「ルキアさまの姿が―――!」
 恋次が朽木邸の門に足を踏み入れるとほぼ同時に、中から飛び出すように現れた藤井の言葉に恋次は息を呑んだ。
 そのうろたえた藤井の様子に、一瞬で事態を把握する。
「ルキアが―――いねえのか」
「ルキアさまのお姿が、何処を探しても見当たりません……っ」
 先程までいらしたのに、何も変わったことはなかったはずなのに―――そう取り乱す藤井に、「大丈夫だ」と恋次は肩に手を置く。
「さっきまでは居たんだな?いなくなってどれくらい経つ?」
「私が最後にお姿を見たのは40分前―――でも、誰もルキアさまのお姿は見ておりません―――玄関に詰めてます者も、ルキアさまは見ていないと……でもどのお部屋にもいらっしゃらなくて、窓の下にあった履物がなくなり庭にこれが―――」
 差し出された白いうさぎのぬいぐるみを見、恋次は唇をぎりと噛んだ。
 土にまみれた白いうさぎ。
 ルキアが大事にしていたはずの、それ。
 ―――記憶が、戻ったのか。
 この屋敷に賊が入ることは出来ない。
 外側からの侵入に対して、この屋敷は鉄壁の護りを持っている。
 けれど―――内側からの脱出は……容易い。
 ルキアは恐らく、自分からこの屋敷を出て行ったのだ。
 記憶が戻り。
 正気を手放した程の―――記憶が戻り。
 自ら望んで出て行ったのだ、自分と白哉の元から。
「ルキアさま―――如何したら」
「大丈夫だ、直ぐに見つけ出す」
 蒼ざめる藤井に頷き、恋次は意識を集中した。
 ルキアの霊圧を探る。
 ルキアは瞬歩は使えない。まだ間に合うはずだ、まだこの瀞霊廷内のどこかにいるはず。
 気配を探る。
 近くにはない―――意識を拡散させ、範囲を広く―――微かな揺れも見逃さず。
 何処にもいない。
 そんな筈はない、と焦燥に駆られながら恋次は更に意識を集中する。
 霊圧が感じられない、という事は―――霊圧が存在しない、という事にも繋がる。
 ―――万一。
 そんな恐怖が湧き上がる。
 ―――万一……霊圧が消えていたら……
 ルキアが自ら生命を絶ったとしたら。
 ぎり、と唇を噛んだ。
 そんな事はさせない。
 そんな事は許さない。
 更に範囲を広く。
 更に意識を鋭く。
「―――!」
 微かに感じた気配に、恋次は顔を上げる。
 次の瞬間、恋次の姿は藤井の前から掻き消えていた。
















 汚い。
 こんな汚い身体は要らない。
 こんな穢れた身体は要らない。
 感触が―――消えない。
 もうあれから何日も経っているはずなのに。
 自分の肌を這い回る手の感触も、押さえつけられた手の感触も、自分の中に押し入ったあのおぞましい感触も、耳元に聞こえた荒い息も、見開いた瞳に映った歪んだ男の顔も、噛み締めた唇から流れた自分の血の味も。
 生々しく、今も五感全てに残っている。
 耐えられなかった。
 穢れている。
 穢れているんだ。
 どうしたらこの感触が消えるのだろう。
 どうしたら綺麗な身体に戻れるのだろう。
 汚いものは、洗わなくちゃ。
 そうしたら綺麗になれるかな。


 何も考えず、躊躇わずに。
 ルキアは目の前に拡がる海に向かって歩く。




















「―――あの、莫迦!」
 ルキアの霊圧を感じ取った瞬間、瞬歩でそこに向かった恋次の目の前に広がっていたのは、重い空を映した、暗く冷たい冬の海の色だった。
 その波間に見える小さな人影に、恋次は躊躇せず、荒れる冬の海に向かって飛び込んだ。
 途端、身を切るような氷点下の水が全身を覆う―――その冷たさも、恋次の意識にはなかった。
「ルキア!」
 叫んでも、海を渡る風の音に紛れてルキアの耳に届かない。
 必死で近付こうと歩いても、海水は恋次の足に身体に纏わり付き、圧倒的な波の力で押し戻され、思うように前へと進めない。
 荒れる海は波が高く、ルキアの小さな身体は、既に殆どが波の下に沈んでいる。
「ルキア!莫迦野郎、ふざけんな手前ぇ!」
 叫ぶ恋次の眼前で―――ルキアの姿が、波に飲まれて消えた。
「ルキ……っ!」
 誰に、何に祈ればいいのだろう。
 自分は死神と呼ばれる存在で。
 その対極―――神、と呼ばれるものは存在するのか。
 祈り、それを捧げるべき相手は誰だ。
 ―――ああ、決まっている。
 それは愛する者に捧げるのだ。
 祈り、願う……愛する者に。
「ルキア!」
 死ぬな、と。
 願う、全力で―――祈る。
 身体を海水に沈め、暗い海水の中をルキアの姿を求めて突き進む。何も見えない海中で恋次は手を伸ばし―――その手が、何かに触れた。
 引き寄せる―――力の抜けたその身体を、しっかりと腕に抱えて恋次は海上へと浮上した。
 顔を出し、荒く息をつく恋次の腕の中で、「れんじ……?」と呟くルキアを、恋次は睨みつけた。
「この、莫迦野郎が!」
「離して……くれ。触らないで……お願いだ」
 触れられる資格なんてないんだ。
 そう呟くルキアの瞳に涙はない。
 何処か虚ろに、ただ恋次を見上げるだけだった。
「綺麗な水で洗えば穢れは落ちると思ったんだ。冷たい水に身体を浸せばこの感触が消えると思ったんだ。でも―――」
 両手を眼前に翳し、ルキアは涙を流さずに慟哭した。
「消えないんだ。どうしても消えない。綺麗にならない。感触が消えない。気が狂いそうだ―――こんな身体、要らない。こんな汚い身体、要らない!」
「汚くなんかねえよ!!」
 悲鳴のようなルキアの絶叫に、恋次はそれ以上の強さで怒鳴り返す。
「勝手に思い込むな!何処が汚ねえんだよ、お前は何処も汚れてねえよ!お前は何もしてねえだろうが!!なんでお前が責任感じてんだよ、ふざけんな!!」
「でも、だって―――私は、私は―――……!!」
「お前の所為じゃないんだ……お前の所為じゃない。お前は汚れてなんかいない」
「う―――……うぅ……」
「護れなかった……俺の所為だ。その責任は俺にある」
「…………っ、………」
「だから―――死なせねえ」
「……………」
「お前は―――死なせねえ。俺のエゴだ。お前は離さない。何処にもやらない。俺のそばから離さない」
「……そばに、居て、いいのか?」
「当たり前ぇだ、莫迦」
「だって―――もう、私はお前に触れてもらう資格はないから……だから、でも、そうしたら私は……」
 その後は言葉にならず、ルキアはただ声を上げて泣き崩れる。
 抱きしめる恋次の腕の中で、ルキアはただ子供のように泣きじゃくっていた。

 




next