を求めてしまったけれど。
 どうせだから楽しもう。そう開き直る事にする。もし彼らが危険な目に遭うのなら、どうにかして守ればいい。
 そうせねばならないのだ。
 始まってしまったから、もう止まれない。ならば我武者羅につき進むだけだ。
「さぁ、皆のとこに帰ろっと」
 新しい子も、見つけたしね。
 そう言って海に背を向ける。
 口調はすでに、リズに戻っていた。