gravity is on the increase as a time goes by
my body returns to the earth
there is sky up in the air
my body is in your sky and your life is in my cosmos
we never come close to each other
but here we exist as it is……


 L'Arc〜en〜Ciel「花葬」by ken














 個人の家にしては広すぎる屋敷の前に車を止め降り立った檜佐木は、怖れることなく剥き出しのコンクリートに囲まれた屋敷を仰ぎ見た。
 この家――住居と研究室が一体となったこの敷地内に存在するのは、実はたった一人だけだと檜佐木は知っている。研究者の常でやや奇特な性質を持つこの敷地の主は、極端な人嫌いの所為で誰とも接触を持とうとはしない。
 研究資金を出す朽木白哉の部下である、檜佐木修兵以外には。
 侵入者を拒むような――もしくは邸内にいる「何か」の逃亡を防ぐかのような、高い塀にぐるりと囲まれた敷地の唯一の出入口に備え付けられたインターフォンを押す。そうすれば返答はなくとも監視カメラで視認した屋敷の主によって、門の施錠が外されるのが常だった。――ところが。
『はい』
 若い少女の声が、スピーカーから返って来た。
 予想だにしない出来事に檜佐木は一瞬絶句する。返答もしないままに無言でいると、『どちらさまでしょうか』と重ねて問いかける声を聞き、慌てて「檜佐木と申します。本日来訪の約束をしていました」と言葉を返す。
『はい、主人に言い使っております。――どうぞ』
 ジッと電子錠が外れる音がした。次いで、重々しい音を立てながら門扉が内側へと開いていく。
 門からうねりながら続く道は、奥の屋敷の入り口に続いていた。歩き慣れたその道を歩いていくと、またも常ならぬ光景――入り口の扉が開き、誰かが檜佐木を迎い入れる為に待機している。
 そこにいたのは、18、9の少女だった。
 長い黒髪を一つに編んで黒い服を着ている。白い肌、黒い瞳、整った顔立ち――誰もが認めるであろうその美少女は、けれど見る者に違和感を与える。
 表情がないのだ。
 それはまるで精巧な人形のような。
 ふと檜佐木は己の主を思い起こした。
 良く似ている。――その身に纏う雰囲気が。
 目の前の少女は無表情のまま会釈をし、「ようこそいらっしゃいました、檜佐木さま」と機械のように平坦な声を出した。そして完璧な立ち居振る舞いで、檜佐木を中へと迎い入れた――人形のように、無表情に。
 少女は先に立ち、奥の部屋、檜佐木が既に何度か訪れたことのある研究室に檜佐木を案内していく。その間も言葉はなく、背筋を真直ぐに伸ばしたまま、美しい姿勢で歩いていく。
「――マユリさま、檜佐木さまがお見えです」
 細い手が武骨な鉄製の扉を苦もなく開け、どうぞ、と檜佐木を中へと導いた。そして「失礼いたします」と表情を変えないまま礼をして下がっていく。
「出来ているヨ。そこにあるからそれを持ってさっさと帰ってくれないかネ」
 手元の電子顕微鏡から目を離すことなく、涅は檜佐木が話すよりも先にそう言い放った。檜佐木の来訪が邪魔だということを隠そうともせずに堂々と言い放つ。
 そんな涅の態度はいつものことなので檜佐木は気にすることはない。この屋敷の中の時間の流れはいつ来ても変わらない。変わることのない景色。何年も何年もその筈だった――のだが。
「誰だ、今の少女は」
「ん? ――あれかネ?」
 顕微鏡から涅は顔を上げた。その顔に笑顔が浮かぶ――歪んだ笑みでも笑みは笑みだ。
「そうか、アレを見るのは初めてだったネ。――ふむ。――どう思った、アレを見て?」
「どう、と言われてもな。……珍しいこともあるものだと思った。お前が人を傍に置くとは珍しい」
「どこかおかしい所はなかったかネ?」
「いや? ――強いて言えば、随分と感情の薄い子だと思ったが……」
「それはそうプログラムしているんだヨ。煩わしいのは耐え難いからネ」
 くっ、と笑う涅に、檜佐木の眉は訝しげに寄せられた。
「プログラム?」
「そうだヨ。P、r、o、g、r、a、m、『プログラム』」
 覚えの悪い生徒に言い聞かせるように――涅が教師だったとして、生徒にそんな親切をすることは間違いなくないだろうが――涅はゆっくりと繰り返した。檜佐木の眉が更に寄る。
「――どういうことだ」
「どういうことも何も。――アレは私が作ったんだヨ。私がプログラミングをして、私の希望通りに作り上げた人形だヨ。適当な助手を作ったんだヨ。最近色々煩わしいことが増えたからネ」
 今この瞬間のようにネ――そう嫌味を言う涅の言葉は無視して、檜佐木は暫く思考した後に顔を上げ呟いた。
「洗脳か」
「記憶の操作と言った方が正しいネ」
 楽しげに涅は笑う。自分の研究の成果を自慢する機会を、涅は決して逃さない。
「自分の子を差し出して命乞いをする輩がいたのでネ。丁度実験するのに子供が必要だったから使ったんだヨ」
 面倒だからそいつらは始末したけれどネ、と事も無げに涅は言う。それを檜佐木も咎めることなく聞き流した。元より、檜佐木にそれを咎められる清廉さは無い。
「人の記憶を完全に消去することが出来るか。こちらの都合のいい記憶を植え付けることが出来るか。設定した性格が忠実に再現されるか。――アレで随分試させてもらったヨ。実際いい玩具だったヨ。もう遊び尽したんだがネ、便利だから置いているんだヨ」
 私の言うことには絶対に逆らわないからネ、と涅は笑う。
「興味があるなら貸してやるヨ?」
「――いや。特に必要はない……ようだ」
「そうかい。じゃあさっさと帰ってくれないかネ。私は色々と忙しいんだヨ」
 檜佐木に興味を失ったように、再び涅は顕微鏡に視線を落とした。手元のボタンを押し、「ネム、客が帰るヨ」と苛々と吐き捨てる。
「ああ。また何かあったら連絡する」
「まあネ、いつでもいいヨ。あんたの上司が研究資金を増やしてくれるならネ。どんな物でも作ってやるヨ、あの日のようにネ――毒薬でも爆薬でもなんでもネ。私に作れない物はないヨ」
 また不意に涅の機嫌が変わる。――確かにこの研究者と付き合っていくには感情など無い方が幸せだろう。
「失礼いたします。マユリさま」
「遅い! 私が呼んだらすぐに来いと言ってあるだろう!」
「申し訳ございません、マユリさま」
「その男が帰るから送っていくんだヨ。関係のない部屋に入れさせるんじゃないヨ」
「はい、マユリさま」
 涅の言う通り、感情の欠片も見せずに淡々と少女――ネムと呼ばれた少女は涅に従う。こちらへ、と檜佐木を案内しながら先に立って歩く。
 涅に作られた少女は、人形のように端正な顔で、感情を見せずに檜佐木に相対する。
 その無表情は、やはり――檜佐木の主によく似ていた。 
 感情という感情が消え果てた、朽木白哉に。





「失礼いたします」
 ノックの後に声をかけ、檜佐木は了承の返事を待たずに室内に入る。――承諾の返事を待たずに入室するにはいくつかの理由があり、一つにはこの部屋に入ることが出来るのは檜佐木だけということ、そして二つに白哉がこの部屋にいる時は仕事しかしていないということ。
 そして三つに――
「先日涅に依頼していた物です。完成したとのことで、受け取ってまいりました」
 差し出した小さな箱にちらりと目を向け、白哉は無言で頷いた。
 無言で。――それが理由の三。
 白哉は――殆ど言葉を口にしない。
 元から口数は少ない方だったが、今では全くと言っていい程言葉を発しない。「ああ」「いや」、その程度の了承・拒絶の言葉でさえ白哉は口にすることはなかった。
 2年前――緋真が死んだあの日から。
 その美しい顔に表情が浮かぶことはなく、世の中の何にも興味を示すことはなく、ただ白哉は「生きて」いた。
 心は緋真と共に死んでいるのかもしれない――もう誰の存在も白哉を助けることが出来ない。檜佐木でさえ。
 本来ならば、白哉は緋真の元へと逝きたいのだろう。この世の何事にも未練はなく、この世に在るものは緋真がいないという現実しかなく、そしてその現実は白哉には耐え難いことだったに違いない。
 それでも――白哉は此処にいる。
 心は死んでしまったまま、ただ無機質に無意味に生きている。
 それは、あの日の約束――あの教会、二人で過ごした最後のあの日、二人が交わした最後の約束――その約束の為に。


『では、同じことを白哉さまもお誓いください。私の身に何かあったとしても、決して後を追わないと』
『――誓おう。私のただ一つ大切なもの、何よりも神聖なお前の名にかけて』


 その誓いが白哉を縛る。
 死にたい。けれど死ねない。緋真の為に。何よりも大切な、自分の生命よりも大切な緋真の為に。
 自分の生命よりも大切な緋真を護れなかったというのに、自分の生命を護らなくてはならない――この絶望。
 緋真。
 緋真。
 何をしていても、何処にいても、考えることは唯一つ、緋真のことばかりだ。
 初めて出逢った日のことを。
 初めて二人で出掛けた日のことを。
 初めて口付けたその日のことを。
 初めて結ばれたあの日のことを。
 幸せだった日々を。もう二度と戻らない日々を。
 そして――朱に濡れたあの絶望を。
 白哉は何度も想い出す。白哉は何度も振り返る。
 白哉に在るのは未来ではなく――ただ過去が在るばかりだ。
 それでも白哉は生きて――否、存在している。
 ただ一つの言葉を胸に。
 その言葉に縋るように。


『例えこの先何があっても、私は必ず白哉さまのそばにおります。必ず白哉さまの傍らに』


 緋真は必ず還って来る。
 緋真は約束を違えない。
 細く頼りなげな緋真の真には緋色の焔が宿っていた。想いの強さに白哉は何度助けられたことか。
 その緋真が約束したのだ、必ずそばにいると。何があっても必ず傍らにいると。
 それならば、いつか必ず――緋真は此処に還る。
 その日まで、白哉は絶望の中で生き続ける――存在し続ける。
 


 

「玖珂家から手紙が来ていますが――如何計らいましょう」
 涅から受け取ったものとは別に差し出した封書を白哉は受け取ると、一瞥することなく細い指で破り捨てた。そのままデスク横の屑入に落とし、何事もなかったように仕事を続ける。
 ――両親をその手で葬り去った後、朽木家の相続や会社の手続きと共に白哉が行ったのは、内輪とはいえ周囲に知れ渡っていた玖珂百合子との婚約の完全な解消と――玖珂家との断絶だった。
 玖珂家との全ての取引、全ての関係を白哉は徹底的に根絶した。その頑なな白哉の態度に玖珂家の人々は慌てふためき、理由を知ろうと何度も会話の場を求めたが、白哉は決して応じなかった。上流階級のパーティの場でさえ、白哉は優雅に、そして徹底的に玖珂家の人々の存在を無視し続けた。最初からないものとして玖珂家の人間を一瞥すらしない白哉の行動に、周囲の人々もそれに倣い玖珂家の人々を存在しない者として扱い始めた。――強大な朽木家の新当主の意向を妨げれば、その害は自身に及ぶ。その保身から玖珂家との関わり合いを断つ者が増え、あっという間に玖珂家は没落した。
 何故、如何して――玖珂家の人々はそう憤っただろう。彼らには理由がわからなかった――玖珂百合子以外には。
 朽木皓成と暁子が、ホテルで襲撃犯に――その犯人は逃げ遂せたままだが、その犯人は阿散井が放ったものだとまことしやかに噂されていた――襲われたと知った時、百合子は蒼褪めた。白哉と結婚する為の後ろ盾がいなくなってしまったと。これではあの下女が白哉の妻となり、自分は周囲の者たちに哂いものにされてしまう、と。
 その想像通り、白哉はすぐに百合子との婚約をする気がないことを公式に伝えてきた。しかし、悔し泣きする百合子のプライドを粉砕する次なる知らせ――白哉と侍女との結婚については、いつまで経っても届くことはなかった。
 屈辱を抑え、朽木財閥の全てを引き継いだ白哉の就任披露パーティに訪れた百合子を見た白哉の瞳。
 それまでは何の表情も現わしていなかった白哉の瞳に、紛れもなく浮かんだその感情は――憎悪。
 白哉はすぐに百合子から視線を逸らせた。まるで視界に入ることすら厭うように。そしてそれは事実だったに違いない。
 そして程なく、白哉の玖珂家への冷遇を調べていた両親よりも先に、百合子はその原因を知った――秀瑛からの緋真の友人、百合子が緋真を拉致した際に利用した少女、小幡香菜によって。
 ――久儀緋真が死んだ?
 小幡香菜が語ったものを記した調査書に在ったのは、その事実だった。死亡日は1年前――白哉の両親が死亡した前日。
 自分が緋真の存在を、白哉の両親に告げた数日後。
 全てが咬み合った。緋真の死、白哉の両親の死、玖珂家への冷遇。――全ては、
 百合子が、緋真の存在を皓成と暁子に告げたからだ。
 がたがたと百合子の身体が震えだす。絶対に許されない――自分は白哉に絶対に許されることはない。今自分が生きていること自体が奇跡なのだ。殺されても不思議ではない。
 百合子が殺されずに存在しているのは、ひとえに白哉の怒りの大きさの所為だった。一瞬の苦しみで死なせるなど――苦しんで苦しんで死ぬことが百合子に課せられた未来なのだ。
 玖珂家は没落してゆく。
 頼る親類も友人もない。玖珂家に手を差し伸べることは朽木白哉の怒りを買うことだ。故に誰も玖珂家の人々を助けない。資産を失い、会社も失い、何もかもを失い、やがて矜持も誇りも失い――それでも生きていく。百合子が蔑んでいた一般の人々と同じ、もしくはそれ以下の生活の中で。この先の長い年月を――百合子にしてみれば、永劫に近い苦痛と屈辱の中で。
 それが白哉の復讐なのだろう。百合子によって緋真を奪われた白哉の。
 そして百合子はこの原因を誰に言うことも出来ず――両親にさえ伝えられず、震えながら日々を過ごす。
 百合子の所為で緋真が死に、そしてその所為で皓成と暁子が死んだと伝えれば――皓成と暁子が誰に殺されたのか嫌でも悟る。そして知ってしまえば、存在を許されることはないだろう――檜佐木によって。
 そうして無言を貫く百合子とは別に、百合子の両親は懇願の手紙を絶えることなく白哉へと送る。決して会おうとしない白哉に嘆願するにはもう手紙しか残されてはいなかった。けれど白哉は一度としてそれを見ることはない。
 そして今後届く手紙も封を切られることはないだろう。
 たった今、破り捨てた手紙と同じように。






 
 緋真がいなくなれば、白哉の精神が壊れてしまうとわかっていた。
 灰色の世界に暮らしていた白哉が、緋真という光を得、世界に色が在ることを知った。緋真という光は、感情というものに希薄だった白哉の心を優しく満たした。
 けれど、その光が消えてしまえば。
 世界は再び色を失う。一度色の存在を知ってしまった白哉にとって、光を失った後に広がる世界はあまりに暗く辛いものだろう。

『Guter Morgen. Herr "nihility"……』

 そう呟き引金を引いた白哉は、緋真を失った後の己を正確に知っていた。
 残るのは虚無。
 虚ろな世界。
 あの世界から白哉を助け出したい。
 けれどそれを出来ることはたった一人で、その一人はもう既にこの世にはいない。
 2年前から白哉の時間は止まったままだ。その2年間、白哉は暗闇の中で生き続けている。早く死にたいとそればかりを願って。それは緩慢な死――ゆっくりと死に至る致死量の毒。
 いっそ――涅に頼み、緋真さまに関する記憶を消してしまおうか。
 白哉にとって、忘れることが幸せではないかと――檜佐木はそう考えるようになっていた。
 傍で見ていて、あまりにも辛い。
 白哉が自分を責めているのを知っている。何故愛する人を護れなかったのかと己を責め苛んでいる。
 睡眠すら満足に取らず、食事も勧めなければ取らず、休むこともしない。機械のように仕事をこなす。その仕事も目的あっての物ではない。ただ、目の前にあるから――することが無いから、緋真のいない長い時間を埋める為だけにただその膨大な仕事を完璧にこなしている。
 どうしたら、どうすれば――答えの出ないその問いを何千、何万回繰り返した事だろう。そして今日もまた、流れる景色を見ながら繰り返す――どうしたら、どうすれば。
「――止めろ!」
 突然鋭い声で停止を命じられ、車の運転をしていた檜佐木の部下は慌ててブレーキを踏んだ。車が完全に止まる前に檜佐木はドアを開けて外へと飛び出す。
 檜佐木の部下は、自分の上司が、常に冷静な筈の檜佐木が、信じ難いものを見たように目を見開き、茫然と立ち尽くす姿を驚きながら見つめた。
 何が檜佐木をここまで動揺させたのか――男は檜佐木の視線の先を窺い見る。
 ……特に変わったことは何もなかった。
 普通の道路だ。何の変哲もない一般道。車道は二車線、その両脇に歩道。並木道が続き、人が行き過ぎる、ごく当たり前の景色。家族連れが歩いている。男と女が腕を組んで歩いている。多少変わっているといえば、シスターと小さな少女が歩いているくらいか。けれどこの先に小さな教会が在る事実を知ってさえいれば、それさえ異質な景色ではない。
「先に帰れ」
 質問を許さない声音だった。そう短く言い捨て、檜佐木は歩き出した。表情が引き締まっている。緊張しているのか――あの檜佐木が?
 腑に落ちないながら、男は車をスタートさせる。檜佐木が何に驚愕したのかわからぬままに。 
  
 



 驚愕していた。――何が起きているのかわからない。
 目の前を歩く小さな少女。質素な服を着、シスターと手を繋ぎ、軽やかに歩いている。綺麗に梳られた肩までの髪が揺れ、白い頬の横で跳ねる。シスターに話かける度に見える横顔、その瞳の色は――紫。
 ――何だ、これは。
 茫然と、呆然と――檜佐木は目の前の少女を凝視する。これは何だ。これは誰だ。あまりにも、あまりにも――似ている。似ている、などというレベルではない。
 緋真そのものだ。
 髪の色も、髪の細さも、肌の色も、眉の形も、睫毛の長さも、瞳の色も、頬の色も、唇の色も、唇の形も、鼻の形も、鼻の高さも、声も、全て――緋真そのものだ。
「今日はね、恋次、教会の裏にお庭を作るって言ってたよ?」
「お庭?」
「うん。お野菜とか作るんだって。それと、ルキアの好きなお花も作ってくれるって! 恋次はいろんなことたくさん知っててすごいなあ」
「本当ね。すごいわね、恋次君は」
「でしょう? すごいでしょ、すごいんだよ恋次は!」
 えへへ、と自分が誉められたように笑う少女。屈託なく――幸せそうに、笑う。
「じゃあルキちゃんもお花を育てるお手伝いしなくちゃね」
「うん。お水、毎日あげるの。がんばるの」
 二人が歩く先、小高い丘の上に小さな教会が見える。夕暮れの中、二人は手を繋ぎながら丘に続く道を行く。
 檜佐木は歩を止め、その二人を見送った。
 教会。
 輝く紅い花弁が降り注ぐ。
 煌々と光り輝く花弁に包まれ、緋色の炎に包まれて緋真は空に還った。
 あの教会は既にない。燃え尽き緋真と共に灰となった。
 そしてあの少女は教会にいるという。 
 ――緋真さま……いや、違う。しかし――あまりにも、……
 生まれ変わりの筈がない。あの少女は5、6歳に見えた。それでは2年前に消えたあの人の生まれ変わりである筈がない。
 生まれ変わりである筈がない。――あれは緋真さまではない。違う少女だ。
 そう、それでも――
 檜佐木の目がすうと細くなる。
 望むのは白哉の幸せ。
 それ以外は問題ではない。
 例え誰が不幸になろうとも。
 
 




 調査は充分。
 準備も充分。
 かかる金に糸目はつけない。
 岩崎という男に相応以上の金と今後の地位とを約束し、抵当に入っている教会の土地を買える程の資金を用意し、架空の戸籍を作り、架空の過去を作り、涅に話を付け、涅の言うままに研究資金を上積みし――
 窓の外、寄り添うように座る子供二人を見下ろす。
 黒い髪の少女。これから始まる物語の主人公。
 そしてその隣――これだけの距離を離れていながら、見つめる檜佐木の視線に気付き睨みつけた紅い髪の少年。
 その焔のような視線から身を隠すために窓際から室内へと位置を変えた。
 少年――そう言っていいのだろうか。遠くからでさえわかる、あの焔――あれが唯の少年であるはずがない。
 だが――少年は少年だ。
 この先はわからない。けれど今現在、計画を阻めるほどの力はない。そして今この計画を阻むことが出来なければ、少年にとって全ては手遅れだ。
 檜佐木は笑う。
 その笑みは自嘲的――自らを、嘲り笑う。
 罪など恐れない。
 罰など怖くない。
 望むものは主の幸せ。
 他の誰が不幸になろうとも。
 赦しなど要らない。
 安らぎなど要らない。
 主が幸せであれば、それでいい。


「呼び寄せて悪かったね。シスターとの話が長くなりそうだったから君たちを呼んだのだが」



 悲劇か、奇跡か。
 過去と現在と未来、全てを巻き込んだ幕が上がる。

 




 






























 いつものように二度ノック。返事を待たずに入室する。
 白哉は視線をモニターに固定している。細い指がまるでピアノの鍵盤を叩くように優雅にキーボードの上を動いている。
「――白哉さま」
 呼び掛けると、白哉の視線がちらりと檜佐木の上に動き――次いで、白哉の動きが止まった。
 目を見開き、立ち上がる。
「――お帰りに、なられました」
 白哉は――壊れてしまった。その心が。精神が。あの日から――2年前の、あの瞬間から。
 白哉には、ことの整合性が攫めない。
「お戻りに――なられました」
 生まれ変わりには年が合わない。まして生まれ変わりなど在り得ない。
 そんな当然のことすら、――もう白哉の中で認識できない。
 この少女を目の前にしてしまったのだから。
 白哉は机を離れ、真直ぐに少女に近付く――空気を乱し、少女が消えてしまうのを恐れるように静かに歩みを進め。
「ひ、さ――な」
 震える声で白哉は言う――およそ2年振りに聞く白哉の声。
「緋真――緋真!」
 強く抱きしめる――緋真、と何度も繰り返す。まるで縋るように強く抱きしめるその白哉の腕の力にも、少女は何の反応も示さない。
 虚ろな瞳で宙を見据えている。
 手には天鵞絨の赤いリボン。何をしても、記憶を失ってもそれだけは、決して少女は手放そうとはしなかった。
「――緋真?」
 何の反応も返さない少女に、心配げに問い掛ける白哉に、檜佐木は静かに微笑んで見せた。
「緋真さまは今お帰りになられたばかりで――記憶がお戻りになっておりません」
「記憶? 緋真の?」
「ですからどうか、白哉さまが、緋真さまに――全てを思い出せるよう、助けて差し上げて欲しいのです」 
 過去も、記憶も、言葉も、何もかも――檜佐木は少女から奪い去った。少女はまるで人形だ。何も話せない。一人で動くことも出来ない。何も考えることが出来ない。
 それを、白哉が一から構築する。――過去も、記憶も、言葉も、立ち居振る舞いも、思想も、思考も、愛情も。
 緋真そのままに。
 緋真として。
「ただ、私からいくつかお願いが」
「願い?」
「はい。――緋真さまの名で呼べば、要らぬことを嗅ぎつける輩がいるとも限りません。ですので、名は別の名で――そうですね、『ルキア』さまとお呼びください」
『名前は重要なものなのだヨ。あんたが想像する以上にネ』
 楽しげに少女の記憶を消しながら――涅は機嫌よく檜佐木にそう忠告した。
「固有名詞はその個体のアイデンティティに関わるんだヨ。それを否定すれば自我が崩壊する。この先この娘を人として動かしたいなら、名前はこの娘固有の名前で呼んだ方が得策だヨ。まあ、自我の必要が無いなら何と呼ぼうが関係ないけどネ。性処理用の人形で構わないなら緋真と付けても構わないと思うがネ」
 私が助言できるのはまあそれだけだヨ。後は好きにするといいヨ。――メンテナンスも請け負うヨ。充分な金をもらったからネ。その程度はサービスするヨ。
 そう笑いながら、涅は少女の全てを綺麗に消去した。
「ルキア、か。光――ルキア」
 そう、緋真は自分にとって光だった。暗闇を照らしてくれた優しい光。闇から導き救ってくれた眩しい光。
「そして、ルキアさまは今しばらくは白哉さまの御妹君と――異母兄妹であると、周囲にお伝えいただければ。その戸籍も用意しております」
「何故だ?」
「はい。――再び、良からぬことを考える者がいないように。血の繋がった妹君さまであれば警護も充分に出来ます上に、よもや朽木の血を継ぐものに正面切って刃を向ける者はそうはいないと」
「――そうだな。もう二度と、緋真を失うことは出来ない」
「時が過ぎ、ルキアさまが年頃になられ――その時に全てをお話ししてはいかがかと」
 全て。――ルキアが緋真であるという捻じ曲げた真実を。
 ルキアが受け入れなければ――受け入れるようにするまでだ。今と同じように。
「今後暫くの仕事は、私が変わって務めさせていただきます。白哉さまはどうか存分にルキアさまとお過ごしください――ルキアさまに、全てを教えて差し上げて下さい」
 携帯電話を懐から出し、白哉を屋敷に帰すための車を部下に用意させる。そして白哉に向き直ると、白哉が真正面から檜佐木を見ていた。
「檜佐木」
 感情を、心を失っていた白哉はもういない。
 穏やかに微笑む白哉がそこにいた。
「――感謝する」
「……私は白哉さまの為に存在しております」
 その為ならば、何を犠牲にしても構わないのだ。
「どうか――どうか、白哉さまがお幸せでありますよう」











 緋真は自身に起きた辛い出来事、その衝撃に全ての記憶が消えてしまった。それとも記憶の消失は、生まれ変わる為の通過儀礼なのか。
 何にしても、あの苦しみや辛さ――生命を落とすあの瞬間の苦しみは思い出さなくて構わない。
 ただ、自分がどれだけ緋真を愛しているか、どれだけ緋真が自分を愛していたか――それさえ伝わればそれで構わない。
 緋真を「ルキア」と呼ぶことも、抵抗なく出来る。今はルキアでも、緋真はいつか必ず自身で自身の本当の名を思い出すことが出来るだろう。私を受け入れてくれるその時に。
 白哉は優しく優しく緋真を育てる。言葉すら思い出せない緋真に、白哉は丁寧に言葉を教えた。言葉だけではなく感情を、愛情を、世界を、何もかもを根気良く、丁寧に。
 今より過去の記憶が無いのは、「ルキア」があの日、ホテルの襲撃時にその場にいたことにした。その場にいたルキアの実母と共に阿散井の手の者に襲われ、九死に一生を得た、と。
 話すことも自ら動くことも出来ない緋真を、白哉は自らの手で世話をする。誰の手も触れさせない。朝になれば緋真を起こし、着替えさせ、白哉の手で食事をさせ、髪を梳り、話かけ、言葉を教え、花の名前、色の名前、空の色、風の匂い、木々の音、ありとあらゆるものを優しく教える。そして日が落ちれば共に風呂へ入り、その身体を丁寧に洗い、髪を洗い、ベッドに入り、共に眠る。
「――緋真」
 夜着に着替えさせる為に服のボタンを外す。緋真は感情がまだ戻っていない為に全くの無抵抗だ。ぼんやりと立ち尽くす緋真の服を白哉は丁寧に脱がせ、緋真の背中の無数の傷に口付ける。
 夜毎の行為――白哉が欠かすことのない、それは儀式。
 背中の傷、それは緋真である証。
 背中を散弾銃で撃たれた緋真。その時の傷がこの傷なのだ。何よりも緋真である証。白哉の緋真である証。
「大丈夫だ。今度こそ私が護る――どんな事からも、お前を」
 傷の一つ一つに口付ける。まるで羽のように優しく、丁寧に――そして小さな緋真を抱きしめる。
「ずっとそばにいる。――だから、ずっとそばにいてくれ。緋真……」
 愛している。愛している。お前だけをずっと、心から。
 囁き抱きしめ、髪を撫でる白哉の腕の中で、宙を見つめる少女の口が微かに動いた。

 ――れ、ん……じ

 その声は声にならず、少女を胸に抱く白哉はその言葉に気付かない。
「愛している―――愛している。お前だけを、あの日からずっと―――死さえ二人を別てない。永遠にそばにいる―――おまえのそばに。愛している、愛している―――お前を、お前だけを永遠に―――」
 熱く激しく狂おしく―――緋真の身体を抱きしめ、幾星霜の想いを込めて―――白哉は囁く。


「愛している―――緋真」


 


 それは幸福な――狂気。




 





第W章 「白哉」 終