ひとりの時間の流れる速さはあまりにもゆっくりで、ルキアは溜息をついて畳の上に横になった。
真冬の空はどんよりと重く低く垂れ込めて、硝子戸の向こうは北風が吹き荒んでいることだろう。時折樹々の葉が、風に引き千切れそうに棚引いている。
その寒さも、この部屋にいれば無縁のものだ。ルキアのためにと暖かくされた部屋の中で、ルキアはすることもなく、時間を持て余している。
今まで常にルキアと一緒にいた恋次の姿は、今はない。
今週から「仕事」に行ってしまって、昼間はルキアひとりきりだ。
恋次が言うには、これ以上仕事を休むことが出来ないらしい。ルキアには恋次がどんな仕事をしているのかはわからなかったが、どうやら恋次は忙しい仕事をしているようだと認識していた。今まで無理して一日中自分に付き合ってくれていたのだと、朧気にルキアにもわかった故に、淋しさや不安な気持ちは抑えて「兄様」と恋次に「ひとりで大丈夫だよ」と笑って見せた。
そうしてひとりになる時間が始まって今日で五日目。
恋次は朝、ルキアと一緒に朝食を食べ、九時に仕事へと出かけていく。そして日の暮れる前には帰ってきてくれて、それからはずっとルキアのそばにいてくれる。なのでひとりの時間は実質6時間ほどなのだが、ルキアにとってはそれすらも長すぎる。
「早く帰ってこないかなあ、恋次」
いまだルキアはこの屋敷から一歩も外に出られない。否、本人に自覚はないので、出られない、というのとは違うかもしれない―――ルキアはこの屋敷から一歩でも外に出ようという考えは全く起きない。外に世界があることすらもまるで忘れてしまったように、この屋敷だけがルキアにとっての世界だった。
その世界も、このルキアの寝起きする部屋と続きの一間、そしてその部屋に面した庭―――たったそれだけの小さな世界だ。
それでもルキアは恋次がいれば充分だったし、恋次がいればそれで満足だった。
けれど、今は恋次はいない。
恋次がいない間はまるでそれが恋次ででもあるかのように、ルキアは恋次が土産に持って帰った大きなうさぎのぬいぐるみをそばに置いている。時折そのうさぎでままごとめいた事をして時間が過ぎるのを待っていた。
それも飽きてしまい、ルキアはこうして畳の上に寝転がっている。
「―――あ」
ぼんやりと目を遣った庭の隅に、小さな仔猫の姿を見つけてルキアは身体を起こした。黒と三毛の二匹の仔猫。じゃれるように飛び掛り、絡まるように転がって、再び離れ、また飛び掛る。
「うわあ、可愛い!」
思わず声を上げたルキアに驚いたのか、仔猫は同時にルキアを振り返りじっと見つめた。暫くそうしていたが、特に害はないと思ったのだろう、再び二匹はじゃれあいだす。
もっと近くで見てみたくて、ルキアは窓を開けた。途端に冷たい風が身体に当たりルキアは一瞬身震いしたが、寒さよりも仔猫への興味が勝った。戌吊にはこんな小さな可愛らしい動物はいなかった。抱き上げたらどんな感じだろう、と、ルキアはその仔猫のやわらかな毛に覆われた小さな体を見詰める。
縁側の下にある自分の草履に足を入れると、そっと驚かさぬよう気を使って仔猫のそばへと近付いていく。手には半ば癖となってしまったうさぎのぬいぐるみを抱いて、ルキアは広い庭を横切った。
仔猫はルキアを気にせず、庭の隅で無邪気に遊んでいる。にゃあ、と鳴き合う姿が愛らしい。
「抱っこしたいなあ」
暖かい小さな身体を抱き上げたくて、ルキアは更に二匹の仔猫に近付いた。踏み出したルキアの足元で、今週の初めに降り積もった残雪が土に還る。
「ねえ、抱っこさせて?」
近付くルキアに、今度は仔猫たちも警戒しだしたようだ。じゃれあうのを止め、仔猫は姿勢を低くしてじっとルキアの行動を見ている。その仔猫たちの警戒の姿に気付かず、ルキアはにこにこと仔猫たちに近付いた。
「―――あ!!」
突然、二方向に分かれて逃げ出した仔猫に、ルキアは思わず手を伸ばし―――そして更に大きな悲鳴を上げる。
抱きしめていたはずのうさぎのぬいぐるみを、仔猫に気を取られ……落としてしまった。
「ああ!」
雪解けの土の上に落ちたぬいぐるみを慌てて拾い上げたが、真白な毛が土にまみれ茶色く汚れていた。手で払っても、汚れはひどくなるばかりで元の白さには戻らない。
それを見てルキアの瞳にみるみる涙が浮かんだ。
「どうしよう―――せっかく恋次がくれたのに」
恋次がくれたもの―――とても大切にしていたのに。
真白だったのに、土で汚れちゃっ……
ルキアの動きが止まった。
涙さえ、止まる。
呼吸すらも一瞬止まり、ルキアは手の中のうさぎを凝視する。
『大切に大事にしてたのになあ。真白だったのになあ、土にまみれて―――汚れてよぉ』
嘲るような笑い声。
自分を見下ろす、残酷なまでの笑顔。
『散々俺を莫迦にした報いだ、ざまあみろ!!』
手首を押さえつけられた重み、背中に感じた冷たい地の温度―――頭上の醜く引き攣った男の笑顔。
「あ、あ」
声がかすれる。
湧きあがる恐怖―――甦るあの絶望。
地面に押さえつけられた身体が、地の冷たさを身体に伝えて―――心は恐怖で震えて。
何かを喚きながら、怒りをぶつけるように剥ぎ取られた死覇装―――空気が、斬るような冷たさを肌に与えて。
必死に抵抗し暴れた手を押さえつけられ、髪をつかまれ地面に頭を叩きつけられた。
遠くなる意識の中で、何度も名前を呼んだ―――助けて、と。
そして失いかけた意識は、無理矢理侵入した男の猛りによって引き戻された。
「あ―――あ」
思い出した。
思い出した。
思い出してしまった―――
全てを。
私ハ、恋次ヲ裏切ッテシマッタ。
私ハ、恋次以外ノ男ニ抱カレテシマッタ。
私ノ身体ハ穢レテシマッタ。
「―――――っ!!!」
大好き。
お前以外に欲しいものは何もない。
お前がいればそれだけでいいんだ。
お前がいれば幸せだから。
ああ、だけど。
もう、私には……お前を愛する資格がない。
それでも一緒にいたかった。
離れたくなかった、愛しているから。
だから、―――記憶を、正気を手放した。
何もかも忘れて―――もう一度、そばにいたかった。
姑息だと自分でも思う、けれど―――離れたくなかった。
お前が好きなんだ。
お前がいればそれだけでいい。
お前がいなければ、もう、私には何もない。
何も。
何もない。
「ルキアさま、そろそろお部屋に戻らなければお風邪を召しますよ」
優しげな藤井の声が庭に通る。
辺りは薄闇に支配されつつあり、遠くまで見通すことが出来ない。
藤井は目を凝らして庭の奥を見遣る。
ルキアの姿はない。が、窓の下に揃えてあったはずのルキアの草履がない―――つまり、庭に出ているのだろうと藤井は声をかけてみたの―――だが。
「ルキアさま、もう恋次さまもお戻りになりますよ。そんなに拗ねないで出てきてくださいませ」
返事はない。
冷たい空気だけが通り過ぎていく。
「ルキアさま……?」
徐々に不安に駆られ、藤井の声の語尾が震える。
「ルキアさま……!」
その声の響く庭にぽつりと、白いうさぎのぬいぐるみだけが取り残されていた。
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