世の中で一番信じられるものと問われれば、その男は躊躇なく「力」と返答した。
ただの「力」ではない、「己の力」と不遜に笑うその顔には一筋の刀傷があり、その傷は間違いなく言葉の裏付けに一役を買う。
何処にも所属していない男を動かすものは、男に支払われる多額の報酬――ではなく、唯一つ。
「朽木だと?」
問い返したその言葉には、驚きや怯えなどは微塵もなかった。そこにあるのは唯、歓び――純粋なまでの。
「しかも本陣。どうします?」
相手との通話は繋がったままそう問い掛けたのは、暴力沙汰とは無縁に見える、男にしては長めの髪の華奢な青年だ。シンプルな服装は一つ一つが洗練された上質のもの、というのが更に青年と目の前の刀傷の男との関連を遠ざける。
「どうもこうもねえだろ。大体相手は誰だよ」
こちらは一見して力の世界に身を置いているのがわかる男が言った。剃り上げられた頭髪は、わかりやすく男が身を置く世界を彷彿させる――極道という名の。
「理吉。久し振りだよね」
「随分懐かしい名前だな! っつーか何でここの番号知ってるんだよ」
「理吉だからでしょ」
「そりゃそうか。理吉だもんな」
理吉だから、という理由に瞬時に納得できたのは、この場にいた男たち全員が「理吉」を知っているからに他ならない。
以前居た場所――「阿散井」の名を継ぐ者を選別する収容機関、殺し合いが奨励される、ある者にとっては「胸糞悪い」、刀傷の男にとっては「居心地いい」施設。
そこで彼らは理吉に出会った。
その「理吉」と言えば、腕力のない、女子供にさえ殴られればあっさりと負けそうな、そんな線の細い少年だった。
ただ――他の追随を許さない、彼だけの力――今のこの世の中では腕力よりも強い力になりうる武器、それを理吉は持っていた。
天才的なまでの技術、技能。
ハッカー、クラッカーとしての能力が。
そして、理吉はその能力を、その施設に居る時からただ一人のために使用していた。その男も勿論知っている。――その殺し合いに勝ち残った紅い髪の、今では名前の頭に「阿散井」を冠する男を。
「それで、何だって?」
禿頭の男が世間話をするように尋ねると、長髪の青年は軽く肩を竦めて「恋次が朽木白哉に拉致られたんだって」と気軽に答えた。その言葉の意味が持つ、不穏な背景など何も感じていないように。
「それで、力を貸してほしいって。どうします?」
最後の問い掛けは、言葉を発して以降無言だった刀傷の男に向けられたものだった。一際大きな身体――其処にいるだけで圧倒的な気を放つ凶相。
「乗った」
即答だった。「朽木」の名を出されても全くの躊躇も感じられない。
世の中で一番信じられるものを「己の力」だと豪語する男を動かせるのは、金でも女でも地位でもなくたった一つ、――「力を振るう場の提供」。
自分の力に見合う、力を振るえる場所。
それが朽木ならば異存はない。
嬉々として応える男の返事は聞く前からわかっていたのだろう、長髪の男は小さく溜息を吐きながら「言っときますけど」と念を押す。
「朽木ですよ? 末端じゃない、朽木の本丸。朽木の本邸に殴り込みの依頼です。他に兵隊は無し、俺たちだけ。準備期間なし。もし受けたら今からすぐに行動。それでも受けます?」
「当たり前だろうが!」
その返答に肩を竦め、「受けるってさ。まあわかってたけどね」と長髪の男は繋がったままの電話にそう返答をした。
「計画は? ……うん、いつでも出られる。っていうか隊長もう準備始めてるし。――うん。ああ、そっちは大丈夫。全部あるから。――何持ってく? っていうかどうやって入るのさ? ――うん、うん……じゃあ足はそっち持ちでいいね? メインは撹乱? 了解、こっちに任せて。それと報酬はこっちの言い値だよね、当然? ――ふふ、流石『阿散井』だね。こっちも『更木』に見合う働きをするから安心してよ。此処の場所わかる? なるべく早く来てよね、隊長が既に滾っちゃって仕方ないから」
ぱちん、と携帯電話を二つに畳み「さて準備しよ」と立ち上がった長髪の青年を、「ちょっと待ってよ」と膨れたような声が引き止めた。振り返る青年の前に、15、6の少女が腕組みをして睨んでいる。
「話が全然見えないよ。ちゃんと説明してよね!」
「説明したってその頭じゃわからないでしょ、君には」
「失礼だね!」
剣ちゃん酷いよこの男! と座っている男――剣八に抱きついた少女は、「邪魔だ、やちる」と邪険に払われて更に膨れた。
「剣ちゃんも酷いー。冷たいー」
大体頭の程度ならつるりんだって一緒じゃん、と毒づくやちるに、「一角は君ほど理解力は低くないよ、馬鹿だけど」と青年が返し、「喧嘩売ってんのか弓親」と当の一角にじろりと睨まれる。
「まさか。僕は君の信望者だよ?」
「気持ち悪ぃんだよ」
「BL! BL!」
「うるせえぞやちる」
「うるせえのは手前ら全員だ」
さっさと準備しやがれ、という剣八の一言に他の全員が「はい」と――やちるは明るく「はあい」と――頷いて立ち上がった。身軽な足取りでそれぞれがそれぞれの準備を始める。
朽木に対する。
そんな、死と同意である行為だということを意に介さぬように。
「一緒に行くか?」
阿散井などという名前に興味はなかった。剣八が欲したのはただ力が支配する世界だ。政治など何の興味もない。権力など如何でもいい。ただ己の力で叩きのめす、その世界があれば充分だ。
この施設は剣八のその欲求に応えてくれた――つい先日までは。
「そろそろ此処にいるのもめんどくせえ」
争う相手も減ってしまった今、時期は最終局面に向かっている。即ち、誰を当主にするか――誰に『阿散井』を授けるか。
ただ力を振るう場所を欲していただけの剣八にはどうでもいいことだ。
最終候補に残っているのは、剣八を含め4人――既に派閥に分かれている。部下を選別することも当主の重要な能力だ。
「俺は抜ける。――お前はどうする」
その気性が似ていた所為で共闘することが多かった、紅い髪の年下の最終候補の一人は「一緒に行くか」と持ちかけた剣八に迷うことなく首を横に振った。「悪いんですが」という謝罪と共に。
「手前が権力に興味があるとはな」
「そんなもんはどうでもいいですよ、俺だって」
馬鹿にしたように揶揄した剣八に、恋次は憤慨したように言い返した。剣八は恋次が素の表情を見せる数少ない相手だ。
「ただ、俺は――」
「恋次は初恋の女を探すために『阿散井』になるんだそうですよ」
ひょい、と横から口を出した弓親に恋次は「何処でそれを――」と絶句し、勢いよく背後を振り返った。そこに「すみませんっ!」と頭を下げる理吉がいる。
「綾瀬川さんから逃げられなくて……っ」
弓親の追求の妙は恋次も知っている。笑顔で、徹底的に相手を追い詰めるのだ。搦め手で、直球で、緩急織り交ぜるその攻撃を恋次にすらかわす自信がないというのに、理吉では荷が重いというものだろう。
溜息を吐く恋次の横で、剣八と一角が「女かよ」と呆れたように恋次を見ている。
「恋次は見かけによらずロマンチストだよね」
「弓親さん、ちょっと――」
「いいじゃない、ロマンチスト。僕は好きだけど」
「恋次がなあ。ってお前ここ来たの何年前だよ。そん時から女追いかけてんのか、マセ餓鬼だな。エロ餓鬼」
「ちょ、一角さん――」
普段の冷たく乾いた紅い瞳も、剣八たちといると人の瞳を取り戻す。それだけ彼らは気が合っていた。殺伐とした閉ざされた世界の中で。
「じゃ、仕方ねえな。俺らは行くが、まあ生きてりゃ何時か何処かで会えるだろう」
余韻も感慨もなく、あっさりと腰を上げた剣八と共に、一角と弓親も立ち上がる。
この場所から施設長の許可なく出ることは許されていない。だが勿論この三人は正面から出て行くのだろう――彼ららしく、力で捩じ伏せて。
「次に会った時は敵同士かもしれねえな」
「初恋の彼女にはやく逢えるといいね」
一角と弓親が恋次に言葉を向ける――彼らなりの別れの挨拶を。
「俺が阿散井になって、あんたらを雇わせていただきますよ」
不敵に笑って恋次も三人を見送る。
それは恋次が「阿散井」の名を名乗るようになる、二年前の話だった。
「でも説明くらいしてよね。何しに行くの?」
小さな己の身体ほどもある銃器を危なげなく点検し、相当数の弾丸を運び出すやちるは弓親に尋ねた。同じように弾丸を選別しながら弓親は「ん?」と手を休めずに言う。
「朽木の本陣に殴り込み。王子様を奪取しに」
「王子様?」
「紅い髪の」
「れんれん?」
「そう。捕まっちゃったんだってさ。ドジだね」
「ドジだね!」
けらけらとやちるは笑う。
「仕方ないね、私が助けてあげよう!」
「うん、よろしく」
「それでれんれんに恩を売ってたくさんお金もらおうっと。剣ちゃんとの結婚資金にするんだ―」
ね、剣ちゃん! と満面の笑顔で振り返ったやちるに、「馬鹿言ってねえでさっさと支度しろ」と言った剣八は、初めて人間らしい感情をその顔に見せた。
すなわち、うんざりだ、という顔を。
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