来室を告げる電子音に、緋真は白哉が頷くのを見てから扉を開ける為に扉に近付いた。――その扉へと逸らした緋真の頬はほんのりと紅く色付いている。
 白哉付きとなって一ヶ月、当初のように白哉の一つ一つの流れるように美しい所作に見惚れ続ける事はなくなったが、それでもふとした拍子に合う視線にはどきりと胸が弾む。
 ――白哉付きとなった緋真は、白哉がこの屋敷に居る間中はほぼこの部屋の中で過ごしていた。
 白哉は週の殆どを学院には行かず、朽木グループの会社へと出向いていた。既にその経営の手腕や才覚は周知の事実だった故に、白哉の席も正式に存在している。実際にもう何年も白哉は会社の経営に参加していた。
 その白哉のいない内は屋敷の仕事を、白哉が戻ってからはずっと白哉の傍にいる。今では白哉の好みの紅茶の種類も温度も、ティーセットも完全に把握している。白哉のために覚える仕事、白哉のためにする仕事はとても楽しく、緋真は口煩い荻原が文句を付ける隙が何処にもないほど、完璧に白哉のために尽くしていた。
 自室の戻ってからも書類に目を通し、分厚い本を読んでいる白哉の傍で、緋真は幸せそうに働いている。
 入室を請う相手への応対も緋真の仕事の一つだ。今のように来客があると、白哉の許可を得て緋真は数々の部屋を通り抜け、廊下に面した部屋の大きな木の扉を開ける。
 扉を開けに緋真が姿を消してから暫く後、やがて書斎の扉を叩く音がし、緋真を後ろに連れた荻原が、失礼致しますという言葉と共に白哉の書斎へと現れた。
 このフロア一体は全て白哉の居住空間で、寝室や居間、応接室など全て揃っている。その、主として白哉が仕事をする書斎に姿勢良く入ってきた荻原の「玖珂百合子様がお見えです」という言葉に、白哉は不快そうな表情をした。――それがわかったのは緋真だけの、僅かな表情の変化だったが。
「私は今忙しい」
「……ご両親から白哉さまへの伝言を預かっているとのことです」
 今度は荻原の目にもわかるほど、白哉は不愉快をその美しい面に現した。
 休日の度、西にある玖珂家の本宅から東にある朽木邸に再三現れる百合子の意図は明白だ。それがわかっているから、白哉は「忙しい」の一言で会うのを避けていたが、大方、白哉の母にねだってこの棟に来る口実を得たのだろう。両親の名を出されれば白哉はそこに行かざるを得ない。
 忌々しく席を立つ白哉に「応接室でお待ちです」と恭しく荻原は頭を下げる。
 子供の頃から白哉の世話をしてきた荻原にとって、正式な発表はまだとはいえ暗黙の内に白哉の婚約者となっている玖珂百合子は、白哉の妻に相応しい者とは思えなかったが、それを表面に出す事はない。
 自分の感情は朽木家に仕える上では全く必要が無い――それが荻原の規律だった。





 扉が開いた先に美しい姿が現れたのを見て、百合子は立ち上がった。優雅に見えるようにゆっくりと腰を曲げ挨拶をしてから、無邪気に見えるよう笑顔を浮かべ首を傾げて見せる。可愛いと百合子の両親に絶賛されたその仕種は、けれど白哉には何の感銘も与えなかったようだ。ちらりと見遣った視線は直ぐに反らされる。
 いいえ、と百合子は思う。「白哉さまは気持ちを表すことが苦手な方だから……」と心の内で微笑み、淑女らしくすまして見せた。
 幼い頃から、自分は白哉の妻になるよう両親に言われ続けた。白哉自身もそれに異を唱えた事はなかったのだ。
 その美しさ、気品、そして朽木家の嫡男というその立場――絶対に手に入れなければならない。自分以外に「朽木白哉」の横に相応しい者がいるだろうか?――答えは否、だ。
 満面の笑みで白哉を見詰め、品を作る百合子を見詰める白哉は、普段と変わらない。
 勿論、不機嫌さから無表情になっている白哉は、このような茶番に付き合うのは時間の無駄だと思っていたが、両親が裏にいる以上そう無碍にすることも出来ない。
 今、比較的自由に動けているのは、白哉の両親が百合子を白哉の婚約者と位置づけている所為だと充分にわかっている。
 両親の敷いたレールに乗り、両親の望むように進んでいく未来に逆らわなければ、ある程度の自由は認められているのだ。
 正妻に百合子を据え、その間に男子を儲ければ、あとは何人でも好きな女を囲って良いと白哉の父は面と向かってそう言った。実際白哉の父も、幾人かそういった女は存在しているし、その女との間に子供も在った――それは万一、白哉の身に何かあったときの為の保険、朽木の血を絶えさせることの無いよう掛けられた保険。
 今、百合子の婚約の件で、両親との間に波風を立てる事は白哉の計画にとっていい材料ではない――それ故仕方なく、白哉は百合子の前に座った。
「両親からの伝言は」
 余計な言葉は一言もなく、白哉はいきなり切り出した。仕事の邪魔をされて怒っているのだ、と解釈した百合子は、宥めるように微笑みかける。
「あまり根を詰めすぎないようにと。――最近、経営の方ばかり携わっているようですが、まだ貴方は学生――少しは息抜きで学院の方へも行きなさい、とのことでした」
 完全な無表情で、白哉はさり気なく百合子から視線を反らせた。既に百合子の――両親の魂胆は透かし見えた。
「失礼致します」
 控えめな声と共に、ティーセットを乗せたワゴンを押しながら、静かに緋真が入室した。丁寧に紅茶を淹れる緋真の存在を、百合子は全く気にすることはない。従者は百合子にとって人間ではなく、意識を向ける相手ではない。
 それは緋真も承知している。視線を合わせる立場に自分がないのはわかっていた。百合子にも、そして白哉にも視線を向けることなく、静かに緋真は給仕を進める。
 やがて二人に紅茶を淹れ終わり、一礼して退室しようとする緋真を白哉が呼び止めた。
「――部屋に戻って待っているように」
 部屋で待っていて欲しい――直ぐに戻る。
 その、言葉の奥に潜められた白哉の想いを正確に受け取り、緋真は目を伏せたまま「はい」と小さく応え、やはり視線を合わせることなくもう一度一礼する。
 白哉の美麗な顔に視線を向け、うっとりと頬を染めながら見詰めていた百合子は、そこで初めてこの場に居る第三者に意識を向けた。普段ならば決してその存在に気を止めることのない、同じ人間とさえ認めていないただの道具――従者に気を留めるなど有り得ないことだ。それでも自分は白哉から意識を逸らし、家具や家電と同じ立場の筈の従者に意識を向けた――それを疑問に思いながら百合子はその従者を見る。
 歳は自分と同じくらいだろうか――そう離れているようでもない。伏せられた顔ははっきりと見えなかったが、少しだけ覗く僅かな部分を見ただけで、その従者が整った容姿をしていることは明らかだった。白い肌、華奢な身体、可憐な顔、やわらかな雰囲気――自分が持っていないもの。
 胸に込み上げる不快感と共に、ふと自分が違和感を抱いていた事に気付き百合子は首を傾げた。
 不愉快はわかる。見た瞬間に、自分の嫌いなタイプの女だという事はわかった。けれど違和感――それは、何処が、と明確にはわからない。何に対して違和感を覚えたのか、振り返ってみても何もわからない。その原因を百合子が深く考える前に、少女は一礼して部屋を出て行く。
 違和感の元を探りながら少女の出て行った扉を見詰めていた百合子は、白哉の「伝言、確かに受け取った」という短い言葉に慌てて意識を切り替え――そして違和感は、百合子の記憶から忘れ去られた。
「来週の土曜日、英黎では学院祭がありますでしょう? 私、白哉様の過ごしている英黎学院を拝見したいですわ」
「――私は当日忙しい。学院を見たいのならば、明日にでも行くといい。その方がゆっくり見られるだろう。――学院の者には伝えておく」
 素気なく言われたその言葉は、美しく落ち着いた声で言われる為に、耳にした百合子にはそう受け取らない。学院祭に白哉が忙しいのは生徒会長であるその立場から当然だとわかっていたので疑問に思うことなく――万一の願いをこめて口にしただけなのでそう落胆はなかった。それよりも、明日学院に行くといいと言われた言葉を、百合子は百合子自身の解釈によって受け止め、嬉しそうに笑った。
「では――そうさせていただきますわ。私、近日中に秀瑛から英黎に転入しようかと思ってますの」
 伯母様からお聞きになっているでしょう、と百合子は頬を染めて言った。何も聞かされていない白哉は、無言で百合子の顔を見詰め、その視線に更に百合子の頬が赤くなった。
「はしたないと思わないでくださいませ。それだけ――白哉様の傍にいたい、百合子の気持ちをわかってください。伯母様が東館に私の部屋を用意してくださると仰ってくださって、私もその方が良いのではないかと――色々準備もありますでしょう? ――今後の事もありますし」
 母が自分に何も言わずに事を進めているのは、言う必要もないと思っている所為か――以前、白哉自身が百合子との婚約に異を唱えなかった所為もあるだろう。それは緋真と出逢う前、まだ世界に光はなく、灰色に包まれた数ヶ月前の話――今となっては、白哉は百合子と結婚する気など毛頭無い。そろそろはっきりとその意思がないことを両親に告げなければ、話は白哉を置いて進められてしまうだろう。
 けれど、ただ嫌だというだけで頷くような両親ではないことも、18年接している白哉にはわかっていた。故にずっと白哉はその準備を極秘裏に行っている。両親が口を出せない状況を作るため、緋真を迎え入れる為の準備は着々と整っている――あと半年もすれば、両親は自分の意見を受け入れざるを得ない状況になる。
 それまで、百合子との婚約、結婚の話はさり気なく停滞させた方が良い。
「貴女はまだ16――そんなに結婚を急がなくても良いだろう」
 途端、血相を変えるお世辞にも美しいといえない百合子の顔を眺めながら、百合子が何かを言う前に「何故なら」と続ける。
「私の妻になるということをあまりに早く内外に公表してしまうと、貴女の身に危険が及ぶかもしれない。――つい先日も、私は賊に襲われた」
「え……!? 何も、私は何も聞いてません――そんな大事なことを、何故誰も私に――」 
「この件は公表していない。外聞の良いものではない故、誰にも言っていない。見舞いに来た貴女に危害が及ぶのを恐れ、敢えて貴女には伝わらないようにした」
 襲撃の件を知れば間違いなく駆けつけるであろう百合子に辟易して、百合子には伝わらないように手を打った事実を伏せ、白哉はさらりと嘘を吐く。
「つまり、貴女が私の妻になると公表してしまえば、貴女を狙う輩が現れる可能性もある。――私が懸念しているのは、其処なのだ」
「白哉様……私を心配してくださるなんて……百合子、感激ですわ……!」
 感極まって声を震わせる百合子を眺めながら、白哉は「なので、出来るだけ私は貴女に会わないようにしたほうが良いと思う」と、さり気なく自分の望む方向へと話を進めていく。
「この屋敷に住むということも、土曜の学院祭に来られるのも、貴女の安全の為には避けた方が良いと思う。――貴女は今しばらくご両親の元で過ごされた方が良いかと」
 ふ、と白哉は口元で笑った。
「その方が私も安心だ」
「白哉様……」
 百合子はその笑顔にぽうっと見惚れた――白哉の笑みが皮肉気なものだったことを、その笑顔を初めて見る百合子にはわかる筈もなかった。












 百合子が学院祭に来ると思っている両親の手前、白哉はその土曜日は学院に行かざるを得なくなった。既に何も得る物がない学院に行くのも時間の無駄だとは思っていたが、百合子の相手をしていると両親に思わせるのは悪くない。これで両親も暫く静かになるというのなら、今日の日は決して無駄ではないと白哉は思いつつ――白哉の私室と半ば公認されている生徒会室に仕事の資料を持ち込んで、暇な時間を潰している。
 此処が自分の部屋ならば――いつでも傍らに緋真が居る。昼間は決して主と従者という立場を崩すことのない恋人をほんの少しだけ残念に思いながら、それでも一緒にいられる幸福に酔いしれた。
 自分よりも歳下の少女――本来ならば、この生徒会室の閉めた窓の隙間から洩れ聞こえる華やかな歓声、その声をあげる少女たちと同じように、何不自由なく学生生活を送っていたであろう少女。
 自身に起きた不幸に自暴自棄になることもなく、健気に朽木家の従者として働く緋真を、早く幸せにしたいと思う。
 それにはただ妻に迎えるだけでは叶わない。
 周囲の雑音を完全に排除できる環境を作り上げてから、愛しい少女を迎えなくてはならない。
 校庭も教室も体育館も、全て学院祭の楽しげな雰囲気に包まれている。学院祭は生徒会の主催ではなく、実行委員が中心となって進めるので、白哉が口を挟むことは何もない。もとよりこの学院を訪れたのも久し振りの事なのだ――出席日数など「朽木」の名を持つ白哉には全く無縁の事だった。恐らく一日も登校しなくても、三年後には卒業証書が送付されていただろう。白哉にとっては高校の授業、問題などは児戯に等しい。
「白哉さま」
 この部屋に入室しようなどと思えるのは、この広い学院の中で一人きりだ。その一人が、軽く扉を叩いて顔を覗かせた。
「折角の学院祭だというのに、何をこんな所に閉じこもっているのですか」
「別に私には関係ない」
「何を言ってるんですか、お祭りですよお祭り! 模擬店も出てますし、舞台では演劇もやっていますし――うちの演劇部は結構上手いですよ。舞台装置に金かかってますしね。それに、展示を見て回るのだって楽しいでしょう」
「つまらん」
 誘いを一刀両断された檜佐木は、苦笑しながら「白哉さま、ほら行きますよ」と腕を掴んで椅子から立ち上がらせた。不機嫌そうに眉を顰める白哉に、「せっかく最後の学園祭なんですから」と急きたてる。
「楽しまなくちゃ損でしょう。――ところで、玖珂百合子嬢は?」
「今日は来ない」
「それはよかった。存分に楽しめますね」
「そんな積もりはない」
「まあそんな事言わずに――生徒会長も見回り位してくださいよ。下級生は皆、白哉さまにお会いしたいと思ってるんですよ? それなのにあまり学院にいらっしゃらないので、下級生達は随分がっかりしているとか」
「私には関係ない」
「まあまあそんな事言わずに」
 半ば無理矢理、追い立てるように生徒会室から白哉を連れ出した檜佐木は、廊下を歩き校舎の外へと白哉を連れて行った。廊下ですれ違う生徒たちは、間近で見る「朽木白哉」に驚いた視線を向ける――資産家の子息が通うこの英黎学院でも、白哉の存在は特別だったのだ。憧憬や打算や感嘆の視線を無表情に受け流し、白哉は檜佐木にだけわかる不機嫌さで前を見据えて歩く。その姿は、見送る生徒達には颯爽と歩いているようにしか見えないだろう。
「あ、そうそう――白哉さまに会わせたい者がいるのですが」
 突然1階で立ち止まった檜佐木は「少々お待ち下さい」と姿を消した。遠巻きに眺める英黎の生徒たちの熱を帯びた視線を鬱陶しく感じながら、白哉はこの後、檜佐木にどう意趣返しをしようかと思案を巡らせていた。祭りなどという意味のない催しに無理矢理連れ出された礼は、きっちりと返さなければならない。檜佐木が一番困ることをその鋭利な頭脳で20通りほど瞬時に考えていた白哉の耳に、「お待たせしました」と朗らかな声がする。
 胡乱そうに視線を向けた白哉の目が一瞬見開かれた――檜佐木に隠れるようにして立つ、英黎の制服を身に着けた少女の姿を映した所為で。
「檜佐木――」
「私の、母方の遠縁で――明後日からこちらに転入することになっています。――緋真、白哉さまにご挨拶を」
「あ……あの――ごめんなさいっ!」
 檜佐木の制服を握り締め、緋真は檜佐木の背中に隠れてしまった。
 きっと白哉さまは呆れていらっしゃる、と緋真は泣きそうになる。
 有無を言わせずに屋敷から車に押し込まれて、行く先もわからないまま車に揺られて辿り着いたのが英黎学院――手渡された紙袋の中に在った英黎学院の制服に着替えるよう檜佐木に言われ、出来ないと必死に懇願したもののあっさりと却下された。
「白哉さまの為ですから」
 にっこりと微笑み――微笑みながら強制する檜佐木に、大人しい緋真が逆らえるはずもない。檜佐木が用意した空き教室の隅で私服から英黎の制服に着替え、再び有無を言わせずに校舎の前まで連れてこられた。「ちょっと待っていてください」と念押しされて五分後――白哉に引き合わされた緋真は、呆れているであろう白哉の視線から逃れる為に、林檎のように真赤になりながら必死で檜佐木の背中に隠れた。上目遣いに白哉を盗み見れば、明らかに不快な表情を浮かべている。
 白哉にしてみれば、自分の傍に来ず檜佐木の背中にすがり付いている緋真を見て、――多少嫉妬心を抱いていたのだが、白哉のその視線に身を縮ませる緋真を見て、白哉は小さく苦笑した。
「はじめまして、緋真嬢。いつも檜佐木には世話になっている」
 声も出せずに檜佐木にしがみついている緋真の手をやわらかく自分の手に奪い返して、白哉は視線で緋真に注意する――私以外の者に触れてはいけない。例えそれが檜佐木であっても。
「よろしければこの学院を案内させていただこう」
「そっ、そんな大丈夫ですっ、必要な」
「是非そうさせて頂きなさい、緋真。――大丈夫、白哉さまはとても優しい方だから。安心して回って来なさい」
「では、どうぞお手を」
 緋真の意見は全く無視して、英黎学院の演劇部も形無しの演技を周囲に披露し、さり気なく緋真を檜佐木の遠縁の娘と周りの者達にアピールし、極自然に白哉と檜佐木のふたりは演技を続けていく。
「では、どうぞごゆっくり。夕方また合流しましょう。私は私で楽しく過ごさせていただきますから気になさらず」
 檜佐木に近寄った、大人びた少女の腰に手を回しながら、檜佐木は「それでは」と片目を瞑り歩き去る。引き止めようとする緋真の手を引き寄せ、暖かな視線を向け白哉は微笑んだ。
「学院の制服がとてもよく似合っている」
「……図々しく、申し訳ございません……」
「檜佐木に逆らえる者など誰もいない。――私を含めて」
 溜息と共に吐き出されたその台詞を聞いてようやく緋真が小さく笑う――その笑顔に笑顔で返し、白哉は「では、案内しよう」と優雅に緋真を導いた。
 最後の学院祭――平和で幸せな、最後の時間。







 

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