白哉の右腕の名に恥じぬ能力を持つ檜佐木と、多少の訓練を受けていたとはいえ基本的には高校生でしかない花太郎が同じ速度で走れる筈がない。檜佐木の後ろ、ようやく追い付いた花太郎が目にした物は――ナイフを首元に突き付けられている白哉でもなく、ナイフを握っている華奢な見知らぬ男でもなく、自分と同じ程の背丈の少年でもなく、追いついた自分の前に立つ檜佐木でもなく、以前遠目で見た紅い髪の男、阿散井恋次でもなく、その恋次を抱きしめる花太郎が己で主と決めた、忠誠を捧げた――ルキアの姿だった。
この異常な状況も、ルキアは目には入っていないようだった。細く美しい声でルキアは歌う。まるで場違いな、幸福そうな笑顔を浮かべ、心を震わす声で――ルキアは歌う。
――目の前で愛する男を愛する兄に殺されたとなれば、ルキアさまは心に深い傷を負う。もしかしたらその場で自ら生命を絶つかもしれない。それでなくても正気を失うことは間違いない。
十分ほど前に聞いた檜佐木の言葉が甦る。――その姿から、檜佐木の言葉通りに、花太郎にはルキアの心が壊れてしまったのだと、わかった。
「――ルキアさま」
――貴女が望むのでしたら、私はどんなことでも致します。貴女のためならば、私の生命さえ惜しくはありません。
望んだのはこんな結末ではなくて。
望んだのは貴女の幸福で。
それなのに――
「ルキアさま!」
ぴく、とルキアの身体が揺れた。それと同時に歌声が止まる。
紅い髪の男から離れることは僅かもなく、それでもゆっくりと花太郎の声に反応して視線を向けたルキアに、花太郎は泣いた。
「――如何して泣くのだ? 花太郎」
穏やかに微笑み、ルキアは問う。
「私はこんなにも幸せだ。恋次に逢えた。恋次にこうして再び逢えた――何もかもを取り返した。覚えている。見つけたと歓喜したあの雪の日も、ふたりで見た朝焼けの空も、誓いのキスも。子供の頃に夢見た、おもちゃ箱みたいな小さな家、ケーキとお菓子とお花のお土産の約束。つい数日前に恋次と描いた夢、朝は一緒に起きて、二人で朝食を作り、朝の散歩、ふたりで掃除、洗濯。それからお昼寝。その夢も全部思い出せる。あの硝子の筺の中の夢のような甘い時間も、全て――覚えている。恋次が言った言葉、恋次の声、恋次の笑顔――全て。幸せで幸せで――だから花太郎、お前は泣かなくていい」
その時、激しく地面が揺れた。弓親が理吉の名前を叫び、白哉の首を腕で挟み、同じ瞬間に白哉の元へ駆け寄ろうとする檜佐木を牽制しながら、勢いよく前へと移動した。
扉の近くで立ち尽くしていた花太郎は、呆然と、燃え盛る炎と共に天井が落ちてくるのをただ見ていた。
地下室の上に何があったのか、石造りと思っていたその上に、何故こうも燃え盛るものがあったのか花太郎にはわからない。花太郎がわかったのは、扉とルキアの間に、天井の崩れ落ちた残骸が積み上げられたということと、まるでルキアを取り囲むように焔が燃えているということ。
その焔の外側で、弓親は白哉にナイフを突き付けたまま、迫りくる焔から白哉を助け出そうとしている檜佐木に対峙している。
「ルキアさま、こちらへ!」
花太郎は叫ぶ。――ルキアの応えはわかっていながら、それでも諦めきれずに叫ぶ。
「ルキアさま! 速く――お願いです、お願いですから……!」
駆け寄る花太郎に、ルキアは困ったような笑顔を向け――母親が駄々を捏ねる小さな子供に向けるような、そんな笑顔で――そう言うであろうと花太郎がわかっていた言葉を、はっきりと口にした。
「私は恋次のそばに居る」
「ルキアさま、お願いです……!」
わかっていた。自分ではあの紅い髪の男と比較にならない。あの男の代わりにはなれない。わかっていたから、花太郎は姑息だと知りながらも必死に言葉を投げかけた。
「その人だってルキアさまが一緒に逝くことを望んでいない筈です! 生きろと言う筈です! だからルキアさま、どうかこちらへ……!」
ルキアを助けるために――引き摺り出すために、焔の壁を突き抜けようとした花太郎は「来るな」という主の声に、涙に濡れた顔を上げた。
真正面にルキアがいる。
花太郎が幼い頃から付き従っていた、女神と崇める美しい少女が。
「確かに恋次はそう言った。教会で待てと。一緒に逝くのを許してはくれなかったけれど――だけど」
幼い頃、花太郎が困る顔を見る為に、ルキアはよく花太郎にわざと我儘を言っていた。無理な命令を花太郎に命じ、どうすればとうろたえる花太郎を見てルキアはくすくすと笑うのだ。悪意からではなく無邪気さからの我儘――あの頃と同じ笑顔で、ルキアは花太郎へ向けて悪戯っぽく笑う。
「私は恋次と一緒にいる」
「ルキアさま……!」
泣き続ける花太郎に、ルキアは優しく微笑んだ。
焔はその幅を広め、勢いはより増している。室内の空気は既に色を持ち、息をすることも困難だ。
それでもルキアは微笑んでいる。
幸せそうに。
「あ、貴女が望むのでしたら、私は――ど、んなこと、でも、致します……っ」
泣きながら花太郎は跪く。頭を垂れ、恭しく臣下の礼を尽す。
目の前の、焔の中で、幸福そうに微笑むルキアの笑顔を瞼に焼き付け。
「どうか、私に命令を。―――どんなことでも、致しましょう」
一緒に逝くことを許してくれるならば、共に逝くつもりだった。――心ではそれを望んでいた。
それが叶わないことだと、わかっていたけれど。
「私を恋次とふたりきりにさせてくれないか」
その声は恥じらうように、けれど甘く喜びに満ちて――
そして花太郎に優しく命じる――最後の命を。
「お前は外へ。生きて、外へ」
「仰せの通りに、ルキアさま」
望むのは、貴女の幸せ。
花太郎は立ち上がる。
そして主の命を果たすために、扉に向かって走り出した。
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