還りたくない、と。
 強く思う程に言葉は容易に形を為さない。
 部屋の窓からうさなは空を仰ぎ見る。沈まないでと願った太陽はゆっくりと地平線に沈んで行き、変わって満ちた月が空に昇っていく。
 茜色の空が夜一色に染まったら、月からの迎えがすぐに来る。


 一昨日先触れで現れたうさなとウキア以外で唯一の月の住人である佐和は、うさなとウキアに今日の迎えの伝令を終えた後、白哉が用意した一室にこもり部屋を出てくることはなかった。下界である尸魂界を不浄の世界と思っているのか、尸魂界の何も見ようとはしない。うさなの元に来ることもなく、うさなは白哉と最後の二日間を過ごしていた。
 その二日間――白哉は何もうさなに言うことはなかった。ただそばにいる。手を繋ぐ、抱きしめる、共に寝る――それは変わらない。けれど。
 愛していると、口にしなかった。
 此処にいて欲しい、とも。
 引き止める言葉は何も口にしない。だからうさなも口に出来なかった――「帰りたくない」と。
『此処にいてもいいですか』
 その問い掛けが怖くて出来ない。断られたらどうすればいいのか――そう、白哉はうさなが月に還ることを望んでいる。
 愛情を疑ってはいない。この二月の間の白哉の愛情を。自分の抱いた気持ちも本当だ。だからこそわかる。
 白哉は決してうさなを引き止めない。
「そろそろ……迎えが参ります」
「……そうか」
 空を見上げていたうさなは視線を傍らの白哉に移した。見上げるうさなを見る白哉の表情は憂いている。余人にはわからない白哉のその感情の揺らぎを、うさなは正確に把握している。
 愛している。それは変わらない。白哉もそうであるとわかっている。だからこそ、白哉はうさなを引き止める事が出来ない。
 うさなの世界のこと、その役目、うさなの地位、血筋、血統、歴史、王族――白哉は自身が四大貴族と謳われる家柄の当主なのだ。軽々しくそれら全てを捨てることができないうさなをわかっているのだろう。
 事実、白哉が「此処にいて欲しい」とうさなに言ったとして――うさなはそれをすぐに即答は出来なかっただろう。勿論うさな自身の応えは決まっている。白哉のそばに居たい。此処に居たい。白哉のそばに。――けれどそれはうさな個人の想いだ。
 うさなは尸魂界とは別の、頭上の月の世界の住人で、綿々と続いている王家の子孫、現在の王の第一子であり、第二王位継承者であり、神殿の一の巫女であり、尸魂界の浄化という重要な役目を持っている。
 あまりにも縛られている事柄が多すぎる。一個人として思うままに行動できる立場ではないのだ。うさなが白哉のそばに残れば周囲の者たちにかかる迷惑は甚大なものだ。
 だから、「此処にいてもいいですか」という問い掛けは――言える筈がないのだ。言えば二人共に困惑する。うさなも、白哉も。一時の感情で本心を吐露したとして何になるというのだろう。決してそれが出来る身分ではないことを、二人共に知っているのに。
 そして、妹。
 二度と月に帰れるとは思わなかった。座標も不明な場所へ落ちた自分を誰も見付けることは出来ないと思っていた。それなのに妹は身の危険も顧みず一人尸魂界へ降りたのだ――ただうさなの為だけに。
 その妹を月に置いて、ひとり尸魂界に残る訳にはいかない。
 この二月のことは夢だったのだ。とてもとても幸せな――哀しいくらい幸せな、ひと時の夢。
 月が一際輝きを増した。溢れるほどの光、それが道となって月から地上に降りてくる。
 迎えが来る。それは、幸福な夢の時間の終わり。
 その月の光を浴びてうさなの身体は変化した。小さなうさぎの身体から、少女の姿へと。
「今まで……ありがとうございました」
 丁寧に頭を下げるうさなは静かに微笑む。泣きたいけれど、最後に白哉を困らせたくはなかった。
「大切にしていただいて……本当に、幸せでした。私は白哉さまに大切なものをたくさんいただきましたのに……私は白哉さまに差し上げられるものが何も、なくて」
「私はうさなから数えきれないほどのものをもらっている。今まで私が知らなかったたくさんのものを」
 一瞬、気持ちが崩れてうさなは泣きだしそうになった。それでも必死で笑顔を作る。泣いたら迷惑になる、それだけを心に呟いてうさなは微笑む。
 涙が頬を伝って落ちた。
「……うさな」
 白哉の指が、うさなの涙を拭った。優しい指、この指が何度うさなの頭を撫でて、うさなの身体を抱き上げたか。この優しい手が好きだった。触れてもらうのが好きだった。
「……ひとつ、見つけました。私から白哉さまに差し上げられるもの」
 誰にも渡したことのないもの。これから先、誰にも渡すつもりのないもの。
「……緋真、と申します――本当の、私の名前」
 目を見張る白哉の手を取り、緋真はその指に口付けた。触れるのはこれで最後。もう二度とこの体温を感じることはない。
「私たちは生まれてからずっと真の名を封印します。ただ一人、そうと決めた人に伝えるまでは」
 私が差し上げられる唯一のものです。
 遠く離れても、いつまでも、お慕いしております――永遠に。
「……さようなら」
 緋真は立ち上がる。
 広い朽木家の庭園が、金の光で包まれていた。








「――そろそろだな」
 頭上の月を仰ぎ見てウキアは呟いた。月は欠ける場所なく見事な円を空に描いている。
 その光を受けて、ウキアの身体が輝いた。
 目映い光に包まれ、ウキアの姿が消えなくなる――そして光がゆっくりとその光量を落とした後には、ウキアの姿は少女の姿へと変わっていた。
「わ……」
 そのウキアを間近にし、花太郎は驚きと感動の声を上げた。花太郎のその瞳に、今までには無かったウキアを崇めるような光が浮かんでいるのを見てとり、ウキアはやや困ったような微笑を浮かべる。
 そんな花太郎の気持ちを、恋次はわからなくもなかった。
 本来の姿のウキアは神々しい。生来の気品漂うその姿は凛としていて、迂闊に近付けない雰囲気さえある。
 その場に花太郎を呼んだのは恋次だった。
 ウキアがこの尸魂界で知り合った数少ない住人だ。気の合った様子を見せていたし、ウキアが帰るというのに、花太郎に何も言わずにいることはあまりにも大人げない気がして、恋次は花太郎にウキアが月へ帰ることになったことを連絡していた。
 ウキアはこの場所――其処は一月前にウキアが浄化の儀式をした野原だった――に現れた花太郎を見、驚いたように恋次を振り返った。その顔に浮かんでいた表情は花太郎が見なくて幸いだったろう。――その哀しげな顔を。
 ――最後なのに。
 そう瞳で語った切なげな表情は一瞬で、恐らく夜に隠れて恋次の目にも触れなかった事だろう。――幸いにも、もしくは不幸にも。
「すごい――本当のウキアさんは、とても――」
 綺麗ですね、と口に出せずに花太郎は頬を染めた。小さなうさぎの姿だったウキアとは普通に話せたのに、自分と同じ程の背丈のウキアを前に緊張しているのか言葉が少なくなる。
「外見はアレだが中身は変わんねえよ」
「うるさいぞ恋次」
 すかさず言葉を返すウキアに恋次は「ほらな」と花太郎に笑ってみせる。そんな恋次にウキアは澄ました顔で思い切り恋次の足を踏んでやる。
 うさぎの姿では何をしても恋次に痛みなど与えることは出来なかったが、さすがにこの大きさだとダメージを与えることが出来たようだ。恋次が「痛っ!」と声を上げた。そんな二人を見て花太郎は笑う。
 これで良かったのかもしれない、とウキアは思う。
 恋次と二人きりだったとしたら、自分は何を言い出すかわからない。恋次の迷惑も考えず、恋次への想いを口走ってしまったかもしれない。此処にいたいと口にしてしまったかもしれない。そして次の瞬間、恋次の困惑顔を見て自分は傷付くのだろう。
 恋次が自分をどう思っているか、この場に花太郎を呼んだことではっきり分かる。最後の時を二人で過ごす、という考えはなかったのだ。
 勿論それを責める気はない。恋次は好意でしてくれたことだ。友人として当然のことだろう。友人として――ウキアの友人として。
 それならば最後までこの気持ちは誰にも言わずに封印しよう。
 いつかこの苦しみが癒える時が来るのか――泣きだしそうな、叫びそうな、そんな激しいこの想いが、行き場を失ったこの想いが、どれだけの月日で消えてくれるのかはわからないけれど。
 月から光が地上に落ちる。その光は二つ―― 一つは姉の場所へと落ち、そしてもう一つは。
 光の中に幾人もの人の姿を確認し、ウキアは花太郎を振り返る。
「花太郎殿、わざわざ来てくれてありがとう。最後にもう一度会えてよかった」
「――最後?」
「二度と会えなくなるが――花太郎殿のことは忘れない。時折月から様子を見せてもらうことを許してくれるか」
「二度と会えない? ――そうなんですか!?」
 驚愕する花太郎にウキアは頷いた。「尸魂界に降りるなど、本来許されることではないんだ」と苦笑する。
「そんな……」
 花太郎は何か言いたげに恋次とウキアを見た。その花太郎の視線を感じながら、ウキアは恋次へ視線を向ける。
 紅い髪。紅い瞳。大好きな――そんな子供じみた言葉で表せないとウキアは内心苦笑する。
 愛する人。
 たった一人の、初めての。
 そして――最後の。
「本当に世話になった。感謝する」
「いや。――俺もまあ、楽しかったからな」
「怪我などせぬようにしろ。お前はあまり物事を考えずに突っ走るきらいがあるからな」
「お前も本性見せて巫女を首にならねえように気を付けろよ」
 最後まで軽口の応酬。――それでいい。それがいい。
 ウキアの頭上に月の光が落ちる。
 それと同時に現れるいくつもの人影――その最前にいた初老の女が地面に跪いた。そして背後の者たちも一斉に膝を付く。
 低く頭を下げる巫女装束の女性たちに、花太郎は驚いたように一歩後ずさる。
 ウキアは無言で自分と同じ世界の住人を見下ろし――恋次も無言でウキアと同じ世界の住人に目を向けた。
「――お迎えに上がりました」  
 丁重に、けれど感情のこもらぬ声で女は頭を低く下げたままウキアに言う。
「ご無事で何よりでございます」
「ああ。手数をかけた」
 上に立つ者の高慢な声で――それはウキアから発すると聞く者に当然のものとして響いた。生まれながらに高位に立つ者の声。それがごく自然なものとして聞くもの全てが受け取る声。
「――では」
 ウキアは振り返る。花太郎を見、――恋次を見詰める。
 恋次も無言でウキアを見詰める。
 この目で見るのは……これで、最後。
 ウキアは静かに微笑んだ。
 身体を反転させ、光に向き合う。ざっと人の列が二つに割れる。ウキアの前には誰も居ず、ただ両脇に頭を垂れた幾人もの巫女たちが道を作る。
 傅く老女に促され、ウキアは光の中に一歩を踏み出した。
 途端、ふわりと浮かびあがる。月の光に導かれ、ウキアの身体はゆっくりと天に昇っていく。
 視線を下に向ける。
 恋次と目が合った。――何かを堪えるような、そんな恋次の顔を見てウキアは心が満たされる。
 少しは――別れを惜しんでくれているのだと。
 それだけで心が慰められる。
 だからウキアは感謝をこめて恋次に言う――心からの笑顔で。
「さようなら」
 







 庭園に落ちた光の中から転がるように駆け寄って来た老人は、心底安堵したような声で「姫様!」と緋真に呼び掛けその足元に跪いた。そのまま緋真の手を取り号泣する。
「姫様、姫様……良くご無事で、本当に良くご無事で……! 二日前、姫様が下界で行方不明だったと知って、私は、私は……!」 
「爺、心配をかけてしまってごめんなさい。大丈夫、何もなかったのですから」
 威厳と優しさに満ちた声で緋真は老人の手を握りしめた。その緋真に老人は更に号泣する。
「やはり神殿になど姫様をやらなければ良かった……姫様の苦難を何も知らず、誠に申し訳ございません……!」
「爺、爺。どうしたの、そんな……神殿に入るのは皇族に生まれた女児には当然のことでしょう?」
 白哉の前で泣き伏す老人――恐らく緋真が幼い頃から世話係として仕えていた者なのだろう、それだけに緋真の無事を確認出来て感極まっているのか、周囲を憚らぬ号泣振りに緋真はやや困ったような顔で微笑んだ。その緋真を咎めるように、老人は涙で濡れた目できっと緋真を見据えて言い募る。
「私にはわかっております。ええ、わかっておりますとも。あの一族の性悪さは聞きしに勝る。大変な目に合われましたな、姫様。でももう大丈夫です、私が王に進言いたしますから」
「どうしたの、爺―― 一族って? お父様に何を?」
「突然開いた『門』。本来これはあり得ません。事故な筈がない、『門』に異常はありませんでした。つまり誰かが操作したのです。姫様がいるのをわかっていて」
「そんな、考え過ぎです。私は――」
「いいえ、いいえ姫様。考え過ぎではないのです。それならば禍殱はどう説明されますか。それこそ誰かが門を開かなければ禍殱はこの下界に降りることなど出来ませんぞ」
「それは――でも、」
「姫様が行方不明になられたにも関わらず、その報告がされなかったのは何故か。妹姫様が姫様を追って下界に降りられたことも報告されておりません。姫様と妹姫様、お二人がいなくなった後、神殿で一番高位の者は誰ですか。下界に降りたお二方を亡き者にしようとしたのは誰か。答えは簡単でございます、『門』に触れられるのは王族の血を引く者しか御座いません」
「まさか――そんな」
 蒼褪める緋真の手を両手でしっかりと握りしめ、老人はその手を額に押し抱いた。「大丈夫でございます」と決然と言い放つ。
「私がお護り致します。ですから安心してお戻りを――」
「待て」
 突然自分と緋真以外の者の声が耳に入り、老人は驚いたように顔を上げた。緋真以外目に入っていなかった老人は、緋真の背後に立つ長身の男に眉を潜める。
 何故尸魂界の住人が自分に命令するのか。
 憤然とその無礼さを指摘しようと口を開いた老人を無視し、白哉は緋真を見詰めた。間違いなく憤っているその瞳に、緋真は驚き身を固くする。
「今の話は本当か」
「あ、あの……」
 鋭い白哉の視線に戸惑う緋真に、白哉は言葉を続ける。怒っていることは明白だ。初めて見る白哉の怒り――静かな無表情のその奥に揺らめいている。静かなだけにその怒りが緋真には恐ろしい。
「生命を狙っている者がいると?」
「そんな筈は……」
「まだそんなことを! 姫様、姫様自身が自覚していただかなければ危険……」
 緋真を諌めた老人の言葉は耳に入らないように、白哉は緋真の肩を掴んだ。白哉らしくない乱暴なその行為に緋真は目を見開く。驚きに言葉もない緋真の代わりに老人が「無礼者!」と一喝した。しかしその言葉にも耳をかさず、白哉は緋真を睨むように真直ぐに見据える。
「私は元の世界に帰ることに何の問題もないと思っていた。お前に課された任務、生まれついての責任、過去から延々と続いている掟、それらを個人の私心で破ることが許されないのは私にはわかっている。だから引き止めなかった。引き止めれば必ず悩ませること、困らせることはわかっていたからだ。だが、生命を落とす危険があるというのなら――お前の生命を狙う者がいるというのなら」
 ぎり、と緋真の肩に白哉の指が食い込む。その力の強さにに緋真は思わず苦痛の表情を浮かべた。それ程までに込められた力――引き止める、力。
「私はお前を帰さない」
 掴まれていた肩が解放される。変わって拘束されたのは身体の全て――白哉に抱きしめられながら、緋真は呆然と立ち尽くす。
 初めて見る白哉の激情。
 湖水のように凪いだ、穏やかで静かな今までとは違う、激しい感情――白い焔。
「でも、私――私は……」
「お前が何を言っても聞かない。お前の世界には渡さない」
 お前の生命に代わる者などこの世になく、その生命が自分のいない場所で危険に曝されることなど耐えられぬ――
 強く抱きしめられ、かすれる声で耳元で告白され……緋真は泣いた。
 共に行きたい。共に生きたい。共に逝きたい。この先の人生全てを、白哉と共に過ごしたい。けれど自分には責任がある。何も言わずに全てを棄てることなど出来ない。何もかもを投げ打って白哉と共にいられたらどんなに幸福か。けれど緋真にはそれが出来ない。緋真の身分が、緋真の性格がそれを許さない。
「私は、私には――」
「緋真は私が護る」
 緋真の言葉を封じ込めるように白哉は更に強く緋真を抱きしめる。緋真の肩に顔を埋め、強く抱きしめる白哉は――それはまるで緋真に縋るように。
「緋真は誰にも渡さぬ」
「白哉さま……」
 心が千切れそうだ。白哉の元に残りたい緋真の心と、責任を果たそうとする巫女の心と。
 けれどこのままでは緋真の心が勝ってしまう。此処に残ることを選んでしまう。口を開いてしまえば、きっとそう願ってしまう。だから緋真は泣くことしか出来ない。
「…………姫様」
 打ち据えられた様な、悄然とした声が二人の間を割って入った。白哉の顔が上がる。緋真は渡さぬと細い身体を引き寄せる白哉と、必死に自分の心を押し止めている緋真を目にして、老人は一度に何歳も年をとってしまったような顔で二人を見比べた。
「真名を、その者に贈られたのですな?」
「………………はい」
 躊躇いがちに緋真は答える。真名を渡すという行為がどれほど重要なことか、月に生まれた者ならば全員が知っている。それは即ち己の全てを託すことだ。過去も現在も――未来も、全て。その言葉を最初に贈られた者のみが行使できる所有権。伴侶として選ばれた証。永遠に愛するという誓い。
 それを尸魂界の者に与えたという。
 緋真の性格上、それはいい加減な気持ちではないのだろう。一時の激情で明かした筈がない。幼い頃から自分の気持ちよりもまず国王の第一子としての立場を優先させてきた少女なのだ。ときには歯がゆくなるほど、己の意思を封じて、己を封じて。
 己の身分の者が、誰に相談もせずに真名を渡すことなど許されることなどないなど、緋真は十分承知していた筈だ。事は王位継承権にもかかわる。また、父である国王の意思にも背く。王家の子女の婚姻は、政治的な意味合いなく為されることはあり得ないからだ。事実、緋真の婚姻の話は既に何件も検討されているはずだ。
 その緋真が、初めて自分の意思を優先した。――父に、掟に逆らって。
 浅慮な筈はない。
 同じ世界の住人ですらないのだ。結ばれる筈がないことを知っていながら、それでも誓ったのだ――「あなた以外、この先誰も愛さない」と。
「……姫様は姫様の心のままになさいませ」
「でも、爺」
「月のことはお気になさいますな。――今まで姫様は何事にも我慢してこられた。姫様自身の気持ちよりも『皇女』であることを優先されてこられた。けれどそんな姫様の想いも姫様の父上はわかって下さらぬ……妃の言い成りになってしまわれておる。確かに月は姫様にとって危険な場所となってしまった」
 淋しげに老人は項垂れ、そして次に顔を上げた時には威厳のある表情に戻っていた。月の世界では相応の地位にある者なのだろう、確かに威圧する空気を身に纏い、老人は白哉を真正面から見据える。
「姫様を御頼み申し上げます」
「承知した」
 老人の言葉と間髪入れずに返答した白哉の言葉に、背後の月の住人たちは騒然となる。予想だにしなかった展開にうろたえる巫女たちを老人は一喝した。
「我らはこのまま月に還る」
「しかし、」
「此処に在るのは巫女ではない。下界の者に真名を捧げた行為は巫女としてあるまじき行為」
 ざわざわとざわめく巫女たちに厳しく言い捨て、そして老人は一転、言い聞かせるように幾人もの巫女たちを見渡した。
「――伴侶を得た姫様をこのまま月へ連れ帰れば、王位継承権にも絡む重大な騒乱を宮廷に引き起こすぞ。現在皇子はまだ幼い、それよりも一姫様とその伴侶を次の王にという話があるのはお前たちも聞いているだろう。元より一姫様のお優しい気性に国の統治を求める下々の声は高い。だが次の王位について一姫様が支持を集めれば、あの皇后陛下が黙っておられまい。国が二つに割れ血で血を洗う陰惨な抗争が始まるぞ。――それをお前たちは望むか」
 皇后の気性の激しさは巫女たちも身に染みて知っているのだろう、一斉に視線を下に落とした。ざわめいていた空気がぴたりと収まる。それは緋真の処遇について、無言の承諾の意思だった。
「――爺……」
「姫様、いつまでもお元気で。お身体に気を付けて、どうか……」
 それ以上言葉にすることが出来なかったのだろう、老人は言葉に詰まるとぐいと目元を拭った。そして再び上に立つ者の顔に戻る。
「皆、帰るぞ」
 その言葉と同時に老人の身体がふわりと舞い上がる。降りて来た時と同じ速度で、ゆっくりと空へと帰っていく――後に巫女たちを従えて。
「爺、爺も元気で……!」
 泣きながら精一杯の声で、幼い頃から自分の世話をしてくれた、妹を除けば一番自分のそばにいてくれた老人へ別れを告げる。その緋真の声を聞き、老人が微笑んだ。その笑顔もすぐに見えなくなる。
 金の光の中にやがて人々が黒い点となり、そして――完全にその姿は消えた。
 目映い程の月の光も、常の静かな満月の光に戻る。
「――大義がなければ、お前を引き止めることが出来ぬ私を許してくれ、緋真」
 白哉は腕の中の緋真を抱きしめる。
 緋真を引き止めたくとも出来なかった。緋真の背負うものを知っているから、本心は言えずにただ見送る決意をした。――それなのに。
 結局、自分が緋真を故郷から引き離したのだ。生まれてから今までずっと過ごしてきた世界から、緋真に取って何も知らないこの異世界へ。親も家族も地位も責任も全て棄てさせ――ただ、自分が緋真の生命を失いたくないが為に。
 掟も歴史も責任も重要なことはわかっている。――ただそれ以上に、緋真の生命の方が大切なのだ。他に比べるものがない程。他に優先させるものがない程。そう、緋真の意思よりも。
 自分勝手なことこの上ない。
「いいえ、いいえ――私は、私の心は、白哉さまのそばにいたかった、だから――」
 ぎゅっと緋真は白哉にしがみつく。自分の力全てで、抱きしめる強さが想いの強さだと伝えるように。
 そばにいたいと言い出せなかった自分を責めこそすれ、帰さないと言ってくれた白哉に感謝こそすれ、白哉を責めることなどあり得ない。
 自分を見下ろす秀麗な顔――その姿ばかりか、心まで高潔な美しい人。
 後悔などしない。
 一番欲しいものが目の前にあるから。
「――私をおそばに置いて下さい。いつまでもおそばにおりますから」
「お前を離さない。この先何が起きてもずっと」
 幸福すぎて息が止まってしまいそうだと、緋真は眩暈を感じながら白哉にしがみつく。その緋真の身体を、そっと白哉が己の身体から離した。
 見つめ合う瞳に互いの気持ちを確かめ合い――
「愛している、緋真」
「愛しています、白哉さま」
 二人は寄り添い――引かれ合うように唇が重なった。
 その背後に、祝福するような輝く月。










「このまま行かせてしまっていいんですか、何も言わなくていいんですかっ!?」
 恋次が初めて見る剣幕で花太郎は恋次に詰め寄った。その激しさを、何もしなかった自分自身に憤りを感じている恋次は真正面から見据えることが出来ない。
 視線を逸らしながら「仕方ねえよ」と言い訳のように呟く。
「あいつは月じゃお姫様なんだぜ? こんな下界に引き止められる訳がねえだろうが」
 それでも別れ際に「帰るな」と告げてしまいそうで――否、ウキアの意思を無視して拉致すらしそうな自分に恋次は気付いていた。ウキアが月に帰るその瞬間に、ウキアを月に帰したくないが為に自分がどんな行動に出るか――それを恐れて花太郎をこの場に呼んだのだ。
 第三者がいれば、自分が暴挙をしでかすことはないだろうと。
 実際、口にしそうになっていた。花太郎がいても尚、「帰るな」と――「帰さない」と。ウキアの意思は関係なく。「帰さない、渡さない」――自分の勝手な想いの押し付け。
「あいつにゃ迷惑なだけだろう――これは俺の一方的な感情なんだからな」
 自嘲気味に笑う恋次に、花太郎は絶句し、――次の瞬間。
「莫迦ですかあなたは!?」
 胸倉を掴まれて恋次は目を見張った。花太郎が普段ならば絶対にしない行動だ。人の――しかも他隊の副隊長の胸倉を掴んで怒鳴るなど。
「僕がウキアさんを引き取りましょうかって言った時、その前に僕、ウキアさんに聞いてるんですよ、僕の家に来ませんかって。そうしたらウキアさんは『恋次のそばにいたい』って……『恋次に迷惑なのはわかっているが、恋次のそばにいたいんだ』、って! 『だが恋次が出て行ってくれと言ったらそうするつもりだ』、って!」
 ――恋次のそばにいたいんだ。
 ――恋次が出て行ってくれと言ったらそうする。
 今、この瞬間。
 何も言わない自分は、ウキアに出て行けと言っているも同じだ。
 だからウキアは此処にいたいとは言わず――恋次の言うがまま、黙って月に帰ろうと。
 恋次が望むなら、と。
「ウキア!!」
 知らず、絶叫していた。舞い上がった姿は遠く、もうウキアの顔は見えない。その姿は小さくなっている。声が届いているかもわからない。遅すぎたかもしれない――それでも恋次は絶叫した。
「手前がどう思ってるかなんて知るか! ああもう知ったこっちゃねえ! 俺のしたいようにしてやる、手前の考えなんざ知るか! 戻って来やがれ! 月になんか帰んな! 此処にいろってんだよ!!」
 叫ぶ――絶叫する。喉が切れて鉄の味がする。それでも恋次は、更なる声で絶叫した。
「手前が好きなんだよ!!!」
 帰るな、戻れ、此処にいろ――お前が好きなんだ。
 見上げる月の光に変化はない。
 遠く、黒い多数の人影が月の中心へと吸い込まれるように消えていく。
 その月を見上げながら、恋次は「畜生」と唇を噛んだ。自分の莫迦さ加減に腹が立つ。
 全ては遅かった。想いを吐き出すことが遅すぎた。
 ウキアの気持ちが自分にないと知っていたから、自分の想いを伝えなかった。今更それを伝えたところで――遅すぎたのだ。
「……恋次さん」
「お前の言う通り、莫迦だな、俺は……」
 何故はっきりと想いを伝えなかったのだろう。ウキアが自分を好きかどうかなど関係なかったのに。ただ自分は間違いなくウキアに魅かれていると――それを伝えればいいだけのことだったのに。
 忘れられると思っていた。いつか必ず忘れられると。
 けれどこの喪失感は何だ。圧倒的なまでのこの空虚さは何だ。
 ウキアがいない、それだけで――全てを失ったような、この虚無感は何だ。
 ウキアを奪った月を睨むように見上げていた恋次は、その丸い月の中心に針の先程の黒い点が現れたのに気が付いた。
 その点はどんどん大きくなっていく。
 恋次の目が大きく見開かれる。
 ――知っている。
 既視感。間違いない、この感じを知っている。見る見る内に大きくなっていく黒い点、そしてそれはやがてはっきりと――
 両手を伸ばして。
 両手を差しのべて落ちてくる「それ」を――
「ウキア!」
 その華奢な身体をしっかりと受け止める。
 先程別れたばかりの、二度と会えないと思っていた少女は、泣きながら――子供のように泣きじゃくりながら恋次にしがみついていた。
「莫迦莫迦莫迦莫迦! 言うのが遅いっ、こんなぎりぎりで、こんな……ま、間に合わなくなるところだっただろう、この莫迦っ」
 うわあああ、と号泣するウキアと、その背中を「悪かった」と撫でる恋次の二人を見て、花太郎は安堵したような、けれどほんの少し淋しそうな笑みを浮かべる。
「お前が好きなんだ」
 はっきりとウキアに告げる恋次の声を背中に聞きながら、花太郎は足音を忍ばせてその場から離れていく。
 見上げた空には、既にいつもと変わりない大きな丸い月が煌々と輝いていた。

 


 月に帰る道。
 恋次の姿が足元に小さくなり、もうその表情も見えなくなり、ただ小さな点となってしまったその時に。
 恋次の声がした。
 幻聴かと思った。けれど確かにそれは恋次の声で、地上から叫んでいる。あと僅か上に登っていたら何を言っているのかは聞こえなくなっていただろう。そんなぎりぎりの場所で、恋次の声が聞こえた。
 何も考えられなかった。この場のことも、この後のことも、月のことも、何も。考える前に身体は動いていた。周囲の共の者が何も出来ない程速く――誰もウキアのその動きに対応できない程。
 月の道を思い切り蹴って、その身を空中へと踊らせた。
 共たちの驚きの声、それを頭上に聞きながら、引き上げられる月の光の力から外れた身体は一直線に真下へと落ちていく。耳元で空気の切る音がする。髪が風に煽られる。近付く地表、ウキアが落ちるその先に――二月前の初めて尸魂界へ降りたその時と同じように。
 恋次が手を差し伸べて。
 ウキアはその腕の中に飛び込んだ。


「お前が好きなんだ」
 恋次のその言葉に泣いた。嬉しい時にもこんなに泣けるのだと初めて知った。嬉しくて、此処にいられることが信じられなくて、ひとしきり泣いた後に「で」という恋次の声にウキアは顔を上げ――ようとして恋次の胸に顔を埋めた。
「? 顔上げろよ」
「嫌だ」
「あ? 何言ってんだ」
「嫌だ。絶対にいやだ。見せないぞ。何があろうと顔は上げないからな」
「……まあいいけどよ。で、だ。お前は俺をどう思ってるんだ?」
 さらりと尋ねられ、ウキアは「はあっ?」と思わず顔を上げた。途端、慌てて両手で顔を覆う。
「何で隠すんだよ」
「煩い、見るな莫迦!」
「お前の泣き顔なんざ何回も見てるぞ」
「う、うるさいっ! いいから見るなっ」
「まあそれは置いといて、お前、俺をどう思ってるんだ?」
 再び繰り返された質問に、ウキアは「莫迦かお前はっ」と唸り声を上げた。
 誰がどう考えてもわかるだろう。別の世界の者が、その世界全てを棄ててここに残ったのだ。そこに在るのがどんな感情か、聞かれなくてもわかるだろうに。
「――ルキア」
「あ?」
「ルキア。私の本当の名前。お前が私を本当の名前で呼ぶことを許してやる」
 月の世界の住人ではない恋次にはわからないだろう。真名を贈るというそのことが何を意味するか。だからルキアは、ルキアにしては素直に恋次にそれを告げることが出来る。
「ルキア。――ルキア」
 舌で響きを味わうように、恋次は何度もルキアの名前を呼んだ。その度にルキアの顔は赤くなる。
「それと。――お前の呼び名だが」
 愛の言葉など今まで口にしたことはない。誰かを好きになったことさえ初めてなのだ。こんなに、離したくないと思った相手は初めてで。
 想いが通じたとわかっても、そうすぐには素直になれない。
 ルキアは頬を染めながら、昂然と言い放つ。
「『ルキアさまのご主人』と、周囲の者にお前が呼ばれるようにしてやってもいいぞ」
 これのどこが愛の言葉か。――それともルキアらしいと言えばいいのか。
 笑いだす恋次にルキアは真赤になって怒り出す。両手を振りまわして激怒するルキアを、恋次は抱きしめて拘束する。
「で、お前は『阿散井副隊長の奥さん』と俺の部下に言われる訳だな」
「うるさいっ、別にいやならいいっ! お前は『ルキアさまの下僕』で充分だ、お前なんか――」
 突然唇が何かに塞がれてルキアは硬直した。見開いた両目に恋次の顔が映っている。それもものすごく間近に。重なるように。というより重なっている。
「!? !? !?」
 固まるルキアの唇から唇を離し、恋次はにやりと笑う――「まあ近い内にちゃんと『好き』って言わせてやるよ」と、それは自信に満ちた表情で。
「な、何、今、お前……っ!」
「追々な」
 ひょいとルキアを抱き上げて恋次は笑う。動揺して言葉を話せなくなっているルキアを抱きしめ、その髪に頬に唇で触れる。その度に気の強さは鳴りを潜め、どうしていいかわからずにおろおろとうろたえるルキアを幸せそうに見つめながら。












 月にこんな寓話がある。
 王家に生まれた二人の姫が下界に降りて伴侶を得、そのまま下界でいつまでも幸せに暮らしたと。
 それが事実なのかはもう誰にもわからないけれど、その話は恋物語として人々に愛され、いつまでもいつまでも語り継がれている。 











おしまい。








と、いうわけで。
遅刻しまくった「うさぎ化計画」最終話「ごしゅじんさま」終了いたしました!
楽しんでいただけたら嬉しいです。


緋真さんと白哉さんの二人は、既に話の中で両想いになってしまってるので実はネタがあまりなくて(笑)結構四苦八苦してたのですが、最後引き止めない白哉さんが出現してどうでしょう、読んでくださった方に焦って頂けましたでしょうか。
毎回オチがちゅーですみません。
だってちゅーが好きなんだもん。(開き直った!)

この後、尸魂界に滞在したうさぎさんたちは徐々に月での力を失っていきます。
ただ、満月の夜にだけは耳としっぽが生えるのでご主人方は内心喜んでます。ええ白哉さんもね!(笑)


それでは、お待たせしてしまって(待っていて下さる方がいらしたら)申し訳ございませんでした&最後まで読んでくださってありがとうございました!



2011.8.27  司城さくら