煌々と照らされた室内は、その不自然なまでの明るさに反してひどく暗い印象を受けた。
それは広い部屋の中に生活感のあるものは何も置かれておらず、ただ無機質な銀のスティール机の上に投げ出された不穏な品々――それは例えば鋭利なナイフや黒い鞭、ペンチやハンマー、針、スタンガン等――無造作に置いてあるそれらのものが、この部屋の使用目的を見る者に如実に伝えてしまうからだろう。
綺麗に磨かれたリノリウムの床は流れた血を洗い流すことに適し、一見スタイリッシュな継ぎ目の見えない黒い壁は、飛び散った血の色を目立たなくする為に選択され、昼間のように明るい光で満たされた室内は、その場に留め置かれる対象者を眠らせない為。
――朽木邸の北の敷地内の地下に在る、日に当たることのない鬱蒼としたその部屋――それは、連綿と続く朽木という歴史の暗部、朽木に仇為す輩を人知れず葬り去る為の、血塗られた秘密の部屋。
一体幾人の人間がこの部屋でその生命を堕とした事だろう。――この場所ではなく、朽木家の者に疎まれ生命を奪われた者は恐らくそれ以上に多い。けれどそれらの者はまだ幸せだったと言っていいのだろう。この部屋で生命を堕とす者たちに比べたのならば。
この場に繋がれた者たちで、楽に死んだ者は一人としていない。永遠と思える永の時間、ただ苦しめる為に与えられる拷問の数々。再び傷付ける為だけに施される治療。ある程度の体力が回復すれば再び始まる苦しみ――やがて自ら殺してくれと絶叫し懇願し、この部屋で死んでいった数多の人々。
その陰惨な部屋に今、三人の人間がいる。
一人はこの部屋に相応しい――否、相応しいかはわからない。ただ、この拷問部屋に違和感ないその姿――傷付き血塗れになったその青年は、間違いなく「朽木」の当主の逆鱗に触れた者なのだろう。壁に固定された太い鎖に両手を繋がれ、十字架に貼り付けられた殉教者のように両手を高々と吊り上げられている。
しかし、その乱れた紅い髪の間から覗く赤い瞳は爛々と輝き――強い光は消えることない怒りの表れ。激しく燃える焔は男の意思の強さと怒りの大きさを物語っていた。
その男の見つめる先には、もう一人の男がいる。
繋がれた青年が紅い焔の化身ならば、この青年は蒼い氷の化身だろう。端正な顔には表情というものが見えない。長く黒い髪、その髪と同じように胸元が乱れたシャツですら、その氷の青年の憂いを帯びた美しさを引き立てこそすれ損なうことはない。
紅と蒼、焔と氷、太陽と月――見事なまでに対照的な二人の青年。
その二人の他にもう一人。
蒼の青年の腕の下、磨かれた冷たい床の上に組み伏せられ、まるで壊れた人形のように横たわる一人の少女がいる。
白と黒の、この屋敷の従者が纏う制服に身を包んだ少女は、堅く目を閉じ両手を投げ出して意識を失っていた。その眦からは光る涙がこぼれ落ちた跡がある。顔色は血の気を失い、それが一層この少女を人形めいて見せた。
乱暴に扱われ、放り出された可哀想なDOLL。
その人形の上から、氷の青年がゆっくりと身を起こした。長い黒髪がはらりと落ち青年の表情を隠す。少女は僅かも動かない。
暫く無言で青年は少女を見下ろしていた。その顔からは何の感情も読みとれない。
時が過ぎる。
誰も何も言葉を発しない。紅の青年からは激しい怒りを、蒼の青年からは底知れぬ虚無を、人形のような少女からは微かな呼吸を、――気配はあっても誰も何も口にはしない。
やがて蒼の青年がゆっくりと両手を上げた。己の目の高さに上げた手、つい先刻までその手に感じていた体温を思い出す。そして遥か昔、その手に感じた体温を。
冷たさと熱さ。拒絶と受容。哀しみと幸福。絶望と歓喜。
――同じ、筈なのに。
――それなのに、何故。
白哉は無言で己の手を見詰める。この手で抱いた愛しい少女は、最後まで白哉を受け入れることはなかった。堅く目を閉じ、唇を噛み、苦痛の時間を耐えるように身を固くし、決して声を上げず。
『白哉さま』
あの日のように、痛みをこらえながらも幸せそうに、優しく甘く名前を呼ぶこともなく――
何故?
何が違う?
何もかもが同じ筈なのに。
「違うだろうが」
低いその怒りの声は、恐らく無意識に発していた白哉の呟きに呼応したものだろう。熱を孕んだその声の方向へと白哉は感情を表さないまま視線を向ける。
「同じじゃねえよ。それは今手前が一番よくわかってる筈だな?」
爛々と眼を輝かせ、鎖に繋がれた恋次は白哉を見据える。肉食獣さながらに、危険なオーラを吹き上げながら恋次は白哉を睨み据えた。その視線で射殺すように、激しい殺意を込めて。
「ルキアから離れろ、下衆野郎」
「――そうか、貴様が」
この部屋に存在した恋次を意識した途端、白哉の顔に理解の色が浮かんだ。導き出された答えに納得し、それと同時に黒い瞳に怒りが照り返る。
白い手が傍らの机に伸びた。その上に無造作に置かれた物を手に取り、ゆらりと鎖に繋がれた男の前に立つ。
「貴様――緋真に何をした? 緋真の記憶に何をした? 何が目的だ、阿散井の戌」
「それを手前が言うか?」
は、と嘲笑する恋次に、ゆっくりと白哉は近付いた。
そう、この男が何かをしたのだ、私の緋真に。私の大切な緋真に。それでなければ緋真が私を拒絶する筈がないのだから。
私以外の男の名を呼び、
――私を受け入れず――最後まで。
何故過去の記憶を拒絶する。愛し愛されたあの日々を、その記憶を何故緋真は想い出さない。
共に過ごす時間の中、いつか必ず緋真は全てを想い出すと確信していた。それは揺ぎ無い自信だった。緋真は約束を違えない。そばにいると誓った、その言葉を違えることはない。
それなのに――緋真は想い出さない。
つまりそれは、この男が緋真を連れ去り監禁していた間に、緋真は緋真としての記憶を封じられてしまったのだろう。
感情が消えていた白哉のその怜悧な顔に、激しい怒りの表情が浮かんだ。
その視線を真向から受け止め、それに勝るとも劣らない焔の瞳で、恋次は白哉を睨みつける。
「いいか、良く聞け。目を覚まさせてやるよ。何年も続く手前の夢をな。手前が目を背けている現実を、俺が暴いてやる」
睨み据える血濡れた粗野な男。その男が口を開いた。
「久儀緋真は死んだ」
ぴしり、と世界に亀裂が入る音が聞こえた。
ぱらぱらと透明な欠片が落ちていく。それは脆く儚い、世界を覆っていた薄い玻璃が壊れていく音。
「十年前に、手前の所為で、手前の目の前で」
在り得ない――そんな現実は。緋真が死ぬ筈がない。緋真が死ぬなど在り得ない。何故なら緋真は今こうして目の前にいる。私の為に生まれ変わり、私の為にそばにいる。
同じ星を見、同じ時を過ごし、同じ夢を見、同じ道を歩み――永遠に、二人で。独りの孤独など耐えられない。何故なら出逢ってしまったから。もう独りではいられない。
そんな現実には、もう――――
「久儀緋真は死んだ! それが現実だ! いいか、手前の女はもうとっくの昔に死んでんだよ!!」
「だ……まれぇぇぇぇぇ!!!」
怒りか、恐怖か、絶望か――
白哉は右手に掴んだナイフを振り上げ、逃れることのできない男の身体に突き刺した。
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