「いいか、水はここ、飯はこれだ。最初に一気に食うなよ? ちゃんと一回分ずつ食うんだぞ?」
「わかっていると何度言わせるのだ、貴様の頭の中に詰まっているのはスポンジか。大体私は食い意地の張っている貴様と違って小食なのだ! 一遍にこれ全部食べられる筈がないだろう、莫迦者!」
 たしたしとつま先を床に打ち、ウキアは細い眉を寄せて恋次を睨みつけた。怒った顔ですら気品が備わっているのはやはり育ちの所為か。
 皿に山と積まれた果実や菓子、痛みにくい食物の数々を横目で見ながらルキアは腕を組む。
 今日から一泊、恋次は現世へと降りる。
 この現世行は一月以上前から準備していたらしく、何でも恋次の仕事場である「護挺十三隊」に入隊したばかりの新人の訓練で、一番隊から十三番隊までの新人全てを預かり現世に降り、魂葬と虚の滅却の実習、実戦をするそうだ。率いる隊長副隊長は一年毎の持ち回りで、今年は恋次の所属する六番隊が当番……らしい。
 帰宅は明日の夕刻。つまりそれまで、ウキアは一人でこの部屋で留守番という事になる。
「花太郎に預けられれば良かったんだけどな……あいつも救護班で付いてくるからな」
 ぶつぶつと呟きながら戸締りを確認している恋次に、ウキアは呆れたように溜息を吐く。
「たかが一泊ではないか。何故こんなに食事が必要なのか、何故そんなに厳重にしているのかわからぬ。普段から私は昼の間は一人で留守番しているぞ。その時間がちょっと伸びるだけだろう」
「念の為だよ。万一帰ってこられなくなった場合の為にな」
 何でもない事のようにさらりと告げられた言葉の裏側の事実にようやくウキアは気付いた。
 恋次の仕事は「死神」だ。
 現世の正と負を調整するその仕事は巫女の自分の仕事と似ているが、大きく違うのは常に生命の危険が付き纏うという事。
 副隊長という地位は相当の実力を表しているが、それは即ちより強力な力のモノと向き合わねばならないという現実がある。
 つまり――帰って来られなくなる事態になるかもしれないのだ。
 背中がひやりと冷たくなった。
「――ああ、大丈夫だ、そんな危険なことはねえよ。新人研修だからそんな危険な事はしねえし、大丈夫だ。万一、っていうか兆一位な確率だぜ」
 僅かに顔色が白くなったウキアを見て、恋次は安心させる様にわしわしとウキアの頭を撫でる。その言葉に安心し、再びウキアは「何をする莫迦者! 髪が乱れる!」と怒りだした。
 それを気にせずににやにやと笑いながら、恋次はウキアの顔を覗き込む。
「お前が俺の心配をしてくれるとはなあ」
「な……っ」
「俺に何かあるのを心配してくれてんだろ? へー、可愛い所あるじゃねえか」
 図星を刺されて途端にウキアの顔が赤くなる。熱くなった頬はすぐにでも火を噴きそうだ。
「違う! 何を言っている、違うぞ莫迦者!!」
「そーかそーか俺が怪我するのが心配かー」
「だっ、誰が貴様の心配なぞするか! もし貴様に何かあったら、姉さまを探すのが大変になるから、だからそれを心配しているだけだ!」
 言った瞬間に自己嫌悪を起こすのはもう何度目の事か。自分の口の悪さと素直になれない所、自尊心の高さと意地っ張りな所に激しく落ち込む。
 所が恋次はその反応が返ってくる事を見越していたようで、怒ることなく「わかってるって、冗談だよ」と更に笑う。
 どうやら最初からウキアが恋次を心配する筈はないと思っているらしい。確かに自分の態度を省みればそれは至極当然のことだ。当然のことだが……そんな風に思われるのは切ない。
「まあ、兆一の確立だが、俺に何かあった時は楓に面倒を見てもらうよう言っておいたから安心しろ」
 途端、萎れていたウキアの瞳が険しくなる。大きく背伸びをすると、容赦なく恋次の横面をひっぱたいた。小さなうさぎの身ゆえ大したダメージを恋次に与える事は出来ないが、怒っているという事は十分に伝わったようで、恋次は怒るより先に呆れたように溜息を吐く。
「……本当にお前は楓が嫌いなんだな」
 いい奴なんだけどな、と残念そうに言う恋次の頬を、ウキアは思い切りよく引っ張った。「いててて」とそんなに痛くもなさそうに言う恋次に腹が立つ。
 楓――流魂街1区の花街、そこで一番と言われている花魁。
 恋次と深い関係にある女性。
 綺麗で艶やかで美しくて色っぽくて、――大人の女性だ。
 こんな小さな自分とは真逆の。
 月の世界の住人である自分が尸魂界に降りるには、能力を制限する必要があった為に大半の力が封じられ、その所為で身体は子うさぎ程度になってしまった。
 けれど、本来の姿に戻っても――自分があの楓に並ぶほどの美しさや艶やかさがあるとは思わない。
 女性の魅力という点で、ウキアは楓の足元にも及ばない。
 そんな楓が恋次の相手では、自分の恋が叶う筈などあり得ない。
 そう、今ではもう自分の中で結論は出ている――自分の想いの名前を知っている。
 自分は恋次が好きなのだ。
 なのに恋次は平気で楓の名前をウキアの前で口にする。当然だ、恋次は自分が恋次を好きだなんて微塵も思っていないのだから。そしてそれは自業自得だろう。自分の想いが通じないのは。
 それでも度々恋次が口にする楓の名前、それがウキアには悔しくて哀しくてたまらない。
 想いを口にできるほど素直ではなく、楓の名に平然とできないほど素直で。
 よって、楓の名前が出る度にウキアの機嫌は悪くなり、恋次に対して手が出、恋次はウキアが自分を嫌っていると再確認し、それ故に恋次に自分の気持ちが通じないという悪循環の繰り返し。
 素直じゃない、可愛くない、それはウキア自身が一番よくわかっているが――好きだなんて言える筈もない。恋次が自分の事を何とも思っていない事は明らかだから。
 恋に墜ちていても自尊心はあり、そしてそれが一番素直になれない要因でもあると気付いても、持って生まれた性格ゆえにどうしようもない。
「っと、そろそろ時間か」
 棚の上に置かれた時計に目を向け、恋次は身軽に立ち上がった。思わず不安そうに見上げるウキアにもう一度「大丈夫だって」と人差指でウキアの額を弾く。
「どうした? 随分弱気じゃねえか。やっぱり俺がいなくて淋しいってか?」
「だ、誰が淋しいものかっ! さっさと行け、それで暫く帰ってくるな!」
 こう言えばウキアがこう返すと恋次も解っているのだろう、乗せられたウキアが噛みつくと恋次は咽喉を鳴らして笑う。
 恋次がそんな事を言うから自分は本当に想っている事と反対の言葉を言ってしまうのだ。しかも恋次は自分がそう言う事、恋次を拒絶する言葉を吐く事を口にするのを望んでいるような気がする。
 つまり、慣れ合うなと――いうことなのだろうか。
 ウキアの気持ちも知らずに。
 自業自得だけど。
 でも、恋次が誘導しなければこんなたくさん、恋次を拒絶するような言葉は言わない筈だ。
 その拒絶の言葉を聞いて笑う恋次に腹が立つ。
「お前が俺を嫌いなのは解ってるから安心しろよ」と訳知り顔に笑う恋次が大嫌いだ。
 腹立ちまぎれにウキアは「早く行け、莫迦!」と地団駄を踏む。
 癇癪を起すウキアに「そうだな、そろそろ行くか」と怒りを受け止めずに流す恋次が癪に障る。
「じゃ、行ってくるからな。外に出るなよ? 飯は一遍に食うなよ? わかったな?」
 何度も何度も念押しする恋次からウキアはぷいっと盛大にそっぽを向く。
 ウキアが向いたそっぽをやめる前に、ぱたんという扉の閉まる音がした。慌てて視線を戻すと、そこには閉まった扉と、目の前でかちゃりと鍵のかかる音。
 そして、しんと静まり返った室内。
 慌てて窓の前に置いてある机によじ登ると、歩き去っていく死覇装の背中が見えた。
 ――振り返らない。暫くその背中を見護っていても、恋次が振り返る事はなかった。
 これで明日の夕方までひとりきりだ。
 恋次は現世に降りていく。
 実戦経験の乏しい新人たちを連れ、「虚」という危険な存在と闘う為に。
 怪我はしないと恋次は言う。怪我をするのは兆一の確立だと言う。
 でも、例え一兆に一回の確率でも、それがないとは言い切れない。一兆に一回の確立が最初に来ないとは言い切れない。一兆に一回は必ずあるというのなら、それが今回ではないと何故言い切れる?
 ウキアは意を決したように顔を上げた。
 想いを制御出来ないのは、恋という病に必ず生じる症状だろう。









 広大な屋敷の一番奥の一帯、そこが朽木白哉の生活空間となっている。
 何室も連なる部屋の中で一番景色の良い部屋、そこに置かれた大きな座椅子――勿論朽木家当主が座るのに相応しい外見と値段のもの――に座る白哉の膝の上には、ちいさなちいさな、うさぎの耳を生やした少女がちょこんと座っている。
 白哉は出発までの時間、頭を撫でながら静かにうさなと言葉をかわしていた。
「明日の夕刻には帰って来る」
「はい、白哉さま」
「危険な事は何もない。うさなが心配することはない故、安心して待っていると良い」
「はい、お帰りをお待ちしております、白哉さま」
 見上げるうさなの瞳には信頼と愛情が溢れている。そのうさなを見る白哉の瞳は、限りなく優しい。
 既に互いが互いを想う気持ちを確かめあっている二人には、毎日が甘い蜜月だ。白哉が家にいる間、うさなの定位置はその膝の上と決まっている。そこで交わす言葉の数は物静かな二人故にそう多くはないが、交わす言葉一つ一つに深い愛情が満たされている。
「今回は仕事故、土産を買う時間は取れないが……次に降りた時にはうさなが好きそうなものを買ってこよう」
 うさなは甘いものに目がない。それらを口にする時のうさなは本当に嬉しそうで幸せそうで、見ているだけで白哉は幸せだ。
 今度現世に降りた時は『洋菓子』なる物を買ってこよう、とうさなの頭を撫でながら白哉は思う。
 うさなと同じ純白のクリームで飾られた『ケーキ』は、きっとうさなと同じようにやわらかくて甘いのだろう。
 それを目にした時の、うさなの驚きでまんまるに見開かれる目が思い浮かんで白哉は小さく笑った。
「白哉さま?」
「いや、何でもない」
 新人を尸魂界へと帰す際に、最後尾で全員の安全を確認してから、それから一人現世に戻って土産を買うかと算段していると、部屋の外から「白哉様」と遠慮がちな声が聞こえた。
「そろそろご出発のお時間でございます」
 控え目に告げられた言葉に、うさなとの時間の終わりを知って内心溜息を吐きつつ、傍目には平素と変わらぬ冷静沈着な面のまま白哉はうさなを抱き上げ床にそっと置く。
「それでは行ってくる」
「はい、行ってらっしゃいませ、白哉さま」
 静かに立ち上がり、白い羽織を羽織って襖を開く。既に控え、頭を垂れて迎える従者の若宮に軽く頷きながら白哉は玄関に向かって歩き出した。その後ろを、白哉を見送るべくうさなが懸命に追っていく。
 うさながうさぎにしか見えない従者たちの目には、白哉を必死で追いすがる小さなうさぎにしか見えない。そしてその小さなうさぎの愛らしさは見る者すべての顔に優しい頬笑みを浮かべさせる。
「本当にこのうさぎは白哉さまが好きなのですね」
 その言葉に返す白哉の言葉はない。けれど、白哉を良く知らぬ者には全く変化はないとしか思えないその主の表情が穏やかになったことを、代々朽木家に仕えている若宮には読み取れた。
「貴女も白哉さまの見送りをしますか?」
 うさなに視線を合わせる為に廊下に膝を付き、若宮はうさなを覗き込んだ。ちいさなうさぎはその言葉を理解したように、垂れていた両耳がぴんと立ち上がる。
 ところが次の瞬間には、うさぎは立ちあがらせた耳をぺたんと垂れさせて、白哉と若宮を困ったように交互に見る。まるで、「そんな出過ぎた事をしては白哉さまに迷惑が……」とでも言うように。
「見送ってくれるのならば、私も嬉しい」
 笑みを含んだ白哉の言葉が若宮の耳に入った途端、目の前で再びうさぎの耳がぴょんと立ち上がる。そしてうさぎはそのまま白哉の差し出した手の中に向かって飛び込んだ。



 うさぎを連れていくのは自分かと思っていた若宮だったが、白哉は当然のようにうさなを自らの手で抱き、若宮には大きな籐の籠を持ってくるように命じた。それは蓋と、その蓋に持ち手の付いた鞄のようになった籐の籠で、白哉が購入した特注品だ。小さな動物を運べるように作られたそれは普通の鞄に比べれば大きく、そして外観は可愛らしいうさぎに合わせたのだろう、ピンクのリボンで飾られている。
 大の男がそれを持つには相当勇気のいる代物であるその籠を、真の忠誠心を持った若宮は戸惑うことなく手にして白哉の後を歩く。貴族たちが多く住む居住区ではすれ違う隊員たちは皆無だったが、集合場所である北の黒陵門に近付くにつれ隊員たちもちらほらと目につくようになった。
 この現世行は新人の研修だと若宮は聞いている。護挺十三隊に入隊したばかりの新人を連れ、実戦に慣れさせるために虚の滅却を主として行われる毎年恒例の行事。その今年の担当が六番隊と言う事らしい。若宮自身は護挺十三隊の隊員ではないが、現在の十三隊の隊長の人となりや隊風などは主に関係すること故に知識として知っている。それを鑑みるに、十一番隊と十二番隊の担当の年の新人は大変だろうと、この先5年後と6年後に入る者たちを哀れに思う。
 そして今年の新人たちは、噂で聞く「大貴族朽木家現当主の六番隊隊長」「決して感情を乱さず表情を出さない」朽木白哉のその腕の中にある白いふわふわした塊がまさか小さなうさぎだと思わず(それに大方の新人は真正面から朽木白哉を見る事すら出来ない)通り過ぎてからその霊圧の強大さに感嘆の溜息を吐き後ろ姿を見送るだけだった。
 故に、白哉はうさぎを抱いていることに気付かれず、全員が集合するまでの間白哉が待機するために簡易で作られた小さな室へと入った。
「すごい人です、白哉さま」
 初めて見る多くの死神、そしてその霊圧の大きさにうさなは椅子にかけた白哉の膝の上で窓の外の景色を見、そう言った。
「この人たち全て白哉さまの部下なのですか?」
「いや、此処にいるのは殆どが他隊の隊員だ。――六番隊の隊員は、新人を除けば――この場には三、五、七、九席がいる」
「奇数の方ばかりですね? 偶数席の方は本日はいらっしゃらないのですか?」
「南門の方に居る。今回は北と南、二つに分かれて現世に降りる。私は一番隊から七番隊まで預かり、恋次――六番隊副隊長が八番隊から十三番隊を預かっている。四番隊は半数ずつ私と副隊長が受け持つ。四番隊は救護の実践も兼ねている故、二つに分かれた。最終的に向こうで合流するが、数が多い故こうして分かれて修練させている」
 白哉はうさなの前で仕事の話をする事がなかったため、うさなは興味深そうに白哉の話を聞きながら外の黒い死覇装の人々の姿を眺めている。その中に、今も、そして過去にもその名前を耳にした事のあるたった一人の人物、「阿散井」という人がどの人かと白哉に尋ねたところ、白哉はやや微妙な顔をした。
「恋次は南門を指揮しているが――何故だ」
 その微妙な雰囲気を聡く気付いたうさなは、小さく首を傾げて白哉を見る。
「以前、白哉さまが阿散井さんの名前を口にした時、とても信頼しているようにそのお名前を口にしたので――」
 お会いしてみたくて、と可愛らしく告げたうさなに、更に白哉は微妙な顔になった。
「拝見できなくて残念です。――どんな方なのですか?」
「……能力はある。部下を纏める力もあるし、実戦も事務処理能力も高い。が――決定的なまでに――柄が悪い。それに趣味も」
 返事に困りうさなはぱちぱちと瞬きして白哉を仰ぎ見る。
「うさなにあの柄の悪さと趣味の悪さが移っては大変だ。会わぬ方が良い」
 一度うさなの頭を撫でてから、白哉は「そろそろ行かねばならぬ」とうさなを抱き上げた。
「はい。お気をつけて、白哉さま」
「行ってくる」
 扉を開け、外に控えていた若宮の手に名残惜しそうにそっとうさなを移す。気丈に見送りの言葉をかけたうさなだったが、その耳がぺたりと垂れているのを見れば、淋しがっているのは一目瞭然だった。思えば白哉に出逢ってから、白哉と一日以上離れた事はないのだ。
 扉を出た白哉の元へ、直ぐに4人の隊員が駆け寄った。それが恐らく席官たちなのだろう、歩く白哉の後に従う。
 その歩く速度と共に、集まっていた隊員たちの視線も動く。全ての者たちの視線を受けながら、それを全く意に介さず無表情に白哉は歩く。それを少し離れた所に立っている若宮の腕の中で見ていたうさなは、他の新人隊員と同じようにうっとりとしながらその凛々しい白哉の姿を追う。
「それでは、これから明日までの日程を説明する。――」
 紙を手に声を上げた白哉の部下の声を聞きながら、うさなと隊員たちは白哉を見る。その場に居る者たちの視線を引き寄せずにはいられないその美しさは、容姿だけではなく霊圧の美しさでもあった。制御していてでさえこの強さ――その事実に新人たちは圧倒される。
 その白哉が、突然顔を上げた。青い空を鋭い視線で見上げる。そして白哉と同時にうさなもまた。
 瞬時に「それ」を感じたのは、この場では白哉とうさなだけ――そしてその他の者たちは。
 地響き――烈しい物音と、足元を揺らす振動。
 そこでようやく、気付く。
「え……――?」
「何――……?」
 ざわざわと揺れる空気、次いで――
「何だ!?」
「何だよコイツ!?」
「やばい、何だよこれ……っ!!」
「それ」を目にした者たちから、次々に伝播していく恐慌。
「や……っ!」
「何、やだ、助けて……っ!」
 怯える者。竦む者。呆ける者。混乱する者。
 我先にと逃げ出そうとする者が、恐怖に立ち竦む者を突き飛ばし、それに躓き倒れ、悲鳴が上がり混乱が広がっていく。
 一瞬にして恐怖に叩きこむ程の――「それ」の力。
 見た事のないその姿、感じた事のない得体の知れない霊圧。
「それ」が咆哮した。
 途端に今までの比ではない混乱が巻き起こりる。
「何故――禍殱、が」 
 悲鳴と怒声と恐怖の中、うさなが「それ」を見詰め、震えながら呟いた声を、誰も聞く事は出来なかった。










 現在のウキアの大きさは20センチほどで、子うさぎ程度の大きさしかない。
 故にどんなに一生懸命走ってもその歩幅は推して知るべしで、只でさえ大柄な恋次の歩幅には適う術もなく、よじ登って力任せに開いた窓(それでもウキアがやっと通る程の隙間しか開けられなかったが)の隙間から外へと飛び出して恋次の姿を探した時にはその姿はもう影も形もなかった。
 それでもウキアは恋次が「南にある」「しゅわいもん」に向かう事を会話の中で口にしていた事を覚えていたため、迷うことなく南に向かう。「しゅわいもん」の場所がどこかは知らなかったが、恋次と同じ黒い着物を着た人々が歩く後ろをこっそりと付いていき、やがて数えるほどしかいなかった人が徐々に増えだし、大きな広場に着いた時には死覇装を身にまとった黒一色の人の群れにウキアは圧倒されやや呆然とその黒い集団を見ていた。
 小さいウキアにはこれだけ人が集まっているとそれだけでその身が危うい。踏まれでもしたらそれだけで致命傷だ。人の密集地は避け、大周りに迂回しながらそれでも目で恋次を探す。誰もいなければ目立つ筈の恋次のその体躯も、これだけ近くに人が立っていればウキアの視界にはそれしか映らない。このままでは会えないまま出発の時間になってしまう。焦りながら恋次を探して走るウキアの身体が、突然宙へと浮上がった。次いで、激痛。
「!?」
「何でこんな所にうさぎがいんだよ?」
 耳を掴まれて宙に持ち上げられたウキアは、痛さのあまり悲鳴を上げた。今までそんな仕打ちを誰にもされた事はなく、怒りよりも先に驚きが勝ってしまった。そして、激しい痛み――全体重を耳で支えているのだ、誇張ではなく耳が千切れそうなその痛みに、逃げようと暴れることすらできない。ただ悲鳴を上げるしかなく、そしてその悲鳴もウキアの耳を掴んでいる男には声としては聞こえない。
「ちょっとやめなよ。うさぎは耳を掴んで持ち上げちゃダメなんだよ」
 制止した九番隊の少女は、「うるせえよ」という十一番隊に配属された少年の――というには大きすぎ、もう男と言っていい――凄んだ声に怯えて口を噤む。
「虚より先に捻り潰してやろうか?」
 面白そうに覗き込む男に、ウキアは震え上がった。あまりにも粗雑なその振る舞いにただ声もなく怯える。現世へ降りるこれからに、隊長格の見ている前で手柄を立てようと血気に逸っているその新人は、自分の気分を盛り上げるためだけにウキアをあっさりと殺そうとしているのだ。
 耳が千切れる事を恐れて動かずにいたウキアは、悲鳴を上げて暴れ出した。気が遠くなるような痛み、それでも痛みが強すぎて気絶する事は出来ない。「離せ!」と滅茶苦茶に手足をばたつかせる。
「おーおー、暴れちまってなー、無駄なのにな―」
 声の底の残虐な響きに怯え、どう足掻いても緩む事のない拘束に絶望しながら、それでも必死に逃れようと暴れ続ける。
 大人しく家で待っていれば良かった。そうしたらこんな事にはならなかったのに。でも、ただ遠くからでも恋次を見送りたかっただけなのに。
 ぐ、と男の手がウキアの首を掴んだ。大きな手は片手で優にウキアの咽喉を完全に掴みきる。このまま力を込めれば、ウキアの細い首などあっさりと折れてしまうだろう。
「やだ……やだ……」
 あまりにも唐突に目の前にある「死」に、ウキアはぽろぽろと涙を流す。
「……恋次っ……」
 自分の生命が消えるその瞬間が恐ろしく、ぎゅっと目を瞑ったウキアの身体が突然落下した。突然の事に受け身を取る暇もなく、何が起こったかわからない混乱した頭のまま落ちていくウキアの身体を大きな手が受け取った。
 無言で見下ろすその紅い髪の男が誰なのか、この場に集まる全ての者がわからぬ筈がない。突然現れた恋次に指を抉じ開けられた十一番隊の新人は、何故自分が六番隊の副隊長に、殺されそうな――紛うことなき殺気をぶつけられているのかわからないまま、ぱくぱくとただ口を動かした。
「――無暗に弱いものの生命を奪うな、馬鹿野郎」
 本当はもっと違う言葉を叩きつけたいような、そんな葛藤と激しい怒りを滲ませて六番隊副隊長は恐ろしい程の殺気を吹き上げながらそう言った。
「は、はい」
「さっさと向こうに行け。もうすぐ出発だろうが」
 射殺されそうな視線を受け止める事が出来ず、あ、う、と言葉にならない声を残して十一番隊の新人は逃げるようにその場から立ち去った。その新人には目もくれず、厳しい視線のまま、恋次は手の中のウキアに「何でこんなとこに居るんだ莫迦が!」と怒鳴りつけた。
「家に居ろって言っただろうが! のこのこ外に出て来やがって、そんなに死にてえのか手前は!」
「うっ……ぅ」
 声もなく震え泣いているウキアを見下ろし、恋次はちっと舌打ちした。それから一つ溜息を吐いて、「ったく」とウキアを懐の中に放り込む。
「怒鳴って悪かったな。ほら、もう大丈夫だろ」
 いつもの場所、一番安心できる場所、そして聞いた事のない恋次の優しい声音に、ウキアは堰を切ったように声を上げ激しく泣き出した。ウキアがここまで感情を他人の前で表した事は今までになく、意地も強がりも姿を潜め、ウキアは恋次にしがみつき泣き叫ぶ。
「こわか……っ、死んでしまうと……思っ……」
「ああ、怖かったな、直ぐに気付かなくて悪かった」
「れんじに、会いたくてっ……でかけにっ、お前がへんなことっ、いうから……っ、だから、こわくなって会いに、きたのに……っ」
「悪かった、ウキア。悪かったよ」
「う、うわ、あ、あ………っ!」
 泣きじゃくるウキアの身体を、恋次は死覇装の上からぽんぽんと叩いた。子供をあやすようなそのリズムに、暫くするとウキアの気分も落ち着いてくる。
 落ち着いてくると、自分の行動に顔から火が出る思いだ。しかも恐慌状態にあった自分が何を口走ったかが思い出せずに、ウキアは恋次の懐の中で硬直する。
「――落ち着いたか」
「………………………ああ」
 顔を見せず俯いたままのウキアを抱いたまま、「さて」と恋次は腕を組む。
 このまま一人で家までウキアを返せない。自宅周辺にはうさぎを襲う犬などはいないが、この近辺には民家もなく広大な自然が広がっているため、犬の姿をよく目にする。別れた途端、先程のような馬鹿な新人がまた出て来ないとも限らない。また、街中でぴょんぴょん跳ねているちいさな(しかも可愛い)うさぎを見れば、飼いたいと捕まえようとする奴がいてもおかしくない。小さなうさぎにとっては危険だらけだ、だから家でじっとしていろとあれだけ何度も念を押したのに。
 一人で家には返せない。けれど家に送る時間の余裕はない。
「すまねえが四番隊の七席――山田を呼んで来てくれ」
 集まって来た新人の整理をしていた六番隊八席に声をかけると、理由を尋ねる事はなく「はい」と返事をし、駆け出して後すぐに花太郎を連れて戻って来た。
 今年のこの新人研修の担当は六番隊だが、実際に怪我をした隊員の救護に当たるのが四番隊の新人だけだと心許ない為、四番隊からも席官が数人補助として付く。運よく南門の方に花太郎が配属されている事に感謝しつつ、恋次は「どうしましたか」と駆け寄る花太郎を人の輪から離れた場所へと連れて行った。
「阿散井副隊長?」
「問題が起きた」
「問題?」
「これだよ」
 死覇装の胸元をくいっと開くと、その逞しい胸の下、気まずそうな顔をしてウキアが花太郎を見上げていた。幾分その頬が赤い。
「家を抜け出して来てな。一人で帰すには危なすぎるし、かといって家まで戻ってる暇はねえ。で、だ、花太郎」
「はい」
「お前、ウキアを預かってくれ」
「連れていかれるんですか!?」
「仕方ねえだろう、置いていけねえし一人で帰せねえし連れ帰る時間もねえ!」
「でもそれなら阿散井副隊長がそのままお連れすれば……」
 ウキアはとても小さいので、恋次の懐に入っていても誰も気づかないだろう。花太郎も恋次に告げられるまで気付かなかったのだ。そして当事者同士は全く気付いてはいないようだが、花太郎は恋次とウキアが互いを想っている事は既に感じている。故に、自分がウキアを預かる事は恋次にとって楽しい事ではないだろうし、ウキアにとっても居心地が悪いだろうとそう進言してみるが、恋次は即座に首を横に振った。
「俺は現世に着いたら虚相手しなくちゃならねーからよ。……危ねえだろ」
 ウキアが、という主語は恋次は言わなかったが勿論花太郎には伝わった。
 自分の不快感よりウキアの安全を恋次は取ったのだ。
「お前のその鞄の中に入れてもらってもいいか? それが俺も一番安心できるんだが」
 懐に、と言わない所が恋次の想いが現れているのだろう。本人は気付いていない、無意識の事なのだろうけどと花太郎はくすりと笑う。
「そう言う事でしたら、了解いたしました。大切にお預かりします」
 ほっとしたように恋次は微笑んで、「悪ぃな」と懐からウキアをそっと取り出した。花太郎が鞄の中に入っていた薬などを取り出し懐へと移し替え、その空になった鞄に恋次はウキアを入れる。
「暴れんなよ?」
「わかっている」
「ついさっきもそんな事言ってあっさり約束破った莫迦がいたっけな」
「莫迦とは失礼だろう! 私はただ、貴様を……」
 見送りに、などと素面で言える筈もない。その後はもごもごと口の中で言葉を濁すウキアに、恋次が何かを言い返そうとした――その、瞬間。
 恋次とウキアは同時に空を見上げた。
 青い空が続く。透き通るような空、雲ひとつない青い空に、真昼の白い月が浮かぶ。
 その白い月に、小さな黒点が見える。針の先程の小さな黒点。
 それが見る間に大きさを変え、――それと共に、はっきりとしていく、死神とも虚とも微妙に違う、そして圧倒的な霊圧。
「何だ――?」
 恋次の緊張感を孕んだ声に、花太郎は首を傾げた。花太郎には恋次とウキアが感じる「違和感のある霊圧」は感じられなかった。それでも二人が酷く緊張している事は解る。何だろう、と恋次とウキア、二人が見上げる空へと視線を向ける。
「……何かが……落ちてくる?」
 その時には、その空から落ちてくるモノの姿が、視覚として確認できた。
 黒い――闇が煮屈められたような、邪悪さを色彩に変えたような、そんな――黒色。
 鋭い針のような体毛を持った、象ほどもある大きさの、けれどその体格は猫科のそれだ――獲物を狩るに適した、流線形の造形。
 その闇一色の身体の中で、たった一つ色を持つ――顔の真中に爛々と光る、月の輝きを持つ金色の一つ目。
「それ」が地響きを立て、黒陵門の前に降り立った。
『―――――――――――――――――――!!!!!!! 』
 耳を劈く咆哮――びりびりと空気が振動する。鼓膜が破れる程のその咆哮は、その場に居る誰の耳にも「音」として聞こえない。空気の振動でしか伝わらない。
「う、わ―――――ああああああああああああああああ!!!!!!」
「な、何……っ!?」
「やだ、いやあああああっっっ」
 途端、周囲の新人たちが恐怖と混乱の叫び声を上げ、その場がパニックに陥る。四方八方へと我先に逃げ出そうとする新人と得体の知れない生き物を目にし、恋次は斬魄刀を抜き払った。
「何ですか、あれ……っ!」
「花太郎、ウキアを頼む。全速力でここから離れろ」
「は、はいっ!」
「松永、朽木隊長に伝令ッ! 橋本ッ、総隊長以下他隊隊長に連絡ッ! 柵木、細井、四番隊席官、新人を保護しながら撤退! 護挺十三隊に戻り、総隊長の指示で動け! 散開!!」
 矢継ぎ早に指示を出し、恋次は斬魄刀を手に、人の流れとは逆に「それ」に向かって走っていく。
「だめだ、恋次! それに斬魄刀は効かない……っ!」
 ウキアの悲鳴は、周囲の悲鳴や怒号に紛れて恋次の耳には届かない。身を乗り出すウキアを慌てて抱き止める花太郎の耳に、ウキアの悲痛な声が突き刺さった。
「戻れ恋次! それは禍殱だ……っ!!」
『まがつ』。
 聞き慣れないその単語の意味を考える余裕はなく、花太郎は暴れるウキアを抱きしめ、人の流れと共に瀞霊廷へと向かい走り出した。 










 混乱の坩堝と化したその場で、真先に動いたのはやはり白哉だった。
 さすがに新人とは違いうろたえることはなかった周囲に並んでいた席官に、微かな揺らぎを感じさせることのない普段と全く同じ声音で静かに「総員、隊員を護り撤退。佐々木、一番隊へ。吉岡、恋次に伝令」と短く告げる。
 そして一瞬で席官が散っった後、白哉は若宮に視線を向けた。
「うさなを連れ屋敷に」
「は」
「白哉さま……!」
 うさなの声に応えることなく、白哉はすいと足を踏み出し、正面の闇色の生物に恐れ気なく向かって行った。黒い髪が滑らかに後ろへ流れる。
「待って下さい! 禍殱はこの世界の刀では……っ!」
 叫ぶうさなの声は若宮には聞こえない。主の命通りにうさなを抱きかかえたまま他の隊員たちと共に走り始めた。若宮は死神ではないが、朽木家に仕えている以上それに準じる訓練は受けている。死神たちに比する速さで走っていると、若宮の後方を走っている死神たちが恐怖の叫びを上げた。
「追ってくる……っ!」
 その声につられ背後を見遣った若宮は、全身を鋭く尖る黒い体毛に覆われた、巨大な黒い生物が一つしかない目を金色に輝かせて追いかけてくる姿に恐怖した。今まで目にした事のない生物、未知の物に恐怖する。
 その集団と謎の生物の間に優美な姿が入った。
 銀の光が一閃する。
 きいん、と耳を劈く金属音が響き渡った。
 息を飲み見守っていた新人たちは、驚きの声を上げた。確かに斬りつけた筈の生物には全く傷が見えない。何の影響も受けず、ただその追撃の足は止まった。
 金色の目が白哉を捉える。きしゃあ、と口を開いて威嚇するその生物の口の中には、鋭い鋸状の歯が三重に連なっていた。
 前足で白哉を薙ぎ払う。それを瞬時に飛んでかわしながら、その落下の勢いを得て白哉は首に向かって刃を叩きこんだ。再び金属音が響き、白哉の斬魄刀は弾き飛ばされる。
 地に足を付けた途端、再び襲ってくる黒い前足を後方に飛んで避ける。辛くも攻撃は避ける事が出来たが、弾け飛んだ斬魄刀からは距離が開いた。
 金色の目が喜悦に輝く。目の前の小さな生き物が武器を失った事は解るのだろう。二撃三撃と白哉の身体ほどもある太さの前足を敏捷に繰り出す。避けるしかない白哉は徐々に後方へと押されていく。
 黒い前足が、先程までうさなが白哉と共にいた小さな建物を薙いだ。次の瞬間、地を揺るがす音と共に建物の一部が崩れ落ちた。まるで豆腐の角を包丁で切り落としたように、すっぱりと天井から壁の一部が切られている。無表情で黒い生物を見る白哉に見せるようにその生物は前足を振った。そこには鋭く長い爪が生えている。
「白哉さま……っ!」
「あっ!?」
 逃げる若宮の腕から後方を見ていたうさなは、悲鳴を上げて一気に飛び降りた。「うさな!」と叫ぶ若宮の声を振りきって白哉の元へと走る。小さな身体で白哉の元へと走り寄るうさなに、はっと顔を上げたのは白哉だけではなかった。
「―――――ッッッ」
 白哉の耳には声とは聞こえない、空気を震わすような音波を出し、目の前の黒い生物は視線を白哉から外し背後を振り返った。そこにうさなの姿を見、巨大な身体を反転させる。
 自分に一直線に向かってくる黒い姿に立ち竦むうさなの身体を、瞬歩で現れた白哉が掬いあげた。硬直しているうさなを腕に抱いたまま右に逸れると、黒い姿もそれを追い進路を変える。
 白哉はそれを見ると再び瞬歩でその後方へと移動し、うさなを地に置きその場から離れ、囮になる為に一度迂回してから黒い生物に向かって走る。が、金色の目は白哉を追うことはせずうさなを見据え一直線に突進してきた。うさなが何かを悟り、白哉から離れるように走って距離を取る。その小さな姿に向かって黒い生物は地を蹴って走り出した。
 これは、と白哉が眉を寄せる。この未知の生物の動きはどう考えても。
「来てはだめです!」
 悲痛な声を上げ追う白哉から身をかわすうさなの身体を抱き上げ、白哉は再び瞬歩で黒い生き物の背後を取った。突然消えたうさなの姿に、黒い生き物は気配を探るように頭を低くして唸り声を上げている。
「――禍殱は、私が目的のようです」
 うさなの小さな声が白哉の腕の中からした。蒼褪めた顔で白哉を見上げている。
「禍殱?」
「あの黒い生き物です。私の世界の獣です。森の奥深くに居る筈の獰猛な。――何故、此処に」
 きゅっと小さな手が白哉の着物を掴んだ。無意識なのだろう、小さく震えている。
「禍殱と同じ波動を出しているのはこの世界に私だけ。だから私を追ってくるのでしょう」
「追って――どうすると?」
「恐らく、……」
 その先は何も言わずに目を伏せるうさなに、白哉の目が細くなった。
「私から離れてください。軽率でした、白哉さまに近付くなんて。白哉さまに危険が及んでしまった」
 言葉を交わす間にうさなの気配に気付いたのだろう。背後を振り向き金色の瞳がうさなを見る。咆哮する禍殱を白哉は見詰めた。
「心配するな。私があれを倒す」
「無理です! 禍殱はこの世界の物質では傷付けることはできません! ですからどうか逃げて……私を捕らえれば禍殱も満足する筈です」
「それを私が了承すると?」
「白哉さまが傷付くくらいなら、私が死んだ方がいい!」
「うさな」
 鋭い声にうさなはびくっと身を震わせた。見上げる白哉の顔が、今まで見たこともないほど厳しい顔をしている。
「二度とそんなことを口にするな。お前にそんな事をしてもらっても私は嬉しくない」
「でも……っ、でもっ!」
「大丈夫だ。お前を傷付けない。私も傷付かない」
 そっと撫でられた白哉の手の優しさに、うさなの恐怖で昂ぶっていた心が落ち着きを取り戻した。泣いて叫んでみても状況は好転しない。禍殱のことを知るのは自分だけだ。自分を見離さないと言う白哉を助ける事が出来るのも。
 距離を詰める禍殱の前から、再び瞬歩で白哉は移動する。今度は更に遠く離れた場所へ移動した。うさなが禍殱の目的と解った以上、禍殱の邪魔さえしなければ他の者への被害はないだろう。
「……白哉さま」
 腕の中のうさなが白哉を見上げて言う。その薄紫の瞳が強い決意を湛えていることに気付き、白哉は視線でうさなの言葉の続きを促した。
「私も禍殱と闘います。――白哉さまと私、二人で無事帰る為に」







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