暗い石造りの階段を、理吉は跳ぶように駆け降りていた。
 急な傾度のこの階段を踏み外せば相当の怪我をするだろう。最悪生命を落とすかもしれない。それでも理吉が足を速めているのは、先程感じた激しい震動の所為だった。そして空気に混じる火薬の匂い、焦げ臭い匂い。ぱちぱちと爆ぜる音。灰色に染まっていく視界、吸い込む度に苦しくなる煙。
 この建物が爆破された。それは時間が限られることを意味する。
 爆破による火災でこの北棟は炎上している。地下への出入口は先程通り抜けた扉しか存在しないことは確認済みだ。出来得る限り素早く恋次を救出し、地上へと出なければならない。
 地下の部屋まで続く階段、そこを塞がれてしまえば万事休すだ。脱出経路は他にはない。まさに袋の鼠と化す訳だが、理吉は躊躇しなかった。
 恋次を助ける。――その為の自分の生命なのだ。
 前を見据えて走り続ける理吉の背後に、ぴたりと弓親が付いている。もしも理吉が振り返ったのならば、そこにはどんな時も皮肉気に微笑でいる弓親の顔ではなく、全神経を周囲に集中させている表情のない弓親の顔を見られたことだろう。
 けれど理吉は振り返ることなく、ただひたすら階段を駆け降りる。――そして。
 下りきったその先に、石造りの壁に囲まれた、重い大きな扉が現れた。壁に設置されている電子キーは、既に爆破の影響で機能していない。
 小さな身体をぶつけるように、渾身の力でその扉を開けた理吉の前に、――最悪の情景が広がった。
「れ――」
 ひゅう、と理吉の喉が鳴った。
 呼び掛けようとした言葉が出ない。
 理吉の目は、広い部屋の、入り口の真正面の壁に繋がれた、血塗れの己の主の姿をただ映していた。
 両手を鎖に繋がれ、壁に固定され。
 その髪と同じ色の液体を流し。
 誰かの肩に顔を埋め。
 ――動かない、主の。
「れ、んじ、さん……?」
 この部屋の中に充満する、息苦しい煙の臭いよりも更に濃密な血の匂い。
 日に焼けた肌が、不吉な程に白く見えるのは何故か。
 聞こえているはずの自分の声、助けに来た部下の声に僅かも動かないのは何故か。
「恋次さん? ねえ、冗談でしょう……?」
 いつも、どんな時も、生命が危険に曝された時も、あの「阿散井」の名をかけての殺し合いの日々の中も、いつも、いつだって、彼は笑っていた。
 俺は絶対に死なねえ。
 そう高らかに、傍若無人に、彼は笑っていたというのに。
 ――あいつに逢うまでは、絶対に。
 呆然と、理吉は恋次を見た。――恋次の前で、恋次の頭を抱えるように抱きしめる小さな姿。
 数ヶ月前、恋次とふたり、この屋敷を訪問した時に見た少女。
 主にとっての「光」――「祈り」。主が主である絶対的な存在。主の全て、主の存在意義。
 恋次というその名前さえ、彼女が贈ったのだと。
 そう、以前に聞いていた――主にとっての「全て」。何よりも、自分よりも大切なもの――。
 ――絶対に死なねえ。あいつに出逢うまでは。
 では。
 それならば。
 ――出逢った後は?
 自分の手から、自分の何よりも強力な武器であるノートパソコンが落ちたことにも気付かず、理吉は呆然と立ち尽くした。目の前の事実をとても現実の物として受け入れることが出来ない。それほどまでに、理吉は恋次に全てを捧げていた。自分が生きている理由さえ――それは主である恋次の為だったのだから。
 その理吉の横を音もなく走り抜き、弓親は恋次の前まで一気に間合いを詰めた。――正しくは、恋次の前に立ち尽くすもう一人の男に。
「何で此処に居るのかは聞かないし興味ない。ただ、使えるカードは使わないとね」
 走り寄る僅かの間に、右手の拳銃をホルスターに仕舞い、替わりに手にしたナイフをぴたりと白哉の首筋に当て、弓親は低く囁いた。中性的な弓親の声は落ち着き払ったもので、目の前の惨状も現状も、弓親には僅かな動揺も生じさせてはいないようだった。
「理吉。どうする?」
「……え?」
「依頼者は君。依頼は阿散井恋次の救出。けれどそれはもう遂行することは出来なくなった。それでどうする? 阿散井恋次の遺体を此処から運び出す? それとも恋次を殺した朽木白哉の復讐に移行する? または此処からの脱出を最優先?」
 まあどの選択にしろ、と弓親は冷静に冷徹に言葉を続ける。
「朽木白哉の身柄は必要なんだけどね」
 白哉の背後を取り、一瞬で頸動脈を切り裂けるようにナイフを突き付けながら、弓親は現状を把握するために周囲を見遣る。
 ナイフを首に当てられている白哉は、抗うこともせずただ立ち尽くし、目の前の、恋次を抱きしめる少女をただ見下ろしていた。
 朽木白哉と言えば、どんな時でも冷静沈着、感情などないと噂される冷徹な男だと弓親は思っていたが、今、弓親の目の前に居る朽木白哉はとても噂通りの――機械のように無機質な男には見えなかった。
 自失している、と言っていいのだろうか――今の自分の状態、生命の危機に在るというこの状況がわかっていないかのように、まるで無能な一般人のようにただ少女を見下ろしている。
 そして弓親は白哉がそこまで意識を奪われている、白哉が見下ろす少女の方へと意識を向けた。
 血塗れの恋次を抱きしめ、一目でもう事切れているとわかる恋次の耳に、何かを囁いている。
 ――恋次は初恋の女を探すために『阿散井』になるんだそうですよ。
 そう、剣八に笑いながら言ったのは、確か施設を抜け出す日のことだ。一緒に行くか、と声をかけた剣八を断った恋次の、その事情を剣八に告げた。
 次いで、恋次を見る。
 ――幸せそうに、笑っていた。
 血に濡れ、全身が傷付き、普通の人間ならば目を背けたくなるほどの惨い拷問の跡が残るその身体とは真逆に、恋次の顔には穏やかな、幸福そうな笑顔が残っていた。
「――君が、笑って逝けたのなら――僕は君を悼まない」
 ――初恋の人に逢えた? と、そっと目の前の亡骸に弓親は呟く。
「良かったね、恋次。――どうか幸せに」
 少女がこの後どうするか、という事には弓親には興味がなかった。もう一度依頼者の意向を聞く為に理吉の方へ眼を向けた弓親の目が細められる。
 焔の爆ぜる音、遠くに聞こえる爆発音――それとは違う、こちらに近付く音。微かに、けれど間違いなく大きくなっていくその音の示す事象を見据え、弓親は表情を引き締めた。
「理吉、こっちへ」
「――僕は、」
「いいから早く来い!」
 鋭く発せられた弓親の声に、理吉は思考が止まったまま、反射的に弓親に駆け寄った。その数秒後、開いたままになっていた扉の向こうの闇の中から現れた二つの人影のうち一人を目にして、弓親の顔に笑みが浮かぶ。
「貴方が来てくれて幸運だよ。今後の交渉が速くて済むし」
「――白哉さま!」
 弓親のこの状況にそぐわないからかいを含んだその口調も、阿散井恋次にも、ルキアの様子も、煙が充満する部屋の状況も、一定の間隔を置いて爆発をする度に振動する部屋の状態も、何も見ずに檜佐木はただ白哉を見つめた。
 あまりにも常とは違う、朽木白哉を。
 檜佐木は白哉が見つめ続けるルキアの姿にようやく目を向けた。一目で絶命しているとわかる阿散井恋次の身体を抱き、耳元で何かを囁いている。何を、と意識を集中した檜佐木は、それが言葉ではなく歌だと気が付いた。
 ルキアは阿散井恋次の耳元で、歌を歌っている。
 そしてその歌は、
「―――――!」
 それは――偶然なのか。
 何故その歌を「朽木ルキア」が知っているのか。
 それは、「朽木ルキア」が知る筈のない歌。
「久儀緋真」が歌い、そして二度と歌わないと白哉に誓ったその歌。
「宵待草」――
 激しい胸の痛みと共に檜佐木は白哉を見る。
 ――それでは、白哉さまはもう、知ってしまわれた。
 痛ましさと焦燥の目を白哉に向け、檜佐木は思う。
 ――この世界が、偽物だと。




 待てど暮らせど、来ぬ人を……




「――緋真はこの歌をうたわない」
 虚ろな声で、白哉は呟く。
「緋真が待っているのは、あの男ではないから。――私と出逢ったから、もう二度と歌わない、と。緋真はこの歌は歌わない。――ならば、この歌を歌うお前は誰だ?」
 何処か遠くで、ぴしりと亀裂の入る音がした。
 薄い玻璃がひび割れていくように、儚く――世界が崩れ落ちていく。
 必ず戻ってくると、いつまでもそばに居ると、その言葉を信じて――
「緋真は――?」
 教会の中で、きらきらと、ひらひらと。――赤と金に包まれて、緋真は空へと還っていった。
 そして自分は――独り。
 独りきり。
 緋真を待って、待って――待てど暮らせど、来ぬ人を。 
「――緋真は?」
 虚ろにただ繰り返す。
 世界は再び色を失くし、――目の前に広がるのは虚無の世界。








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