この森の木はとにかく巨大である。その幹は大の大人の男が15人以上で手をつなぎ囲っても
一周出来ない程だ。地を這う木々の根もこれまた巨大で、根元から幹にかけてびっしりと緑色の苔が覆っている。
地表から梢を見上げようとしても、やたらと張り出した枝と青葉が幾重にも重なり、
目をこらしてもその向こう側を見ることは叶わなかった。
 深く古い、そんな森だった。


少女を背に乗せて枝から枝へと飛び移る老人の足は疲れることを知らない。しかも背中に乗せている少女に
木の葉が当たらない様なルートを選んで飛んでいる。月明かりしかない森の中で、だ。
夜露で枝の上にも生えている苔が湿っているにもかかわらず体勢を崩す事もない。
 一方、もう一人の若者はさっきから何かとコケる事が多い。『ずるッ』だの「うわッ」だの、背後でよくわからない
擬音や声が聞こえてくる。それでも落ちたりはしないらしく、すぐに体勢を立て直す。
 「だ・・・大丈夫ですか――――?」と問いかければ背後の暗闇からどこか力の抜けた声で、
 「ご・・ご心配なくぅ――――」と返ってくる。・・・かえって心配になった。
 そうしたやりとりが10回程続いた直後、急に視界が開けた。老人は木の頂のあたりの枝の上に立ち上がり、
少女ははじめて自分が歩いてきた森の全貌を見る事になった。
 広大な森は黒い平原と呼んでもさしつかえない程、遠くまで広がっており、深い藍色をたたえた夜空が森と
その向こう側にある海の上にかかっている。星影は森を影のように浮かび上がらせ海上高く漂う。
昨日よりもやや欠けた青白い月の光は、波の上に水平線まで続く白い光の道をつくりだした。
夜の海から吹く風は冷えるが気持ちがいい。
 しかし、目を見張るものはその静寂な風景だけではなかった。自分達のちょうど左手に、森の中からゆるやかな
傾斜を持った山が堂々とそびえ立っている。その形は丸いというよりは、むしろ裾野の広い円錐状に近く、
頂は切り取られた様に平らになっている。火山か何かなのか、岩肌が荒々しく見え隠れしており、
頂上の近くになるとほとんど木々の黒い影は見えなかった。
 あっけに取られてぼうぜんと眺めていると、老人が少女に声をかけた。
 「お疲れですかな」
 「そんな事無いです!」首をぶんぶん振ってそう答える。と、今度はもう一人の若者の声が。
 「もう間もなく砦が見えてくる筈ですよ。それでは父上、私は一足先に砦に戻り、頭に報告致しましょう」
言い終えるや否や、その声の主は風と共に消えた。
 「消えた!?おじぃさん、息子サン、今―――・・」
 「風走りの術を使ったのじゃ。―――我々もそろそろ行くとしますかな。よッと。」
 老人は少女を背負い直すと今度は木々の梢を飛んで行った。
枝が頭上に張り出していないせいか、老人の移動速度はさっきよりも増したようである。もはや飛び移るというより
は走るという形容の方がふさわしい程速い。この枯れ木のような体のどこにそんな体力が眠っているのだろうか。
目を細めながら少女はそんな事を考える。
 「客人はモンより入る事になっておるのです。―――下りますぞ。掴まっていなされ。」老人はそのまま軽く
前方に跳躍すると、何十メートルはあろうかという樹から、飛び降りた。
思わず目を閉じたが、次の瞬間にはもう老人は地上に降り立っている。老人は少女を背から下ろす。
 「さて、ここが大門でございます。」
 「た・・高ッ!!」
 砦の周りは木でできた壁のようなものにぐるりと囲まれている。だがそれは近寄ってみると板や丸太が
組み合わされて作られたものではなく、太い木の根が高く高く絡み合って壁の頑丈な造りのようだった。
上まで見上げると肩がこる程に。
 「コレ木の根ですか?凄ーいッ!!・・・何やってるんですか?」
 老人は鉄の門の前に立つと、扉にその皺の寄った左手をひたりと当て、右手で扉に見えない文字を
書きなぞる様なしぐさをしながら、何かをつぶやいている。それが終わると、右手を扉から離し、
人指し指と中指を立て、自らの額まで持ってくると「開!」と小さく叫んだ。
 その老人の姿をしばらく眺めていたが、次に響いてきた轟音で少女は我にかえる。
 老人が門から離れると同時に、その門はゆっくりと開いた。
 「うわ―――・・」
 「さて、参りますかな」 老人はすたすたと中へ入って行く。
 「あ、待って下さ――い!!」
 少女もそれに続いて中に入った。
 木と石でできた家々が連なり、中から絶え間なく聞こえる人々の声と窓から漏れる明かりが森の中で緊張の
連続だった少女を安心させる。道は大分くねっていたが路上は舗装されていて歩きやすい。道がくねっているのは、
砦の外よりは少ないとはいえ中にも巨木が何本も生えているので、木の幹と木の根を傷付けないためなのだと
老人は少女に説明した。そしてその木の上にも家が造られていて、地上と樹上を木の幹に沿って作られた階段が
つないでいる。また、夜だというのにかがり火で街中が明るいためか、人通りも絶えない。
すれ違う人々は老人に挨拶すると少女の方を見て
 「やぁ今晩は、旅人さん。頭の砦へようこそ!」 と言ったりして去るのだった。
 人々は大体黒い髪で、それと同じく黒っぽい目をしている。それに道を行くのは人だけではなく、
荷を積んだ馬もいれば大きなトカゲのような生き物――後で老人が地竜だと説明してくれた――もいた。
とにかく活気のある街という事には間違いはないらしい。
 老人と同じ黒い衣装の男が人ごみから二人を見付け、走り寄ってきた。
 「お疲れ様です。頭がお待ちですよ。こちらへどうぞ、ご両人」

 街中に何本も立つ巨木の中でも一番太い幹の木が頭の木だという。砦のほぼ中心にあるその木の周辺には家はなく
石畳の広場になっていて、そこが彼等にとって特別な場所である事がよそ者である少女にもはっきり分かった。
相当な広さがあるにもかかわらず、街中で見かけたのと同じかがり火が頭の木を中心に、幾重にも等間障で円を描くように
並べられているので、広場全体が茜色の光に照らしだされて地上の暗さは感じない。
 広場を越えて根元まで近付くと、入口と思わしき小さな門の前に見張りらしい二人の赤い頭巾がいた。見張りの二人は
老人達を見ると静かに黙礼し、道を開ける。
 「それでは儂はこれで失礼致す。これより先は任せたぞ、ミカヤ」
 「はッ」 老人の命を受けて、ミカヤと呼ばれたその男は斜め45度で礼をした。
 「え――ッもう行っちゃうんですか、おじいさん!!」 不満気な少女の声に反応したのはミカヤだった。
 「ぬなッ!!“おじいさん”とな!?」
―――“おじいさん”呼ばわりが何故か彼にとっては驚きだったらしい。
 「またお目にかかる事もありましょうぞ、客人どの」
 鼻息を荒くするミカヤを制し老人が言った。そしてそのまま街中へ帰っていってしまった。その背中へ一言、
 「背中乗っけてもらっちゃってすいませーん。ありがとー!!」と少女が叫ぶと、
ぶはッ、とまたミカヤが何か吹くような声を出した。


 「背中に乗るなんて・・ブツブツ・・」
 「あのう・・さっきのおじいさん、何かあるんですか?ここまで連れてきて貰っちゃったんですよ」
 それを聞いたミカヤはまたがっくりと肩を落とし大袈裟にため息をつく。
 「はぁ―――、あのお方は我等、晃月団の副長なんですよ。頭に次ぐ偉いお方なんですよ。
あのお方の偉大なる所行はこの里の歴史に大いなる軌跡を残し・・・はぁ――――・・・」
―――とにかくおじいさんは偉い人らしい。
 「要するにすっごいんですね、あのおじいさん。」
 そうなんですよ、凄いんですよ偉いんですよ。それなのにおんぶなんて・・・と
ミカヤはだらだら続け、その後ろを少女はついて行く。
 二人が歩いているのは木の幹に沿ってらせん状に上まで続く屋根付きの長い長い階段だった。
 落ちないように、これまた木の根でできた棚と手すりでがっちりと脇を固められているので
安心して上まで上がっていく事が出来る。しかし―――やはり高いものは高い。
下を見れば目眩がする程である。思えばさっきまでこれ位の高さの木の上を走ってきたのだから、
やはりあの老人は凄いと思う。下が暗くて見えない恐怖と下が明るくてよく見える時に感じる恐怖は違うんだと知った。
 とりあえず下は見ないで上だけ見て歩くようにした。
 「この中が頭の間です。」
 かなり登った所でミカヤが言った。木の幹に大きな黒い両開きの戸があり、二人はその前に立っていた。
 「何ですか?この白いぐるぐる。」
 黒い扉には白い螺旋が描かれている。もっと細かく言えば白い丸が中心にあって、そこから出た一本の白い線が
中央の丸のまわりに螺旋を描き、外側の所では5本の短い線が放射状に出ているという変わった模様だった。
 「我らの旗の紋です。この島の川の流れを象っています。―――知りませんか。」
 知らない、と答えるとミカヤは待っていましたと言わんばかりに説明を始めた。
 「この中央の白い円、これぞこのニフ島にそびえ立つ霊峰の頂にあるという湖で、その名を“テウ”と云います。
もっとも私は見た事はないのですが・・・ええ、そうです。山頂に行かない限り見る事はできないのですよ。
この山は一見すると火山ですが実は火山じゃありません。ですから溶岩も吹きません。じゃあ何が吹くかって・・?
よくぞ尋いてくれました!答えは水です。“テウ”から流れ出す水は一筋の川になります。それがこの螺旋ですね。
この島には泉はあても川はこれ一本きりです。」
 「ああ!あの大っきい川の事ですか!」
―――魔族に抱えられて飛んだ川はこれだったか。ミカヤは続ける。
 「そうですそうです!だんだんと高地から平地に行くにつれて川は大きくなってゆくのです。裾野を流れ森を越え
――・・最終的には本流より分かれた5つの支流より海へと還るのです。」
 「なるほど・・面白いですね・・そういえばこの島って橋とか無いんですか?」
 「橋はありません。時期によってこの川は著しく増水する事があるのです。丁度今のように。それに森と山を
怒らせてしまいます。私達も橋がなくとも生活には困りません。」
―――川を渡る術がなくては困るだろうに、何故―――と尋ねようとした所でミカヤは言った。
 「おおッと。少し喋りすぎたみたいですね。」
 自分の事であるかの様にひとしきり誇らしげに語って満足したらしく、彼はようやく本来の務めを思いだした。
扉の前で深くミカヤは深呼吸すると、扉に手を掛け
 「―――頭。客人をお連れ致しました。」と言い、ゆっくりと扉を開けると、少女を中へと促した。
木のウロを利用して作られた、黒の漆塗りで板張りの広い部屋だった。
この部屋もまた明かりが灯され、床はその炎の光を受けて黒光りしている。
床から天井までがとても遠く、まるで吹き抜けの様な印象を受けた。
そしてその部屋の一番奥に・・・扉にあったのと同じ白い螺旋が描かれた赤い大きな旗を背にして、
“頭”と呼ばれたその男は座っていた。
 肩口まである長い黒髪と髭に覆われたその顔の彫りは深く、深い皺が彼の生きてきたであろう長い年月を物語る
刻印であるかの様に刻み込まれている。不思議な模様が織り込まれた赤黒い上衣の下に緋色の着物を着て、
更に上衣の上から黒く手足の長い動物の毛皮を肩にかけていた。
 外見だけで十分威圧的だったが何より彼がこの砦の頭である事を決定付けたのは、老いても尚その堂々たる
光を失わないその黒い瞳だった。目を反らす事なくじっとこちらを見ている。
―――“頭”って、この人?すごい威圧感・・。
 無音の空気が一層怖い。そう思っていると、ミカヤは小さな敷物を頭の前に敷いて
 「ささ、ドーゾドーゾ、もっとこちらへいらして下さい」と言った。
 ぎこちない動きで少女は頭の前に座り・・そして座った後で急に後悔した。
―――いきなり座っちゃったけど・・マズかったかなぁ・・・っていうか座って良いのかな、これ・・どうしようどうしよう・・。
 極度の緊張により平常心崩壊の危機が迫った。その時である。
 「おお!おぬしがムラジの申しておった客人か!!」
低く太く張りのある声が黒い部屋中に響き渡った。
 「―――へ?」
 「ミカヤ!すぐに膳を整えさせよう。他の者共にも伝えて参れ」
すぐさまミカヤは部屋を飛び出して行き、部屋には頭と少女の二人が残された。
 「副長より聞いたぞ。歩き通しで大変だった様じゃな、」―――笑っている。
 「えッ・・は・・はい」
 彼の放つ空気ががらりと変わった。先程の威圧感はどこへ行ったのか。堂々としている所は変わりはないが、
その態度は親しみを感じるものに変わっている。
 「ルグ達にも会ったそうではないか。後で礼を言いに行かねばならんな」
 「ルグ・・・って、さっきの赤毛の獣人サン達ですか?何か怒ってた・・」
 「怒った?何故だ?珍しい事もあるものだな・・」 そういうと彼は腕を組み何か考えている様なしぐさをした。
しばらく考え込んだ後、何か思い当たった事があるらしく顔を上げて言った。
 「おぬし―――・・彼等に“名乗った”か?」―――“名乗る”?
 「何を――・・どういう事でしょう?」
――頭の話によると少女が彼等に出会った場所は“主”の森なんだという。“主”はいわば、この島の魔族の
頭領ともいえる存在で、人間の頭領である“頭”と似たようなものであるらしい。
しかし一応テリトリーが分かれているらしく、少女はその“主”の森の方で見付かったのだ。
人間が“主”の森で魔族と出会ったら、敵意がない事を示す為に自分の名を名乗らなくてはならないのだという。
 「でも―――・・私、全ッ然言葉分からなかったんですけど・・・」
 「それは仕方の無い事だ。この島の島民しか彼等の言葉を解することはできぬ」
 「あ、だからあのおじいさん達は話せたんだ・・そういえば、この島の魔族とは会話が不可能なんですね」
 「低級の魔族もいるが、まぁほとんどの種族の言語についてはこの砦に住む者は
解する事ができる様になっているから問題はないのだ。隣人して当然!それで話が戻るが―――・・」
 「何でしょう?」
 「まだ儂の名を言っていなかったな。儂の名はガルドル。して、おぬしの名前は何と申す?」
―――名前。すっかり忘れていた。これまで名乗る必要が無かったのだから。しかし、今は――・・・
これ以上相手に自分を不審がらせてはいけない。そう思った彼女は、一瞬考えた揚げ句、
 「リリュン・・・です」 と言った。
 嘘の名前だ。拾った本に書かれた名前。でも何も無いよりはずっとマシだ。私はリリュンだ。
しかしガルドルはそれが偽名だと気付かずに、いい名だ、と言うと
 「よくぞ我が砦に参られた。リリュン殿。正式に客人として迎えようぞ」と力強く言った。


 無言の少女改めリリュン(仮)は、その後、宴に参加する事になった。
 海が近いせいか魚料理がメインで、それに加えて果物類も豊富である。そして何よりリリュンを驚かせたのは、
この島の木の樹液を加工して作られるという酒だった。何しろ台車に乗せられて大樽で運ばれて来るのだ。
しかも一同で分けて飲むのではない。『私はいいです・・』と遠慮するリリュンも杯に少し分けて貰う事となったのだが、
この酒はかなりきつい種類らしく、軽く口をつけただけで酔ってしまった。
 しかし、その酒を――・・・この横に座る頭と呼ばれた男は洗面器にも等しい杯で飲んでいる。その飲みっぷりは
とどまる事を知らない。彼の横には既に空けられた樽が2つ転がっているが、まだ彼の目はよいどれのそれではない。
宴に参加している彼の配下の人達も飲むには飲むが―――・・彼には遠く及ばなかった。
 そんな彼にリリュンは話しかけてみる。
 「あの――・・何か・・いいんですか?こんなに歓迎してもらって・・・」
 「気にするな、この島のならわしだ。旅人はもてなすべし!!」 ガルドルは空の樽を頭上高く掲げると、
声高らかにそう叫んだ。そしてそれに反応するように、他の一同も声をそろえ
 「もてなすべ――――しッ!!!」 と叫んだ。こちらはもうべろべろである。
どうやらこの酒に耐えられるのはこの一同の中ではガルドル一人だけのようだった。
 そして4つ目の大樽が空けられた。