制服に着替えて南棟に踏み入れた瞬間に、同僚の少女たちが妙に浮き足立っている事に聡い緋真は直ぐ気が付いた。
 けれど南棟に配属されてからまだ3日しか経過していない緋真には、その皆が心ここに在らずといった様子を見せている原因を気軽に尋ねる相手もなく、不思議そうに同僚を眺めるだけに留まり、新しい担当である南棟の中の部屋の配置を覚えるように、周囲を見回しながら歩く。
 緋真は現在、他の少女たちとは対照的に、浮き足立つどころか少々困惑している。いや浮き足立ってるといってもいいのか……自分の気持ちは立場と同じように複雑だ。
 人知れず溜息を吐く緋真の立場――この屋敷に二人しか知らないその事実。
 緋真は、この巨大な権力を持つ朽木家の正嫡、朽木白哉がただ一人愛する少女――想いが通じ合ったばかりの恋人だった。



 緋真は元々は資産家の娘だったが、その当時でも朽木家の人々に目通りが叶うほどの家柄ではなかったし、現在に至っては両親は亡く財産は総て他の者の手に渡り、朽木邸に住み込みで働く従者にすぎない。朽木家の者にとってみれば、従者など人の内に入らず、ただの道具――個々の性格や性質など全く意味も興味もない、ただ奉仕するのが当たり前の、家具や電化製品のような、そんな存在の筈だった。
 その筈、なのだが。
 1階の従業員の為の事務室――北棟にはなかった、毎朝必ず注意事項や連絡事項を伝達される朝礼に向かう緋真の腕が急に引かれた。声を上げるよりも前に、抱き寄せられながら音もなく突然開いた扉の中に吸い込まれる。その間僅か3秒。
 抱きしめられた瞬間に包まれたその香りで、相手が誰か直ぐにわかった緋真は、驚いたがある理由から抵抗することもなく、襲撃者の為すがまま――引き寄せられ口付けられるままになっていた。部屋の中には溢れるばかりの朝日が降り注いでいる。時刻はまだ7時――こんな早朝から出歩く立場でも体調でもないというのに。
「おはよう、緋真」
「おはようございます、白哉さま」
 赤くなりながら、緋真はそれでも白哉を睨みつけた。その視線には険がなく、肌も口付けの影響でほんのりと上気している所為で、睨んだ緋真は白哉の目から見れば愛らしく拗ねているように見える。
「お怪我をなさっているのに――こ、こんな場所で、こんな事をされては困ります」
「何故?」
「何故って――傷口が開いたら」
「傷はもう塞がっている」
「で、でも――私は今は仕事中です。だから」
「緋真の所属は何処だ?」
「……南棟、です」
「南棟の主人は?」
「……白哉さまです」
「南棟に働く者の心得――荻原あたりが最初に言っていなかったか?」
「……『白哉さまが快適に過ごせるよう、全力で奉仕せよ』」
「――では、緋真の仕事は?」
 困惑のあまり泣きそうになっている緋真を白哉は「すまない、苛めすぎた」と右手一つで抱きしめた。やわらかな緋真の髪に顔を埋める。仄かな花の香りに幸せそうに微笑み、困らせないように髪に口付ける。
「愛している、緋真。昨日よりももっと」
 更に赤くなる緋真に、白哉は優しく微笑む――「いつも共に居られるように手は打った――それまではこうして逢うことは我慢しよう」と緋真に囁いた言葉は、白哉の笑顔に見惚れぼうっとなった緋真の耳には届いていなかった。




 白哉の腕の中から解放され、まだどきどきする胸を何とか周囲の誰にも気付かれないように平静を装い、朝礼に参加した緋真の前に、荻原と檜佐木がいる。
 視線が合ったその瞬間、緋真だけがわかるように僅かに口元を綻ばせ、檜佐木は直ぐに表情を元に戻した。
「――今朝は檜佐木の方から皆に連絡がある」
 白哉が幼い頃から仕えている、この南棟で従者の総てを取り仕切っている家令の荻原の言葉を受けて、檜佐木は一歩前に出た。少女たちの目がうっとりとしたそれに変わる。
「白哉さまが先日賊に襲われ、左腕を負傷したことは皆も承知していると思う。――現在白哉さまは左手が使えず、日常生活に不便をきたしている。私が居れば問題はないが、私も常に白哉さまの傍に居られるわけではない。――よって、白哉さまのご要望もあり、白哉さま専任の従者を君たちの中から一人選びたいと思う」
 既にその情報は聞き知っていたのだろう、朝から浮き足立っていた少女たちはここではっきりとその情報が真実のものだとわかり、ざわざわと興奮したように頬を紅潮させた。あの美しく聡明で、いずれこの朽木の権力総てを受け継ぐ白哉の傍で毎日仕事が出来る――白哉に気に入られれば、その先の未来は薔薇色だ。正室は無理でも愛人で充分事足りる。そう色と欲で頬を染める少女たちの中で、ただ一人だけ茫然とする少女がいた。恐らくこの中で、檜佐木の他に唯一真実を――白哉がそう言い出した理由を知っている少女、つまり……緋真。
「選考は白哉さま、荻原さま、私で行う。結果は3日後――それまで君たちの仕事振りをじっくりと見せてもらう。心して仕事をするように」
 笑顔を浮かべ、何かを言いた気な緋真に檜佐木は素早く片目を瞑り、「では、今日も白哉さまが快適に過ごせるよう全力で奉仕せよ」という荻原の言葉で朝礼は終了となった。
 たった今もたらされた「白哉さま専任になれるかもしれない」という情報に、興奮気味に部屋を出て行く少女たちの最後に付き、緋真は部屋を出た。嬉しそうな他の少女とは反対に、緋真の表情は曇っている。一人離れ考え込みながら歩く緋真の背中に、聞き慣れた、けれど事務的な声がぶつかった。
「君――すまないがこれを白哉さまの部屋に届けてくれないか」
 振り向いた緋真の目に、声は事務的ながら、表情は悪戯そうに笑っている檜佐木が映る。
 周囲に誰も居ないことを確認し、緋真は檜佐木に詰め寄った。おどけたように檜佐木が両手を上げる。
「――檜佐木さん、これは一体どういうことですか」
「白哉さまが、いつも君と居たいと言うものだからね。白哉さまの幸せが私の幸せ――そして、君の幸せ。違うか?」
「そ――それはそうですけど、でも、――困ります」
「何故?」
「困るんです、本当に」
 言い募ろうとした緋真の言葉を「じゃあ頼んだよ」と檜佐木は遮って、その手に茶色い封筒を押し付ける。はっと気付けば、廊下を緋真と同じ制服を着た少女が歩いてくる。これ以上危険な話は出来る筈もなく、仕方なく緋真は「畏まりました」と頭を下げた。
 檜佐木の背中が遠ざかり、手の中の封筒を見遣り緋真は溜息を吐く。
「貴女――今、檜佐木さんと何を?」
 近付いた少女が、緋真と手の封筒へ交互に視線を向けながらそう尋ねた。この棟では新人の緋真が檜佐木と言葉を交わしていたのが奇異に映ったのだろう、その声に不審そうな響きが聞き取れる。
 ――だから、困るんです。
 内心で此処には居ない檜佐木に向かって溜息混じりに呟きながら、緋真は手にした封筒を少女に差し出した。
「今、檜佐木さんからこれを白哉さまの部屋にお持ちするように、と。――申し訳ございませんが、これを白哉さまにお渡ししてもらってもよろしいでしょうか?」
「え? ――いいの?」
 驚いたように少女の目が見開かれる。
 白哉の傍に近付くことに目の色を変えている少女たち――白哉自身に気に入られれば、専任の従者に指名される可能性が高くなる。その下心から、既に白哉の傍に行く為に皆が牽制し合っていた。白哉自身に己をアピールするためには、白哉に近付かなければならない。男性陣が知らない水面下で、少女たちは苛烈な攻防を繰り広げていた――朝礼からまだ数分しかたっていないこの時点で、既に。
 そんな中、白哉の部屋に書類を届けるという、白哉の傍に行く機会、白哉と言葉を交わす機会を得ながら、他人に譲ろうとする緋真に目の前の少女は驚きの表情を隠さない。
「あの――私、まだ此処に配属されたばかりで――白哉さまの前に行っても緊張してしまってとんでもない失敗をしてしまいそうで――あの、もしよろしければ変わっていただけると助かるのですが」
「勿論――白哉さまの御用ならいつでも変わってあげるから、その時は遠慮なく私に言ってね?」
 嬉しそうに微笑み、今後の為の布石も敷いて、少女は緋真の手から封筒を受け取った。
 弾む足取りで白哉の部屋に向かう少女の背中を見送り、緋真は再び溜息を吐く――。




 一日の最後は、白哉の部屋に赴いてその日の報告や明日の予定を告げることが檜佐木の日課に鳴っている。
 今日もいつも通り、日付が変わる30分ほど前に白哉の部屋を訪ねた檜佐木は、一歩部屋に入った途端、つまらなそうな表情の白哉に出会い首を傾げた。
 今日一日、事あるごとに緋真に白哉の部屋に行く口実を申し付けていたというのに――そしてたった今まで、白哉は緋真と逢っていた筈なのに、と不思議がる。
 白哉の本当の名前を緋真が知り、そして緋真が南棟勤務になった今、毎夜屋敷の裏で逢う必要もなくなった。
 南棟は独立した大きな建物で、その広い敷地に建てられた屋敷には白哉一人が住んでいる。つまり使用していない部屋は数多あり――その内の一つの部屋の鍵を、白哉は二日前に緋真に渡していた。
 毎夜10時、1時間の逢瀬。
 緋真と過ごす、二人きりの穏やかな時間――の筈、だったのだが。
 今日、2回目になる秘密の部屋での逢瀬に、現れた緋真の表情は厳しいものだった。
 昼間とうとう一度も白哉の前に現れなかった緋真に対して、憮然としていた白哉の顔が、その緋真の顔を見て驚きに変わる。何を怒っているのか、何で怒らせたのかと、恋した者である白哉は自分の不満よりも緋真に意識を取られた。
 つかつかと近付く緋真の目が憤っている――ぴたりと白哉の前で足を止め、背の高い白哉を見上げながら、緋真は「困ります」と怒ったように言った。
「何故こんなことをするのですか。こんな事をされても困ります」
「こんな事とは――緋真を私付きにするという事か?」
「そうです、困ります。私は白哉さま付きにななれません――なりたくありません。絶対」
 緋真の言葉を前に白哉の表情も厳しくなる。白哉にしてみれば、少しでも長く緋真に傍にいてほしいというごく自然な想いから出た専任の従者の件だというのに、緋真は喜ぶどころか迷惑だと言っている。
 緋真は共に居たくはないのか――そう考えて白哉は愕然とした。
 自分はこんなにも緋真と離れて居たくはないというのに――いつでも傍にいて欲しいと思っているのに。
 此処まで強硬に嫌だという緋真は、まさか自分の事を厭っているのではないか――やはり朽木という名前を持つ自分を疎んでいるのではないか、と硬直する白哉の前で、緋真が真直ぐに白哉を見ていた視線を反らせた。
「その――傍にいると、私――顔に出てしまうから」
 無言で緋真を見詰める白哉の前で、緋真の頬が紅くなっていく――それを自覚しているのだろう、「ほら」と両手で頬を挟み顔を隠しながら緋真は心底困ったような声を出した。
「白哉さまの傍にいたら――私、仕事になりません。ずっと白哉さまに見惚れてしまいますもの――他の人が見たらすぐに私の想いなど見透かされてしまいます。だから――困るんです。白哉さまの傍に居たいから」
 白哉と緋真の恋は秘密――その立場上、白哉は緋真という恋人を公に出来ない。公にした途端、緋真という恋人の存在を誰かに知られた途端、白哉と緋真は引き離されてしまうだろう――白哉の両親によって。
「だから――私、白哉さま付きにはなれないんです」
 必死に訴える緋真の小さな身体を、白哉は強く抱きしめる。その腕の中で緋真は「あの、腕が……傷が」と白哉の左腕を気にする。その心配する声を唇で塞いで、白哉は緋真の頬を更に紅く染めさせる。
「――嫌われたのかと思った」
「そんなこと――白哉さまは私を信じていらっしゃらないのですね」
「違う。信じられないのはこの幸福だ。――お前が私を好いてくれるこの事実だ」
 緋真がこの手の中に居る現実が、途方もない幸運なのだと白哉は知っている。初めて大切だと思った少女。闇の色一色だった自分の世界に色を与えてくれた美しい光。
「――わかった。では、その件については私は緋真を選ばない。檜佐木にも言っておく。荻原に決めさせる」
 緋真の髪を撫でながら白哉が言うと、緋真の表情が僅かに曇る。如何した、と尋ねると拗ねたように緋真は顔を背けた。
「他の誰かが、白哉さまの傍に居るんですね。いつも」
「緋真」
「――自分勝手ですけど――白哉さまの傍に他の方がいるのは、……嫌です」
 誰かを好きになれば、その相手を独占したいというのは自然なこと。
 やきもちを焼く緋真を、白哉は幸せそうに抱きしめる。
「直ぐに腕を使えるようにして、専任制度はなくそう。私も緋真以外の者を傍に置きたくない」
 元々緋真が傍に居ても不自然でない状況を作るために言い出した専任制度だ――緋真が専任にならないのでは意味がない。不自然にならないよう腕が使えるようになるまでは誰かに付いて貰うしかないが、腕が治り次第解任しようと白哉は決める。
 けれど、このままでいるつもりはない。
 いつでも傍にいたいのは変わらないのだから。
「――もう暫く待っていてくれ」
「え?」
「緋真を隠すようなことはしない。私の妻になるのは緋真だけだ」
「それは――そんな」
 うろたえる緋真を安心させるように、その髪に口付ける。
「誰にも口を出させない。その為に今、準備をしている――だから、もう暫く待っていてくれ」
「でも私は――私は、白哉さまの妻になど……そんな身分では」
 目を伏せる緋真に、白哉は「大丈夫だ」と胸に抱き寄せる。緋真も縋る様に白哉の背中に手を回す。
「誰にも反対はさせない。それだけの力を手に入れる――あと暫くだ、もう少しだけ待っていてくれ」
 私の光――たった一つの大切な。
 耳元に囁きながら、白哉は緋真を抱きしめた。




 その経緯を聞いた檜佐木は、「では緋真さまは、白哉さま専任にはしないと」と、その入室した時につまらなそうな表情を白哉が浮かべていた理由を知り、笑いを必死で隠しながら、表情は残念そうにそう言った。
 そんな檜佐木の心の内はもう何年にもなる付き合いでわかっているのだろう、白哉はじろりと睨んだがそれ以上は何も言わず「不本意だが仕方ない」と檜佐木が淹れた紅茶を口にする。
「今緋真の存在が発覚しては――まだ準備が整っていない」
「その件についてですが、本日××と接触しました。徐々にこちらに引き入れていこうと思います」
「私も手を回しておく――腕が治り次第、会社の方へ行く」
「主だった社員の調査書です。お役立て下さい」
「助かる」
 緋真との穏やかな表情は消え、白哉のその顔には冷徹な表情が浮かぶ。書類の束を繰りながら、その内容を記憶していく。
「ではそろそろ失礼致します。白哉さまも早くお休み下さい。まだ本調子ではないのですから」
 頭を下げる檜佐木に「ああ」と手を上げ、白哉も休む為に立ち上がった。




 それから昼間に緋真の姿を見ることはないまま二日経ち、遠く姿を見ることだけでもと望んでいた白哉は、その緋真の徹底的な避け振りに少々呆れながら、それでも夜に逢えた時には、離れていた分を取り戻すように緋真を抱きしめた。
 口付けだけに留まっている二人の関係は、それでも充分に幸せだった。白哉は多少……どころかかなり我慢はしていたが、やはりまだ早いという事はわかっている。今は緋真の幸せそうな顔を見るだけで充分だった。
「……明日の朝礼で、白哉さま付きの方が決まるそうです」
 並んで椅子に腰掛け、緋真は白哉に話しかけた。やはり声が少々沈んでいる。
「一番有力なのが・・・さんで……ご存知ですか?髪が腰まで長くて背の高い、綺麗な人」
「――ああ、この3日の間、一番私の部屋に来た女か」
「その方が・・さんです。仕事も出来ますし、ご実家も良いですし……」
「誰に決まっても緋真が心配することはない。直ぐにその者は通常の勤務に戻す」
 私は緋真しか見ていない、とさらりと口にされた言葉に、緋真はいつも通り赤面した。
 ――そんな昨夜の緋真を思い出しながら、長椅子に座り朝の紅茶を飲んでいた白哉の耳に、ノックの音が入った。直ぐに檜佐木が「誰だ」と声をかける。
「荻原です。――白哉さま、今日から白哉さまにお仕えする者を連れて参りました」
「入れ」
 興味なさそうに、温度のない言葉で入室の許可を出した白哉の声に、「失礼致します」と慇懃な荻原の声が応え、白哉の部屋の扉が開いた。
「入りなさい。白哉さまにご挨拶を」
 白哉の、口元まで運んだ紅茶のカップの動きが止まった。
 檜佐木の、書類をめくっていた手が止まった。
 白哉の目が、檜佐木の目が、驚きに見開かれる。
「く、久儀緋真……です。よろしくお願いいたします……」
 茫然と、そして泣きそうな顔で頭を下げる緋真の言葉の後を次いで、荻原は「よろしいでしょうか?」と白哉に最終決定を促した。
「――何故この少女を選んだのか?」
 白哉がそう尋ねると、荻原ははいと頷き、ちらりと緋真に目を向けた。緋真はがくりと肩を落としている。
「この者だけが、白哉さまのお傍に行くのを拒んだからでございます」
「拒んだ?」
「はい。他の者たちは事あるごとに白哉さまの元へ行こうと――つまり自分を売り込もうと浅ましく画策している中、この者だけが逆に白哉さまに近付こうとしませんでした。それがこの者を選んだ理由です。――他の者たちは、白哉さまの気を惹こうという心根があからさまでございました。大切な白哉さまのお傍に、そんな下品な女をお付けすることは出来ません。白哉さまはいずれこの朽木家をお継ぎになる方――万一にでも間違いがあっては困ります故」
「あの……でも、私……まだ此処に配属されたばかりで……こんな重要なお仕事、私には……荻原さま、私には無理でございます……」
 何度もそう訴えてきたのだろう、必死でもう一度繰り返す緋真に、荻原は「お前の仕事振りを見た上での判断だ」と取り付く島もなく斬り捨てる。
「……如何でしょう白哉さま。この者でもよろしいですか?」
「ああ。構わない」
 即答する白哉に、緋真は泣きそうな顔をする。その二人の横、窓際で檜佐木は皆に背中を向けている。その背中が小さく震えているのは、堪えきれずに笑っている所為だろう。
「大丈夫だ、そんなに心配するな。直ぐに慣れるだろう、仕事にも――私にも」
 敢えて事務的にそう緋真に言った白哉の目も、悪戯そうに輝いている。 
「では、よろしくお願いいたします。――白哉さまに尽くすように」
 最後は緋真に向けそう念を押し、荻原は丁寧に一礼して部屋を出て行った。
 暫く部屋に沈黙が訪れる。――その沈黙を破ったのは、白哉と檜佐木同時だった。共に笑い出した二人を見て、緋真はむっとする。
「私たちは何もしていないぞ?」
 怒る緋真に白哉は楽しくて仕方ないと笑いながら言う。緋真はぷいと顔を背けた。
「――まあ、諦めてください緋真さま」
 まだ笑いながら檜佐木が言う。
「――では、最初の仕事だ、緋真」
 おいで、と手招きされて緋真は赤くなりながら白哉に近付く。目の前に立った緋真の右手を掴んで勢いよく引き寄せ、よろめいた緋真を自分の膝の上に座らせ、白哉は瞬間的にこれ以上無いほど赤くなった緋真に顔を近づけた。
「私に慣れなくてはな。――せめて赤くなることのないよう」
「む、無理です!」
 悲鳴を上げる緋真に、白哉は厳しく「これは仕事の一環だ。努力せずに何を言う」と鋭く言う。勿論それは声だけで――緋真の前には、幸せそうに笑う白哉がいる。
 かくして――幸福な日々が始まる。 
  





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