「なんだよ、何怒ってんだよ?」
早足で歩くルキアの後ろで、恋次は困ったように声をかけた。
それでもルキアは振り返らない。
「こら、ルキア。黙ってたらわからねーだろーが」
突然、ルキアの足がぴたりと止まった。ぐるりと振り返ったその表情は、怒りというより悔しさが滲んでいる。
「あの人、恋次にキスした」
「ああ?」
「恋次も嫌がってなかった!恋次の莫迦!!」
「あー……」
あれは金を出させるための手段なんだけどなあ、と思いつつ、そんな理由はルキアには勿論言えず、「悪かったよ」と素直に頭を下げた。それでもルキアの怒りは収まらないようだ。
その幼いながらもやきもちを焼くルキアに恋次は苦笑する。ぎゅっと抱きしめてから恋次はルキアの頬に唇を触れさせた。
「俺がキスするのはお前だけなんだから、お前がやきもち焼く事はねえよ。お前は特別なんだから」
「ルキアが一番?」
「そう、最強」
「えへへ」
途端、ルキアは嬉しそうに笑って恋次に抱きついた。その身体を受け止めながら、恋次も笑う。
「さ、思ったより金が手に入ったし、皆になんか買ってってやろうぜ」
「うん、先生にもね」
「勿論」
「でも恋次すごいねー。あんな事出来るんだ」
「まあ……あんまり派手には出来ねえけどな」
以前の生活の名残は、やはりあまり大っぴらにはしたくなかった。何処に過去の恋次を知っている人間が居るかわからない。
けれど、それしか方法がなければ、恋次はそうしようと思っていた。
教会の経済状況は芳しくなかった――はっきりと言えば、かなり悪かった。
元々教会は信者の寄付で運営されているのだ。景気がいい時は問題ないが、こうも不景気が続くと人々は寄付をする余裕などなくなってしまう。まして恋次という食い扶持が増えたのだ、更に毎月かかる金額は増えている。
どっかにいい金蔓になりそうな、金持ちの女でもいねえかな……。
ぼんやりと恋次は考える。それが一番手っ取り早い金の得る方法だ。勿論シスターにもルキアにも言える稼ぎ方ではないが、それでもルキアの為ならば恋次は躊躇わなかった。
このままでは、教会は存続すら危うい。
今日もシスターは、この街の信者宅を回って寄付を募っている。子供達には心配させたくないのだろう、「先生、ちょっと用があるから、ルキちゃんと遊んでてくれる?」と笑顔で恋次に告げて、一人街の中へ消えた。
「これだけでも、いくらか足しになればいいけどな……」
「え?」
「何でもねえよ。じゃ、ちょっとだけ俺達で使おうぜ。あとは全部先生に渡そうな?」
「うん!」
結構な数の札の中から一枚だけ恋次は取り出すと、ルキアと二人で教会で留守番をしている少年達への土産を買った。シスターにはやわらかなブルーの手袋。そして残った金で露店で売られている、パンに肉と野菜が挟まれたものを二つ買って、ベンチに座って二人で食べた。
「美味しいね!」
「ああ」
こんな些細な事でさえルキアは幸せそうに笑顔を見せる。
この笑顔を護るためだったら、なんだってする。
「ああ、ちょっと待ってろよ」
食べ終わったパンの屑をはたいて落とし、恋次はいくつか並んでいる露店の一つに顔を出すと、余っていた小銭でリボンを買った。
それは手触りのいい、天鵞絨の赤いリボン。
「ほら」
「くれるの?嬉しい!」
ルキアはリボンを受け取ると、何とか髪に結び付けようとした。が、さらさらな髪をリボンで縛ってもすぐに落ちてしまう。四苦八苦するルキアに、恋次は「髪には無理か」と、ルキアの首に巻きつけた。
そのまま襟元で蝶結びにしてやる。
「可愛い?」
「ああ。可愛い」
「恋次の色だね。赤い色」
リボンを手で弄びながらルキアは「ルキアね、恋次が赤を選んでくれたのが嬉しいよ」と笑った。
「もう、恋次は赤が嫌いじゃないんだよね?」
「お前のお蔭で」
照れ隠しに短く告げると、ルキアは「よかった」と恋次の膝の上に座る。その位置がルキアの一番好きな場所だ。恋次の膝に座れば、必ず恋次は背中から抱きしめるように包み込んでくれる。
「リボン、ありがと。大事にするね」
いつものように恋次の腕の中に納まって、身体を捻るように見上げると、その額に口付けされてルキアは照れくさそうに笑う。
「さ、先生帰ってきたぞ。そろそろ帰るか」
恋次の体温が離れて、恋次の視線を追って広場の入り口に目を向けると、そこに見慣れたシスターの制服を捉え、ルキアはもうちょっとこうして居たかったなあ、とこっそり胸の内で呟いた。
恋次がシスターに「大道芸のおっさんの手伝いをしたらくれた」と言って差し出したお金を見て、シスターは何も言わずに恋次を抱きしめた。
「ごめんね、恋次君」
「な、何がだよ」
柄にもなくうろたえる恋次に、ルキアは少し複雑な顔だ。そのルキアの表情に気がついて、シスターはようやく恋次を解放した。
「先生、がんばるから」
「……皆でがんばればいいじゃん」
「そうね、……そうね。ありがとう、恋次君」
「なに?なんのお話?」
一人話が見えずにシスターと恋次を見上げるルキアに、二人は「なんでもない」と交互に笑顔を向けた。
護りたいものは同じ。
ルキアの笑顔。
「あと、最後にもう一軒お邪魔して、それから帰りましょう」
「あ、岩崎さんのとこだよね!」
「岩崎って?」
「ん、あのね、大きなおうちに住んでるんだよ。いつも教会に『きふ』してくれるの。優しいおじちゃんとおばちゃん。行くといつもお菓子くれるんだ」
にこにことルキアは楽しそうに笑う。つまり岩崎とは、教会の支援者らしい。それも有力な。
街を抜けしばらく歩くと、高級住宅街へと入って行った。回りの家々はどれも大きく立派なものだ。不景気とは言っても、やはり潤うところはきちんと潤っている。
目的の「岩崎」の家も、立派な門構えの大きな家だった。門から屋敷(それは家ではなく屋敷といった方がしっくり来る大きさだった)へと続く道の両脇に、手入れの行き届いた庭が続いている。
金持ち、と聞くとそれだけで反抗心が沸いてしまう恋次だったが、岩崎という人物が教会に寄付してくれている、という事で何とか胸の内の憤りを押し殺した。
重厚な木の扉の脇にある呼び鈴をシスターが押すと、すぐに扉が開いて中からこの屋敷の手伝いをしていると思われる女性が現れた。シスターを見て、会釈をすると中へと導いて行く。
「ルキちゃん、恋次君」
二人を呼ぶシスターに、ルキアはちょっと考え込むと、
「ん、お外で待ってる。いい?」
そう言うルキアにシスターは少し驚いた顔をして見せ、それから頷いた。
「わかったわ、ルキちゃんをお願いね恋次君」
屋敷の中へと入っていくシスターを見送って、恋次は「いいのかよ?」とルキアに尋ねる。
「お菓子もらえるんだろ?いいのか行かなくて」
「だって恋次、あんまりここ好きじゃなさそうなんだもん」
「……お前、よく見てるな」
「恋次の事だもん。ちゃんと解るよ」
にこ、と笑うルキアに恋次は苦笑する。どうやらルキアに嘘は吐けないらしい。
玄関前で立っているのもおかしい気がして、恋次とルキアは扉から少し離れる。勝手に庭に入るわけにも行かないから、門までの道を辿って、屋敷の全体が見渡せる場所まで来て立ち止まった。
「大きいね」
「ああ、すげーな」
どうしてこうも貧富の差というものが出来るのだろう。
裕福な者を見る度に恋次はそう思う。
あの、豊かさとは無縁の施設の状況を思い出す度、恋次は憤りを感じてしまう。
勿論それら全てが裕福な者たちの所為ではない。けれど、施設を抜け今はもういないあの男に拾われ生活していた時、接触した金持ち達は皆一様に反吐が出るような奴らばかりだった。
金に飽かせて自らの欲望を満たす者たち。
恋次を金で買った女たちもそうだ。
ルキアを拾い傷つけた人間も。
「でもルキアはこんな広い家はイヤだな」
「ん?」
「だってこんなに広かったら恋次がどこにいるかわからないもん」
だから小さなおうちでいいんだ、とルキアは笑う。
―――いつか。
二人で暮らせたら―――小さな家で。
おもちゃ箱のように小さな家で、二人で暮らせたら、それだけで幸せなのだろう。間違いなく。
不意に視線を感じて、恋次は顔を上げた。
屋敷から誰かが見ている。
そういった感覚には、恋次は敏感だ。その感覚を身に着けなくては、生き残れない世界に身を置いていたのだから。
恋次は、物理的に感じる視線の源を追う。
―――いた。
一際大きな窓に立つ、長身の男。
そう遠くない。室内がこの外より暗いのでこちらから表情は見えないが、恐らく向こうからは恋次たちの姿ははっきりと見えているだろう。
間違いようもなく、男は恋次たちを見ている。
恋次はルキアを庇うようにさり気なく男の視線から隠した。ルキアは何も気付かずに、自分の夢―――いつか恋次と、と思っているのだろう、こんな家がいいな、と無邪気に話し続けている。
その恋次の様子に気付いたのか、男は後ろを振り返った。直ぐにもう一人、今度は恰幅のいい壮年の男が窓に現れ、恋次たちを見て長身の男に何事かを告げ、二人は窓から離れて姿を消した。
「恋次?」
どうしたの、と見上げるルキアに「なんでもねえよ」と応えながら、恋次はルキアの話の続きを促す。
「うん、でね、恋次は毎日おうちに帰ってくるたびにルキアにおみやげ買って来るんだよ」
「毎日かよ!」
「……うそ。恋次が帰って来ればそれが一番ルキアは嬉しいから」
「でも土産があればもっと嬉しいんだろ?」
「うん。ケーキとかお菓子とかお花とか」
「わかったわかった。じゃあ夢の実現に向け未来に向かって頑張るか」
「ルキアもがんばる。……あれえ?」
驚きの声を上げルキアがそれに気付いたときには、勿論恋次も既に気付いていた。
屋敷の扉が開かれ、お仕着せの服を纏いこちらに向かってくる女性が一人。
「寒いですから、どうぞ中へ」
子供の恋次たちに向かい、女性は丁寧に頭を下げる。
「主人がそう申しております。どうぞこちらへ」
顔を見合わせる恋次たちの返事は待たず、女性は先に立って歩き出した。
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