激しい音が響くと同時に、自分の身体を貫く激痛を覚悟していたというのに、実際に受けた痛みは頬に感じた熱だけだった。それは肌に赤い熱の跡を残しているだろうが、本来ならば感じるべき痛み、それとは比べようもないほどあまりにも軽いものだ。
数瞬前と変わりなく目の前の相手を見詰めたのは、動揺していないからではなく、やはりどこか現実感がない所為なのだろう。夢の中にいる感覚――夢に囚われている感覚。
否、囚われているのは夢ではなく。
あの人なのだけれど。
対して目の前の、銃を握りしめた相手も全く動じた様子もない。男が狙いを違えることなど万に一つも在り得ない。頬に傷すら付けず、僅か数ミリずれた場所に弾丸を撃ち込む――視線を右後方へずらせば、壁に深く穿たれた穴がある。本当に僅か数ミリ――紙の薄さ程度の距離で。
「――何故ですか」
「何故、とは?」
花太郎の問い掛けに、檜佐木は視線を逸らさずに問い掛けで返した。銃口は未だ花太郎に向いている。
一瞬で生命を奪われる立場で、一瞬で生命を奪える立場で――対峙している二人は、場違いな程冷静だった。花太郎の瞳に怯えはなく、檜佐木の瞳に苛立ちはない。どちらの瞳も湖面のように静かに凪いでいる。
二人の間の距離は5メートル。
廊下には誰もいないのだろう、微かな物音もしない。
「何故、外したんですか?」
もう一度、花太郎は問うた。
自分が檜佐木を――白哉を裏切ったことを、檜佐木は知っているはずだ。だからこそ檜佐木は銃を向けたのだし、躊躇なく発砲したのだ。
「元々そのつもりだったからな」
対した檜佐木は淡々と花太郎の問いに答える。その曖昧な返答に、花太郎は軽く眉を潜めた。
その花太郎を見て、ようやく檜佐木の口元に笑みが――苦笑も笑みの一種には違いない――浮かび、何気なく銃口を下げた。何気なく、さり気なく――まるで何事もなかったかのように。
「お前は目を逸らさなかった。お前は自分が選んだものに後悔はなかった。それがわかったから――だから、外したんだよ」
檜佐木の言葉にどう返答して良いかわからず、ただ花太郎は無言で檜佐木を見詰めた。
自分の裏切りは間違いない。自分は檜佐木より――白哉よりも「あの人」――ルキアを選んだのだ。白哉の望まぬことと知りながら、ルキアに力を貸した。朽木家に唯一対抗できる力を持つ阿散井の名前を抱く男を助ける、その為のルキアの行動に。
「――お前を否定すれば、俺は俺をも否定することになる」
花太郎は檜佐木が自分を見詰めていながら、更に遠く――遥か彼方を見詰めていることに気が付いた。
遥か遠い――「時」、遥か彼方の「記憶」を。
「お前はルキアさまを選んだ。あの時の俺のように――皓成さまではなく白哉さまを選んだ俺のように」
「皓成……さま? 先代の?」
白哉の父皓成は、十数年前の阿散井との抗争で死亡したと聞いている。花太郎はまだ幼く、ルキアにも出会っていない頃の話だ。その過去については人伝に聞いたことしかなく、またこの話は表立って話されるような類の話でもなく、花太郎は先代当主が死亡した経緯などは詳しくは知らない。知っていることはホテルの爆破――それは阿散井の手の者の犯行で、そしてその爆破に皓成と暁子が巻き込まれ、その場にいたほぼ全員が死亡し、唯一生き残ったのが幼いルキアだったということだけだ。
爆破の衝撃と目の前で母親を失ったショックで記憶を失ってしまったルキアを、異母兄である白哉が手ずから世話をした、と――伝え聞いている。
「全てはあの時から――あの人を失ってから、歯車は狂ってしまった。白哉さまの歯車も、ルキアさまの歯車も」
それをどう表現したらいいのだろう――檜佐木のその表情を。悔恨、懺悔、無念――哀しみ、悔い、憤り、全てが滲んだその表情を。
時が戻るなら。
あの瞬間に戻れるなら。
――運命を変えることが出来るのならば。
激しい後悔――激しい慙愧の念。狂おしいまでのその悔恨。
檜佐木は恐らく花太郎の返答を必要としてない。過去の自分、記憶の中の何かと対峙している。それがわかった故に、花太郎は無言で檜佐木の述懐を聞いていた。
遠く――何かを見詰めながら檜佐木の低い苦悩を帯びた声は静かに続いて行く。
「あの時は運命だと思った。あの幼い少女に逢った時、白哉さまの為にこうするしかないと。壊れていく白哉さまをこの世界に引き止める為に――だがそれは間違いだったのか? 白哉さまを俺は更に傷付けただけだったのか? 白哉さまは――この世界が偽物だと知ってしまったのだろうか」
白哉の正気を繋ぎとめるためのこの世界。
緋真は生きて傍にいるという、まやかしのこの世界。
ルキアさまは――「ルキア」はそのたった一人の相手を見付けてしまった。幼い頃に檜佐木が引き裂いた紅い髪の少年、今では白哉と対等に渡り合えるほどの力を――間違いなくルキアの為に身に付けたその力を、その力の証である「阿散井」の名を手にした「恋次」を。
記憶さえも凌駕して。
もうルキアさまはルキアさまではない。ルキアさまは「ルキア」に変わってしまった。――「ルキア」に還ってしまった。
「――貴女は私を責めるだろうか。小さな少女の記憶を奪い、一人の少年の光を奪い――少女を貴女だと偽り白哉さまに授けた。白哉さまは少女を貴女と想い愛し、愛しみ、愛しんだ。本来ならば貴女だけが受け取るべき愛情、それを別の少女が受け取っているこの事態を、――貴女は許す事が出来るのか」
檜佐木が問いかける「貴女」――それが誰かわからず、花太郎は息をつめた。あまりにも檜佐木の苦悩の色が濃い。見えない誰かに向かい檜佐木は苦しみを吐露する――それとも、檜佐木には「貴女」と呼ぶ誰かが見えているのか。それは過去の残影なのか、檜佐木が作り出す幻影なのか――
「許して欲しいとは言わない。それとも貴女は許すのか。白哉さまの幸せの為になら構わないと微笑まれるのか。真実を知った時の白哉さまのより一層の絶望、それを憂い貴女は激怒するのか。少女を貴女として愛する白哉さまを許すのか。別の存在を愛する白哉さまを貴女は許すのか」
壊れているのは――白哉だけではないのか。先程檜佐木が口にした「壊れていく白哉さま」――その言葉は檜佐木にも当てはまるのではないか。初めて見る檜佐木のその苦しみ悩むその姿、激しくなっていく檜佐木の声に、花太郎は胸の動悸が激しくなっていく。
「――許さなくていい。怨んでいい、憎んでいい。だから、私に罰を与えてくれ――もう一度、その姿を現してくれ……!」
恐らく、檜佐木が「貴女」と呼ぶその人は――幸せの象徴なのだろう。
そしてその人が消えた――檜佐木はそれが自分の所為だと思っているのだろうか。
その時何があったかは花太郎にはわからないが、檜佐木のそのあまりにも深い苦悩に、花太郎はただ気配を消し息を止める。
激情を吐き出し、檜佐木は暫く俯き拳を握りしめたまま微動だにしなかった。
物音は何一つせず、ただ時が過ぎていく。
どのくらいの時が経ったか、檜佐木は俯いていた顔をゆっくりと上げた。そこには先程の苦悩の色はなく、いつも通りの「檜佐木修兵」、白哉の右腕として名高い有能な男の姿がそこにはある。
「お前は白哉さまを裏切った訳ではなく、ルキアさまに従っただけだろう。――だから、殺さない」
普段通りの――冷静な、白哉の為にのみ動く「檜佐木修兵」の顔で、檜佐木は何事もなかったように花太郎に話かけた。だから、殺さない。――今はまだ。
「ルキアさまはしばらく人の手が必要となるだろう。――全ては白哉さまがあの頃と同じように手づからなさるが、その後のフォローがルキアさまには必要だ」
その平坦な口調で告げられた言葉にどこか不穏な響きを感じ、花太郎は「人の手が必要――それは、」とその理由を質した。そしてようやく気付く。
檜佐木が此処にいるのならば、
――朽木白哉は何処にいる?
「白哉さまは――今、」
震える花太郎の声に、檜佐木は花太郎の危惧を正確に汲み取ったのだろう。内ポケットから取り出した煙草に火を付けそれを銜えた。
「北館の地下に行かれた」
その一言に衝撃で花太郎の息が止まる。
北館の地下。そこには――
「そこに居る筈のない、居てはならないルキアさまを見て――白哉さまが如何するか」
自分以外の者を愛する「緋真」を見て、白哉はどう出るのか。
北館に向かう白哉を止めたかった。それはこの世界を崩壊させる引き金にもなりかねない。否、その可能性の方が高い――このまま時が過ぎればルキアが「緋真」ではないと恐らく白哉は気付いてしまうだろう。けれど今ならまだ間に合う。この世界が偽りだと白哉が知ってしまう前に、ルキアを消し去らなければ。
ルキアを消して――今度こそ緋真さまとして。
二度の精神操作に少女の精神が耐えられるかはわからない。精神への干渉は、それだけリスクが高いのだ。繰り返すその干渉は、精神が、自我が崩壊する可能性が高いと涅は言っていた。楽しそうに――研究者の純粋な狂気の笑顔で。
だがそれがどうしたというのだろう。
白哉さまの自我が壊れてしまうのを避ける為ならば、たかが一少女の精神など何の価値があるのだろうか。
ルキアの精神が崩壊したとしても、それはそれで構わない。何も言えず、何も見えず、何も話さず、何も聞こえず、何も考えず、何も出来ない少女――その「緋真」を白哉は愛するだろう。数年前にルキアにしたように、全ての世話を己の手でしながら、もう片時も離れることはないだろう。
――どんな罪もこの手で犯そう。
罪など恐れない。
罰など怖くない。
望むものは白哉の幸せ。
他の誰が不幸になろうとも。
「ルキアさまを――如何する気ですか!」
蒼褪め詰め寄る花太郎の震える声に、檜佐木は淡々と「記憶を消すだけだ」と告げた。
「そんな……」
「ルキアさまの為でもあるんだがな」
檜佐木は深く吸い込んだ紫煙を吐き出す。それはゆっくりと宙に浮かび、やがて輪郭を消していく。
「――目の前で愛する男を愛する兄に殺されたとなれば、ルキアさまは心に深い傷を負う。もしかしたらその場で自ら生命を絶つかもしれない。それでなくても正気を失うことは間違いない。――そんな記憶なら、ない方がルキアさまにとって幸せだと思わないか?」
花太郎の顔から血の気が引く。
白哉が、阿散井の男のそばに寄り添うルキアを見たのならば――間違いなく阿散井の男を殺すだろう。そしてそれを目の当たりにしたルキアが正気を失ってしまうことは間違いない。
今から北館へ向かっても間に合わない。
もう――全てが終わっているかもしれない。
白哉はルキアが自ら生命を絶つことは許さない。
いつまでも愛し続けるだろう――いつまでも傍らに置き続けるだろう。
それならば、檜佐木の言う通り――そんな辛い記憶はない方がルキアにとって幸せなのだろうか。愛する男を愛した記憶、愛する男に愛された記憶――そして愛する兄が愛する男を殺す記憶。そんな記憶はなくした方が。
だが、それは――
「でも、それは――――、ッ!?」
言いかけた花太郎の言葉は、突如聞こえた耳障りな電子音に息を飲み途切れて消えた。
空気を切り裂くその音は、檜佐木の内ポケットから鳴り響いている。そしてその音が何か、花太郎は知っていた―― 知ってはいるが、一度として聞いたことのないその音。
侵入者の存在を示す音。
檜佐木が素早く踵を返し、部屋から出て行く――その後を追って、花太郎も駆けだした。
南館から北館へはかなりの距離がある。
そして北館へ向かい猛然と走る檜佐木と花太郎の耳に、――空気を揺るがす激しい音が鳴り響く。
それは、紛れもない爆発音だった。
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