「久し振り」
 突然現れた理吉に驚く様子もなく、まるで前から約束があったかのような笑顔で迎えた弓親に、理吉は苦笑しながら頭を下げる。「阿散井」の施設で初めて逢ったあの時から、弓親に叶わないと思うのは、この全てに泰然としている様子からなのだと思う。
 懐かしさと、最後に別れた時の状況を思いだして理吉の胸に痛みが走る。弓親は理吉の胸に去来する思いを正確に察しながらも、それに関しては何も言わずに部屋の中へと理吉を招き入れた。
 ごく普通のありふれた一軒家――この周辺の住人は、誰ひとりこの家に出入りしている人物達がどれほど危険な人種かわかってはいないだろう。
 この家の他の住人は各々の理由で出払っている。――身体を鍛えにだの武器の調達だの洋服を買いにだの。彼らがいなければひどく静かな室内で、弓親は理吉と自分に紅茶を入れ、適当な菓子を皿に乗せて居間へと行く。
 共同で使う居住スペースは、弓親の目が光っている為に綺麗に整頓されている。そのソファへ腰をおろして、弓親は理吉と向かいあった。
「あれからどれくらいたった?」
 最後に見た日から幾分背が伸びた感じのある理吉は、「一年、ですね」と小さく笑った。
「お礼と御挨拶が遅くなって、本当に申し訳ありませんでした」
「いや、別に? もらうものはちゃんとあの後すぐにもらってたしね。予想以上にたくさんもらえて助かったよ。色々必要だったからね」
 理吉の詫びをそれ以上は必要ないとさらりと流して、弓親はティーカップを優雅に口へと運んだ。普段は日本茶を好む輩が二人いる所為で、弓親好みの紅茶をゆっくり飲める機会はあまりない。
 あの日――朽木家の襲撃の日から、時は既に一年経っている。
 それだけの時が過ぎたことに感慨がある。あの時は半年ですら自分たちが生きていられるとは思ってもみなかった。
「朽木白哉が死んだのが大きいよね。――僕らがこうして生きていられるのも」
「そうですね。――あれから、どの世界も混乱状態でしたし」
 朽木白哉と阿散井恋次の死。
 それは世界を支配していた朽木、そしてその朽木に迫っていた新興勢力阿散井、二大勢力のトップの死だった。
 どちらの男にも後継ぎはいない、後継者など考えるほどの歳でもなかった彼らの、あまりにも若くあまりにも突然の死だった。
 当然世界は大混乱に陥った。この強大な朽木と阿散井を継ぐのは誰か、それぞれの勢力で争いが起こり――その混乱に乗じて、剣八たちは姿を眩ますことが出来た。
 予想していた追撃もなく。
 実際、彼らに構う暇など朽木には無かったのだろう。
「――檜佐木修兵は? あれからどうしてる? 生きてるんだろ?」
 自分たちが屋敷から脱出した後に何があったかは弓親にはわからない。弓親が朽木白哉を解放した時点で、朽木白哉が死ぬ可能性はかなり低かった。天井や壁が崩れるのはだいぶ先の筈だったし、あの檜佐木修兵が傍にいて、そこまで白哉をあの場に留めさせるはずもなかったからだ。
 それでも朽木白哉は生命を落とした。その理由を弓親は知る由もなかったが。
「生きているようですね。けれどもう、朽木家には関わっていないようです」
 白哉の父である皓成には、外に何人も愛人がおり、その間に何人か子供がいた。正妻の暁子との間には白哉しかいなかったこと、その白哉の能力が突出していた所為で、皓成が死亡した後の後継者は白哉にとすんなりと決まったが、その白哉の死後、皓成の非嫡出子たちの間で壮絶な争いがあったようである。
 前当主の右腕である檜佐木を部下として迎えることができれば、その後継者争いが俄然有利になる為、檜佐木には各陣営から働きかけはあったようだが、そのどれも檜佐木は退けたようだ。表舞台に立つこともなく、後継者候補の誰にも手を貸すことはなく、白哉の弔いをした後に忽然と姿を消した。
 それ以降は、理吉の探索を持ってしても行方を掴むことが出来ない。
「ふうん。で、阿散井の方は?」
「そちらは――まだ阿散井武流が存命ですので、また彼がトップに立ってますよ。あの施設も再び稼働したようですしね。また後継者探しをしてるのではないでしょうか」
「食えない爺さんだね。この状況を一番喜んでるんじゃないの?」
「そうですね。――僕にはもう関係のない世界ですけれど」
 理吉は――阿散井という組織から手を引いた。
 元々理吉は恋次の為に働いていたのだ。その恋次がいない今、阿散井に手を貸す謂れはない。
 あれから一年――もう一年、まだ一年。速かったようで遅いようでもある。
「で? 理吉は何してたのさ、この一年」
 二杯目の紅茶を理吉と自分のティーカップに注ぎながら、弓親はさり気なさそうに問いかけた。恋次に少年の頃から十年も付き従い、共に苦楽を共にし、誇張ではなく生死を共にしてきた二人だ。あの日、あの地下室で、恋次が死んだという事実を受け入れられず、ただ呆然と立ち尽くしていた理吉を弓親は思い出す。
「――暫くのことはあまりよく覚えていないんです。ただ、恋次さんの遺体を引き取りたくて、色々画策したのですが……」
 彼ら――恋次、白哉、そしてルキアの遺体は、あの日のまま地下に埋もれたままだ。
 朽木の本拠地である土地の、完全に崩落した地下室を掘り起こすことはとても無理だ。
 今でも彼らは静かにそこで眠っている。
 それから理吉は弓親たちのそれからの話を聞いた。肩を竦め、「変わり映えしない毎日だよ」と弓親は笑う。依頼されて人を殺す毎日。それこそ朽木も阿散井も顧客として依頼を受けた。世界の混乱は、弓親たちの活躍の場でもある。剣八、一角は嬉々として仕事をこなし、やちるは嬉々として彼女曰く剣八との豪華な挙式を上げるための結婚資金を貯め続けている。
「することないんだったら僕らの手伝いしてよ。報酬弾むから。うちの人たち、情報戦に関しては全く不得手だからね……全部力押しのごり押しだし」
 様々な情報は、この狂った世界を生き抜くためには必要なものだというのに、なんとかならあ、なんとかなるよー、と全く考えない同胞たちに、弓親は既にその重要性を説くことを諦めていた。調査などは全て弓親独りで担っていたのだが、もし理吉が手伝ってくれるのならば心強い……どころか鉄壁になるだろう。
「そうですね、やることもないですし……皆さんにはお世話になったし。僕なんかでよかったら。――でも、もう少し後でもいいですか?」
「ん? 何か予定でもあるの?」
「行ってみたい場所があるんです――いえ、行かなくちゃいけない場所が。そこに行って――それで僕は、恋次さんとの思い出を整理できると思うんです」
「ふうん。――じゃあ、それが終わったら連絡してよ。待ってるから」
「はい。帰ったら連絡します」
「うん。――隊長たちには話しておくよ。まああの人たちは全く気にしないと思うけどね……今が楽しければいいって人たちだから」
 と、今が楽しければ問題ない、という口調で弓親は言い、にっこりと笑った。
 
















 丘の上に在るその場所へ向かう一本道の途中、理吉は見覚えのある長身の男を目にして足を止めた。
 風が吹く度に落葉が舞う中、真直ぐに理吉を見つめる男は以前のまま――ごく普通のスーツに身を包んでいても、洗練されたものとして目に映るのは、それも一種の能力なのかもしれない。
「――偶然ですか?」
「まさか。――勿論、故意だよ」
 大きな樹の幹に身体を預け、檜佐木は小さく笑った。足を止めた理吉との距離は3メートル。他に誰も人はいない。
 二人の間を、ただ落葉が舞い落ちて行く。
「俺にもそれなりに情報収集能力は在るんだ。君には到底及ばなくてもね――それに君、全く自分の行動を隠したりしてなかっただろう」
「ええ。――いつか、貴方が接触してくれるんじゃないかと思って」
「その思惑も感じたからね、それに乗ってみた」
 男は、――檜佐木はそう言って笑った。
 殺気はない。殺伐とした空気も、投げやりな態度も。
 理吉の目には、檜佐木はとても穏やかに見えた。
 理吉が檜佐木との接触を望んだのは、檜佐木の行方を必死に探索したのは、朽木白哉の最後を知る為だった。
 恋次を殺したのは朽木白哉に間違いない。――間接的に、朽木ルキアを殺したことも。
 恋次とルキア、ルキアと白哉、白哉と恋次の事情を、理吉は今では知っていた。
 当時恋次が理吉に話したことはただ、幼い頃にルキアと出逢ったこと、そのルキアは朽木家に養子として引き取られていること――それだけだった。
 けれど恋次亡き今、理吉は独自の調査でおおよそのことはわかっている。
「あの日――あの時、朽木白哉に何があったんですか」
「前置きなしか。まあ、そんな間柄でもないしな」
 くすりと笑って、檜佐木は煙草に火を付ける。ただそれだけの動作が、流れるようで完璧に美しい。
「――白哉さまは、自ら焔の中に飛び込まれた」
「…………え?」
「幸せそうに微笑んで。――俺は間に合わなかった」
 あの瞬間――「緋真!」と叫んで焔に向かう白哉を見た瞬間。
 檜佐木も見たのだ、焔の中に浮かぶ白い姿――間違いなく、あの時と同じ白いウエディングドレス姿の、久儀緋真を。
 笑顔で白哉に両手を差し伸べる緋真の姿を――。
 白哉に強く抱きしめられながら、緋真は檜佐木を見た。
 少女のまま、あの日のままの可憐な少女のまま、緋真は少しだけ哀しそうな顔をして、檜佐木に言った。
『ごめんなさい』
 距離は遠く離れていた。緋真の声が聞こえる筈はなかった。まして、本当に緋真がそこにいたとも限らない。幻覚だったかもしれない。
 けれどその声は、緋真の声ではっきりと聞こえた。
 そして檜佐木が見つめる中、抱き合うふたりは、焔の中へと消えて行った。
 あの瞬間の白哉の笑顔を、檜佐木は忘れられない。
 全てを取り戻したあの笑顔。
 幸せに満ちた笑顔、「みつけた」と全身で歓喜を表していた。
 焔に巻かれる苦痛も何も感じていなかったのだろう。在るのは幸福感のみ、目に映るのは緋真の姿だけ。待ち続け待ち続けた、想い人の来訪に安堵し――。
 白哉は幸せだっただろう、最期のその瞬間まで。
 緋真が檜佐木に向けた謝罪は、心優しい緋真らしい……だから檜佐木は、白哉を連れて行った緋真を恨むことは出来なかった。
 緋真も悩んだのだろう、白哉を連れて行くことを。
 けれどあのまま白哉を独りで残していくことは、白哉を不幸にするだけだとわかっていたのだろう。あまりにも白哉は緋真を愛しすぎていた。純粋に、ひたむきに、ひとすじに。
 緋真が消えて、心が壊れてしまった程に。
 だから緋真は、白哉を迎えに来たのだ――白哉を幸せにする為に。
 そしてそれは間違ってはいなかった。
「――この結末に向かう歯車の動きの、全ての原因は俺だ。緋真さんを護れなかったのも、ルキアさまの運命を歪めたのも」
 そして檜佐木は最愛の主を失った。
 この先独りでこの罪を背負ったまま生きて行くのが、檜佐木の贖罪なのだろう。
「……全ての原因は朽木皓成だと思いますけど」
 朽木皓成が久儀緋真を殺さなければ、こんな風に悲劇では終わらなかっただろう。白哉と緋真は幸せな夫婦となり、恋次とルキアは幸福に暮らしていた筈だ。
 そんな理吉の感想を慰めだと受け止めたのだろうか、檜佐木は苦笑して返事はしなかった。それ以上、理吉も何も言わなかった。
「檜佐木さんも行くんですか」
 丘の上に視線を向けながら理吉が問うと、「いや」と即座に否定して檜佐木は樹の幹から預けていた背中を離した。
「俺はいない方がいいだろう」
「そうですか」
 では、と理吉は頭を下げる。恐らくもう二度と会うことはない相手に向かい。
 そして一本道を歩きだす。背後で、落葉を踏む足音が遠ざかっていく。
 


 


 丘の上に、その教会はあった。
 小さな、けれど手の行きとどいた教会だ。小さな子供たちが走り回っている。近付く理吉を見て、子供たちの中でも身体のやや大きい男の子が警戒するように目を向けた。
「どちらさまですか?」
 丁寧な言葉遣いとは裏腹の、牽制するような声。
 幼い頃の恋次もこんな感じだったのだろうか、と理吉は思わず笑みをこぼす。
「どうしたの?」
 シスターの装束に身を包んだ、年配の女性が現れて、理吉は頭を下げる。
 いつまでも夢は続くように。
 恋次とルキアが願った通りに。
 誰かの記憶の中でも、それが現実であり続けるように。




「初めまして。私は恋次の部下で、上司の代理で参りました。本人は只今外国で仕事をしているため参れませんでしたが、お世話になった先生に、上司と奥様であるルキアさまとの報告を……」







 

next