あれから、何度か恋次を呼ぼうとお茶を持ってくるように命じてみたり、何度となく人を呼んでみたのだが、恋次が現れる事はなかった。
その度に落胆しながら、ルキアは恋次の声を、気配を捜して耳をそばだて神経を尖らせる。
昼食の席にも、恋次の姿はなかった。
さり気なく藤井に問いかけると、「仕事が終わらないので、とのことでした」と返答があり、それで恋次が意識してこの場にいないのだと知った。
あの恋次が、時間内に仕事を終わらせることが出来ないはずが無い。
朝食に続き、全く味のしない昼食を機械的に口にしてから、ルキアは「ご馳走様」と席を立つ。
「お加減でも悪いのですか?殆どお食べになっていないではないですか」
「大丈夫、何処も悪くない」
心配そうな藤井へ笑顔を見せ、それ以上の質問を封じ込めてルキアは自室に閉じこもった。
何をするでもなく、塞ぎこみながら部屋にいるルキアの耳に、外の賑やかな少女たちの声が入る。
俯いた顔がはっと上げられたのは、少女たちの声の他に、もうひとつの声を聞いたからだ。
「そう、それをこちらに……」
「まあ、全部持てるんですか?……まあ!」
「助かります、いつも私たち、この仕事に半日かけてますのよ……」
「早蕨さんのお陰で、今日はすぐに終わってしまいそうですわ」
いつも聞こえる少女たちの声が、普段よりも華やいでいる原因が恋次の所為だと気づいて、ルキアはそっと障子を開け、その隙間から外を眺めた。
広い敷地の向こうで、恋次を囲むように少女達が笑っている。力仕事を恋次が代わっているようだ。
恋次の表情は見えないが、その明るい雰囲気から、恋次も楽しんでいるのだろうとルキアは思う。
「六番隊ではいつもどのようなお仕事を?」
「まだ下っ端ですから、殆ど雑用で過ごしてますよ。でも今は皆さんと同じ身分ですから―――いや、皆さんのほうが先輩ですから、どうぞお好きなように使ってください」
「あら、本当に?」
「それでは、あちらの―――」
「あの場所の、あの書籍を―――」
「奥の部屋の葛篭を―――」
「……そんなに一遍には無理ですわね」
「いえ、構いませんよ?案内していただけますか」
「大丈夫ですか?」
「ええ、ただ終わった後にお茶でも入れていただけると嬉しいですが」
「勿論、取って置きのお茶菓子と一緒に」
「それを目当てにがんばりますよ、先輩方」
まあ、と笑うさざめくような声に、ルキアはいたたまれずにぴしゃりと障子を閉めた。
そのまま部屋の中に立ち尽くす。
「あの莫迦……!」
結局私がいなくても楽しんでいるではないか。
如才なく少女達をあしらうその手管に、ルキアは何となく不快になる。ああしてどんな相手にも好意を抱かせてしまう恋次の人当たりの良さが、今は無性に腹がたった。
「私がいなくても、あいつは楽しいのではないか」
無意識に唇に触れている自分の右手に気が付いて、ルキアは更に腹を立て、机の上にあった本を障子に向かって投げつけた。ばんと大きな音を立てて、本は床に落ちる。
「……あの、莫迦」
もう一度顔を覗かせたら、謝ろうと思っていた。
それから、自分も逢いたかったと告げて。
それから、さっきみたいな行為はこの家でしたくは無いけど、一緒にいられるだけで嬉しいから、この部屋で他愛の無いことでいいから話して、お茶を飲んで……。
それから、いろんなことを考えて。兄様への対策とか、状況改善のための対策とか。
それから、―――その手に触れるくらいなら。
それから、……抱きしめられるくらいなら。
それから、逢いたかったよってもう一度言って、
それから……。
折角の休日。
折角の恋次との休日。
折角、久しぶりに逢えたというのに。
「……莫迦」
もう一度呟いて、ルキアは床に落ちた本を取り上げ溜息をついた。
結局、何もせずに時間は過ぎ、恋次もあれから姿を見せることなく、ルキアの気分は更に落ち込んでいた。
本当ならば楽しい一日になるべきところを、自分の考えなしの所為で壊れてしまった。
いや、恋次も悪い。突然現れて、あんなことをするものだから……ただでさえ慣れていない行為にうろたえるのは当たり前だと思うのだ。
それなのに、あんなに他人行儀な顔で出て行って、少女たち……複数の少女たちと楽しそうに仕事して、全く顔を見せないなんてあまりにも酷い。
その間、自分はやきもきと気を揉んで、意識しないようにと意識する度、意識している自分に気付いて舌打ちをする。
怒っては落ち込んで、再び腹が立って物に八つ当たりして、更に自己嫌悪に陥って。
悪循環。
「ルキアさま、夕飯のお時間です……が、」
「何だ?」
「早蕨殿は……どうなさいますか」
「……構わぬ、同席させろ」
何か話すきっかけになれば、と承諾したが、恋次はルキアの傍にはつかず、下座の方に控えている。頭を下げたまま視線を上げようとしない恋次に、ルキアの顔は曇った。
そんなルキアの表情を読み取って、藤井は「早蕨殿」と話しかける。
「は」
「如何でしたか、今日一日この家の手伝いをしていただきましたが」
「……朽木家の威光の大きさに眩暈がいたします。こうも生活のあらゆる点が違うというのは……」
「驚きましたか」
「はい。しかし……それを知るために、私はこちらへ来たのですから」
意外な言葉に、藤井だけでなくルキアも驚きの表情を浮かべて恋次を見つめた。
恋次は未だルキアと視線を合わせることなく、藤井に顔を向け話している。
また、ルキアの胸がつきんと痛んだ。
「それを……生活の違いを知るために、ということですか?」
先を促す藤井に頷き、恋次は言葉を続ける……決して大きくない声は、落ち着いた低い声で静かな部屋の中に通っていく。
「はい、私の想い人は貴族で……いえ、勿論この朽木家とは比べ物にならぬ程の家柄ですが、それでも私のような流魂街出の者にしてみれば手の届かぬ高嶺の花。出来るならばいつかその女性を迎えたいと思っておりますが、その女性が今まで生活していた質を落とすようであれば、恐らく女性の家からの婚姻の許可は下りないと思っております。なので本日、これを機会にと貴族の生活を勉強させていただきましたが……」
「それで如何でしたか、貴族の生活は」
「正直、この生活をそのまま用意できるとは思えません」
話は聞こえていない振りで食事を続けていたルキアの箸が止まった。
それはつまり―――自分を諦めるということか。
朽木の家のあまりにも普通と違う生活、あらゆる事柄の規模の大きさ、決して独りでは何も出来ない、何もしてはいけない生活―――こんな生活に染まっている自分には、もう普通の生活は出来ないだろう、と。
いや、諦めるという言葉は違うのかもしれない―――恋次はもう、自分を嫌いになったのではないだろうか。
先程の一件で。
人の気持ちもわからない女だと、そんな風に―――
「では、その女性を諦めると」
微かに震える箸先を見つめながら、ルキアは藤井の言葉にどう恋次が返答するのか、息を潜めて次の言葉を―――待つ。
「いえ―――諦める気はございません。もう、同じ質というのは無理だと身に染みましたから―――なるべくそれに近付くように努力はいたしますが。それよりも、どれだけその女性を愛しているか、女性の親に伝えていこうかと思います」
恋次は、ルキアと視線を合わせる事はしない。
「失礼でなければ―――その女性は、同じ?」
「はい、護廷十三隊の―――ルキアさまと同じ、十三番隊に」
「まあ、ルキアさまと同じ」
藤井がルキアの方へ振り向いた。
びくっと身を竦めるルキアに、藤井は不思議そうな顔をする。「どうかなさいましたか」という言葉に、ルキアは「いや、味噌汁が思ったより熱くて……」と言葉を濁した。
「まあ、大丈夫ですか。いま、冷たいお水を」
「いや、大丈夫だ。もう何とも無い」
「ですが―――」
「本当に大丈夫だから」
再び食事を始めたルキアを藤井は暫く様子を窺い、言葉通り大丈夫だと判断してから恋次の方へと向き直った。藤井はこの話の先行きに興味があるようだ。
「では、早蕨殿の想い人は、ルキアさまと同じ十三番隊の―――」
「ええ、ルキアさまもご存知の方なのですが―――ああ、でも実は、はっきりとした返事をもらっていないのです。本当は私の独りよがりなのかもしれません―――あの人は優しいから、私を傷付けないように気遣って、本当はなんとも思っていないのに、私に合わせてくれているだけなのかもしれないと―――最近、思います」
「まあ―――それは」
同情するように藤井は恋次の俯いた精悍な顔を眺めた。混じり気無いその純粋な同情は、藤井が今日一日で恋次を気に入った証に他ならない。
「ルキアさま―――ここはルキアさまが助けてあげては如何ですか」
「わ、私?」
話の成り行きにやや唖然としているルキアは、突然名前を呼ばれて狼狽した。
「ルキアさまが、その女性に早蕨殿へのお気持ちを聞いて差し上げては如何かと」
「もしよろしければ、是非」
初めて恋次がルキアと視線を合わせた。
その面に浮かぶ表情は―――真剣で。
普段ならばこういった状況を茶化すだろう恋次が、酷く―――真面目な顔で。
だから、今言った言葉が、恋次の本心だとルキアは知った。
―――俺の、独りよがりなのかもしれない。
そんな恋次の想いが見えたから―――
ルキアは、頷くしかできない。
「き、機会があったら―――その時に」
「お願いいたします」
下げる頭で、すぐに恋次の視線はルキアから外された。
再び藤井と話し出す恋次に、不安感を募らせながら、何とか食事を続けていく。
結局、夕食の味も良くわからなかった。
「では、今晩は屋敷周囲の警護に付かせていただきます。ルキアさまはご安心してお休みください」
廊下の端でそう頭を下げ、最後まで「早蕨連理」の仮面をかぶる恋次に焦れて、ルキアは無言で恋次の腕を掴んで歩き出す。そのまま自室の中に押し込むと、パタンと襖を閉めてじろりと睨みつけた。
「何か?」
まだ「恋次」に戻らない恋次の前で、ルキアは徐に膝を付いた。
そのまま両手を畳に付け、深々と頭を下げる。―――恋次が驚く気配がした。
「お、おい」
「ごめんなさい」
「―――は?」
「昼間はぶってごめんなさい。厭な態度、とってごめんなさい」
小さな声で、けれどはっきりとそう口にしたルキアに、恋次は更に驚いたようだ。ルキアの前で同じように膝を付き、ルキアの頭を上げさせようとする。けれど、頑として頭を上げないルキアに、恋次は困ったように頭を掻いた。
「あー、別にお前の力じゃ痛くもねーし。あんな態度、お前いつもとるだろ。別に今更謝らなくっても―――って、お前泣いてんのか!?」
「だ―――だって、お前、怒ってるし」
「怒ってねーよ!」
「だって、あれから全然来ないし、目も合わせないし、他の女と楽しそうにしてるし、」
「いや、さすがに俺も反省してだな、強引過ぎたかなー、とか、合わせる顔ねーな、とか、それに俺はお前の方が怒ってるもんだとばっかり……他の女と楽しんだ覚えもねえぞ?」
「もう嫌われたのかと、だから、」
「嫌ってない!好き!好きだぞ!だから泣くな!!」
「―――私だって、逢いたかったんだ、ずっと」
ぽろぽろとこぼれる涙を拭おうとせず、ルキアはしゃくりあげながら、ようやく素直に気持ちを伝える。子供のように泣くルキアに狼狽して、恋次はぎゅっとルキアを抱きしめた。
「悪かった!俺が悪かったって!だから泣くな、な?」
「―――ごめんなさい」
「だからお前は悪くねー!」
抱きしめられながら背中をぽんぽんと叩かれて、ルキアの泣き声は段々静かになっていった。部屋の真中で抱き合って、甘やかすように頭を撫でられ、恋次の体温に包まれて、ようやくルキアの涙は止まる。
「―――泣き止んだか?」
「うん。―――ごめん」
「いや、悪かったのは俺の方だし。勝手にこんなとこまで押しかけて―――悪かったな」
「いや。―――逢えて、嬉しいから。もういい」
酷い顔になってるだろうな、とルキアは恋次の腕の中で苦笑する。
「瞼、腫れてるだろう。―――とてもお前に見せられない」
「何で?」
「みっともないから」
「いやいや、お前はどんな顔も可愛い」
そう言いながらくすくすと笑う恋次に、「やっぱり笑ってるじゃないか」と、普段通りに怒ってみれば。
目の前に恋次の顔。
今度は怒らずに受け入れる口付けの、離れた唇の余韻に赤くなるルキアの耳元で、恋次は低い声で囁いた。
「―――窓の鍵、開けとけよ?」
「え?」
驚いて顔を上げるルキアの目の前で、恋次は笑う。
いつもの、悪戯そうな笑顔で。
「意味、わかるよな?」
耳朶を軽く咬まれてルキアは小さく悲鳴を上げる。その瞬間、身体に走った甘い戦慄に茫然としている間に、恋次の体温がふっと離れた。
するりとルキアの身体を開放し、「また後で、な」と片目を瞑り部屋から出て行く恋次の姿を真赤になりながら見送って、しばらくぼんやりとルキアは部屋の真中で座り込んでいた。
胸の鼓動が激しい。
触れられた唇と、耳朶が熱い。
まるで魔法にかかったように、ふらふらと立ち上がったルキアは、ふらつく足で部屋の窓へと近付く。
甘い言葉と視線の呪縛。
恋次に命じられるままに、窓の鍵を。
「―――調子に乗るな、莫迦」
呟いて、ルキアは全ての窓の鍵をしっかりと施錠した。
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