口の中に塩辛いものが入った。ざらざらとした砂の感触。 ここは・・・


 「うっ・・・何処だ・・・ここは…」
 ガシキはゆっくりと目を開けると、濡れて重くなった服を持ち上げるようにして上体を起こす。
腰から下は、まだ海に浸かったままだった。沈んでゆく夕日の紅い光を受けて、やわらかな波が彼の服を優しく
揺らしている。波に反射する太陽の光がちらちらとまぶしい。
 ここは、砂浜だった。
 いや、一寸待て、俺はついさっきまで船に――――そんな彼の目の前に突如
 「おにぃさん大丈夫~~?」・・・リズの顔があった。ガシキの顔を覗き込んでいる。
 「ああ…何とか。・・・そういえばハル君は?」
リズにそう尋ねると、彼は「なぁんか起きないんだよね」と言い、彼のすぐ横を指した。
ハルもまたガシキと同様に倒れていた。ただ意識が無いらしく、ぐっすりしている。
 「・・・大丈夫なのか・・・?」
 「うーん・・・坊はおにぃさんと違ってかなり水飲んでたみたいだからねぇ~
しかも海水だし。吐かせるのに一苦労したよ」
そう言うとリズは何やら手に持った怪しげな黒い塊をヒラヒラさせる。
 「何だい?その虫みたいなのは」 塊といっても少し柔らかいような・・・。
 「あ、コレ?リザイアオオカブトの幼虫。けっこう珍しいんだよコレ。水とか、マズいもの飲んじゃった時とかに使う
ともうバッチリ。黒いのは特に珍しいんだよね。さっきリザイア港で見付けたんだけど・・・おにぃさんどうしたの?」
 ガシキはあまり良いとはいえない事態を想像してしまった。
 「まさか…リズ君…それを・・・・」
 「当ったり――!おにぃさんには一応、さっきの水梨のお礼って事で。」
よりにもよって最高の笑顔で返された。ガシキの嫌な予感は見事に的中。
こんなものを飲んだら、誰のどんな体だって吐き出したくなる。そしてリズは
 「でも坊はねぇ・・・ふふん これで貸しが2つ、と。しかも・・・」 
未だに意識の無いハルの額に手を当ててクスリと笑い、目覚める気配の無い事を確かめると
 「まだ起きないときてる…仕方ない、これも使っちゃうかな」
 リズは肩から下げたカバンの中をあさり始めた。彼の小柄で華奢な体つきと比較すれば大きいカバンもガシキか
ら見れば小さい部類に入る。それでも中には随分色々なものが入っているらしく、大小様々な得体の知れないもの
を手に取っては“これじゃないなぁ”等と言い、そして
 「あ、発見。お次はコレさ」 リズの手には小さな小瓶が握られている。瓶の中の赤い液体はゴポゴポと泡立ち、
熱くはなさそうだが、見るからに“飲みたくない”と相手に思わせる、そんな空気を放っていた。
 「知る人ぞ知るアデュークの気付け薬~!!これは飲み薬じゃなくて目薬なんだ。さぁコレを…」
フタを開けるとプシュと空気の抜ける音がする。さっきよりも、嫌な予感が。
リズはそのまま、ボクも使った事無いんだよねぇ危なそうだし、と言いながらハルの眼前に持っていく。
赤い液体が瓶の中で揺れる。今にもハルの顔にその薬が・・・
ガシキは本能的に止めなくては、と思った。
 「リ…リズ君、止め・・・・」 言い終わるか終えないか。薬がハルの顔にかかるか、かからないか。
その時。
 「俺様を実験材料に使うんじゃねぇ――――ッ!!!」 ・・・突如としてハルは目を覚ました。
彼が本能的に危険を感じ取ったのかどうかは分からないが、素早い動きでその場から飛び退く。
 「なーんだ。起きちゃったの?つまんないなぁ」 本当につまらなさげな声を出したのはリズ。
 「つまんないじゃねぇよッ!大体何だそのヤバげなブツはッ!!」
それよりも10m程離れた所でリズを指差し叫ぶのはすんでの所で逃げ切ったハル。
 「ヤバげなブツとは失礼な。薬だよ薬。やだなぁ坊ってば心配しすぎ」
 「なッ・・・」一応、薬だと知って安心したのも束の間
 「大体ね、早く起きない方が悪い。あ、ソレとキミがボクに作った借りはこれで2つになったから。」
 「はぁッ!?訳分かんねぇよ!!」
 「何ていうか、坊もついてないねぇ」 先程のリザイアオオカブトの幼虫を持った手をヒラヒラと揺らしながらリズは続ける。
 「一匹60リザもするんだよコレ」
 「60ッ!!?てめぇ・・・それを・・まさか・・俺様に・・・」 次に顔色が悪くなるのはハルの方だった。
 「だってそうでもしなきゃ海水飲んで死んでたよ?」
死んでしまっては元も子もない。ハルはちッと舌打ちをし裸足の足で足元の砂を盛大に一蹴りすると、
逃げた所から二人のいる方まで戻ってきた。・・・不機嫌な顔のままで。
 「お、もう逃げないんだね。偉い偉い」 クスクスと笑いながらリズは言う。それにガシキが続く。
 「まぁ3人とも何はともあれ無事で良かったじゃないか」
一瞬3人の間に流れた穏やかな空気・・・だが、それも長くは続かなかった。破ったのは、ハルの声。

「で?ドコなんだよここは?」

――――確かに、3人はリザイア港発アデューク行きの船に乗って大海原を進んでいた・・・筈である。
予定通りであれば何日後かには目的地に着くと・・・誰もがそう思っていた。
 しかし、港を発って間もなく海の上でリズの身に起こった異変。リズの身体から溢れ出す群青色の輝き。
 大陸間の移動が可能な程の大型船、彼等3人が乗り込んでいたそれは、直後完全に崩壊し――海の底に沈んだ。
甲板や船室内にいた人々は海へと投げ出された。そしてそれから先は―――どうなったのか分からない。
この海岸に打ち上げられたのは見た限りにおいての話なら彼等3人しかいない。
他の乗客がどこへ行ってしまったのか、という問いに答えを返す事のできる存在はここにはいなかった。
 沈黙の中に波の音だけが響く。そして気になる事はもう一つあった。

 「坊―――!まだ上につかないのー?」
 「だ――ッもう、うるせぇな!!何度目だよソレ!」
 「遅――――い」
 「俺様のせいじゃねぇッ!大体デカいにも程があんだよ!!文句あんならてめぇで登れッ!!」
リズの提案でとりあえずどこか高い所から自分達の位置を割り出そうという話になった。海岸線の砂浜より奥は深い森で、巨大
な木々が視界を塞いで目印になりうる岩場やそういったものの存在を覆い隠していた。地上が駄目なら樹上から。そういう訳で
この中では一番木登りが上手そうなハルが試しに登る事になったのだが。
 地上から見上げる彼の姿はもう大分小さくなっている。それでもガシキと並ぶリズから発せられる冷やかしの言葉のひとつひと
つに(ある意味律儀ではないかとガシキが考えてしまう程に)ハルの罵声が返ってくるので、ハルにはまだこちらの声は届いてい
る様だった。もっともそれは彼が魔族だからという点が一番の理由なのかもしれない。そんな事をガシキがぼんやりと考えている
と横でリズが根の上に座り地図を広げている。
 「この島の木とか・・・前に見た事あるんだよねぇ…うーん…でも…」
 「・・・何かあるのか?」
 「イヤ、まぁ船が壊れちゃったのはこの辺でしょ?もとからある海流から見てもそうなんだけど、
まず時期だったらジーザイル諸島の方に流れ着くなんてことはないだろうなぁって思って。」
リズは地図の右下、リザイア大陸よりもやや北寄りにある小さな粒ほどの点を指し示しながら言った。
 「白弦期のニフ島に流れ着くなんてありえないんだ。おにぃさんも知ってるよね?船も欠航になってたでしょ?
でももしもニフだったら・・・坊が戻ってきたら多分わかるよ。・・・あ、坊だ。おかえり。」
 「“おかえり”じゃねぇよ」 いつの間に降りてきたのか、ハルがそこにいた。
 「で?何か見えた?」
 「山だよ山・・・こんな感じの、でけぇのかな・・」 適当にジェスチャーで山の形を表すと、リズは
あぁやっぱりね、でかしたよ坊、ありがとね、と言った。何がやっぱりなのだろう。
 「・・・で、何か分かったのか?リズ君」
 「まぁね・・うーん・・でもある意味困ったなぁ・・」
本当に困っているのか困ってないのか。よく分からない口調でリズは言うと、立ち上がり
 「まず間違いないだろうね。ここはニフ。頭と主の森の島さ。」と言った。


時はそれから少し遡る

 「…で、昨日聞けなかった事なんですケド」
 「何ですか?」
 「港まで川下りして、その後どーするんですか?」
 「頭の言いつけで一寸野暮用ができたんですよ。それとですね、リリュン様に我が島自慢の海をお見せしようと思いまして。
本当は私が案内役でガイドとして付くんですがね、昨日の今日であの有様ですから。」
 「あれだけ飲めば二日酔いするに決まってますよ・・皆飲み過ぎです。」
砦を出て2時間、リリュンはミカヤに連れられて森の中を地竜に乗って進んでいた。
それでも途中までは船で川を下ったので、これでもまだ移動時間としては短い方だという。
 「いや、あれでも少ない方ですよ。子供なんて生まれた日にはもう一週間は使いものになりませんね。
まぁ頭と主は違うでしょうが。ガルドル様とまともに飲めるのはユキシロ様位ですよ。」
 「主・・ユキシロ様・・・」
 昨日の事を思い出す。赤毛のルグ達魔族が恐れ敬い慕う存在。この島で“頭”であるガルドルと対なる存在。
その姿を見る事は少ないのだとミカヤは言う。人に見えない所で、森の奥深くからこの島を護っているのだと。
 この島はわからない事が多すぎる。ただでさえ自分の事すらも分からないのに、謎ばかりが増えていく。
魔族と人とはお互いに干渉しあう事のないものだとリリュンは考えていたのだが、この島では違うらしい。
 何から考えればいいのか。私は誰として振舞えばいいのか。
島の人達は私の事をリリュンという名の人間として見てくれて・・いるらしい。多分。
だが、周りが自分の事を一人の存在として認めてくれていても、私自身が自分の存在が今あるそれだと
認められない時はどうしたらいいのだろう。
 わからない事だらけだった。
 「―――様?リリュン様?」 ミカヤの声がリリュンを思考の海から現実へ引き戻す。
 「何ですかぁ?」
 「あぁ いえ、少しお疲れなのかなと。大丈夫ですか?」
 「うーん…昨日の酔いがまだ残っているんですかねぇ?あれしか飲んでないのに凄いです。」
 「そうでしょう?宴の席ではほとんど水で割らないんです。客人方はほとんど二日酔いですね。」
 「あーやっぱり。何ぁんか濃いなぁって思ったんですよぉ」
海のにおいがしますね―――ミカヤはそうのんびりと言った。
 「あと半時位で海が見えてくる筈ですよ。日没までには港に着くでしょう。」