通りで見かけた弓親が、真直ぐ自分に向かってくるのを見てルキアは足を止めた。そのまま待っていると、案の定弓親は「朽木さん」とルキアに声をかける。ルキアは頭を下げた。
「先日は色々と迷惑を掛けた。礼も言えず日が経ってしまった……申し訳ない」
「いや、そんな事は気にしないでいいよ」
 弓親は笑うと、「今、大丈夫?」と聞いてきた。ルキアは頷く。
「恋次、昨日退院したよ」
「……そうか……」
 ほっと溜息をつく。予想よりも大分早い退院だ。
「具合は……あれから何の問題もなく?」
「そうだね、流石の恋次もあそこじゃじっとしてるしかなかったみたいだね。だからはやく退院できたのかも」
「確かに……」
 弓親の笑いにルキアもつられて小さく笑った。恋次の傷が癒えたと聞いて安心していたせいかも知れない。
「でも、本当にいいのかい?君が病室に来たことを知らせないで」
「ああ、そうしてもらいたい」
 そのことは、救護室に行った次の日に、一角と弓親に頼んだ事だった。
 まだ身体の癒えていない恋次の心に、負担をかけたくないから。
 余計な事は考えず、治療に専念して欲しいから。
 それに、二人にそう聞かされても、恋次は信じる事などしないだろう。
「……聞いていいかい?如何して君たちはこんな風にすれ違っているんだ?僕には君達お互いが相手を想っている様に見えるのだけど」
「…………」
 ルキアは黙って俯いた。
 『如何して』。
 それは、すべて私の責任。
「……私が……勝手に思い込んだのだ。恋次はもう私を必要としていない、と。勝手な思い込みで、自分勝手な考えで、そうして恋次を傷付けた。ずっと待っていてくれたのに、私を探してくれたのに、私はその恋次を酷く傷付けた……だから。今恋次の私への想いは、ただ怒りだけだと思う……もう許してくれないだろう、この先ずっと。だから、私は―――」
「そうかな?」
「え?」
 静かな弓親の声に、ルキアは顔を上げる。弓親は思慮深い顔で、ゆっくりと、諭すように言葉を続ける。
「恋次のあの態度は、確かに君と会って傷付いたせいだと思うけど。でも、恋次はまだ君の事を忘れられないんだと思うよ。だから、君への想いを断ち切れなくて、あんなに荒れてるんじゃないかな?」
「…………」
「一度、恋次にきちんと謝ってみたら?君が誤解した事、それが間違っていた事、恋次を傷付けた事、それを後悔している事、全部話せばあの恋次のことだからきっと許してくれると思うけど」
「…………」
「誤解が解けたら、恋次もあんな無謀なことはしなくなると思うし」
「……そうだろう、か……」
「君の気持ちを素直に話せば上手く行くよ、大丈夫。また昔の君らに戻れるよ」
 ―――昔の、あの頃のままの、私たち。
 笑って、喧嘩して。
 幸せな、日々。
「戻れるなら―――」
 戻りたかった。
 けれど―――。
「恋次はしばらく休暇。恋次の家は―――はい、住所」
「……随分用意がいいのだな」
「こう話を持っていくつもりだったからね」
 悪びれずにそう言って、弓親はルキアの手に紙切れを乗せた。
 恋次の居る場所。
 もう一度。
 戻れるならば―――。
 ルキアは顔を上げた。もう、すべてを吹っ切った顔で。
 弓親はそのルキアの表情を見て、嬉しそうに微笑んだ。
「決心できたみたいだね?」
「……ありがとう。明日、行ってみる」
「頑張って」
 ルキアは頷いて笑った。
 彼女のこんなに明るい笑顔は、真央霊術院で恋次と共に居た時に見た以来だな、と弓親は思った。





 ―――戻れるだろうか、あの頃に。
 いや、戻れなくても―――全てを話して、謝って。
 そして無謀な闘い方を止めてくれと言おう。
 これは、朽木の名前を汚す行為ではない。だから、大丈夫。
 そして、白哉を裏切る行為でもない。だから、大丈夫。
 明日。
 明日、恋次の家へ行こう。




 白哉はまだ家に戻ってはいないようなので、ルキアはそのまま自室へと入り死覇装を脱ぎ、部屋着へと着替えた。
 明日、恋次に何と言おう。何から伝えたらいいのだろう。
 私は上手く伝える事が出来るだろうか?
 その時、「ルキア様」という声が部屋の外からして、ルキアは驚いて顔を上げた。
 普段、この部屋に誰かが来ることなど滅多に無い事だ。しかも、この声は―――。
「お話があります故、少しお時間をいただけないでしょうか」
「構わない。入れ」
 失礼いたします、と入ってきたのは、この家の侍従達の長―――もうかなりの年配の、いつも白哉と共にいる老人だった。先代当主からずっと仕えている、この朽木家に一番古く長く在る人物。ルキアが初めて白哉と会った時―――真央霊術院で養子の件を切り出されたその時も、この老人は白哉の傍にいた。
「お疲れの所、申し訳御座いません」
「いや。―――何か?今日は兄様と一緒ではないのか?」
「はい、今日はルキア様にお話しがありました故、先に戻って参りました」
 慇懃に話すこの老人がルキアは苦手だった。今まで言葉を交わしたことは殆ど無い。彼は彼で、片時も白哉の傍から離れようとしないので、こうして二人きりで話すのも初めての事だな、とルキアはふと思った。
「話とは?」
 人形を見るような老人の視線に耐えられず、はやくこの場を切り上げたくて、ルキアは先を急かす。
 老人は一度頭を下げると、静かに切り出した。
「―――最近、十一番隊の人間とよく話している様ですね?」
「…………」
 監視しているのかと一瞬カッとなり、目の前の老人を問い詰めようとしたが、返事は解かりきった事―――『その通りですが』という老人の言葉―――だったので、ルキアは言いかけた言葉を飲み込んだ。そのまま唇を噛み締める。
「十一番隊と言えば、ルキア様の過去、それをよく知る人物がいる隊で御座いましたね―――何やら怪我をしていた様ですが」
「……何が言いたい」
「白哉さまは、ルキア様とルキア様の過去を知る人間との接触を望んでおりません。ルキア様もそれはご承知だろうと思っておりましたが、どうやらそれは私の思い違いの様でした」
「……会ってはいない」
「しかし会おうとしている」
「…………」
「本日、十一番隊の若造に何やら唆されていたようですが、わたくしはよもや貴女がその言葉に惑わされるとは思っておりませんでした。未だ『朽木』の名前を持つ事、その自覚が足りないように思えます」
「……ただ、謝りたいのだ。私が恋次を傷つけたのは間違いないのだから、だから―――」
「必要ございません」
 容赦ない声だった。
「白哉さまは貴女があの男と会うのは望まれない。けれど貴女は会おうとなさる。ならば私がすることは唯一つ」
 淡々と語られる声に、ルキアは恐怖を覚える。
「何を―――」
 老人は敢えて何も言わなかった。その沈黙が何を意味しているか、その冷たい目が何を言わんとしているのか。それが解かってルキアは青ざめた。
「身寄りの無い若者の身に何が起こっても、周りは何も気にしないでしょう。まして虚狩りの最中になど、生命の危険は付き物。そこで何があったかなど、誰も解からない」
「そこまで―――何故、そこまで―――私はただ、謝りたいだけなのだ―――それだけなのに―――たったそれだけの事なのに!!」
「白哉さまが望む通りに事を運ぶのが私の努めなれば」
「―――では!恋次の生命を奪うという事は兄様の意思なのか!兄様の命なのか!?」
 悲鳴のようなその声に、老人は表情を変えることなく。
「真逆」
 この部屋に入ってから、僅かたりとも表情を変えることなく。
 肩で息をするルキアを眺めて、言葉を続けた。
「白哉さまがそんな非道なことを命じるわけが無いでしょう。あの方は清廉。こんな醜い心根はお持ちではない。―――すべて、私の一存。私が白哉さまの望み通りにしたいだけですよ。白哉さまは貴女が過去に還る事は望まない」
「恋次を―――どうする気だ」
「貴女が何もしなければ、わたくしも何もいたしません。貴女の行動如何で彼の寿命は決まるという事ですな」
 それに、と老人は続ける。
「どうやら貴女は―――あの男に、特別な感情をお持ちのようですね。今、この場で話していて解かりました。それは―――許せません。貴女はそんな感情を他人に持ってはならない。その顔を持つ貴女は」
「顔……?」
「……貴女はこの家では―――貴女ではありません」
 それはルキアにも薄々気がついていた事だった。
 白哉がルキアを見つめる瞳―――否、白哉はルキアを見てはいないのだ。
 別の人間を。
 自分に重ねている。

『貴女はこの家では、貴女ではありません』

 ―――私は、ここでは『ルキア』ではない……

 お時間を頂いて申し訳御座いません、と老人は最後に深く頭を下げて、ルキアの返事を待たずに部屋を出た。
 ぱたり、と戸の閉まる音がする。
 その音を合図に、ルキアはがくりと膝をついた。


 私は何の為に此処に居る?
 私に何をしろと言うのだ?
 誰も私を必要としていない。
 孤独なのは変わらない。
 

 何時までも、何処までも消えない心の孤独。

 


 私を私として見てくれる、たった一人の人間。
 如何して離れてしまったのか。如何して離してしまったのか。
 もう一度、私を呼ぶお前の声が聞きたかった。
 そう心に決めたのに。
 
 

 ただ、謝りたいと。
 それすらも。
 この家では許されない―――。 





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