ぱち、と目を開けると見知らぬ天井が頭上にあった。
天井が高い。立派な木材の天井が延々と続いている。恋次の家の天井では間違いなく無い。恋次の家は狭いからな、とウキアは考えながら小さく笑った。
「…………………大丈夫か」
掛けられた声にがばっと身を起こす。既に気絶する前の状況は思い出していたが、それにしては何だか微妙な口調の恋次の声――それは恋次の声だった――に、ウキアは覗き込んでいる恋次の顔を首を傾げて見つめる。
「何がだ?」
「いや、起きた瞬間妙な顔で笑うからよ……どっか打っちまったのかと」
恋次が言い終わる前に、突然ウキアは「そ……」と呻き声を上げ、両手で頭を抱えて俯いた。突然のその苦しみ様に恋次は「ウキア!?」と小さなウキアの身体を抱き上げる。
「……んな訳があるかこの莫迦者!」
恋次に抱き上げられ手の届く的確な位置に来た瞬間に、ウキアは思い切り恋次の頬を叩いた。手加減なしの本気のビンタだが、元が非力な小さなうさぎなので恋次には全く何のダメージはない。肉体的には。
「な……にしやがる凶暴うさぎ! 演技までしやがってなんつー性悪な女なんだ!」
「妙!? 私の笑顔のどこが妙だというのだ!? 妙なのはお前の眉毛だ、鏡を見ろ阿呆!」
きゃんきゃん言い合う二人の背後ですらりと襖が開いた。見知らぬ人間の姿に、はっとウキアは耳を立て、怯えたように恋次の着物を掴む。十一番隊の隊員に乱暴に扱われたことがトラウマになっているのだろう、無意識に身を寄せるウキアを恋次はからかうことなく抱き上げ、大丈夫だと抱きしめる強さで伝えてから襖の奥の人物に目を向けた。
「白哉様が、もし黒いうさぎが目覚めているようなら部屋に来てほしいとのことですが」
「伺います」
ウキアを腕に抱いたまま恋次は立ち上がった。どうぞ、と先に立ち歩く朽木家の従者の後姿を眺めながら、ウキアは大人しく恋次の腕に抱かれている。白哉とは誰だろうと考えながら、姉と共にいた端正な顔立ちの青年を思い返した。あの混乱の最中、じっくりと見た訳ではないがそれでも相当に美しい人物だということはわかった。あの人は誰だろう、姉の知り合いなのだろうか……と想像を働かせていたウキアは突然「あぁっ!?」と叫び、恋次を驚かせた。
「な、何だ?」
「姉さま! 姉さまは!?」
「今更かっ!?」
派手に呆れる恋次の顔を見上げながらウキアは赤面した。確かにそうだ、目覚めてすぐにでも口にしなければならないことだった。自分が尸魂界にいるのは姉を探すことが目的だったのだし、まず真先に聞いてしかるべき事柄の筈なのに。
「……姉さまの気配があまりにもそばにあったから……月ではそれが普通だったから……その」
もごもごと言い訳を口にするウキアの頭をぽんと叩き、恋次は丁度辿り着いた廊下の一番奥の部屋の前で案内をしてきた従者に礼を言った後、「失礼します」と襖を開けた。
「……姉さま!!」
寝台の上で上半身を起こし、微笑むうさなを見た瞬間、ウキアは恋次の腕から飛び降りてうさなの元へと駆け付けた。ぎゅっとしがみつきながら「心配したのですよ!?」と怒ったように言った後、堪え切れずに泣きだしたウキアの身体をうさなは優しく抱き止めながら何度もウキアの頭を撫でた。
「ごめんなさいね。心配をかけてしまって……あなたがここにいることも知らないで、私は……ずっと探してくれていたのね?」
「はい。姉さまはご無事ですか? 怖い目には合っていませんか? お怪我などはありませんか?」
「私はずっと白哉さまに大事にしていただいてたから」
白哉さま、とうさなが口にしたその響きにウキアは顔を上げた。今まで聞いたことのない響きが込められていることに、ずっとうさなの傍で育ってきたウキアは気が付いた。その短い言葉、名前を呼ぶその声に、うさなの「白哉」に対する様々な思いが伝わって来たからだ。
「『白哉』さま……?」
「ウキア」
恋次に呼ばれてウキアは振り返った。うさなが(あら?)と何かに気付いたような顔をする。
「俺の上司だ。六番隊隊長」
「朽木白哉だ」
抑揚のない静かな声で名乗られ、ウキアは丁寧に礼をした。身体は小さなうさぎのままだが、生来の品の良さがその小さな身体を包んでいる。
完璧な宮中の作法で、ウキアは優雅に白哉に向かい貴婦人の礼をする。
「ウキアと申します。姉を保護してくださってありがとうございました。心より感謝いたします」
「……気持ち悪ぃ」
「煩いぞ恋次」
ぎっとウキアに睨みつけられ、恋次は無言で肩を竦めた。その様子を見たうさながくすくすと笑っている。
「いや。うさなを追ってここに来たと聞いた。随分と探し歩いたそうだが、知らぬこととはいえ迷惑をかけた」
「いえ。私は姉が無事であるならばそれだけで……その姉が無事でいられたのも朽木様のお陰なのでしょう。本当にありがとうございます」
丁寧に交わされる二人の会話に割り込めば再びウキアの噛みつくような視線が待っているとわかっていた恋次は、無理に会話に参加することはせず、まだ寝台にいるうさなの方へと目を向けた。
確かに顔立ちは似ている。姉妹と言われて疑問が全く沸かない程二人は良く似通っていた。それ程までに相似していながら、百人が百人、姉と妹を見間違えることなど無いだろう。あまりにも二人は似ていなかった。矛盾するようだが、そうとしか言いようがない。
姉うさなの、春の陽ざしのような穏やかな、可憐な薄桃色の花のような。
妹ウキアの、清廉で真直ぐな気性を表すような、凛とした薄紫の花のような。
よく似ていながら、二人はあまりにも違う。
「……妹が大変お世話になりました」
丁重に頭を下げられて、恋次は慌てた。深窓の令嬢と言った風情のうさなに深々と頭を下げられると居た堪れない。どうにも落ち着かないのは、うさなのような大人しそうな、お姫様のような――とそこまで考えて恋次は目の前の女性が実際に姫君なのだと言うことに気が付いた。そしてどうにも信じられないが、この姫君の妹であるウキアもまた姫君だということも。
「いや、俺――私は、何もしてねぇ……してない、です」
しどろもどろに、やや赤面しながら答える恋次の背後から「気持ち悪い」と低い声がした。背後を見れば、何故か怒っているウキアがいる。
「使い慣れない一人称を使うな、莫迦者」
「うるせえな」
柄にもないということは恋次にもわかっていたので、更に恋次は赤面する。そのことがどういう訳だかウキアの機嫌をなお一層損ねたようで、ウキアの紫の瞳が険呑に細められた。
「姉さまにあまり近付くな」
「べっ……つに近付いちゃねえだろ」
柄にもなく照れたようにうろたえる恋次の様子に、ウキアの顔色が変わった。焦っている様な、怒っている様な、そんな複雑な表情で立ちあがり、恋次に詰め寄ろうとしたウキアの足が止まる。
「!」
うさなとウキア、二人が同時に息を飲む。二人が目を向けた窓の向こうの景色に、恋次と白哉も目を向け――そしてつぎの瞬間、空から何かが降り立ったのが見えた。
瞬時に恋次と白哉は二人を庇うように窓の前に立つ。――が。
そこにいたのは、小さな少女だった。
ウキアとうさな、二人と同じくらいの大きさの、赤い袴を身に付けた少女が、当然のように庭に立っている。
頭には茶色の毛に覆われたうさぎの耳。
そのうさぎ耳の少女は、前に立つ恋次と白哉を通り越し、その背後にいるうさなとウキアに迎い、言った。
「姫巫女様方――長老様の命により、お二人をお迎えに上がりました」
特に込められた感情もなく、ただ淡々と――三人目の月から来た少女はそう頭を下げた。
ウキアが尸魂界へ来たのは、事故で尸魂界へ落ちてしまった姉を探すためだった。
つまり姉が見つかれば月に還る。
今更ながらにそれに気付き、恋次は椅子に座っているウキアを見詰めた。ウキアも何かを考えているのか、目の前に置かれた、食べやすいように小さくちぎられた鯛焼きに手を付けることもなく無言で宙を見詰めている。
「――お迎えが遅くなりまして大変申し訳ございませんでした」
朽木邸の庭に突然現れた茶色い耳の使者は、名を佐和と名乗った。数多い神殿の巫女の内の一人であるらしい。
「下界に巨大な月の気配があるとの報告があり調査をしましたところ、二匹の禍殱の存在を確認し、次いで姫巫女様方の所在がわかり、わたくしが使者の任を承りました」
言葉使いは丁寧だが、その顔に表情は何もない。ウキアの表情の豊かさとは対照的だ。ウキアが感情のままにくるくる表情を変えるのだから、月の住人は無表情という訳でもないのだろう。ただ単にこの佐和という少女の性格なのか。
そのウキアは、今は何故か厳しい顔付きをしている。睨むように佐和を見、「私たちは」と鋭く言葉を発した。
「尸魂界へ降りて既に一月以上経過している。神殿はその事実を父上に報告していなかったのか」
「わたくしは端女でございます。上の方々のなさることなど如何して耳にすることが出来ましょう」
ウキアの糾弾に、佐和はやはり感情を見せずに淡々と言葉を返した。ウキアは不愉快そうに舌打ちし佐和から視線を背ける。
佐和の存在にどこかぎこちなくなった空気を気にする様子もなく、佐和は淡々と「上からの指示」に従い、慇懃無礼にウキアとうさなに言葉を続ける。
「幸い二日の後には月も満ち、下界から月への門の使用も、巫女姫様方の身体への負担もなくなります。二日後、月が上った時、お迎えに上がりますのでもう少々お待ち下さいと長老様よりご伝言でございます」
そう言われたのが昨日のこと――つまり。
明日の夜にはウキアは月に還る。
こうして共にいられるのもあと一日。
「――どこか行っときたいとことかねえか」
昨日の禍殱の襲撃の顛末について簡単な報告は既に済ませてある。今は禍殱の身体を、マユリを筆頭に十二番隊の者たちが嬉々として調査をしている事だろう。
その結果が出てから今後の対応等会議が開かれることになるので、恋次と白哉は今日明日は休暇扱いになっている。
明日にはここを離れるウキアに、尸魂界で行っておきたいところはないかと尋ねたが、ウキアは無言で首を横に振っただけだった。
何となく元気のないウキアを気遣って恋次は殊更明るく「うさなさんの所にでも行くか?」と声をかけたが、ウキアはまたも首を横に振る。
「姉さまはあの方と二人でいたいだろうから……」
そのまま黙り込むウキアの身体が突然抱き上げられた。慌てるウキアを肩に乗せ、恋次は玄関に向かって歩き出す。
「な、」
「何暗ぇ顔してんだよお前らしくねえな。ほら、好きなもん食わせてやるから行きたい所を言え」
「お前は私に食べ物さえ与えておけば機嫌が直ると思っているだろう!?」
「違うのか?」
「違うぞ! 人を食欲魔人のように言うな!」
恋次の頬を力一杯つねるが、恋次は楽しそうに笑って家を出る。つられていつものように声を荒げたウキアが嬉しいらしい。
「で、何食いたい?」
「……白玉餡蜜」
結局恋次の思うまま、外に連れ出されてしまった――そんな楽しい気分にはなれないのに。
明日には月に還る。――つまり、それは。
もう二度と恋次に逢えないということだ。
それなのに何故恋次は笑顔なのだろう。何故楽しそうなのだろう。
そんなに自分と離れるのが嬉しいのだろうか。
確かに迷惑をかけ続けた。酷いこともたくさん言った。だから恋次は、元の生活に戻ることが楽しいのだろうか。一人の生活に、今まで通りの生活に戻るのが。
淋しいのは。恋次と離れたくないのは。
――自分だけなのだろう。
哀しく結論付けたウキアは、恋次の肩から恋次を見上げる。明るい顔、それに悪意はない。明日にはここを離れるウキアの為に、楽しい思い出を作ってやろうと純粋に考えているのだろう。
それならせめて、楽しく見せよう。最後の尸魂界での生活を、楽しく、未練がないような振りで、月に還るのが嬉しくて仕方ないような、そんな素振りで。
恋次に何も気付かせないように。
この気持ちを知られぬように。
「最後まで私は――素直になれぬか」
「あ? 何か言ったか?」
「いや? どうした、老化現象か?」
「…………………………」
「愚図愚図するな、食べたいものはたくさんあるぞ! それに行きたい所もたくさんあるのだ、はやく私を連れて行け!」
肩に座って踏ん反り返る。尊大で高慢な態度、居丈高な口調。今まで自分が恋次に対してしてきたのと同じ態度。最初から最後まで、可愛くない態度のままで。
遅くまで歩き回って、食べたいものを全部食べて、見たいものを全部見て、したいことを全部して、笑って、怒って、喧嘩して――恋次の家に戻って来たのは夜遅くになってからだった。
小さな身体で、まだ完全に疲労の取れ切っていない身体で外出したウキアは、恋次の家に帰る道すがら、恋次の腕の中でうつらうつらとしている。瞼が落ちては慌てたように首を振って眠気を覚まし、けれどそれも長くは続かずに再び瞼が落ち――やがて恋次の腕の中で眠ってしまった。
暖かなウキアの身体を大切に腕に抱きながら、恋次は起こさないようにゆっくりと歩く。こうして腕に抱くことももう無いだろう。出逢って二月近く、毎日毎日喧嘩や笑顔の絶えない日々だった。
一人で過ごしてきたたった二月より前の生活を忘れてしまう程――楽しく賑やかで、そして――
幸せな。
「――帰るななんて、言えねえよな……」
相手は別の世界の王族の一員なのだ。この世界に残るということは大切な姉も国も家族も捨てるということだ。頼れる者もなく、たった一人で、全てを棄てて自分のそばにいろなどという勝手なことを、そんな重大なことを、簡単に口に出来ない。それに――何より。
この想いは一方的なものだ。
自分がウキアを好きなのは事実だ。好き、などと軽い言葉で片付くような気持ちでないことはとうに自覚している。帰したくない、本気でそう思う程に魅かれている。
けれどそれ以上に、帰したくないと思う以上に――ウキアの意に沿わぬことをしたくはなかった。
帰さないことなど簡単だ。閉じ込めてしまえばいい。明日一日をウキアを連れどこか遠くへ行ってしまえばいい。流魂街にでも紛れてしまえば、誰も見つけることは出来ない。
けれどそれは自分の気持ちの一方的な押し付けで――
ん、と小さく声をあげてウキアが身を捩った。恋次の袖をきゅっと掴む。小さな暖かい身体。無防備な。このまま連れ去ってしまいたいと思ってしまう程。
「――明日、か……」
恋次は優しくウキアの頭を撫で続ける。
頭上には、真円にほんの僅か欠けた月。
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