空は青く澄み渡っていた。
 その日は冬にしては穏やかな日で、空気はやや冷たかったが、日差しは肌に優しく、やわらかい。
 その青空の下――優しい日射しの下立つ緋真の姿は、透き通り澄み渡る空よりも美しく、淡く暖かな日射しよりも優しい。
 檜佐木が用意した純白のドレスは緋真の可憐さを際立たせ、緋真の上品さを映し、緋真の美しさを表した。ミドル丈のマリアベールに包まれた緋真のその愛らしさ、可憐さ、美しさ、上品さは、檜佐木に手を取られ現れた緋真を見た瞬間、同じ純白のタキシードを着た白哉を絶句させるほどのものだった。
 準備を終えた花嫁をエスコートしてきた檜佐木が、礼儀正しく緋真の手を本来の正当な権利者、白哉へと引き渡す。
 緋真の手を受け取った白哉は、その白い手袋に包まれた緋真の手が小さく震えている事に気が付いた。当事者である二人以外には檜佐木しかいない略式の結婚式とはいえ、朽木姓を持つ正当な嫡男と婚儀を挙げるのだ。周囲の誰も――檜佐木以外は誰も祝福しない結婚であること、誰にも承認されていない結婚であること、それを考えると緋真はやはり身体が震える。
 それでも――自分はこの道を選んだ。
 誰が祝福しなくても、誰もが承認しなくても。
「嬉しくて、幸せで――緊張します」
 気遣う白哉に心からの頬笑みで応え、緋真は白哉の側へ寄り添うように立つ。じっと見詰める白哉に頬を染め、視線で問いかける緋真に白哉は「とても綺麗だ」と心からの言葉を贈った。
 緋真は更に頬を上気させ、返す言葉が思い浮かばなかったのだろう、視線を伏せて白哉の視線から逃れた。そんな初々しさも可愛らしいと白哉は思う。
 手に受けていた緋真の手を自分の左腕へと移動させ、白哉は緋真をエスコートして歩き出す。
 森の中に在った小さな教会は綺麗に手入れをされており、差し込む光は溢れんばかりで、教会内を眩しく照らしている。ステンドグラスが鮮やかに、色とりどりの光を磨き上げられた床へと落としている。
 荘厳というよりも素朴なその教会の奥の祭壇に檜佐木が待っている。それ以外に人は誰もいない。
 深紅の絨毯の上をゆっくりと歩きながら、白哉は緋真を見下ろした。ちょうど緋真も白哉を見上げていたので、二人の視線は合って同時に微笑む。
 それは、「幸福」という名の絵画のように、幸せに満ち溢れたふたりの姿だった。
 今の幸せを確かめるように、二人はゆっくりと歩を進める。
 やがて祭壇の前に辿り着くと、檜佐木が二人を見た。檜佐木の口元にも穏やかな幸せそうな笑みが浮かんでいる。
 低い、耳に心地いい檜佐木の声が、三人の他に誰もいない小さな教会の中を響き渡る。
「汝朽木白哉は、久儀緋真を妻とし、良き時も悪き時も、富める時も貧しき時も、病める時も健やかなる時も、共に歩み、他の者に依らず、死が二人を分かつまで、愛を誓い、妻を想い、妻のみに添うことを、神聖なる婚姻の契約のもとに誓いますか?」
「誓う」
 続いて檜佐木は緋真へと視線を向ける。普段と変わらなく落ち着き払った白哉とは対照的に、緊張した面持ちの緋真に微笑みながら、同じ言葉を繰り返す。
「汝久儀緋真は、朽木白哉を夫とし、良き時も悪き時も、富める時も貧しき時も、病める時も健やかなる時も、共に歩み、他の者に依らず、死が二人を分かつまで、愛を誓い、夫を想い、夫のみに添うことを、神聖なる婚姻の契約のもとに誓いますか?」
「誓います」
 はっきりとそう口にし、緋真は傍らの白哉を見上げた。ひたと見つめ合う二人の唇は、引き寄せ合うように自然に重なる。
 鳴る筈のない二人を祝福する鐘の音を、緋真は確かに聞いていた。



 車を回してきますという、白哉と緋真を二人だけにする為の檜佐木の気遣いに、白哉は笑みで頷き檜佐木はゆっくりと教会の外へと歩いて行った。
 車は近くに停めて在るのだろうが、恐らく30分は姿を見せることはないだろう。さすが女性との噂が絶えないだけあって、檜佐木の気の遣い所の細やかさは完璧だ。内心苦笑しつつも、白哉は緋真を独占する時間を喜んで受け入れた。
「少し歩こう、緋真」
 緋真の手を取り、白哉は豊かな自然の中を歩きだす。森の中の教会とは言っても周囲はきちんと整備されている。教会の中の赤い絨毯の次に、緑の芝という天然の絨毯の上を白哉は緋真と共に歩き、周りの景色を堪能した。
 世界は色などなかった。緋真に出会うまでは――グレイ一色の、感動もない無機質な日々だった。そしてそれを当然のことと思っていた。
 けれど今は違う。世界は溢れんばかりの色に満ち、輝いている。暖かな日射し、青い空、緑の樹々。草花を揺らす風、可憐な花々。生命の息吹に満ち、この世界に歓喜している。それを教えてくれたのは緋真だ。緋真という光に出逢って初めて自分は人になれた。
 幸せだと実感する。そしてこの幸せが永遠に続くことも。
 朽木の力はほぼ手中にした。例え明日に帰ったとしても問題はないだろう。次に屋敷に戻る時は朽木家の当主は紛れもなく自分で、自分の父親の名前には「前・朽木家当主」という新しい肩書が付いている。だが、と白哉は思う。
 当主として正式に屋敷に戻るのは一週間ほど後でもかまわないだろう。暫くの蜜月を白哉はこの誰も知らない場所で過ごすつもりだ。誰も知らない、誰にも煩わせられない貴重な場所。まだ今しばらくはこの場所でゆっくりしていたい。緋真と共に。
「疲れていないか?」
 気遣うのは、昨夜のことがあった所為だろう――初めて体験したその行為は、緋真の身体に恐らくまだ痛みを残している。大丈夫です、という緋真の言葉が返ったが、あまり負担をかけないようゆっくりと歩きながら、大きく開けた場所の階段の前で白哉は足を止めた。
 背の低い草花が風に揺れている。木立の中に突然現れたその場所は、周囲を森に囲まれ、辺りに人家や人影はなく、聞こえる音は風の音だけで、まるで世界から二人だけが切り離されているような、そんな感慨を緋真は抱いた。
 穏やかで優しい、幸福のみが支配する、この世界。
 目の前の階段から先が、現実世界なのだろう。高台に在る教会と街とを結ぶのはこの階段だ。森の中のその階段はそれでも人の気配はなく、綺麗に掃除はされているが生活の香りはしない。教会に礼拝に来る人だけが使用する階段なのだろう。緑の中の白い階段が景色にしっくりと合っている。
 階段を背にして教会を振り返る。森の中に在る小さな教会。その後ろに広がる青い空。
「――綺麗ですね」
 幸福そうに呟く緋真を抱きしめ、白哉はその髪に口付けを落とす。
「今日から緋真は『朽木緋真』だ。どうだ、最初からそうであったように違和感がないだろう?」
 そう、まるで決められていたかのように――必ず結ばれると、そう決まっていたかのように。
「私は緋真を初めて見た時、『見つけた』と思った――ようやく見つけた、と。ひと目見た時から解った、緋真が私の伴侶だと。まるでそう決まっていたかのように」
「決まっていたのかもしれません。――私も、『見つけた』と思いました。泣きたいくらい懐かしくて、泣きたいくらい嬉しくて――でも私、昨夜わかったのです」
「何を?」
「それはいつかお話して差し上げます。今はまだ――そうですね、私がおばあさんになった頃に」
「随分先まで秘密なのだな?」
 驚く白哉に、緋真はくすくすと笑う。そして緋真は「もうひとつわかったことは」と白哉の胸に顔を埋めた。白哉の腕が緋真の背中に回り、優しくその背を抱きしめる。
「私はいつまでも白哉さまのそばにいるということです」
 小鳥が身をすりよせるように、緋真は白哉の腕の中で安心しきった笑顔を浮かべた。此処にいれば何が起きても大丈夫だと、全てを委ねたその頬笑みに白哉も微笑み返す。
「例えこの先何があっても、私は必ず白哉さまのそばにおります。必ず白哉さまの傍らに」
「――緋真」
 その言葉に、一瞬白哉の表情に影が落ちた。その、この幸福の場所に相応しくない影の色に、緋真は驚いて白哉を見詰める。
「一つだけ、約束してはくれないか」
 緋真を抱きしめたまま、白哉は緋真の耳元に囁いた。言葉の先に不安を覚え、緋真は白哉の胸の中で目を見張る。
「私には敵が多い。朽木が堕ちれば利を得るものも多く、また私が消えれば富を得るものも多い――近くは両親、そして異母兄弟。そして最近、東に進出してきている阿散井――先日私が撃たれたのは、この阿散井が仕掛けた事だ。だから緋真、一つだけ約束をしてくれないか――私に何かあった場合には、私の傍にいようと思わないことを」
「白哉さま、それは――」
「どうか約束してくれ。私が生命を落としても、決して緋真は私に殉じる事がないように」
「――でも、」
「勿論私は死なない。緋真を残して死ぬことはない。だから万一の話だ――万に一つの。万一私が死んでも決して後を追わないと、そう誓ってくれ」
 緋真を抱きしめた白哉の力は強く、緋真が密かに心に決意していたまさにそのことを的確に見抜き封じ込めた。そう、緋真は白哉の傍にいると心に決めた日からそれを決意していた――白哉に何かあった時には、自分も共に逝こうと。
「――では、同じことを白哉さまもお誓いください。私の身に何かあったとしたら」
「何かなど、――仮定でもそんなことは言うな。緋真の身に――」
 何かあったとしたら。もしそんなことになれば恐らく自分は気が狂う。緋真の居ない世界にどうして一秒もいられるだろうか。そうなれば白哉は喜んで自ら生命を断つだろう――緋真と共に在る為に。
「誓って下さい。誓っていただけたら、私も誓います」
 朽木という名前、世界の重み――それは一生ついて回る。棄てても構わない、今では白哉にとってその程度の重さでしかない名前は、緋真を護る為に絶対に必要なものとなった。
 けれどそれは緋真を危険に曝すことにもなる両刃の剣だ。緋真を護る為に朽木の名の下に行使する力が必要で、その力の巨大さ故に、白哉の唯一のアキレスの踵として緋真は襲われる可能性を孕む。
 けれど、白哉は緋真を外に出す気はなかった。煩わしい儀礼やくだらないパーティなどに緋真を出席させるつもりはない。勿論緋真が望めば何処にでも希望の場所へ連れて行くが、極力誰の目にも触れぬようにするつもりだ。僅かな危険さえ、緋真に冒させる訳にはいかない。
 だが自分は――当主として外に出なければならない。その過程で命を狙われることもあるだろう。あの西の一族――否、たった一人の男、阿散井武流。
 自分に何かあれば間違いなく緋真は後を追う。緋真を妻に迎え、白哉が何より恐れるのはその一点だった。
「――誓おう。私のただ一つ大切なもの、何よりも神聖なお前の名にかけて」
「私も誓います。私が愛するただひとりの、白哉さまのお名前に」
 細く華奢な緋真の身体を白哉は抱きしめる。安心させる様に強く、強く。
「大丈夫だ、そんな事態にはならない。――私はそう簡単に命は落とさない」
 だから、と白哉は沈んだ空気を吹き払うように緋真の頬を両手で挟みこむ。
「緋真は私にとって光だ。――いつでも私のそばにいて欲しい、緋真。いつまでも、私のそばに」
「はい、白哉さま」
 閉じられた瞼は、緋真の精一杯の誘惑――口付けてください、という意思表示。白哉は頬を挟んだまま、緋真が望むままに、自分が望むままに唇を重ねる。
「ん……」
 軽く触れるだけの口付けだと思っていた緋真は、するりと這入り込む白哉の舌に身体を震わせた。きゅ、と白哉の袖を掴んだ緋真の細い腰を引き寄せ、逃げられぬように自分の身体に閉じ込めた甘い拘束は、例え腕の中に閉じ込めなくてもその口付けに翻弄される緋真は逃げることなど出来なかっただろう。
 緩やかな風が吹き、緋真のベールがふわりと飛んだ。それに気を取られることなく、白哉と緋真は甘く唇を重ね合う。
 愛しているという言葉よりももっと愛している。
 それ以上の想いは何と呼ぶのだろうか。ただ愛しているというだけでは伝わらない程のこの想いを。
 どう伝えればいいのだろうか。ただ口付けるだけでは伝わらない程のこの想いを。
 ――やがて離された唇に、緋真は倒れ込むように白哉の胸に身を投げた。
 昨日の記憶がよみがえる。白哉に全てを委ねた初めての夜。その時の口付けと同じ程の甘さと熱さ。全身を貫く歓喜と恍惚。愛していると、愛されていると心と身体で感じた記憶。
「――そろそろ戻ろう。檜佐木が待ちくたびれているだろう」
 はい、と赤くなったまま頷いた緋真は、先程まで付けていたベールがないことにようやく気が付いた。周囲を見渡すと、階段の下にふわりと落ちている。
「私が取りに行こう」
 自分で、と言おうとした緋真は、階段を降りる事が出来ないと気が付いた。白く長いドレスでこの階段を下りることは難しい。
「申し訳ございません」
「いや。ベールを落とした原因は私なのだから」
 笑いながらもう一度、緋真を引き寄せ口付ける。今度は軽く触れるだけに留め、白哉は階段を下った。二十段ほど下りて落ちていたベールを拾う。
 そして上の緋真を見上げた。
 緋真が微笑む。
 その時――在ってはならない音がした。



  
 その瞬間、緋真は不思議そうな顔をした。
 ふわりとドレスが翻る――背後からの風に押されたように。
 そして、その強い風に緋真の身体もふわりと浮かび上がった。


 音が消えている。
 風の音も聞こえない。
 どうしたのかしら、と緋真は視線を階段下の白哉に向ける。
 白哉の顔は蒼白だった。
 目を見開いている。何かを叫んでいる。
 ひどく時がゆっくり流れているのを感じた。
 白哉の唇が動いている。


 ――ひ

 
 夜の闇。
 月の明かり。
 懐かしい気持ち。
 ようやく逢えた。
 待っていました。
 貴方に逢う日を、もう何年も何年も何年も待ち続けて、そして――



 ――さ、



 背中に激しい痛みを感じる。
 目の前が赤く染まる。
 身体中から力が抜けていく。
 ああ、最後に聞いたあの音は、
 


 ――な……!



 白哉の手が延びる。 
 受け止める為に伸ばされた手。
 恐怖に彩られた瞳。
 大丈夫です、白哉さま。
 私は貴方のそばにいます。何が起きても、この先ずっとずっと。
 昨夜見たあの刹那の景色を、教えて差し上げなければ。
 月と、夜と、初めてお声を聞いた時の、あの震えを。
 だから大丈夫、泣かないでください白哉さま。


『 貴方さえいれば他に何も要らない。
  神さま、他に何も望んだりは致しません  』


 
 
 


 貴方が無事で、よかった……―――――――





 
 
















 轟いた音の次の瞬間、緋真の身体がふわりと浮上がったのが見えた。
 背後からの風が、純白のドレスを前へとなびかせる。
 一瞬不思議そうな顔をして、緋真は眼下の白哉を見た。
 視線が合った。
 緋真の身体がぐらりと揺れる。
 背後から強く押されたように、緋真の細い身体はそのまま前へと倒れ込んだ。
 白哉は自分が何を叫んでいるかわからないまま、必死で手を伸ばす。崩れ落ちる緋真の身体を受け止めようと両手で緋真の身体に手を伸ばし、そして緋真は白哉の胸に倒れ込んだ。
「………………緋真?」
 白いドレスが目の前で深紅に侵食されていく。純白のドレスが薔薇の深紅に染め上げられていく。背中から――その生地を伝い。
「緋真………………?」
 胸の中の緋真の身体は暖かい。いつものようにやわらかく、暖かく、――けれど。
 耳元に在る筈の緋真の唇からは、吐息の小さな風が感じられない。
「緋真?」
 力強く緋真の身体を抱きしめる。こうして強く抱きしめれば、緋真はいつも背中へ両手を回し、白哉の身体を抱きしめた。頬を染め、幸せそうに「白哉さま」と名前を呼んで――
 けれど緋真の腕は動かない。抱き寄せた白哉の力に、細い腕を投げ出したままで、仰向いた顔は何の言葉も発しない。
 どうしたのだ緋真、と白哉は抱き寄せた緋真の身体から身を引き、腕の中の緋真を見下ろす。その流れる雲のように白い緋真の肌、その頬に白哉は触れた。速く目を覚ますのだ。そろそろ檜佐木が迎えに来る。
 その時、白哉の視界に自分の腕が映った。緋真の頬に手を触れたその手の先に在る自分の腕。白い袖が、何故か赤く染まっている。滴り落ちる紅い液体を受け止め、不吉な程鮮やかな――深紅。
 この色は何だ。この熱い水は何だ。この赤い紅いあかいアカイ赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤。
「ひ」
 何が起きた。これは何だ。
「さ」
 どうして緋真は眠っている。どうして緋真は目を開けない。
「な」
 こんな筈はない。こんな事が起きる筈がない。
 緋真が――――――――――――――――――



 死ぬ、なんてことが。




「緋真? どうしたのだ、目を開けて大丈夫だ。私がいるのだから――私がお前を護るのだから。いつまでも傍にいるから、永遠に傍にいるから、どんな事からもお前を護るから、だから速く早く目を開けてくれ、緋真、緋真、緋真、緋真、緋真、緋真、緋真、緋真、緋真、緋真、緋真緋真緋真緋真緋真緋真緋真緋真緋真緋真緋真緋真緋真緋真緋真緋真緋真緋真」
 愛しげに撫でる髪、そっと触れる頬、優しく触れる唇――その合間に白哉は緋真を呼び続ける。呼吸すら忘れたように、緋真の顔から眼をそらさず、緋真の名前を呼び続ける。
「緋真、緋真、緋真、緋真」
 優しく揺り起してみる。――早く家に帰ろう。また私の為に食事を作ってくれ。昨日のように――永遠に続く幸福な日の、そのありふれた日常を。
「緋真………」
 けれどその目は開かずに、暖かい身体はそっと――静かに、冷たく――つ めた、く 、



「緋真ああああああああああああああああああああああああああああああああああっっっっっ!!!!!!!」




 誰か殺してくれ、私を殺してくれ、今すぐに私の身体を殺してくれ、私の代わりに誰か私を殺してくれ、緋真が逝ってしまう、私の傍から離れてしまう、緋真を護らなければ、独りにされることなど出来ないから、私が護る筈だったのに、私に出逢わなければこんな事にはならなかったのに、こんな風に殺されることなど――殺され、る、こと、な――ど、




「――檜佐木」
 ゆらりとかき抱いた緋真の身体から顔を上げ、白哉はそこにいる筈の部下の名を呼んだ。すぐに「は」と沈痛な声の檜佐木の声が背後からする。
「あの男が何処にいるか調べろ」
「畏まりました」
 すぐに背後の気配が消える。
 狂う手前で現実に戻って来た白哉は、腕の中の緋真を抱きしめた。既に体温が失われた緋真の身体を抱きしめる。
 その目は黒い焔に彩られ――
 発狂する手前で戻って来たのではなく、その瞳の深い闇の焔の色は。
 もう既に――






 











 静かな森の中に響き渡ったその音に、檜佐木は瞬時に走り出していた。
 銃声の発生場所よりも先に、白哉の居る場所へと全力疾走する。何故、や、何者が、といった疑問は一切封じ、無防備な背後から狙われるリスクよりも白哉の身を護る為に敢えて檜佐木は発射地点に背中を向け、白哉と狙撃犯の間に身を滑り込ませ猛然と走った。
 白哉さま、白哉さま、どうかご無事で……!
 白哉の元を離れてしまった己を激しく呪いながら檜佐木は走る。やがて開けた場所の叢の上に、夥しい血の色を見て檜佐木の顔は蒼白になる。
「白哉さま……!」
 走り寄った階段の上から見下ろしたその光景に、檜佐木は息を呑んだ。
 深紅のドレスに身を包んだ緋真が、白哉の腕に抱かれている。
 白哉は呆然と緋真を見下ろしている――腕の中の緋真の髪を、頬を撫でている。
「……………っ」
 唇を噛んで檜佐木は背後を振り返った。既に時間は経った、けれどこのままに出来る筈がない。
 檜佐木は一直線に走る――緋真を撃った、その何者かの潜んでいた場所に向かい。
 白哉の危険はもう無いと判断した。あの光景を一目見た瞬間、檜佐木には全てが判断できた――誰を狙ったのか。誰が命じたのか。
 鬱蒼と茂った叢の中、距離と直線から檜佐木がそうと判断したその場所に、薬莢が落ちていた。間違いなくここから撃ったのだ――あの緋真の背中の傷、一発の銃声、けれど多数の弾丸に傷付いた背中。遠距離を飛ばず、貫通力が低いその性能、一発の弾丸で四方へ小さな玉が飛ぶその銃――散弾銃を。
 周囲の音に耳を澄ませる。自分以外の音を、全神経を持って拾い出す。
 五分の間、集中して探した音は――結局何もなかった。
 緋真を撃った後、直ぐにここから離れたのだろう。もう目的は達したが為に――緋真を殺すという、命令を完璧に果たしたがために。
 そう、狙われたのは緋真。
 緋真よりも階段の下にいた白哉のその位置でわかる。相手は一人立っていた緋真を撃ったのだ。万一にも白哉に当たる事がないよう、恐らくずっと狙っていたのだろう――緋真が一人になるその瞬間を。
 そして狙われたのが緋真ということは、誰が命じたことが自ずと判明する。
 緋真が重要な人物だということは――白哉の想い人であるということは、まだ殆どの人間に知られていない。知っているのは白哉と緋真、自分、上埜門、玖珂百合子、そして――
 朽木皓成と朽木暁子。
 この人々の中で、白哉と檜佐木が慎重に隠し通したこの場所を知ることができる力を持つ者は。
 だが何故この場所が判った。
 決して誰も、この場所と白哉を結び付けることは出来ない筈だ。しかも昨日の今日、白哉が此処へ着いたのは昨日の事だというのに。
 緋真を撃った男を捕らえることが出来ず、重い足取りで檜佐木は白哉の元へと向かった。重いのは足取りだけではなく心もだ。
 あの一瞬、一目見ただけで、緋真がこと切れていることはわかった。
 茫然と緋真を抱きしめている白哉の心を想い、檜佐木は沈痛な表情を浮かべる。
 重い心と足取りで、俯きながら血の跡の残る惨劇の場所へ戻った檜佐木が見たものは、
 ――緋真の髪を愛しげに撫でる白哉の姿だった。
 その目は優しく、触れる手の動きも優しく、そっと静かに緋真の髪を撫で、頬に触れ、指で唇に触れ、緋真を見詰めたまま何かを呟いて――その小さな声が耳に入り、檜佐木は冷水を浴びたように立ち竦んだ。
 ――緋真、緋真、緋真、緋真、緋真、緋真、緋真、緋真、緋真、緋真、
 声は優しい。穏やかな。甘く、低く、深く、その名前に込められたあまりにも深い愛情を知らしめるほど、甘く、優しく、切なく、とろけるような、そんな声で。
 ――緋真、緋真、緋真、緋真、緋真、緋真、緋真、緋真、緋真、緋真……
 途切れることなく囁き続ける。壊れたように、否――
 壊れているのか。
「白哉さま!」
 思わず駆け寄った檜佐木の声に反応することはなく、ただ白哉は緋真の髪を撫でながら名前を呼び続ける。早く目覚めろ、早く起きて私を呼んでくれ――そう、願いを込めて白哉は緋真を呼び続ける。延々と、永遠と――
「白哉さま! 白哉さま! 白哉さま!」
 無礼を承知で肩を掴み揺すってみても、白哉は何の反応も返さない。ただ優しく緋真の名前を呼び続ける。ただ優しく緋真の身体を抱きしめる。
「白哉さま……っ」
 解っていた筈だ。緋真の身に何かあれば、白哉がこうなってしまうことを。
 何故自分は二人の傍を離れた。
 決して離れてはいけなかった。
「緋真……?」
 どのくらいの時間を、ただ見守ることしか出来ずに立ち尽くしていただろうか。背後で控えることしか出来ない檜佐木の前で、不意に白哉の声の調子が変わった。はっと顔を上げる檜佐木の前で、白哉の腕の中に抱きしめられていた緋真の腕が宙に浮いた。そしてぱたりと地に落ちる。一瞬の後、小さな苦鳴が白哉の唇から洩れ、そして次の瞬間――

「――――緋真ああああああああああああああああああああああああああああああああああっっっっっ!!!!!!!」

 あまりにも悲痛な絶叫だった。
 白哉がこれほど大きな声を上げたことを檜佐木は聞いたことがなく、白哉がこれほど感情を露わにしたのを見たことがなかった。
 緋真を抱きしめたまま、天を仰ぎ白哉は絶叫した。  
 何の言葉をかけることも出来ない。世界の全てを失ってしまった目の前の白哉に対して、誰も何もかける言葉を持たないだろう。
 ただ項垂れ立ち尽す檜佐木の耳に、突然「檜佐木」と自分を呼ぶ声がした。間髪置かず「は」と返答をする。
 全ての感情を失った声で。
 怒りと憎しみ以外の全ての感情を失った声で。
 白哉は言った――檜佐木に命じた。
「あの男が何処にいるか調べろ」
 あの男。
 それが誰か、檜佐木には解っている。そして白哉にも解っている――緋真を傷付けたのは誰か。
「畏まりました」
 檜佐木の主人は白哉一人――この先白哉が何をするのか解った上で、それを叶える為に檜佐木は行動を開始した。
 走り出した背後で、白哉が緋真を抱き上げるのが、見えた。





 家に戻り、複数のパソコンを最大限使用して、檜佐木は皓成の居場所を突き止めた。それは大して難しいことではなく、恐らく皓成も隠れる気はないのだろう。白哉を再び自分の支配下に置く為に白哉との対話を望んでいる。
 ――あまりにも、己の息子を理解していない。
 否、理解できる筈がない――白哉は変わったのだ、緋真と出逢って。今の白哉は以前とは違う。以前の白哉しか知らない皓成は、自らが起こしたこの一件の結末を予想できない。
 ――何が起きても、自分は白哉さまに付いていくだけだ。
 皓成の居場所を突き止めた後、檜佐木は暫く微動だにしなかった。
 目に浮かぶのは、深紅のドレスに身を包んだ華奢な身体。
 自分にあの人を悼む権利があるのだろうか。自分はあの場を離れてはいけなかった。自分の所為であの人は生命を落とした。あの笑顔はもう二度と見られない。それを消した自分に、あの人を悼む権利など――
「、く、」
 噛み締めた唇から嗚咽が漏れる。更に溢れそうになる声に腕を唇に引き寄せ袖に歯を立てた。
「……さ、な……さま……っ」
 堪え切れずに机に突っ伏す。一度堪える事が出来なかった声は、堰を切ったように溢れて止まらない。あの優しい人にどれだけ心を明るくしてもらったか。日毎変わっていく白哉をどれだけ嬉しく眺めたことか。幸せに寄り添う二人の姿を、それ以上に幸せを感じながら自分が見ていたことか。
 ――貴女はこんな風に命を落としていい人じゃなかった。
 もっと幸せになるべき人だった。白哉さまの隣でゆっくりと歳を取り、白哉さまとたくさんの子供と孫に囲まれて、穏やかにその生を終えるべき筈の人だった。
 その未来を断ちきられた今、白哉が望むことは。
 傍らの電話を取り上げる。記憶している番号を淀みなく押すと、十を超える呼び出しの後にようやく出た声は、明らかに不機嫌な響きを持っていた。
『何だネ』
「私だ」
『わかっているヨ、この無粋な液晶に表示されているんだからネ。――で、何だネ。何の用だネ、私は忙しいんだがネ』
 厭味ったらしいその声に動じず、檜佐木は「これから ・・ ホテルに行ってくれ」と切り出した。
「お前の力がいる。そちらに付いたら連絡する」
『ほう?』
 声に興味の色が帯びる。暫く無言の後、くくく、と喉で笑う音がして『承知したヨ』と楽しそうに電話の向こうの男は承諾した。
『朽木白哉には一応感謝しているからネ。研究費分程度の礼は返してやるヨ』
「部屋は取ってある。2150だ」
『試したいことはいっぱいあるヨ』
 耳障りに笑いながら電話は切れた。
 自分が仕えるのは白哉一人だ。白哉がどんな修羅の道を行こうとも、自分はただ付き従う。
 


  

 既に日が落ちた森の中を檜佐木は教会に向かって歩く。
 檜佐木に命じた後、緋真を抱き上げた白哉は、家には戻らずに教会に入って行った。最後に二人で過ごした幸せだったその場所。永遠の愛を誓ったその教会へ、白哉は緋真と二人きりで日が落ちたこの時間まで過ごしていたのだろう。
 暗くなっていく世界、冷たく硬くなっていく緋真。それを間近に見ながら、白哉は何を思っているのだろう。
 白哉と緋真、二人きりのその神聖な空間に足を踏み入れていいのか躊躇する檜佐木に向かい、中から「入っていい」と白哉の声が聞こえた。
 ――落ち着いた声だった。
 失礼いたします、と頭を下げ、檜佐木は静寂を壊さないよう静かにその身を教会の中へと滑り込ませた。赤い絨毯に従って歩く。――数時間前、白哉と緋真が腕を組んで歩いたその絨毯の上を。
 祭壇の前に、白哉がいた。
 そしてその祭壇の上に――静かに横たわる緋真がいた。
 四方に蝋燭が灯っている。その小さな灯火は、檜佐木が動いた為に生じた風に揺れて左右に影を落とした。その橙色の光の中で、緋真は目を閉じている。両の手を胸の上で組み、まるで眠っているかのように。
 苦しそうな表情は微塵もなく、最後の瞬間何を想ったのか――穏やかな微笑みを浮かべたまま、緋真は静かに永遠の眠りについていた。
「――護ると言ったのに、約束を違えてしまった」
 檜佐木に聞かせているのか、緋真に話かけているのか、その両方なのか――白哉は呟くようにそう言った。
「私が――私の所為です。私がお二人から離れた所為で……」
 白哉の、あまりにも自分を咎めるその言葉に、堪らず檜佐木は白哉を遮って言葉を差し挟んだ。その声は大きくはなく、食い縛った唇から洩れた為に酷く聞き苦しい。
「私はお二人の傍を離れるべきではなかった。私はお二人の護衛……な、のに」
 思わず声を詰まらせる檜佐木に、白哉は振り向かずに「いや」と否定する。声だけ聞けば以前のまま、落ち着き払った白哉の声だ。
「この場所があの男に知られる筈はなかった。そんな可能性などなかった。離れたお前に非はない」
 寧ろ非は緋真を一人にした私に在る、と白哉は感情の欠落した声で言う。
「緋真を一人にしたのは私だ。私こそ緋真の傍を離れてはいけなかった。私が横に在れば、緋真を狙うことなど出来なかった筈だ――私に怪我を負わせる訳にはいかない故に」
 狙いは緋真ただ一人。
 決して白哉を傷付けてはならないと命じられていたのだろう。
 それを肉親の情などとは決して思わない。
「――あの男の居場所はつかめたか」
「はい。 ・・ ホテルに宿泊します」
 敢えてもう敬語は使わない。――その資格はもうあの二人には、ない。
「そうか。――車を」
 はい、と頭を垂れて檜佐木は扉に急いだ。外に出ようとした瞬間、床を叩く液体の音に息を飲み振り返る。
 その目に映ったのは――蝋燭を床に落とす白哉の姿だった。
 一瞬にして床が燃え上がる。まるで身をくねらせる蛇のように焔は瞬時に床の上を走り、緋真の周囲を取り囲む。
「白哉さま……!」
 ぱちぱちと火の爆ぜる音がする。火はその領域を恐るべき速さで広げていく。
 その火の向こう、焔に明るく照らされた緋真の姿は――神々しい。哀しい程、美しかった。
 白哉の前で、緋真の上に火の粉が降り注ぐ。輝く赤い花弁は、緋真の死を浄化するように後から後から降り積もる。
 きらきらと。
 ひらひらと。
 緋真の身体は、赤い花弁に埋もれていく。
 赤い花弁に埋もれ、緋真は空へと還る。
 光だった緋真。
 もうこの先、その光を感じることもない。何処まで行っても暗闇のまま、ただ独り。

「愛している。お前だけをずっと―――死さえ二人を別てない。愛している――お前を、お前だけを永遠に―――」

 そして白哉は教会から離れた。
 背後で教会が燃えている。
 それ自体が一つの松明のように、激しく焔を吹き上げながら――白哉はもう振り返ることはなかった。
















 朽木皓成は非常に上機嫌だった。
 一昨日、白哉が部屋から出て言った後の出来事は非常に不愉快だったが、それももう既に過去のことだ。昨日、あの小娘を首尾よく除外したとの連絡を受け、皓成は祝杯をあげたのだった。
 これで白哉の目も覚めるだろう。
 暫くは反発するかもしれないが、それも小娘がいない状況ではそう長くは続かない。この一件を教訓に、二度と父親に逆らうなどという愚かなことは考えないだろう。
 神童だ天才だと騒がれても所詮19歳の子供だ。身分の低い小娘にうつつを抜かして親に逆らいあまつさえ全てを乗っ取ろうなど――思い上がりも甚だしい。
 暁子と共に昨日このホテルに宿泊したのは、そう遠くない間に白哉が現れるのを見越しているからだ。その席で、金輪際自分に逆らうことのないよう、徹底的に服従させるつもりだ。子供はあくまでも親の所有物、その親に刃向えばどういうことになるのか――白哉は思い知っただろう。
 やや遅めの朝食を1階のカフェで取る。暁子も共にテーブルについていた。普段ならば部屋で取るが、今日はこうして1階まで下りてきたのは、白哉が接触しやすいようにだ。
 一番奥のボックス席――そこでゆったりと朝食というには多い量を並べた皓成は、目の前に立つ人影に自分の読みが当たったことを知り口元を笑いの形に歪めた。
「――座ったらどうだ」
 暁子は無言で目の前の白哉を見据えている。暁子にとって興味があるのは自分にとっては虫けらと同列の従者が死んだことではなく、朽木家当主の妻であり、次期当主の生母であり、次期当主の妻の伯母であるということだけだ。
 着席を勧めた言葉は、氷のような無言で跳ね返された。黒いコートを羽織ったまま、白哉は無表情に皓成を見下ろしている。以前のまま――それは皓成の良く知る白哉の姿そのままだった。満足気に微笑み、皓成は余裕を見せ椅子の背に身体を預ける。
「何故あの場所を知ったのか、それを聞きに来たのだろう?」
 そう、おそらく白哉はそれを聞きに現れると皓成は見越していた。自分の知らぬことが存在することを白哉は嫌う。今回のこの疑問は、決して調べても解らない筈だ。そう、自分に直接訊ねない限り。
「白哉、お前が教えてくれたのだ。お前とあの小娘の居場所を」
 揶揄するように言葉をかけても白哉の表情は動かない。その白哉の背後に控えている檜佐木は、仕える者らしく決して皓成に視線を合わせず、足元に視線を向けている。
「お前が生まれてすぐ、お前の身体には発信機を埋め込んである」
 とても素晴らしい秘密を打ち明けるかのように、皓成は楽しそうに声を潜めて囁いた。やはり白哉の表情は動かない。
「何処かの馬鹿がお前を浚いでもしたら事だからな。電源はお前の筋肉の動きだからお前が生きている限り永遠に電波を発し続ける。さすがのお前も、生まれて直ぐのことは記憶がないだろう」
 生まれて直ぐの我が子の肌を切開し金属片を埋め込ませる父親、それを黙認する母親――
 それが「朽木」という家の常識、なのだろう。
「その電波のおかげでお前とあの女の居場所はすぐにわかった。――どうだ、目が覚めただろう? 下賤な女に誑かされるとは、まだお前も未熟な子供だということだ」
 皓成の視界に白い服を着た若い男が入った。隣の席に一人座り、嘲笑するようにちらりとこの席に目を向けたのを見てとり、皓成はじろりとその身の程知らずの男を睨みつけた。だが男はそれ以上皓成に視線を向けることなく、手元から何かを取り出して弄り始めた。忌々しげにもう一度睨んだ後、皓成は白哉へ視線を戻す。
「いいか、二度と私に逆らうな。今日にでも玖珂の娘と正式に婚約を発表する」
 それに対して白哉から拒絶の言葉はなかった。ただ無言で立っている。その様子に、やや態度を砕けさせて皓成は白哉へと話しかけた。
「あの女の死は必要なものだった。あの女の名前、久儀の名の通り、久しく朽木が続く為の儀式。そう考えればあの女の死は必然――運命と言って良かったのだ。あの女の死を得て初めてお前は朽木の名の本当の重さを知った筈だ。お前もいい加減に、」
 白哉の手が動いた。す、と静かにコートの内に滑り込ませる。そして前が肌蹴たコートの下には、純白のタキシード……その上半身が赤く染まった、壮絶な。
 驚き立ち上がろうとする皓成の眉間に銃を向け、無表情に静かに白哉は呟いた。皓成ではない、その背後の見えない何者かに向かって――もしくは、この数瞬後の自分に向かって。

「Guter Morgen. Herr "nihility"……」

 何かを叫び出す皓成より先に、白哉が引金を引いた。勢いよく仰け反る皓成と、自分の顔に飛び散った「何か」を見、暁子は悲鳴を――上げようとした。
 その直前に再び白哉が暁子に向かって引金を引く。やはり同じように、何の感情も浮かんでいない、氷のような無表情のまま。
 二発の銃声、それは異変を知らしめる。このカフェにいた数十人の客が動き出した。まだ事情も掴めないながら、怯えてこの場から逃げ出そうとする――その人の群れに向かって、檜佐木の拳銃が火を噴いた。容赦なく薙ぎ倒していく――男も女も、その場にいる無関係の者全てを冷静に、躊躇なく、完璧に射殺していく。
「容赦ないネ。皆殺しじゃないか」
 白衣の男が嗤う――おかしくて仕方ないように。自分たち三人以外、動く者がいないこの惨状の中、血が散乱した地獄のようなこの場所で、白衣の男は憚ることなく笑い続けた。
「白哉さまのしたことは誰にも知られてはならない」
 父殺し。
 母殺し。
 それは決して許されることではない。
 だが白哉はそれを実行するだろうと檜佐木にははっきりと解っていた。
 それならば―――檜佐木に出来ることは。
「涅、この場を吹き飛ばせ。死体全部を原形を止めぬ程に損傷させろ。死因など調べようもない程、完全に破壊しろ。――出来るか?」
「誰に物を言ってるんだネ? 私に出来ぬことなどないヨ」
 くつくつと笑いながら、涅と呼ばれた若い男は先程から手元で弄んでいた小さな金属の箱を取り出した。そして手際よく、死体に恐れることなく何かをその動かぬ身体になすりつけていく。――その時間、僅かに数分。
「建物ごと吹っ飛ばすヨ」
 その言葉の次の瞬間には、檜佐木たちの目の前が吹き飛んで行った。見事なまでに完全に、檜佐木たちのわずか一歩先から全てが消失している。
 ようやく外の人々が騒ぎ始めた。ホテルの従業員たちが飛び込んでくる。
 あまりにも現実離れしたその惨状を前に立ち竦む人々から踵を返し、白哉はその場から立ち去った。その背後を檜佐木が従う。涅はその二人を見送ってから、音もなく群衆に紛れその場から消え去った。









 ――被害者28人。
 偶然その場に居合わせた朽木家の当主とその妻の死亡と共に大々的に報じられた高級ホテルの大惨事は、何故か次の日にはその報道の規模が縮小され、原因が究明されることもなく――やがて人々の目から姿を消した。
 そして1年が過ぎ、喪が明けた頃――朽木皓成の後を継ぎ、朽木白哉が名実共に朽木家の当主となる。
 まだ20歳の、歴代の中で一番若い当主の誕生だった。
 
 






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