「いえ、突然ではないのですよ」
教会の応接室――彼の家ほど大きくないが、居心地の良さと暖かさでは先日通された彼の家の応接室よりも上のそのソファに、恰幅のいい身体を沈めて岩崎はそうシスターに切り出した。
「以前から家内と話していたのですよ……私共には女の子がいないし、ルキアちゃんの事は以前から知っていましたし。とても可愛くて利発な女の子だ。だから、私達が是非育てたいと……教育と、教養を身に着けさせたいと思っているのですよ」
穏やかに、岩崎はシスターに語りかける。
「勿論、以前から考えていたこの事を今こうして実行に移したのは、きっかけというものがあります。それがこの教会の現状ですよ、シスター。このままではこの教会はなくなってしまう。そうでしょう?――だから、今、なんですよ。ルキアちゃんを引き取ったのなら、ここの借金は私が全額肩代わりします。先代には世話になりましたし、ぜひそうさせて頂けないか」
「けれど――」
シスターは戸惑いも露わに、自ら淹れたお茶を、渇いた喉へと流し込んで気を静めてから、
「それではまるで、あの子が形代のようで――」
「そんな風に思わないでください、本当に、ただルキアちゃんを引き取りたいだけなんです。彼女を幸せにしたいだけ、なんですから。彼女に相応しい教育を」
「―――でも」
「私共の家はご存知でしょう、いつでも会いに来て下さって結構ですよ?」
「そう、ですね……」
幸せ。
ルキアを幸せにしたい、それはシスターの考える事と同じだ。そして岩崎はルキアを少なくとも経済的に幸せに出来る十分な財力がある。
そして人柄もいい―――例え岩崎の家に引き取られても、ルキアが辛い思いをする事はないだろう。
けれど、それがルキアにとっての幸せかどうかは―――甚だ疑問だ。
ただ、このままでは―――この教会の現状では、ルキアを幸せに出来るかというと―――それも、甚だ疑問だ。
このまま借金を返せなければ、恐らくここに住む子供達は離れ離れになるだろう―――ルキアも、大好きな恋次と離れなくてはならなくなるだろう。
何処か遠くへ、会うことすら困難なほど遠く引き離されるよりも、もしかしたら会いにいける距離の岩崎の家に引き取られた方が、ルキアにも恋次にもいいのではないだろうか。
ふう、とシスターは溜息をついた。
「とにかく―――これは本人にも聞いてみませんと。私の意見だけで決められる事ではありません。あの子の気持ちを聞かないと」
そして、あの子の本当の保護者、守護者である―――恋次君に。
最後の言葉は自分の胸に呟いて、シスターは「お返事は、後ほどさせていただきます」と頭を下げた。
「やだ」
シスターが説明をした際のルキアの最初の言葉は、簡潔なその一言だった。
「ルキちゃん……」
「ヤダったらやだ。絶対いや。恋次と一緒じゃなきゃいや。離れるなんて絶対イヤ」
小さな拳を握り締め、全身で拒否を露わにして、ルキアは繰り返しそう訴えた。
目の前にいるのがシスターではなく、岩崎本人であるかのように、大きな瞳に怒りを滲ませてルキアはきっと睨みつける。
仔猫が己の身を護るようなその必死な様子に、シスターは微かに胸を痛める。
どれが一番、ルキアが幸せになれる道なのだろう。
この話を断って、そしてその先にある未来はルキアにとって最善の道なのか。
―――最善、最良の道。それは、この教会を手放さないで済む道。
当てはないけれど、それでも何とかしなくては。
ルキアの為に。
皆の為に。
シスターは小さく微笑んだ。
「わかったわ、じゃあ、この話はお断りするから」
「―――ちょっと待ってくれ、先生」
それまで黙ってシスターの説明を聞いていた恋次―――ルキアが恋次の同席を希望し、シスターも当然の権利と頷き、共に同じ場にいた恋次が、静かにシスターの言葉を遮った。
え、とルキアが恋次を顧みる。
「少し、ルキアと二人で話させてくれ」
恋次の顔は厳しく、瞳にはどこか思い詰めたような光がある。
「構わないけれど―――」
その予想外の恋次の反応にシスターは戸惑った。
シスターは、恋次がこの話に怒り狂うと思っていたのだ。一も二も無く拒否すると、そう思っていた。
けれど、恋次はシスターの話、岩崎から伝えられた言葉を、ただ黙って聞いていた。激する事無く、ただ静かに。
恋次が今何を考えているのかわからなかったが、シスターは恋次のその年齢以上に信を置いていたので、何も言わずに頷く。
ぱたり、という扉の閉まる音と共に、部屋の中はしんとなった。
「―――恋次?話って何?」
ルキアの言葉に賛成せずに、「話がある」と引き止めた恋次に不安を感じ、怯えるように恋次を見上げるルキアを、恋次はしばらく物言わずに見詰めてから、ぎゅ、と不意に抱きしめた。
体温を互いに感じあう。―――伝わる暖かさに、何故だか切なさが止まらない。
しばらく二人、そうしてただ抱き合って―――ようやく、恋次はぽつりと呟いた。
「俺は、いい話だと思う」
「―――恋次!」
見る間にルキアの目から涙が溢れて、ぽろぽろと頬を伝って落ちた。愕然と、自分よりも上にある恋次の顔を仰ぎ見る。
そこに在るのは真剣な顔。
もしかしたら冗談なのではと、在り得もしない淡い期待を打ち砕く恋次の表情に、ルキアは小さく息を呑んだ。
「本気で言ってるの?ルキアに、あの人のおうちに行けって、ほんとに言ってるの?」
「―――あの人はいい人だよ、それは間違いねえ。やったじゃねえか、ルキア」
「恋次―――……」
「美味いものだって食い放題だ、着物だっていいものばかりだぜ。どんな贅沢だって出来る。お姫様みたいな生活が出来るんだ―――最高じゃねえか」
「恋次!」
そんなものいらない―――そう叫ぼうとしたルキアは、更にぎゅっと抱きしめられて、その抱きしめられた身体に恋次の身体の震えが伝わって―――ルキアは言葉を飲み込んだ。
震えている。
―――泣いている?
「俺にもっと力があれば―――こんな風に離したりしない」
けれど、現実に、恋次には全ての問題を打破する力はない。
この教会を無くさずに済む財力も、
ルキアをさらって二人で生きていく力も、
何も、無い。
ルキアを幸せにする力など、何一つ。
現時点で出来る最良の選択はこれしかない。
そう理性で解っていても―――感情で否定する。
離れたくない。
離したくない。
このまま、時が止まってしまえば―――……
恋次は哀しく、己に向かって嗤った。
……それこそ、夢のまた夢。
何の生産性も無い戯言だ。
現実から目を背けても、何の解決にもならない。
ただ願うのはルキアの倖せ。
幸せにしたい。
だから、今は……
離れるしか、ない。
「恋次……」
何も言わずにただ強く抱きしめる恋次の想いは、ルキアに確かに伝わっていた。
何も言わなくても伝わる―――二人の絆の強さ。
何も無いから、唯、今はそれを信じるしかない。
「だから―――少しだけだ。少しだけ待っててくれ」
二人の絆の深さ。
―――今はそれだけを信じている。
「必ず、迎えに行くから」
「絶対?」
震える声で、ルキアは言う。
恋次の背中に両腕を回して、決して離れない、という意思表示を見せながら。
幼いルキアも、気付いてはいるのだ―――この教会の現状と、このまま進んだ場合の未来の予想。
そして恋次が、苦渋の思いでルキアに養子の件を薦めていることも。
ルキアを抱きしめる恋次の身体から伝わる震え。
ルキアを抱きしめる腕に籠められた力の強さ。
どれも、離したくないと―――そう、何よりも強くルキアに伝えているから。
だからルキアは、泣きながら―――頷くしかなかった。
離れたくないから、離れる事が最良の方法だと。それが解ったから―――
「絶対、迎えに来てくれる?約束してくれる?ルキアを迎えに来てくれる?」
恋次の胸に顔を埋めながら、擦れた声でようやくそう呟いた。
「絶対だ。そうしたら、今度こそ絶対離さない。ずっと一緒にいる―――誓っただろ?俺はずっとお前の傍にいる」
あの、朝焼けの中で。
赤と金の光の中で誓った言葉は、何より真摯なものなのだから。
「―――逢いに来てね。じゃなきゃ行かない」
「毎週、絶対逢いに行く」
「ルキア以外に好きな人つくらないで」
「在り得ねえ」
「―――なるべく早く、迎えに来て」
「直ぐだ、待ってろ」
「………っっ!!!」
後はもう、ルキアは何も言えずに、ただ恋次の名前だけを呼んで泣き続けた。
恋次もただ、ルキアの名前だけを呼んで細い身体を抱きしめた。
「―――ルキアは心配だよ」
「―――何が?」
一つのベッドにいつものように、二人寄り添って眠る暗闇の中、ルキアは恋次の腕の中で、恋次の胸に顔を埋めて小さく呟いた。
「ルキアがいなくなったら、ちゃんと恋次眠れる?」
「…………」
「ルキア、知ってるんだから。恋次、ルキアがいないと眠れないでしょう」
この三ヶ月、何日かルキアと一緒に寝ない日があった。ルキアが熱を出したり、居間で眠り込んだルキアをベッドに運んで、起こさぬように別々で寝たり、ルキアが怒って一人で寝たり。
そんな時、決まって恋次は眠る事が出来なかった。
眠りに落ちることができない。ようやく僅か眠りに落ちても直ぐに目が覚める。
それは、以前の生活では当然のこと、それが当たり前の事だった。眠っていてさえ、気配を探らなければ身の危険がある生活。それがもう、施設にいた頃から何年も続いた恋次の「当然」の事だったのに。
ルキアがいれば、直ぐに深く眠りに落ちた。
「……慣れなくちゃな」
「……慣れなくちゃいけないんだね」
ルキアの埋めた胸元に暖かい雫が落ちたのを感じて、恋次はルキアの髪を優しく愛おしく触れる。
「またお前の歌で眠れるように、急いでお前を迎えに行く」
ルキアはこくりと頷いて、小さく息を吸い込んだ。
囁くように小さな歌声。
ルキアは歌う。
恋次が好きだと言った、初めて会ったその時に聞いたルキアのその歌を、毎夜繰り返された通りに、今日も。
恋次に抱きしめられながら、ルキアは歌う。
ルキアが小さな声で口ずさむその透明な旋律は、讃美歌のように、夜の空気に溶けて静かに空へと昇って行った。
シスターが養子の件の承諾の連絡を入れると、岩崎は電話口で「そうですか、よかった!」とひどく喜んだ様子を見せた。
「それで、いつ?うちは明日でも全く構いませんが―――」
「いえ、それは―――色々準備もありますし」
「準備なんて何も要らないですよ、全てこちらで用意しますから」
「あの、そうではなくて―――あの子の心の準備が……」
ああ、と岩崎は納得したような声を上げ、失礼しました、と謝罪した。
「嬉しくてつい、先走ってしまいました……では、いつ頃迎えに行けばいいですか?」
「……では、一週間後に……」
「はい、解りました。一週間後、午前10時に迎えに参りますので」
受話器を置いて、シスターは小さく、哀しげに溜息を吐いた。それからゆっくりと背後の恋次を振り返る。
「……一週間、で良かったかしら」
「充分。ありがとう、先生」
「何も……出来なくて。ごめんなさい、恋次君」
「先生は何にも悪くねえよ。謝る事なんか何一つ無えって」
「でも……」
「俺をここに置いてくれてありがとう。感謝してる。一週間、俺達に時間をくれた事も」
もう、全てを決心したその迷いの無い恋次の目に、シスターは密かに感嘆する。
―――この子は強い。年齢等は関係なく、大事な者を護るために、ただこの子は強く在る―――。
もう、何も言えない。
謝る事さえ、彼には不要なのだ。
彼はもう全てを受け入れ、これからの事に目を向けているのだから。
「……ルキちゃんは?」
「寝てる。泣き疲れたみてえだ」
「早く戻ってあげないと。夜中目が覚めて恋次君がいなかったら、それこそルキちゃん泣いちゃうわ」
「ああ。―――じゃ、お休みなさい」
「お休み、恋次君」
真直ぐに前を見据え、ルキアの元へと歩く恋次の後姿を見送って、シスターは両手を組み合わせ目を閉じる。
「―――主よ、どうか二人の未来が幸せでありますよう……」
呟いた祈りの言葉は、静かな空気を震わせてから消えていった。
一週間。
この一週間を過ぎたら、
二人、
―――別々の生活が始まる。
next
お待たせ…してますか?がんばったんですけど!(笑)
今回は一話だけのアップです。いやすぐに書き始めますけどね。とりあえずT章が終わるまでは集中して書きたいな、と思います。
あと何話かな……2、3話だと思うのですが……。
イツマさんから素敵創作もいただき、舞い上がっております。
ルキアが養子に、という話が出た時の恋次の台詞、原作とリンクさせたかったのですが、ニュアンスしか重なってないです…悔しいなあ。かろうじて「やったじゃねえか!」のみ。
ちょこちょこ原作に重ねたいと思ってるんですよ。はい。
それではまた、近いうちに!
2005.11.27 司城さくら