暗い闇に堕ちていく。
 終わりのない墜落、永遠とも思われる落下。
 絶望し、恐怖し、怯え、悲鳴を上げ――奈落の底に突き落とされる感覚。
 こわい、と少女は思う。
 たすけて、と少女は泣く。
 その間にも少女は堕ちていく――奈落の底へと。
 堕ちながら少女は願う。二度と戻れないのかもしれないという恐怖と絶望に怯えながら、それでも願う。魂をかけて、全身全霊を込めて――願う。
 ――もういちどあいたい。
 この暗い闇の中、それだけがただ一つの光。
 それだけが唯一の道標。
 あの暖かい光、優しい声、優しい瞳――大好きな、大切な、綺麗な紅。
 絶え間なく襲う激しい頭痛に、自分が壊れると絶望的な確信をしながら、それでも少女は希望を抱く。
 きっとまたあえる。
 そう強く、強く、願う。
 はなれない。ずっとそばにいる。
 それが、約束だから。







 ――そして再び少女は闇に堕ちていく。
 終わりのない墜落、永遠とも思われる落下――その感覚を少女は知っている。
 これは初めてのことではないと、知っている。
 絶望し、恐怖し、怯え、悲鳴を上げ――奈落の底に突き落とされるこの感覚。間違いなくそれは確かに過去に体験したことで、けれど二度目だからと言って決して慣れることはなく。 
 絶望し、恐怖し、怯え、悲鳴を上げ――奈落の底に突き落とされる感覚。
 怖い、と少女は思う。
 助けて、と少女は泣く。
 その間にも少女は堕ちていく――奈落の底へと。
 底知れぬ闇に堕ちながら、少女は願う。
 恐怖と絶望に怯えながら、それでも請い願う。魂をかけて、全身全霊を込めて――恋い願う。
 ――もう一度逢いたい。
 この暗い闇の中、その想いだけがただ一つの光。
 それだけが唯一の道標。
 あの暖かい光、優しい声、優しい瞳――大好きな、大切な、綺麗な紅。
 絶え間なく襲う、繰り返される激しい苦痛に、心が壊れると絶望的な確信をしながら、それでも少女は希望を抱く。
 きっとまた逢える。
 そう強く、強く、願う。
 離れない。ずっとそばにいる。
 それが、二人の約束だから。







 墜落し続ける悪夢から悪夢のような現実に呼び戻されたことが、少女にとって幸運だったかはわからない。
 ゆっくりと開いた瞼の下の虚ろな瞳は白く煙った室内を映し、徐々に回復した耳は続けざまに響く爆音を捕らえ、冷たい床に横たわった身体は激しい震動を伝えていた。
 ここはどこだろう。
 どうしてゆかにねているんだろう。
 ――そう、ぼんやり考えていた思考は「ルキア」と自分を呼ぶ声に、少女は恋次の存在を見出した。
「恋次!」
 自分の身に起きたこと、その苛酷な出来事すらもうルキアの心の中には欠片もない。身体は痛みを訴えていたが、それすら意識することなくルキアは悲鳴を上げて立ち上がる。
 乱れた衣服を直すことも、目の前にいる自分を傷付けた、兄と信じていた男の存在も目に入らず、ルキアはもつれる足を必死に動かしながら壁に貼り付けられた愛しい男の元に駆け寄った。
 傷付けられた逞しい身体。
 その身体が、鮮やかな髪の色と同じ液体によって染め上げられている。
 まるで滝のように――肩口に見える大きな穴。そこから溢れ落ちるあまりにも美しい紅い色。
 勢いよく流れていく血の量は――誰が見ても、ルキアが見ても、絶望的過ぎた。
 両手を鎖で縛められ、その傷口から溢れだす紅い血に恋次の肌が赤く彩られていくのに比例して、恋次の顔は白くなっていく。
「いやああッッッ!!!」
 泣きながらルキアは恋次の肩の傷口を手で押さえた。肩から溢れ続けるこの血を止めなければ恋次の生命が流れ出てしまう。
 泣きながら必死で止血をするルキアの目の前で、、恋次が――笑った。
「泣くなよ、ルキア」
 いつもの笑顔で――ルキアだけに見せる優しい笑顔で。
 あの硝子の筺の中で、何度も包まれたあの笑顔で。
 恋次は――笑う。
「大丈夫だって。だから泣くな」
「でも、でもっ! こんな、だって、こんな……っ!」
 子供のように泣きじゃくりながら、ルキアは恋次の血に塗れながら吹き出る血を封じ込めようと力を込める。ルキアの手も、髪も、顔も、恋次の血に染まっていた。暖かいその恋次の生命の流れを感じながら、ルキアは泣き続ける。
 ふと、ルキアの脳裏に、遠く誰かの声がこだました。
 泣いている小さな少女の声。どこか懐かしい、記憶の向こうから聞こえる声。


 ――ねえ、どうしたの? ねえ、血が出てるよ?
 ――ねえ、大丈夫?


「う、あ、あ、あ………っ!」
 頭の中を鋭い錐で突き通されたような、激しい痛みにルキアは絶叫した。
 ルキア、と自分を呼ぶ恋次の声が辛うじて聞こえる。
 自分の身が傷付いていると言うのに、瀕死の重傷を負っていると言うのに、今この瞬間にも恋次の血は流れ溢れ出ていると言うのに、恋次のルキアを呼ぶ声にはただルキアを心配し助けようとする響きしかなかった。
 ルキア、と恋次の声が聞こえる。
 どうした、大丈夫か――その声を遠くに聞きながら、あまりの激痛に立っていることも出来ず、ルキアは恋次の前で膝を付いた。
 目を閉じても景色が映る。


 雪の中。
 雪の上に広がって行く鮮やかな紅。
 壁に背を預けた少年。
 白い顔。


 ――私の名前は、ルキア、っていうの。お兄ちゃんの名前は? 
 ――うるさくしてごめんなさい。もう、変なこと言わないから……
 ――じゃあ、私が決めていい?
 ――じゃあね……れんじ 


「あ、あ、あああ………っ!」
 頭の中を撹拌されるような、激しい痛みにルキアは悲鳴を上げる。
 ぐるぐると視界が回る。流れ込む景色、そのどれもが確かに見たものだ。見覚えのない筈の人々の姿。聞き覚えのない筈の人々の声。暗い部屋。同じ程の年の子供たち。押し込められた施設、引き取られた先の豪華な屋敷。男の歪んだ笑み。その手に握られた鞭。振り下ろされる度に熱を帯びる背中。激しい痛み。石畳。捨てられた冬の日。優しい人。教会。先生。白い猫、楽しいみんな――暖かい部屋。冬の日、雪の日、紅い血、紅い髪、綺麗な紅。
 鋭い、瞳――諦めることを知らず、諦めることを許さない紅い瞳。


『 必ず、迎えに行くから 』
  


「――恋、次」
 ようやく――逢えた。
 恋次は約束を果たしてくれていたのだ。
 無理矢理消された記憶が奔流となってルキアの記憶を塗り替えていく。流れ込むあまりにも多量な情報は、気が狂いそうなほどの頭痛をルキアに与えた。
 途切れそうになる意識を必死で繋ぎ止め、狂いそうになる痛みを必死でこらえたのは、ただ、目の前の恋次の為だ――約束を叶え、此処にいてくれる恋次の。
 それはどれだけ辛い道のりだったのだろう。きっと想像も出来ない程つらかった筈だ。想像出来る筈がない、想像するよりも苛酷な道のりだったことは間違いないから。
 後ろ盾のない少年が、たった一人、「阿散井」の名前を手に入れて。
 全てルキアの為に。
 ルキアを解放する為に。
 ずっとそばにいる為に。
「恋次。恋次……」
 おもいだしたよ。ごめんね、くるしかったよね、おそくなってごめんね。むかえにきてくれてありがとう。
 そのルキアの、まるで子供に返ってしまったかのようなたどたどしい言葉に、恋次は一瞬大きく目を見開き――
 そして、笑った。
 喜びに、満ち溢れた笑顔だった。
「お前を――全て、取り戻せた」
「うん。――うん。全部思い出したよ。覚えてるよ、恋次」
「これで、過去も、今も、お前の全部を手に入れた」
「未来もだよ、恋次。この先もずっと、ずっと、ずっと、ずっと――」
 ルキアは、泣きながら笑い――笑いながら泣いた。
 恋次の血が止まらない。 
 恋次の身体を抱きしめるルキアの身体に降り注ぐ血は暖かいのに、恋次の身体は暖かさを失っていく。 
「ごめんなさい、わたしのせいだ……わたしが、」
 泣きながらただ抱きしめることしか出来ないルキアに、恋次は「大丈夫だって――約束しただろ?」と、泣く子供をあやすように優しく話しかけた。
「約束?」
「そうだ。約束しただろ? ――俺はずっとお前のそばにいる」
 何度もかわした約束――何度も、何度も。請い願ったその約束。
 ずっとそばにいて。
 ずっとそばにいるから。
 雲が街が空が朱金に染まる、朝焼けの景色。
 清浄な、静謐な紅い色。
 その中で初めて誓った、ふたりの願い。
「やくそく、した」
「だから大丈夫だ。――俺はいつでもお前のそばにいる」
 俺が嘘吐いたことがあるか?
 微笑みを消し、恋次はルキアの瞳を真正面から真直ぐに見詰めてそう尋ねた。その真摯な瞳に、ルキアの心は落ち着きを取り戻す。
 この絶望的な状況さえ。
 全て忘れられる。
 この腕の中に恋次がいるから。
「安心したか?」
 再び笑う恋次に、ルキアも微笑んだ。
 幸せで、幸福で――恋次がそばにいるから。恋次のそばにいるから。
「愛してる、恋次。ずっと一緒だ」
「当たり前だ。誰がお前を離すかよ」
 大丈夫だ。俺はいつでもお前のそばにいる。
 だから泣くなよ、と恋次は笑う。
 だから笑ってろ、と恋次は言う。
 だからルキアは笑う。――恋次の望むままに。
 恋次の望むままに夢を見る。
 恋次の為に。
 恋次故に。
 世界は二人だけのもので。
 世界には二人しかいない。
 つらいことなど何一つなく、
 幸せだったあの頃へ。
「ああ、そうだ、実はお前に謝らなくちゃいけないことがあるんだ」
 自分を抱きしめるルキアに、恋次は悪戯がばれた子供のような表情で「実はな」と声を潜めて囁いた。
「最後まで、慣れなかった。――お前がいないと眠れない」
 幼い日の、ふたりだけの秘密。同じベッドに寄り添って眠った遠い昔の、夜毎繰り返された二人の決めごと。
「だから、歌ってくれ」
「うん。――恋次がゆっくりねむれるようにね」
 ルキアは得意げに頷いた。これはルキアにしか出来ない仕事だ。恋次は子供の頃、ルキアと出逢う前にその身を置いていた苛酷な環境のせいで、深く眠ることが出来ない。ルキアが傍にいれば何故か深く眠れると恋次が打ち明けたのは、教会の子供部屋で、一つのベッドで共に眠るようになって一週間くらいのことだったろうか。先生にも誰にも言うなよ、と怒ったように言った恋次が、本当は照れていた所為だとルキアは知っている。
「少し休んだら回復するから」
「うん、わかった。恋次はすこし休まなくっちゃね」
「俺が寝たら、お前は先に先生の所に行っとけよ? 起きたらすぐ、お前を追いかけるから」
「教会に行ってればいいの?」
「そうだ。そうしたらもうずっと一緒だ。二度と離れない」
「うん、わかった。恋次がそう言うなら、ルキア、先生のところで待ってる」
「今度逢ったら――おもちゃ箱みたいな小さな家に、毎日、花と、ケーキと、お菓子と……お前に……」
 眠気の所為か、徐々に小さくなっていく恋次の声を聞きながら、ルキアは、すう、と小さく息を吸う。
 毎夜、恋次がルキアにねだったその歌を。


 待てど暮らせど、来ぬ人を
 宵待草のやるせなさ
 今宵は月も出ぬそうな……

 

 想ふまいとは思へども、我としもなきため涙――想うまいと思っても、意識せずに流れる涙。
 ルキアは静かに涙を流しながら恋次の為に歌う。
 澄んだその声に包まれ、恋次は安堵したように一つ大きく息を吸い、――そして静かにその首が落ちた。
 頬笑みを浮かべたまま。
 ルキアの腕に抱かれて。


「恋次………?」


 恋次を抱き止めるルキアに、その体重がかかる。力を失った身体は重力に従い、重く重くルキアに圧し掛かる。
 ルキアの肩口に顔を埋め、微笑みながら――阿散井恋次は、静かに深い眠りに落ちた。


「恋次、ねむったの?」


 身体はかすかに暖かい。両手を回し抱き止めるルキアの腕に感じるのは、何度も何度も抱きしめた恋次の身体だ。均整のとれた、筋肉に包まれた美しい身体。何度もこの身体を抱きしめ、抱かれ、その胸に顔を埋め、その腕に包まれた。
 肩の傷口からはもう血は溢れ出ない。
 その血液を送り出していた心臓が――動きを、止めた所為で。
 もう恋次は二度と動かない。
 恋次の声を二度と聞けない。
 恋次が抱きしめることはない。
 二度と――

「ゆっくりねむってね。おきるまでそばにいるから……」
 
 愛しい男の亡き骸を優しく抱きしめ、ルキアは二度と返ることのない言葉を――穏やかに、いつまでもかけ続けた。
 


 


 

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