リズの口にした『二日』は真っ赤な大嘘で、結局は十六日という時間をかけて、その十六日目の朝、一行はようやくティカの国境に辿り着いた。リズに言わせると、それでも早い方だという。
関所が設けられたそこでは入国手続きが行われる。その付近は宿場町となっており、様々な露店が並ぶ賑やかな場所でもあった。
その関所の手続き場所。ロビーにいる人々の多くは商人と参拝者である。
「入国手続きお願いしまーす」
受付で、リズは背伸びをしながら要件を述べる。爪先立ちなのはただ単にカウンターが高いためであるが、その姿はおつかいを頼まれた子供といった風情であった。
そんな後姿をリリュンは微笑ましく見守っている。
本当にコレで入国ができるのか、と思っているのはハルとガシキだ。
ティカに入国するのは、他の国に比べ格段に難しく、厳しい。ここ最近でその厳しさには拍車がかかった。内部の人間のコネがなければ無理とまで言われている。そのために商人たちは関所の外――ティカ側ではない方――で露店を出しているのだ。参拝者はたいていティカの人間である。このアデューク大陸において、リザイアを信仰するのはティカの人間と商人ぐらいのものなのだ。
ここまでの道中、リズは自分がティカ出身なのだと言った。
しかしいくらティカ出身であろうとも、身分不明瞭な部外者を三人も連れて入ることができるのか。
全く事情を知らないリリュンはここまで来てどこか安心しているらしい。周りにあるものなども初めて見るものばかりで、どこか落ち着きがないくらいだ。
「……なぁ、ガシキ」
ハルが視線も向けないまま、隣に居る大男に声を掛ける。ガシキは無言のまま、顔をハルに向けて「なんだ」と態度で表す。
「このまますんなり、入国できると思うか?」
「………思わない、な」
冷静な判断。
少なくとも客観的に考えれば、そういう答えがでるのは当然だった。
ハルも同意見である。いくら単純で猪突猛進的な部分があろうとも、世間一般の常識や知識がないわけではない。むしろその類の情報が少ない、むしろ欠落していると言ったほうが適切なのは、リリュンだ。
だが今、自分達に出来る事はたいしてない。なにせ逃亡中、もともと訳ありでもある。そう易々と身分を明かすわけにもいかないのだ。
受付のカウンターを、じっと見る。リズが荷物から銀色のメダルを取り出してそれを提示すると、若い女性が奥へ引っ込み、今度は受付嬢というには些かどころではなくカナリ無理のある小柄な老婆が現れた。かなり厳しそうな顔をしている。数々の石がつながれた首飾りを何本も提げ、腕輪や指輪も多くつけていて、その様は神職につく者だと如実に語っている。しかもその老婆、歩いて出てきたというわけでもなく、まさに湧いて出てきた。何もない空間から、突如として現れたのだ。しかも、向こう側の風景が透けて見える。
これにはガシキも驚く。リリュンとハルなど言うに及ばず。しかしリズはそれをさも当たり前と言った調子で話を始める。
「ローザ、久しぶり。リザイアのリズ、帰りました」
老婆の名前であろうそれを呼び、実に懐かしそうにリズは帰還の旨を伝えた。
すると老婆――ローザはその皺くちゃの顔に疑問の表情を浮かべた。
『……? だがその“リズ”はおらぬようですが、いかがなされました』
声は、見た目の年齢よりも若々しく、張りがある。生涯現役タイプであろう。しかしその音声は肉声とはまた違った音。どうやら、幻影かなにかであるらしい。
「あー、彼ね。彼はもう、正しい場所にいるはずだよ。ボクはまだ、色々することがあってね」
三人には、理解不能な会話。
リズとローザは顔見知りらしい。しかもリズの方が身分的には上であるかのような言葉遣い。一体彼らの関係はどういったものなのか。
疑問に思わずにはいられないが、今はまだ疑問に思ったところで尋ねる事もできない。
「そうそう、少しお願いがあるんだけど、いい?」
『おや、あなたが願い事とは珍しい。さぁさ、おっしゃて下さいな。このローザ、出来る限り叶えましょうぞ』
「ありがとう。じゃぁ好意に甘えようかな」
にこにこと笑いながら。リズは少し身体をずらして、リリュン達が見えるようにする。
突然ローザの視線に当てられて、焦る、怖がる、引く、の三者三様の反応をした。
目だけが爛々としているしわしわの老婆が厳しい目を向けてきたら、確かに怖いかもしれないが。
「まぁ三人とも変わっているけど、楽しい人たちだよ。それぞれちょっと訳あり、ってのが問題だけど、ボクもそうだしね」
気軽な調子で笑いながらそう言うと、リズはカウンターに背を向けて凭れ掛かる。顔だけはローザに向けてはいるものの、かなりくだけた雰囲気である。
からからと笑うリズにローザはしばし考える様子を見せた後、入国を許可します、とだけ言って消え去った。
それからリズは何かの用紙を受付嬢から渡されると、それをガシキ、ハル、そしてリリュンに渡していく。
用紙には名前を書く部分しかない。
「………?」
不思議そうに紙を見つめるリリュンに、リズは名前だけ書けばいいよ、とだけ言った。
名前。
本当の名前かどうかもワカラナイのに?
「おい、どうした?」
どこか暗い目をして黙り込んでしまったリリュンに、ハルが訝しげな視線を向ける。
目の前には、アメジストの瞳。
声を掛けられた事で我に戻った彼女は、慌てて用紙に名前を記入する―――リリュン、と。
「な、なんでもないよ!」
無理矢理笑って、何事もなかった風を装う。しかし用紙をリズに渡すその動作も、どこかぎこちない。
それにはハルだけでなく、ガシキと三人からそれぞれ用紙を回収したリズも疑問を隠せない。どこか心配した様子を見せる。
「……なら、いいんだけどさ」
完全には違和感を拭えないリズであったが、それでも取り敢えずはと用紙をカウンターへと持っていった。
ガシキとハルもまだ気になってはいるようだったが、本人が追求を拒んでいる事は明白。しぶしぶと引き下がった。
ティカはアデューク大陸にありながらもリザイアを信仰する宗教国家。巨大軍事国家ディスポリスの抑圧を受ける事のない、アデューク大陸では数少ない完全な独立国家。その国土の大半は山という、山岳地帯でもある。木の生い茂った山はアデューク大陸にありながら、どこかリザイア大陸を思わせる。山々の中心には一際高い岩山が聳え立ち、その頂には巨大な聖堂が建立され、周囲に多くの民家や店が並ぶ。その岩山こそが、ティカにおける『首都』であった。外側の平地、木々を茂らせた山々、そして中心の岩山という三重構成となっている。国境を越え、海ではない海、極海に流れ込むトロア河の源流を抱える国。木々を茂らせた山には、魔族も――決して多くはないけれど――暮らしている。
政治を行うのは、リザイア神に仕える巫女。彼女達を纏める者が巫女長で、彼女こそがティカでの最高責任者だ。
「…で、今の巫女長はさっき出てきたお婆さんで、ローザという霊験あらたかな巫女様だよ」
ニコニコと喰えない笑顔を浮かべながら、リズはそう説明を終えた。ガシキは知ってるかもしれないけどね、との軽口も忘れない。
関所を抜け国内に一歩踏み入れると、騒がしさはあまりなく、穏やかな空気が流れていた。それでもやはり多くの人間が行き交っていることに変わりはないけれど。
ティカの地図をどこからともなく取り出して見せているリズは、どこか嬉しそうだ。出身地だというだけに、親しみも一入といったところか。
これから向かうのは中心部である、首都。巫女長とは知り合いなので、そこを宿とすると言う。
だが地図を見れば一目瞭然なのだが、そこへ行くにはどうやっても最低で一つ山を越えて一つ谷を越え、そして岩山を登らねばならない。
「……ねぇ、でもそこまでどうやって行くの?」
至極最もな疑問を、リリュンは口にした。
よもや今から登山とは言うまい。一国家、しかもティカはそこそこに領地の広い国。港から国境に来るまで十六日もかかったというのに、山越えなどすればどれほど時間がかかることか。
リリュンと共に地図を覗き込んでいたハルも同意見のようで、眉間に皺を寄せている。ただ、その皺は髪で隠れて見えないため、不機嫌そうに引き絞った口だけしか見えない。
二人のそんな様子を微笑ましく、しばらくこのままにしておこうかとリズは思ったのだが、ガシキがあっさりと答えを与えてしまった。
「飛竜を、使う」
なんてことのないように言われたそれに、リズは知っていたのか、と少し感心する。
なるほど、と納得する二人に、ガシキは心の中で小さく溜息をつく。
彼は知っている。飛竜を使うには、金がかかることを。しかも、かなりの高額。
そもそも飛竜を使うのは緊急の時や物資を運ぶ時。一般の巡礼者は徒歩で山を越えて首都の大聖堂まで赴く。修行のようなものなのだ、このティカへの巡礼というものは。だから徒歩で行くというのはごく当たり前。一般の入国者は飛竜を使わないし、使えない。
「ガシキ、よく知ってるねぇ」
「…まぁ、な。だが、使えるのか?」
小声で問われたそれに、リズはニヤリと笑ってから自信満々に胸を張って答える。
「もっちろん! なんてったって、ここでのボクは『特別』だからね」
そう、なんといってもここは『ティカ』なのだから。
さぁ行こう、と地図を手早くしまって先へと進む。
慌てて付いていく三人を引き連れて、やがて妙に開けた場所に行き着く。
広場であろうか。固い土が剥きだしにされたそのスペースには、入り口に小さな小屋が建っているだけだ。窓口のように小さな穴が開いている、たったそれだけ。呼び鈴があるので、どうやら何かの店であるらしい。
置かれている呼び鈴は透明なガラスで出来ていた。うっすらと群青色が入っていて、美しく模様が繊細に彫られている。
リリュンがその綺麗な呼び鈴に見入っていると、リズが何か企んでいるような怪しい笑みで声を掛けた。
「それ、鳴らしてくれる?」
呼び鈴を指して、そう言う。きょとんとしているリリュンは、隣に居るハルと顔を見合わせた。
「………これ?」
「…やめとけって」
リズのあの笑顔だ、何かあるに違いない。
そう踏んでハルは鳴らさない方がいいと言う。
しかし、リズは早く鳴らして、と言う。
(ど、どうすれば……!!)
うんうんと悩み、悩み。
そしてリリュンは意を決して、“綺麗な呼び鈴”を、振った。
チリンチリン。
可愛らしい、音色だった。
なにかある、と咄嗟にハルは身構えた。リリュンも同様だ。ガシキも興味津々、少し怖いが…といった様子。
だがしかし、十秒ほどたってもなんら変わったことは起こらなかった。
「なんもねぇじゃん」
ほっとしたような、気が抜けたような。
こけおどしかよ、とハルは言って穴を覗き込む。
と。
「……ぐはっ!?」
「「!?」」
ハルの短い呻き声と共に、ごつっ、という音がした。そして尻餅をついて転ぶ、ハル。
リリュンとガシキは一体なにが起きたのかと穴を見る。
すると。
「はー、イ、いらっしゃーい。今日のお客は、随分とセッカチ坊やネ」
効果音はまさしく“ぬっ”。
出てきたのは、真っ白な肌をした二十代半ばの青年。ハルの頭とぶつかった額を痛そうに摩っている。頭にターバンを巻いていて、妙に目が大きく、はっきり言って、コワイ。しかも発音がどこかオカシイ。
突然の青年の出現に、リリュンは短い悲鳴を上げて後退った。ガシキも、頬を引きつらせて固まっている。
そして、リズは。
「あ、は、はははははははははっ!!!!」
腹を抱えて、笑っていた。
ひーひーと、苦しそうにさえしている。
頭を摩りながら起き上がったハルは、リズを見て全てを確信する。坊やと言われたことすら既に頭にない。
「リズ、お前ッ!」
最初から知ってたな、とは言えなかった。
なぜならば、リズ、と言った瞬間、周囲にいた通行人うちおよそ十人が一斉に、ハルを見たからである。
男は七人、女二人。
笑っていたリズは、それを見てさらに笑う。
「はは、は、坊、キミここにいったいどれだけ『リズ』がいると思ってんのさ〜」
どうにかして笑いを収めるころには、そこにいた大勢の『リズ』は自分でないことを知ってまたそれぞれの作業に戻っていた。
創物神から名前をとる。
それは、ごく普通に行われることだ。アデュークを信仰する地域ならば、アーク、デューク、アル、などの男性名が多い。逆にリザイアではローザ、リゼなどの女性名。ティカはリザイアを信仰する地域。そこで男にもリザイア神からとった名前をつけようとすれば、それは限られてくる。そしてその最たる名前が、『リズ』なのだ。しかもこの名前、女性にもつけることがある上に、女性名の場合、愛称であることも多い。腐るほどあるどころか、実際に腐っているとは専らの噂だ。現に、ただ普通にリズと呼ぶと今のような現象が起こる。
「オお、そこにおられルは、リザイアのリズ様! 久しぶりネ、元気しテられましタか?」
毒気を抜かれたハルなどお構いなしに、小屋の穴から顔を出した(やや怖い)男がリズに声を掛けた。大きな目をさらに大きく開いて、喜んでいる。しかもなぜか、リズには様付け。言葉遣いはひたすらに怪しさを助長させているのだが、それをつっこむ人はいない。
「うん、元気元気。あ、みんな、この人は飛竜を管理してる、飛竜のリズ」
「リュウと、呼ばれテいます、よろしく願いマすー」
それでは本来の名前に意味はあるのか、と思わずにはいられない。
だが、にこにこと満面の笑みを浮かべている彼に、それを言う事は憚られた。
これからここでリズのことをどう呼べばいいだろう、と呑気に考えているのはリリュンだけ。
「……で、コイツが飛竜貸してくれんの?」
「コイツ違うヨ、坊やー」
「坊やじゃねぇッ!!!」
「ハ、ハル君、落ち着いてっ」
果てしなく不毛な会話(?)をするリュウとハル。一生懸命止めようとするのはリリュンで、その様子はすでに健気とも言える域である。
そんな様子を見て溜息をつくのは、ガシキ。唯一の常識人というか、数少ない現実を見ることの出来る人間だ。
飛竜に乗るのは構わない。むしろ歓迎だ。しかし。
「…この場合、料金はどうなるんだ?」
それは切実な問題だ。
死活問題なのだから、仕方がないといえば仕方がない。
「あぁ、それは」
「リズ様からおカねなんて、取りませンよー!」
いつの間にか小屋から抜け出てきた――そしてハルとの論争からも抜け出してきた――リュウが、偉そうにそう言った。
彼はどうも小柄なようで、流石にリズよりは大きいものの、ガシキと並べばその差は歴然。比べる相手が悪いのかもしれないが、リリュンより若干低い。つまり、ハルと同じほど。
なぜ金を取らないのかとの疑問など気付いた風もなく、リュウはてきぱきと飛竜の準備をする。
すっかり疲れた様子のハルとリリュンであったが、連れてこられた飛竜を見てぽかんと口を開ける羽目になった。
広場に連れ出されてきたのは、二頭の飛竜。しかも並大抵のサイズではない。
巨大なそれは、その身体に見合った巨大な鞍を乗せられていた。一頭は緑色、もう一頭は白色。
どうやらリュウの話によるとこの二頭はそれぞれ三人乗りなのだという。つまり、四人を二つに分ける必要があった。
結果。
「………」
「どうしたの、ハル君?」
不機嫌な顔を隠しもしないハルに、不思議そうな顔を向ける。
緑色の飛竜の鞍の上、前から順にリュウ、ハル、リリュンという順番で乗っていた。三人はそれぞれをロープで直接つなぎ――安全のためで、そのロープはさらに鞍にまで繋がれている――、リュウ以外の二人は掴まるようにこしらえられた鞍の出っ張りを握っている。リュウが手にしているのは、飛竜の手綱だ。
「…なんで」
「?」
「なんで、コイツが一緒なんだ!?」
前にいるリュウを指差して、必死に訴える。
だがリリュンはきょとんとして、なぜそう言うのかとこれまた不思議そうに首をかしげる。
「え、だって…」
「アナタ達、飛竜扱い方知らないからデすー」
からからと笑うのは、リュウ。白い飛竜にはリズとガシキが乗っている。手綱を握るのは、リズだ。
この組み合わせは、ごく自然な成り行きだった。
まず体重。これでハルとリリュン、リズとガシキに振り分けられた。リズ達の方には荷物も積む。だがハルとリリュン二人では、飛竜をどこにやるか分かったものではない。リリュンはその世間知らずさから明らかにそういったことが不得手に思われ、ハルはたとえ出来たとしても暴走しそうだという判断がくだされた。そもそも、管理者であるリュウがハルに対してかなりの不安を抱いた事は確かである。そういったことがあり、彼が同乗することとなったのだ。飛竜はもともと絶対数が少なく、つまりそれに従って扱える者も少ないのだ。
少し離れたところから彼らを見ていたリズとガシキは、苦笑を漏らす。
「さぁて、行きますか。このままじゃぁいつまでたっても着かないよ?」
飛竜が、羽ばたいた。
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