心地いい声に揺り動かされ、ルキアは「ん……」と声を上げた。
 聞いているだけで幸せになる、そんな声。
 うっすらと目を開けると、部屋の中は眩しいほどの朝の光に満ちていた。きらきら光る目映さに一度目を瞑って枕に顔を埋めると、「ルキアさま、そろそろご起床を」と声がする。
 先程夢心地で聴いた声はこの声だったか、とぼんやりと考えていたルキアは、次の瞬間がばっと身を起こした。
 完全に目覚めた頭で襖を見たが、そこに既に人の気配は無い。
「…………?」
 気の所為か、とルキアは小さく首を振った。そう、此処で聞くはずは無いのだ、その声を。
 頭をはっきりさせるためにルキアは思い切り伸びをし、今日一日は何をしようか、と考えながらルキアは夜着から部屋着へと着替え始める。
 白哉は昨夜遅くから一人外出をして、明日まで戻ってはこない。
 白哉の外出は毎年この時期に必ず行われることで、この日が平日だと休暇を必ず入れて外出する。
 その行く先は誰も知らないが、ルキアはそれが自分の姉である緋真に関係しているのだろうと、薄々気付いていた。
 姉の命日。
 その日だけは誰にも干渉されずに、姉との想い出と共に過ごしたいのだろうと、ルキアは思っている。
 身だしなみを整え大広間へと向かう間にも、通り過ぎる従者達に頭を下げられ、ルキアも挨拶を返す。周囲の者たちの、自分に対する「朽木家のお嬢様」扱いに関しては、やはりいまだに慣れたとは言えないが、それを享受することも、この家に引き取られた自分の役目、そして引き取ってくれた兄に対する感謝の表し方だと納得はしている。だから今日も広間に入った途端「おはようございます」と一斉に下げられる頭に、ルキアは頷き返し、用意された食卓に座る。
 普段ならば兄もいるその卓は、今日は誰も居ない。
 席に付くと、一斉に従者達が動き出す。主に給仕をするのは、ルキア付きの最古参、老齢に差し掛かったがまだ上品な藤井という女性で、その補佐として何人か傍にいるのが常だ。
 今日は藤井と小柄な若い女性、そして珍しいことに男の従者も付いている。長い黒い髪をきちんと束ねた背中にちらりと目を向け、随分大きな男だな、とルキアは思った。
「お茶をお持ちいたしますか」
 かけられた低い声に、「そうだな、では一杯……」と言葉を返す途中で絶句した。
 がばっと横を―――声の方向へと勢い良く向き直る。
 そこには、
「な、なに、何をして―――」
 紅い髪を何故か黒く変化させ、どういうからくりか、彫られた刺青がすっかり消えた、けれど紛れもない恋次の顔で―――男はルキアにだけ見える角度でにやりと笑った。
「おはようございます、ルキアさま」
「何故お前が此処にいるのだ恋次!」
 裏返った声に、藤井が「まあ」と小さな声を上げてルキアの元へとやってきた。
「ルキアさまはこの者をご存知で?」
「え、あ、―――」
 この風体から言って、恋次はまともな方法でこの屋敷に入り込んだとは思えない。なんと言っていいかわからずに口篭ったルキアの横で、恋次は平然と「六番隊で時折お言葉をかけていただいております」と頭を深々と下げた。
「このような無作法物が、ルキアさまのお目を汚すことをお許しください。改めまして、早蕨連理と申します。明日の朝まで、この家の警護とルキアさまのご守護を隊長より命じられました」
「な、なに!?」
「朽木隊長からの文書でございます。どうぞお読みください」
 懐から差し出された、四つ折りにされた紙をルキアは茫然としながら受け取った。かさりと音を立てて開いてみれば、確かにそこには兄の筆で、今日と明日の朝まで、朽木邸の警護とルキアの守護を頼むと書いてある。
「なるべくご迷惑をおかけしませんよう働かせていただきます」
 再び頭を下げる恋次に、藤井は「既に面識があるのでしたら良かったですわ」と微笑んだ。
「やはり、見ず知らずの男性をルキアさま付きにするのは、と思っておりました。六番隊隊員でしたら白哉さま直属。滅多な者を白哉さま自らルキアさまの警護にと仰いますまい。では今日一日、頼みますよ早蕨殿」
「はい、お任せください、藤井様」
 神妙に応え、今度は藤井に向かって深々と頭を下げる。普段から姿勢の良い恋次が頭を下げると、きっぱりとしたとても形の良い礼になる。堂々たると言い換えてもいいその礼に藤井は安心したように微笑み、さあルキアさま、と食事を勧めた。




 何を食べたかどんな味だったのか、全く記憶に無い食事を済ませ、後片付けに入る藤井へ礼を言い、ふらふらと部屋に戻ると、背後から当然のように恋次が付いてくる。
 部屋の入口でぴたりと正座をし居住まいを正す恋次に向かい、ルキアは「さて」と恋次を睨みつけた。
「説明してもらうおうか阿散井恋次!」
「早蕨連理」
「何を莫迦なことを言っているこの莫迦!」
 怒鳴りつけるルキアに、恋次は「大声出すと何事かと思われるぞ」と平然と言う。
「何を平然と……大体さっきの手紙、あの兄様の手紙は何なんだ!どんな手段を用いて兄様に書かせたのだ極悪人!」
「人聞きの悪いこと言うなよ?俺は別に、隊長の筆跡を真似て書いて、こっそり隊長の花印を押しただけなんだからな」
「公文書偽造だ莫迦!」
 額を押さえて呻くルキアに対して、恋次は全く涼しい顔だ。
 物珍しそうにルキアの部屋の内部をきょろきょろと見回している。確かに恋次がこの部屋に入るのは初めてのことだ。女性の部屋にしては殺風景と言っていい、何の飾りの無い部屋にある家具は、けれどさすがに大貴族なだけあってどれも高価なものばかりだ。
 その一つ一つに恋次は目を向け、驚いたような顔をしている。「すげーな」と呑気に呟く恋次の言葉にルキアは溜息をついた。
 ルキアにしてみれば、兄が帰ってきた後の騒動を考えると―――激しく頭痛がする。
 あの兄の眼を誤魔化すことはできないだろう、早晩この恋次の暴挙が明るみになるのは間違いない。
 どうしたって目撃者がいる。この朽木家の数多の従者の内、誰か―――たった一人が、「白哉さまが送った昨日の六番隊の隊員は…」と口にした時点でもう終わりだ。
「兄様にどう申し開きするのだ……これ以上睨まれたくないというのに」
 苛々と机を叩きながら、「それになんだ、その髪は。あのお前の代名詞となっている奇天烈な刺青はどうした」と棘のある声を出すと、恋次は呑気に「十二番隊の阿近さんに処置してもらった」と返答する。
「特殊な溶液を使わねーと髪の色は落ちねえし、顔の方は……」
「ああもういい、聞きたくない」
 恋次の言葉を遮って、ルキアはふいっと横を向いた。今後のことを考えると胃が痛む。
「……何苛々してんだよ?」
「お前が莫迦なことをするからだろうが!」
 叫んだ途端、背後から身体ごと恋次の腕に包まれて、ルキアは硬直した。間近に恋次の顔。頬にかかる恋次の吐息にルキアの顔は赤くなる。
「それもお前逢いたさに犯した罪だ」
「なっ……近っ……ちょっ……」
「逢いたかったぜ、ルキア。過保護な保護者が陰険にもお前と逢う時間を作らせねえから、俺は自力で逢いに来た」
「うあ……ちょ、何処触っ……」
 確かに兄白哉の陰謀で、ルキアと恋次の逢う時間は儘ならない。恋次は残業に次ぐ残業、ルキアは休日には必ず朽木家の行事が入っている。それが以前からのことだったのならば何の疑問も沸かないが、こんな状況になったのは、恋次とルキアが揃って白哉の前に並び「俺たち付き合ってます」宣言をしてからだった。
 その時は眉ひとつ動かさず「そうか」と一言発しただけの白哉だったが、次の日から始まったあからさまな妨害工作に、恋次は策を誤ったかと臍をかんだ。
 それは既に後の祭り。
 故に、こうして二人きりになのは実に久しぶりの事だった。
 こうして二人、触れ合うのも。
 というよりも付き合い始めてまだ日が浅い。幼馴染としてならば長い年月一緒に過ごしてきたが、晴れて恋人同士、ともなるとどう対応していいのか経験の無いルキアには全くわからない。
 そして、元来照れ屋なルキアに対して、恋次はルキアを好きだという気持ち、そしてそれを表現する行為を躊躇なく表す。
 今、この時のように。
 抱きしめる、好きだと囁く、そういった行動を惜しみなくする恋次に、ルキアはその度に嬉しさよりも恥ずかしさが先にたってつい邪険にしてしまう。
「調子に乗るな、恋次!」
「連理」
「大体なんだその戯けた名前は!」
「いや、お前に演技を期待してねーから。あばらいれんじ、って言っても聞き間違えられるように母音を揃えた名前を考えた」
「如何してお前はそういう悪知恵ばかり働くのだ……」
「そりゃお前に逢えないからだろう」
 背の低いルキアにあわせるように、腰を折りルキアの耳に囁くように恋次は言う。
「逢いたかったぜ、ルキア」
「恋次……」
 低い声にくらりと眩暈を起こしたルキアは、自分の頬に添えられる恋次の手に気が付くのが遅れた。はっと我に返るのと同じ瞬間に、両頬を挟まれて重ねられた唇……その強引な行為に、ルキアは此処がどこかも忘れ恍惚となる。
 逢えない時間に焦れていたのは、決して恋次ばかりではない。
「れ……ん、」
「ルキアさま?何かありましたか、早蕨殿?」
 甘い時間は脆く、容易く壊された空気に、ルキアは現実に引き戻される。
 廊下の奥から掛けられた声、近付く足音に、一瞬で此処が何処か、自分は誰かを思い出し、ルキアは慌てて恋次の腕の中から抜け出そうともがいた。
「恋次、藤井殿が来る―――」
「あの声の大きさだと、まだ廊下の端だ。まだ大丈夫だって」
 その動きを封じるように強く抱きしめる腕に、先程まで感じていた苛立たしさが再び蘇る。
「いい加減にしろ―――この莫迦ッ!」
 ぱあん、と甲高い音が響く―――ルキアは恋次の頬を思い切り張り飛ばしていた。
「場所をわきまえろ、こんなことがばれたらどんな騒動になるか……!」
 ルキアの言葉を聞き終え、恋次は無言で立ち上がった。思わず息を呑むルキアの前で、恋次は部屋の入口へと向かい襖を開け放つ。
「ルキアさま?」
 不思議そうな藤井の顔に、探る色は無い。
 藤井を部屋へと向かい入れる恋次に、何を言う気かと硬直するルキアを無視し、恋次は「申し訳ございません、私が無作法を致しました」と藤井に向かって頭を下げる。
「私にはルキアさまの傍仕えは不相応のようです。他の仕事を致しましょう」
「そうですか?先程の様子を見ていましたが、作法はしっかりとしておりましたが……早蕨殿が何を?ルキアさま」
 藤井に首を傾げて見つめられ、ルキアは口篭った。本当の事を言えるわけが無い。うろたえていると、恋次が「余計な事をしてしまいました。私の早合点だったようです」と苦笑する。
「私が少し考えなしでございました。暫く、ルキアさまのお目に留まらぬ場所で反省いたします」
「あ……」
「申し訳ございませんでした、ルキアさま」
 完璧な作法で恋次はルキアに頭を下げる。その表情はいつもの悪戯そうな恋次の顔ではなく、酷く余所余所しい表情だった。
「失礼」
 あっさりと部屋を出て行く恋次の後姿は、とても声をかけられる雰囲気ではなかった。恋次も振り返ることもなく、真直ぐに部屋を出て行く。
 その姿を見送り、藤井は問いかけるような視線をルキアに送った。
「いや、その……ちょっと私が苛々してしまって……恋、連理に、八つ当たりを……」
 そう、八つ当たり。
 兄の白哉に、二人の事をどう認めてもらおうかと悩んでいたのに、兄に知られたら今よりももっと逢い辛くなるような手段で強引にこの家に乗り込んできた恋次に、全く何も考えていないのかと……自分はこんなに心を悩ませているのに、恋次は全く何も考えずにぶち壊してしまうつもりなのかと、酷く―――無性に腹が立って。
 ―――逢いたかったのは私だって同じなのに。
 素直にそういえばいいのに、恋次に逢ってからルキアが放った言葉といえば、どれも恋次を責めるような言葉ばかりだ。
 挙句、恋次の頬を殴って。
 ―――逢いにきてくれたのに。
「ルキアさま?」
「―――怒らせてしまった。恋……が、せっかく逢いに来てくれたのに」
「―――……ルキアさま?」
 小さな呟きに聞きなおした藤井に向かって、ルキアは慌てて「何でもない」と首を振った。






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