目の前で焔が燃え上がる。その焔の高さは天井まで届き、崩れ落ちた為に出来た巨大な穴から酸素を供給して、焔はさらに勢いを増す。
 断続的に落ちてくる天井の欠片を横目に、弓親は檜佐木を牽制しながら声をかけた。
「時間がないのは君にもわかっているだろう? 交渉はとにかく外に出てから。先に階段を上って」
「白哉さまを」
「渡せる訳がないことはわかっているでしょ。余計な時間を取らせないでよ。そんな悠長なことしている場合じゃないでしょ?」
「勿論。だが私を先に行かせ、出口に付いた途端白哉さまのお生命を盾に私を殺し、その後白哉さまに手をかける可能性が一番高い。故にこのまま先に階段を登れない」
「ご明察」
 檜佐木には聞こえない程の小さな声で弓親は呟いた。流石に朽木白哉の右腕、一筋縄ではいかない。
 恐らく外では、剣八たちが向かう全ての白哉の手の者を薙ぎ倒しているだろう。それに関しては弓親は全く心配してはいなかった。自分も含め、彼らは戦闘に特化した殺戮マシンだ。相手が何人でも彼らは嬉々として全ての敵を排除する。
 それ故に、弓親はこの地下から外にさえ出られればそれで充分だった。そして最後に朽木白哉と檜佐木修兵を殺す。流石に朽木白哉の組織力は侮れず、今後の面倒を避けるためにもこの二人は消しておいた方が得策――そう考えていた弓親は、檜佐木に先手を打たれて肩を竦めた。
 仕方ない、と弓親は譲歩する。まだ自分たちが優位であることには変わりない。
「いいよ、わかった。意見を摺り合せよう。御承知の通り時間はないので手短に。君の最優先事項は朽木白哉の身の安全。僕らの最優先事項はこの場からの撤退。という訳で君たちは僕らが地上に出てから外に出る。勿論君らの武器の携帯は無し。それと君たちは手錠で両手の拘束」
 白哉たちの両手の自由を奪い、格闘に長けた檜佐木の攻撃力を奪った上で先に弓親たちが地上に出れば、万一外の白哉の手の者が脱出を妨害しても、背後の白哉たちの生命を盾に交渉できる。また弓親との間を充分にとり白哉たちが地上へと向かえば、出口に着いた弓親に危害を加えられることはない。白哉たちを殺すためにいつまでもそこに待機している時間はないだろう。
 火と煙の回り具合、天井と壁の崩落具合、出入り口となる扉を塞いで閉じ込めることは構造上不可能であること、それらを加味し檜佐木は頷いた。何よりも一番危険なのはこのままここに留まることで、白哉の受けた精神の打撃のことを考えれば尚のこと迅速に外に出なくてはならない。
「その条件を飲む」
「商談成立。早速そこの机の手錠嵌めてくれる?」
 この部屋の特性上、都合のいいことに不穏な道具は豊富にそろっている。檜佐木に自身で手錠を嵌めさせた後、弓親は「そのまま向こうの壁まで下がって」と檜佐木を促した。
「この部屋の扉の前、階段の下で朽木白哉は解放する。僕らが行った後、適当に時間置いて動いて」
 檜佐木が自分たちの確保よりも白哉の身の安全を最優先することは間違いと確信していた為に、弓親は檜佐木が予想外の行動を起こすことはないと踏んでいた。問題なのは脱出した後のことで、朽木の力を総動員して自分たちを追い詰めようとするだろう。けれどそれはそれ、今までも数々の修羅場をくぐり抜けて来たのだ。何とかなるだろうと弓親は思っている。何とかならなければ真正面から相対して死ぬだけのこと――あっさりと思いながら弓親は捉えている白哉に目を向ける。
 朽木白哉は完全に虚脱している。虚ろな目には怜悧さも覇気も何も見えない。生気さえも希薄で、精巧な人形のように弓親は思った。とても生きている人間とは思えない。
 朽木白哉に対しては危険なことはないだろうと、背中を押して扉まで歩かせる。恋次の死という事実をいまだ受け入れられず、やはり呆然としている理吉を言葉で誘導しながら、程なく三人は扉まで辿り着いた。
 そこで身体の向きを変える。――視界には、焔の壁がそびえ立っている。広い部屋のほぼ中央に、部屋を二分するように燃え盛る炎の向こうはもう見えない。壁に繋がれたままの恋次の遺体も、その傍らで歌い続ける少女の姿も。
 白哉は微動だにせず、真正面の燃え盛る焔を見つめている。
「じゃ、僕らは先に行くから」
 約束は守るようにね、と朗らかに笑いながら弓親は白哉の首に当てたナイフを下ろした。左手で理吉の腕を掴み素早く部屋から出て行く。――すぐに二人の姿は暗闇に紛れて見えなくなった。
 同時に。
 檜佐木が白哉に駆け寄ろうとした、それよりも僅かに速く。
「緋真……?」
 白哉の唇が、小さく動いた。












 自分を間に挟み交わされる、檜佐木と見知らぬ男の会話は聞こえていても、その内容は頭には入ってはこなかった。言葉を理解しても内容が理解できない。理解しようと思っていないからなのかもしれない。全てに絶望し、虚無の淵に立つ白哉にとっては、緋真が傍にいないと言う事実を認識してしまった今、世界などもうどうでもいいこととなっていた。
 虚ろな瞳で眼前の焔を見つめる。
 金紅に輝く焔の中で、緋真によく似た少女が歌っている。紅い髪の男を愛しげに抱き、幸せそうに寄り添っている。
 緋真によく似た、緋真ではない少女。
 緋真だと信じていた、緋真ではなかった少女。
 ふと少女が歌を止めた。――見つめる白哉に気が付いたのだろう。
 そして少女は小さく首を傾げて微笑んだ。小さな唇が動く――白哉に言葉を伝えるために。
『兄さま』
 何年も、何年も何年も、白哉が傍らで見て来た笑顔で――
 少女に向けた愛情は、緋真に向けた愛情だった。少女を愛しているのではなく、ただ緋真を愛していた。
 そこに少女は存在しない。今まで白哉が見つめていたのは、ただ緋真だけだったのだから。
 少女を緋真の生まれ変わりと信じた、少女は緋真の甦りだと信じた白哉は、緋真としての記憶を取り戻さない少女に焦燥し、他の男に心を寄せる少女に激怒し、強烈な嫉妬心から少女の身体を無理矢理奪った――緋真ではなく、生きることを放棄していた白哉へ人身御供として差し出された、無関係の少女を。
 人生を、記憶を、過去を、尊厳を、身体を、心を、他者に踏み躙られ続けた少女は、全てを知った今も――白哉を優しく見つめている。
『兄さま』
 と。
『どうか、お幸せに』
 と……。
「……ルキア」
 それは白哉が初めてルキアをルキアとして呼んだ瞬間だった。緋真としてのルキアではなく、ルキアとしてのルキアを。
 呟いた声は声になっていなかったのかもしれない。耳に音として拾われなかったのは、唇が動いただけで声になっていなかったのだろう。
 それでも、ルキアには届いた。
 その唇の動きで声を読み取り、その表情で白哉の後悔と苦悩と慙愧の念を汲み取り。
 そしてルキアは微笑みを浮かべた。
 最後に見た緋真と同じ笑顔、朱に塗れた白いドレスを見に着け、自分の死よりも白哉の無事に安堵して微笑んだまま逝った、緋真と同じ笑顔で。
『さようなら、兄さま』
 焔が一際高く燃え上がり、白哉の視界からルキアの姿を隠しさった。




 きらきらと。
 ひらひらと。
 それは舞い散る花弁にも似て。
 金に。
 紅に。
 荘厳に。
 厳粛に。
 静謐に。
 すべてを浄化して。
 焔は、魂は。
 空へと――還る。




 それはデジャ=ヴュ。
 過去の記憶、遠い昔に見た記憶。
 紅い焔、降り注ぐ火の粉。
 あの時、空に還ったのは。



 焔が揺らいだ。
 金と紅に彩られ、そこに見える人影に、白哉は大きく目を見開く。
 白いドレスを身に纏い、記憶のままの可憐な笑顔で手を差し伸べる、白哉にとっての「全て」である存在が。

『白哉さま……!』

 昔と変わらぬ声で呼び掛ける、その姿は。



「緋真……?」


 世界は再び色を取り戻す。
 鮮やかに美しく、白哉は微笑みを浮かべ今この瞬間に感謝する。
 ようやく逢えた。
 緋真の言葉通り、いつまでも何があってもそばにいると約束した通り、緋真はやはり還って来てくれた――自分の為に。 
 先程まで白哉の動きを止めていた見知らぬ男の枷はない。
 視界の隅に、驚愕した檜佐木の顔が見えたことも、白哉さま、と叫ぶように発せられた檜佐木の声も、白哉の動きの妨げにはならなかった。
 軽やかに白哉は走り寄る。目の前の、心から愛する妻の元へ。
 待てど暮らせど来ぬ人を――緋真の姿を見失ってからこの歌を歌い続けた白哉の元へ、ようやく……心の底から待ち続けた人が、今。
「緋真!」
 溢れるほどの幸せに満ちて、白哉は緋真を抱きしめた。

















 それは一瞬だった。
 白哉が解放された瞬間、駆け寄ろうとした檜佐木が目にしたのは、焔を見つめ、緋真、と呟く白哉の姿だった。
 その、ルキアが緋真ではないと知った時より、一切の感情が抜け落ちていた白い美貌には、見る見る内に歓喜の表情が浮かび――靴音を響かせて白哉は駆けて行く。
 燃え盛る焔に向かい。
「白哉さま!」
 制止の声も、白哉には届かない。
 駆け寄る距離は、そんなに遠くない。――けれど、引き止めるには、絶望的に遠かった。
「白哉さま!」
 必死に叫ぶ声も空しく、必死に伸ばす手も虚しく――
 手錠で拘束した手は、白哉に届かず。
「緋真!」
 幸せそうに名を呼んで、白哉は焔の中へ自ら身を躍らせる。
 そして焔も白哉を抱きしめるように、その姿を金紅に包んで――







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