本館最上階にある一際重厚な扉が従者の手によって開かれる。
その先に広がるのは、白哉でさえあまり目にした事のない空間だ。幼い頃から白哉は両親の居住しているこの本館に足を踏み入れることはなかった。家族が顔を合わせることなど滅多にないその朽木家の日常は、上流階級の中でさえ奇異なものだろう。けれどそれが幼い頃より繰り返されていれば、それが白哉にとって日常のこととなる。
その、過去に何度か目にした重々しい居間に――あまりにも広いその空間を居間と呼んでいいものならば――これも稀有なことに、壮年の男女がそれぞれ一人掛けのソファにゆったりと腰をかけ、部屋に入って来た白哉へと視線を向けた。
そこに親、家族という暖かみは一切感じられない。かといって冷たい視線という訳でもなく、そこにあるのはただ「冷静な」「冷徹な」といった単語だろう。「朽木」という名がまずそこにあり、その名が何よりもまず優先される。それを当然と思う二人の目。
恐らく以前の白哉も同じ目をしていた事だろう。緋真と出逢う前の白哉ならば。けれど白哉は緋真に出会い、既に以前の白哉ではない。
挑むでもなく気負うでもなく、淡々と白哉は部屋に足を踏み入れる。両親に相対する位置に置かれたソファに無言で腰かけ、真正面から両親を見据えた。
呼ばれた理由ならばわかっている。
それに続く言葉も知っている。
故に白哉からは何も口にしない。ただ無表情にどちらかの――恐らく父の言葉を待った。
「――昨日、玖珂の娘から暁子に連絡があってな」
予想通り、父が発した言葉に白哉は表情を変えずに父親に視線を固定する。白哉の視界の中で、父皓成は手にしたグラスの中身を僅かに喉の中へと流し込む。
葡萄色の液体は、ゆらゆらとグラスの中で揺れている。
容姿一つにしてみても、白哉は父皓成にも母暁子にも似ていない。どちらも確かに美しい容姿をしているが、それはあくまでも人としてのレベルでしかない。白哉のような、人としてのレベルを超越する程の美しさではなかった。
それでも間違いなく白哉は二人の血を分けた子供であり、暁子が産んだ子供だった。
――だが、暁子の白哉を見る瞳には、我が子を愛しむ感情というものは欠片も見えない。
「つまらんことを喚き立てたらしいが、まあそれはどうでも良い。――私が言いたい事は」
「お断りいたします」
皓成が何かを言う前に即答した白哉に、皓成は右の眉を上げた。再びグラスの中のワインが揺れる。
「何をだ?」
「玖珂の長女と結婚することを」
無表情な白哉が、百合子を示す言葉を発する時だけ僅かに怒りの色を滲ませた。ただそれすらも目の前の両親には把握できないだろう。それ程までに白哉とこの両親が共に過ごした時間は僅かでしかない。
「ではお前は一体如何したいと?」
ソファに深く腰掛けたまま、皓成は優位に立っていると信じて揺るがぬ態度のまま白哉に向かってそう問いかけた。暁子は何も言わず無表情に白哉を見詰めている。
「私は私が心に決めた相手と結婚したいと思っています」
「何を言い出すかと思えば」
呆れたように嘲笑し、皓成はワインを再び口に含んだ。
「何を青臭い事を言っている。まさかお前がそのようなことを言い出すとは夢にも思っていなかったぞ。一体如何したというのだ――お前らしくもない。そんな下賤の者のような、つまらぬ色恋などということを口にするつもりではないだろうな。一体何の酔狂だ」
「そう、私らしくはない。それはわかっております――今までの私が、人として欠陥品だったのだから」
父の挑発に乗ることもせず、白哉は淡々と皓成を見詰めた。その白哉の瞳を目にし、、皓成の目から嘲笑の色が消える。
「彼女に会って初めて、世界に鮮やかな色が在ることを知りました。灰色一色だった世界が、彼女という光で輝きを持った。――私が望むのは既に彼女一人しかなく、他には何も要らないとさえ思っています」
その白哉の言葉を聞いて初めて暁子の顔に表情が浮かんだ。それは驚きではなく――激しい怒りの表情だった。
「朽木の名前さえいらないというの」
「必要ありません。彼女が手に入らないというのなら」
「では、朽木は――この家はどうなるのです」
「さあ。――私以外にも子は在るのでしょう。その中から選ばれたらどうですか」
皓成と暁子の間に出来た子は白哉一人だったが、皓成は外の何人か女と子供を作っているのは公然の秘密だった。白哉より年長の子供はいないが、白哉のすぐ下、そしてまだ五歳に満たない子供もいる筈だ。朽木を継ぐと言うだけならば、その後継者の数に全く問題はないだろう。
「白哉さん、あなたは――!」
激昂し、思わず立ち上がろうとする暁子を手で制し、皓成は手にしていたグラスをテーブルに置いた。言い聞かせるように白哉を見る。
「確かに子供は他に在るが、どれも朽木の名前を継ぐに相応しい器は持っていない。いや、どれだけ時代を遡ってもお前以上に朽木の名に相応しい者はいないだろう」
その言葉に興味を持つことなく、白哉は僅かに視線を逸らせる。相手の話がくだらないと暗に伝えるその仕草に、皓成は咎めることなく言葉を続ける。
「何もその女との結婚に固執することはないだろう。その女はお前の傍女として置けばいい。子も作ればいいだろう。生活もその女との屋敷ですればいい。朽木の名を継ぎ、好きな女と暮らし、好きな女と子を為し――それがお前の望む物だろう。そうすればいい、ただし――」
何の感慨も見せない白哉を気にせずに皓成は続ける――恐らくは、自分の過去、自分の経験したことをそのままに。
「対外的には妻はそれなりの身分がなくてはならん。子供も第一子は正妻との間になくては後々の禍根となる。玖珂の娘と結婚し、子供を作れ。そうすれば後は何をしてもお前の自由だ、その女と共に過ごすも子を幾人も作るも。玖珂の娘は放置しても構わん。正妻とすること、男子を一人作ること、それさえ果たせば用は済む」
暁子の顔が能面のように白くなった。皓成が語る言葉、それはつまり皓成が実際にしてきたことなのだろう。親の言うまま暁子を娶り、暁子との間に男子を設け――そして以降は暁子を顧みることなく、その時々の自分の好みに合った女を寵愛し、家には帰らず、方々に女を、子を作り――
故に暁子は「朽木皓成の正妻」というその立場に固執した。「朽木白哉の母」という立場に執着した。それはつまり「次期当主の母」という立場であり、もし白哉が朽木の名を棄て、皓成が外に作った子供が朽木の名を継ぐ事になったとしたら――その後継者の母の力が増し、「次期当主の母」という今後も継続する力を失うことになる。それは自尊心の高い暁子が決して許せる事ではなかっただろう。
「私は彼女以外を妻と呼ぶ気もないし、彼女以外と子を為す行為はしたくない。彼女を哀しませるようなことはしない」
「ではつまりお前は、その女と結婚出来ぬならこの家を出ると」
無言で頷く白哉に、初めて皓成は忌々しげに眼を細めた。「下らぬ」と吐き捨てる。
「全く――下らぬ」
皓成のその呟きに、暁子は机の上の電話の受話器を取り上げた。短く「入りなさい」と受話器の向こうに命じ、返事をきかずに受話器を置く。と、間を置かずに部屋の扉が開かれた。
その恭しく頭を下げる男を白哉は知っている。相馬――皓成のいつも傍らにいる、皓成の命に従うことだけを義務付けられた部下という名の奴隷。それは決して白哉と檜佐木の関係とは違う主従関係。
そして、その男に背後から口を塞がれ、怯えたように目を見開いている少女を白哉は知っている。
「これが久儀緋真か」
問いかける皓成に無言で丁重に頭を下げ、相馬は引き摺るように少女を皓成の前へと突き出した。少女は逃れようと抵抗したが、相馬の力に適う筈もなく、あっさりと皓成の前――白哉が手の届かない場所へと引き出された。
上から押さえつけられ、少女は毛足の長い絨毯の上に膝を付く。相馬は自分が引き連れる少女をまるで動物のように扱った。
「凡庸な、取るに足らない小娘ではないか。こんな女の何処にお前が全てを棄てる程魅かれる要素があるのか皆目見当がつかん」
床へと膝を付き、服従の姿勢を取らされた少女は、怯えたように目の前の皓成を見た。そして横の暁子の冷たい視線に怯み、救いを求めるように白哉を見る。
その少女に蔑みの視線を一度向け、皓成は白哉へ向き直った。白哉の顔に表情はない。
「今私がここで相馬に命じれば、この小娘は一瞬で命を落とす。私の望む答え以外をお前が言えば、私はそれを命じるのに全く躊躇はしない。むしろ、望む答えをお前が言ったとしても、小娘の命を此処で絶った方が後々の為、お前の為、朽木の為だとも思っている。――が、今一度私はお前に聴こう」
暁子が汚物を見るような氷のような目で少女を見下ろしている。三人の「朽木」の視線を浴び、少女は真中で竦み上がっている。カタカタと震えるその少女を見ながら、皓成はゆっくりと白哉に問いかけた。
「――玖珂の娘を妻に娶るか?」
少女の目が一杯に見開かれる。必死で白哉に向かい何かを訴えている様子を目にし、白哉は―― 一度、目を閉じた。
「――それがあなたの遣り方か」
「そうだ。これが私のやり方だ。――お前も知っているだろう」
「そう――知っていた。だから私は話し合うつもりなど最初からなかった。こうなることはわかっていた。ただ――」
目の前で自分を見上げる少女を見下ろし、静かに白哉は言った。
「――緋真がそう願った。緋真が私とあなたたちが決裂するのを哀しんだから、私はこうして私の本心を伝え、緋真との結婚を認めてもらおうとした。けれどやはり予想通り、あなたたちはこうして彼女の命を盾にする」
ようやく――皓成に、暁子に、白哉の怒りが伝わった。それは彼らにとって初めて目にする我が子の、圧倒的なまでの怒りだった。感情も持っていないのではないかと囁かれていた実の子の、初めて見る明らかな感情の色だった。それは激烈な――赤よりも激しい白い焔。
「だから私は躊躇しない。私は――あなたたちを切り捨てる」
踵を返し出口へと向かう白哉に、相馬は戸惑ったように皓成を見た。抑え付けた少女が必死になって暴れている。その物音に振り向くことなく、白哉は「その少女は」と相馬に向かって冷たく言い捨てた。
「何の関係もない少女だ。言っておくが秋津川家の三女のようだから、お前がそのように扱える家柄の者ではないぞ。……あなたたちから秋津川に謝罪を入れておいた方がいいのではないですか――息子としての最後の忠告です」
背中を向けたまま、冷たく白哉は告げる。
つい先刻までは両親だったその存在に向かって。
「私はあなたたちを排除する」
「――白哉さま!」
駆け寄る緋真に向ける白哉の表情に、両親と対峙していた時の冷たさはない。穏やかに微笑みながら緋真を抱きしめ、その後ろに控えていた檜佐木に無言で頷く。
そこは白哉が極秘裏に購入した、N県の山中にある屋敷だった。
売りに出されていた別荘を、朽木の名を出さず、檜佐木の名も出さずに夏の頃に手に入れた。決して朽木の痕跡を残さないよう、慎重に購入されたこの屋敷は、必ず来るであろう今日という日の為に白哉が以前から用意していたものだ。
五日前――緋真が百合子に襲われたその翌日、高熱だった緋真の容体がやや安定してから白哉は檜佐木を護衛に緋真をこの屋敷へと運び込んでいた。誰にも告げず、誰にも気付かれず――緋真の代わりとして、従者として勤める少女の中で一番身分の高い秋津川家の娘を傍に置き、普段と変わらぬ生活を送り続けたのは、全て両親が仕掛けてくるであろう未来に向かって敷いた布陣だった。
そして白哉の読み通りに、両親は既に安全な場所へと匿われた本当の緋真と取り違え、白哉が傍に置いていた秋津川の娘を拉致し、玖珂百合子との婚姻を認めさせようとした。最も白哉が激怒する方法――緋真の命を盾にするその方法で。
秋津川家は暁子が朽木家に嫁ぐ前の玖珂家と肩を並べる名家故に、皓成も暁子も粗雑な扱いは出来ないだろう。秋津川の娘を緋真の身代わりにしたのは、両親が口封じで闇に葬ることのないよう、白哉が配慮したものだった。
自分の身代わりとして、他の誰かが死んだと緋真が知れば哀しむ事は目に見えている。そして緋真は決して白哉を責めずに己自身を責めるのだ。そんな緋真を知っているから、白哉は自分が家を出た後のことも考え準備をしていた。
「――白哉さま」
名を呼ばれただけで檜佐木が何を問うているかは解る。微かに首を横に振ると、檜佐木は無言で頷いてすうと音もなく部屋から出て行った。緋真が気付かない程、音と気配を消し退出した檜佐木には目を向けることなく、白哉は4日振りとなる緋真を抱きしめた。何も口にはしなかったが緋真も不安だったのだろう、白哉の背中へ腕を回し縋るように抱きしめ返す緋真を、安心させる様に白哉は唇を重ねる。
「びゃくや……さま」
日の光の中でかわすには深すぎる口付けに、緋真の声が困ったように小さく震える。今度は軽くついばむようなキスをして、白哉は緋真をもう一度抱きしめた。
声すら聞くことのできない4日間――何と辛い苦行だったことか。
「身体の調子は。何処か苦しい所はないか。熱は下がったのか」
「はい。もう何処も異常は在りません。こちらに来てすぐ、普段通りに」
玖珂百合子に拉致され、僅かとはいえ体内に薬物を注射された緋真は、極度の緊張も作用し高熱を発していた。しかし今白哉が抱きしめる緋真の身体には、異常を感じる熱さはない。
「空気も綺麗で、静かで、とても素敵な所ですね」
「家から出せずに済まない。退屈をしていないか」
「毎日お掃除をしてます。楽しいです」
屈託なく笑う緋真を愛しげに白哉は眺める。この緋真の笑顔を護る為ならば何でもできるだろうと確信する。緋真が傍にいてくれるのならば。
ここの事は誰も知らない。所有者は檜佐木が細心の注意を持って設定した架空の人物で、その名前と白哉が繋がることは万が一にもあり得ない。食料の備蓄は多く、避暑とは無縁の今の時期に周囲の別荘に人影はない。こちらから外出して姿を人前に見せない限り、自分の居場所が皓成に知られることはない。
それでも白哉は長期に渡ってこの屋敷に隠れているつもりはなかった。
二週間も在れば充分だ。一月後には完全に「朽木」の全てを掌握する。
「朽木」の名に執着や未練はないが、この先緋真と幸福に暮らすためには「朽木」を――朽木皓成と暁子を今のまま放置するのはあまりにも危険すぎる。それならば「朽木」の力の全てを白哉が奪い、自らが頂点に立ち、皓成と暁子を弱体化させる。完膚なきまでに徹底的に現朽木勢力を攻撃し、全てを自分の足元に跪かせる――それが白哉の考えであり、そして白哉にはそれを実現させる充分な力と頭脳とがあった。
「そう時を置かず自由に外へ行けるようになる。もうしばらく待っていてくれ」
「……白哉さま」
白哉と両親の決裂、それに緋真は気付いたのだろう。そうでなければ白哉が一人で此処に戻る筈もない。
白哉は両親よりも自分を選んだ。
それは緋真にとって、あまりにも辛く居た堪れないことだった。自分の身分の低さはどうあっても白哉の両親に許されるものではない。それが解っていた為に自分はあくまで日陰の身でいいと思っていた。ただ傍にいられれば充分だった。婚約者である玖珂百合子には申し訳ないという気持ちは深くあったが、それ以上に強い気持ちとして、緋真は白哉の傍から離れるつもりはなかった。今まで何事にも遠慮深く、自我を通すことのなかった緋真の初めての「譲れないこと」――それが白哉の傍にいる、ということなのだ。
何もかもを手に入れられる筈がない。
白哉の傍にいること、白哉の両親が交際を認めてくれること、円満に全てが解決すること。
そんなことは夢のまた夢なのだ。全てが叶うことのない以上、緋真は白哉の傍にいること、白哉の願いを叶えること、それが自分の最優先事項であるとそう決めた。
「久し振りに緋真の淹れた紅茶が飲みたい」
「はい、白哉さま」
例えばこんな小さな白哉の願いさえ――叶えられる自分の現在を、緋真は幸福であると知っていた。
淹れた紅茶を書斎へと運ぶよう緋真に願い、白哉は二階奥に設えたその書斎へと足を運ぶ。
律動的なその足は、強い意思の表れだ。
木の扉を開くとそこには既に檜佐木が待機していた。先程白哉の名前を呼んだ際、首を横に振った白哉からこの後にすべきことを汲み、先に一人で準備していたのだ。
窓際に置かれたコの字型の大きな机の上に三台のパソコンがある。そのどれもに電源が入り、仄明るい光を発している。
「準備としましては、80%には達していると思われます。想定していた時間が足りずに100にならなかったのは残念ですが」
「その程度のハンディは向こうにくれてやる」
緋真に見せていた穏やかな表情は影を潜め、今白哉の顔に在るのは冷徹な「朽木」のその表情だ。情に流されることのない、機械のように冷たく無機質な瞳でモニターに視線を走らせる。
三つの画面に表示されている、刻々と変わる数々のデータを読み取り、白哉は無言でキーボードの上に白い指を走らせた。まるで鍵盤を叩くように優美な動きで三台のパソコンを操作し始める。
檜佐木は白哉の机から少し離れた場所に在る一回り小さい机の前で、同じようにパソコンを三台並べ、白哉と同じように流れるようにキーボードの上に指を走らせている。どちらも無言故に、部屋の中にはカタカタという打鍵の音が絶え間なく響いていた。
「失礼します」
控え目な声と共に静かに扉が開かれた。書斎にいると白哉が言ったことで、緋真は白哉が仕事をしていることを察していた為、モニターを眺める二人の集中を妨げることのないよう音と気配を出来る限り消し、白哉の一番好きな茶葉で淹れた紅茶をポットからカップへと注ぎ、机の上の邪魔にならない場所へそっと置く。
「ありがとう」
その時は優しく微笑んだ白哉に頭を下げ、緋真は檜佐木に同じように紅茶を置き、こちらも礼を言う檜佐木に頭を下げ静かに部屋を出て行った。
――恐らく二人は今、世界を掴もうとしている。
強力な力を持つ「朽木」を制圧すべく、たった二人で攻撃を仕掛けている。
自分を生み出した両親を切る為に、両親の全てを奪い取る為に白哉は今行動しているのだ。
そしてそれは、自分が原因で起きたこと。自分が白哉と出逢ったが為に導かれた未来。
謝ってすむのなら何度でも謝るだろう。でもそれは何の解決にもならない。緋真が謝って得るのは、自分は謝罪した、自分は罪の意識を持っている、そう周囲にアピールするだけの醜悪な自己満足だ。
だから緋真は謝ることをもうしない。
ただ、いつまでも白哉の傍にいることだけが、緋真が自身に課したたった一つの護るべきものなのだ。
警告音と共に幾度もパスワードを要求する画面を次々と奥へと進み、そして白哉は朽木の中枢の最深部へと辿り着く。
侵入したことを隠す必要もない。今この瞬間から、この中枢を掌握するのは白哉自身なのだから。
世界を手に入れる最後のパスワードをさしたる感慨もなく打ち込み、白哉は無表情に画面の推移を見詰めた。
データが送信されていく――白哉の元へと。それは朽木の力が皓成から白哉へと移っていく事に他ならない。
そして今これと同時に、朽木の系列会社の乗っ取りも始まっている。檜佐木が次々に送っている指示文書は、兼ねてより周到に皓成サイドから白哉サイドへと引き込んである者たちへと届いている筈だ。能力は在るにも関わらず、ただ名家の長男であるというだけの無能な男の下で使われている者、二番目に生まれたというだけで、遊ぶことにしか興味のない兄の補佐をするポジションに押し込められている才能ある次男。研究をいいように詐取され続けた男、力と能力とを持ちながら不遇な立場にある者を選定し条件を提示し、合図と共に一斉に蜂起し白哉の力となる者たち。
元々白哉には人を引き付けるものがある。天性の才能に加えそのカリスマ性。皓成という、ただ「朽木」を流されるままに受け継いだ男とは違う、皓成さえ「今までの歴史の中で一番朽木の名に相応しい」と言わせた白哉が「朽木」の全てを手に入れると決断すれば、世界は白哉の前に跪く。
このかつてない危機の報告を、未だ皓成は受け取ってはいないだろう。秋津川家への対応に苦り切り、白哉の態度に不機嫌に、まさか白哉がここまでするとは思ってはいずに、気に入りの女の所にでも出掛けただろうか。そして暁子は既に感情などという存在を忘れたその無表情で皓成を見送り、不愉快な現実を忘れる為に自分の夫や子供よりも愛しているであろう幾百幾千のビスクドールが飾られた自室へ閉じこもり、辛うじて自我を保っているのだろう。
朽木を完全に掌握するまで、白哉に忠誠を誓った者たちが状況を目隠ししている。こちら側に引き入れるべき人材の80%しか完全に引き込んではいないが、残りの20%もこの状況に気付き白哉へと膝を折るだろう。状況が隠されているとはいえ、何も気付かない無能者を白哉が自分サイドに引き入れるべき人材と選ぶことはない故に、彼らは間違いなく今のこの状況に気付き、有能であるが故に皓成と白哉のどちらに付く方が生き残れるかを正確に判断するだろう。
ふと気付けば、背後から差し込んでいた橙色の光が消え、藍色へと変わっている。
「どうだ、檜佐木」
「順調ですね。もうこちらからすることは何もないでしょう。あとは彼らが動いてくれます」
「こちらも終了だ。これで私以外にこのデータに入れない」
タイミング良く完了を告げる電子音が響き、白哉は立ち上がった。これで無粋な時間は終了し、後に残るのは緋真との有意義な時間ばかりだ。
「あちらもそろそろですかね」
時計に目をやりながら呟いた檜佐木に、白哉は視線を向ける。無言で問いかける白哉に、檜佐木はこの後の白哉を正確に予想しながら「緋真さんですよ」と笑顔を向ける。
「緋真?」
「こちらに来てから緋真さんが食事を作ってくださっているんですよ。いつも夕飯はこのくらいの時間ですから、そろそろ呼びに来るんじゃないでしょうか」
その言葉を待っていたかのように、遠慮がちに書斎の扉が叩かれる。どうぞ、という檜佐木の声の後、叩いたドアの音と同じ程、遠慮がちに緋真が室内に入って来た。
「お仕事中申し訳ございません」
「いえ、丁度終わった所ですから」
「ああ、よかった……こちらも支度が出来たのですが、ではすぐに召し上がり……白哉さま?」
緋真の前ではまず見せることのない不機嫌な表情を浮かべた白哉に、緋真は驚いて名前を呼びかける。その緋真の問い掛けにも返事をせずに部屋から出て行ってしまった白哉の背中を戸惑いながら見送る緋真の耳に、くくっと喉の奥の小さな声が聞こえた。それは既に何度か聞いている、外見からは想像できないが意外と笑い上戸であるらしい檜佐木の笑い声によく似ている。振り返る緋真の前に、堪え切れずに笑い出した檜佐木の姿があった。思い切り笑う檜佐木に、困惑しながら緋真は「あの」と問いかける。
「白哉さまは……どうして」
苦しげに腹部を抑えながら、檜佐木は何とか笑いを治めようと咳き込んでから「ああ、あれは」と緋真に向かい安心させる様に微笑んだ。
「あなたに怒っているのではありません。あれは私に怒っているんでしょうね。予想した通りです」
「檜佐木さんに? ……どうしてですか?」
紅茶を運んだ時には二人の間に険悪な雰囲気はなかった。澄み切った緊張感のようなものを感じてはいたが、それは仕事をしていた所為だろう。それならば何時、何故、と考え込む緋真に檜佐木は、
「妬いてるんですよ、白哉さまは」
「え?」
「自分でも口にした事のないあなたの手料理を、この4日間、主を差し置いて朝も昼も夜も食べていた私に対して、子供のように拗ねているんですよ、大人げなく本気で!」
何とか抑えていた笑いの発作もそこでまた再発し、檜佐木は再び口元を押さえて笑いだした。小刻みに震えている檜佐木を見、開かれたままの扉を見、緋真はぺこりと檜佐木に頭を下げる。
そして、大人げなく子供のように拗ねてしまった恋人を追い階下へと走って行った。
緋真がどう白哉を宥めたのか、その場にいなかった檜佐木には解らない。けれど二度目に食事の用意が出来たことを告げに来た緋真と共に階下に降りた時には、白哉は何事もなかったように平素と変わらない様子で緋真が整えたテーブルについていた。
再び襲われそうになる笑いの発作をどうにかやり過ごそうと、下を向き小さく咳払いをした檜佐木を白哉はじろりと睨んだが何も言わず、くるくると動く緋真の背中を目で追っている。
「あの、お口に合わないと思うのですけど……」
そう恐縮しながらテーブルの上に料理を並べて行く緋真に、檜佐木は「いえ、今まで頂いたどの料理も美味しかったですよ」と返事をして再び白哉にじろりと睨まれる。白哉が睨むことを承知の上でわざわざ口を挟んでいる檜佐木の性格も相当なものだろう。
緋真が作った料理は、確かに白哉が今まで口にした事がないものだった。
それは幼い頃から白哉が食べていたものとは明らかに違う――「白哉の為に作られた」料理だったということだ。
最高級の物をそれぞれの産地から取り寄せた食材を使っている訳ではない。下ごしらえに何人ものシェフが何時間もかけている訳ではない。前菜からデザートまで何皿もある訳でもない。ごく一般的な家庭と同じ風景、同じ夕食だった。緋真がひとつひとつ丁寧に作った暖かい「家庭料理」。
「――これを、緋真が?」
「あ、あのっ……本当に、お口に合わないと思うのですが……っ、ごめんなさい、私、凝ったものが作れなくて……」
緋真の言う「凝ったもの」というのは、恐らく普段白哉が口にしているような料理人が作る料理だろう。フランス料理のフルコース、料亭が出すもの、そんなものを一個人、しかもまだ十代の緋真に作れる筈はない。
だが、と檜佐木は思う。緋真は良家の子女だった。緋真と同じ立場、同じ年の少女たちは、今緋真が作った同じものを作ることは出来ないだろう。ごく普通の家庭で育っている少女たちでさえ、ここまで完璧に作れるかどうか疑わしい。
用意されている材料からバランス良く献立を考え、本も見ずに苦労もなく毎食別の食事を作っているのだ。しかも味付けも申し分ない。それは以前からずっと料理をしていた証だろう。白哉がこの家に来る前、二人きりの時に緋真にそう尋ねると、緋真は頷いて「子供の頃から家事が好きで、よくやっていました」と微かに表情を曇らせた微苦笑でそう答えた。
「友人からは、呆れられましたけど」
自分のことを自分でするということは、身分が低い者がすること――その常識がまかり通っている世界では、緋真のその「好き」は奇異にとられていたのだろう。もしくは一段劣った者と嘲られていたのかもしれない。あの学院ならば恐らくそう言われていただろう。良家の子女の通う学院は兎角プライドが高くそういった悪意に満ちている。
その緋真の見守る前で、白哉が箸を取った。根菜のたっぷりと入った味噌汁を口にする。
「美味しい」
自分を傷付けない為の言葉だろうと受け取る緋真の前で、白哉は箸を付ける。豆のサラダ、浅漬け、じゃが芋のコロッケ、セロリと蓮根のきんぴら――丁寧に作られた料理はどれも美味しく、心から暖まるものだった。自然、白哉の顔に笑顔が浮かぶ。
「これから私はずっとこの料理が食べられるのか。――食べ過ぎて太ってしまいそうだ」
心から白哉がそう言ってくれていると、ようやく緋真は信じることができ――嬉しさに頬を染め自分の席へと付いた。
「先に頂いて済まなかった」
自分を見守っていた緋真と檜佐木に謝罪し、三人での夕食が始まった。
白哉は言葉通り、檜佐木もこの数日と同じように、いつも以上に食が進んだ。交わす会話はどれも楽しく、時折檜佐木が白哉をからかっては白哉が冷静にやり返す。その二人を見て緋真は笑い、穏やかに優しく時は過ぎて行く。
用意された全ての食事を綺麗に食べ終え、食後のお茶を緋真は皆に淹れ、居間へと運ぶ。そこで檜佐木とすれ違った。
「檜佐木さん?」
「ああ、直ぐ戻りますから」
はい、と応えて居間へ向かう。ゆったりとくつろいでいる白哉の前にお茶を置くと、白哉は「ありがとう」と幸せそうに微笑んだ。
「向こうの家に戻っても、緋真は私の食事を作ってくれるか?」
「……白哉さまがお望みでしたら、喜んで」
驚きで一瞬言葉を詰まらせてから緋真はそう言った。
「そうか」
嬉しそうに白哉は言い、傍らに立っていた緋真の手を引き寄せる。思いがけなく引かれた手に小さく声を上げバランスを崩した緋真を自分の上に座らせ、白哉は赤くなった緋真を見ながら笑う。
「あの、この状態は人に見られたら恥ずかしいと思うのですが」
「そうか? 私は特に気にはしないが――誰も見ている者はいないのだし、緋真も気にすることはない」
「ひ、檜佐木さんが戻っていらっしゃると思います」
「ああ、檜佐木は気にしないから大丈夫だ」
精一杯の緋真の抵抗をあっさりと封じると、白哉は緋真の髪に指を絡ませてから愛しげに抱き寄せる。軽く触れるだけの肌から、緋真の速くなった鼓動が伝わって白哉はその純粋さに小さく微笑む。
「本当ならば――あのようなただ広いだけの家ではなくて、このような家で緋真と暮らしたい。従者などいなくていい。緋真だけそばにいてくれればいい」
そう口にした後、白哉はやや難しい顔をした。その端正な顔を間近に見ながら、緋真は「どうされました?」と首を傾げる。
「そうなると全て緋真がしなくてはならなくなるか。では、掃除をする者をその時だけ家に入れて」
「私、お掃除もお洗濯も大好きですよ? 特に苦じゃありません」
夢物語を語っていると緋真は思ったのだろう、くすくすと笑いながら白哉の言葉を受け取った。
「白哉さまのお仕事の間は家の中を掃除して、お天気のいい日はお布団を干してお洗濯をして」
「緋真が大変でないというのなら――」
本館を潰してそこに二人の家を建てさせるか、それとも初めて二人が出会ったあの場所に家を建てるか――あの場所ならば周囲は樹々で覆われて、煩わしい他人を見ることもなく二人きりで過ごせるか、と白哉は頭の中で何が一番良い方法かを考え始める。
緋真を妻に迎えた以上、緋真の身は自分と同じ――否、それ以上に危険なものとなるだろう。緋真を盾にとられれば、白哉はその相手の言うが儘に動くしか出来ない。それは既に両親も把握している。両親の力を奪い取った後は、適当な場所を見繕って隠居させるつもりでいたが、あの二人が白哉を思い通りに動かす事の出来る唯一の方法――それを知っている以上、あの二人は緋真に狙いを定めてくるだろう。緋真を人質に何かを迫れば白哉はあっさりとそれを受け入れることは間違いないと知っている故に。
だからあの屋敷を離れることは出来ない。あの屋敷以上にセキュリティが完備している場所は日本の上にはないだろう。
ならばあの場所に二人の家を建てればいい――そう当然のように考えている白哉を知らず、緋真は実現することはない話として楽しそうに夢を語っている。
「失礼いたします」
大きな箱を抱えて現れた檜佐木に声をかけられるまで気付かなかった緋真は、その声に驚いて身を起こした。慌てて白哉の上から降りようとするのを当の白哉に阻まれる。
「ああ、お気になさらず、緋真さま」
「ほら、檜佐木は気にしないというだろう」
私が気にします、と身を縮こませる緋真の声は聞こえない振りをして、白哉は檜佐木を見詰めた。両手で大きな箱を二つ持っている。一つはそう大した大きさではないが、もう一つの箱はかなりの大きさだ。その箱に緋真が入ったとしたら、外に出るのは頭ぐらいだろう。だが中に入っているのはそう重いものではないらしく、支える檜佐木の腕に力が入っているのは感じられない。
その箱をテーブルの上に置いて、檜佐木は楽しそうに蓋を開けた。
「さて、俺から二人へのプレゼントです」
一人称が「私」から「俺」に変わるのは、檜佐木が今、白哉の部下としてではなく友人としてここにいることを表している。そして檜佐木が大きな箱から取り出したのは、
「――!」
純白の、ドレス。
Aラインの、可愛らしさと上品さ、どちらも兼ね備えたウェディングドレスだった。シルクオーガンジーをベースにしたリバーレース、シルクタフタを使用した、肩を大きく出したすっきりとしたドレス。そして腰からはシルクオーガンジーを透かして下から繊細なレースが覗く。背中の腰の位置にはシルクオーガンジーのリボンが花のように可憐に見える。
声もない緋真に、檜佐木は「サイズはぴったりですよ、特技なんです」と以前白哉に言った同じ言葉を緋真にも言う。
「ここから少し歩いた所に、小さな教会があるんですよ。――「朽木白哉」が結婚するとなれば、恐らく色々と儀式ばった窮屈なものになってしまうでしょう。だからその前に、お二人だけの本当の結婚式を挙げたらいかがかと」
白哉さまのはこれですから、と小さな箱の方を机の上に乗せる。
「でも、あの、私が、そんな――白哉さまと結婚、だなんて」
呆然とする緋真に、檜佐木は呆れた視線を白哉に送る。
「まだプロポーズをしていないのですか」
「……、今夜しようとしていた所だ」
自分の中では初めから結婚の相手は緋真以外に考えられず、必ず結婚をすると決めていたし、緋真も一緒に暮らすことを同意していた上、今日の昼間には両親に向かいはっきりと緋真を妻にすると宣言していた白哉は、肝心の緋真にそれを伝えていなかったことにようやく気が付いた。
「……時々、信じられない事をしでかしますよね、あなた」
はあと大きく溜息を吐いてから、「私は本日は休ませていただきますので、あとはお二人でごゆっくりと」と丁重に頭を下げて部屋を出て行った。
緋真はまだ呆然と机の上のドレスを見ている。
緋真自身もずっと以前から白哉の傍に一生いようと決めていた。それでもそれは妻としてではなく、あくまでも表向きは従者として白哉の傍にいるということだった。正妻の立場など考えられず、またそれを求めてもいなかった。ただ白哉の傍にいられればそれでよかった。――それなのに。
白哉は膝の上に座らせ抱きしめたままの緋真の顔を覗きこむ。
「私と結婚してくれないか、緋真」
「白哉さま――でも、私」
「私の妻という立場は決して幸せな場所ではないかもしれない。煩わしいことも苛立つことも多いだろう。それでも私はお前に傍にいて欲しい」
「白哉さま……」
「いつもお前が幸せであるよう、いつもお前が笑っていられるよう、私はお前を全力で護ろう。だから私の傍に、いつまでも私の傍にいてくれないか」
真摯に――誓いを込めて白哉は言う。座っていたソファから緋真を抱きしめたまま立ち上がり、緋真を立たせ自らは緋真に跪く。
「私と結婚してくれ、緋真」
緋真の右手を取り、その指先に口付けて、白哉は緋真に請い願う――恋い願う。
「永遠にお前を愛している」
真直ぐに緋真を見る黒い瞳。吸い込まれそうなほど、夜空がそこに在るような、深く黒い瞳。その瞳に見上げられながら、緋真は一粒の涙を流した。
自分の身の程は知っている。決して朽木白哉の妻に相応しい身分ではないと知っている。
けれど――自分は名前を知らないままこの人を愛した。
朽木の名前は要らない。それは二人共に思っている。ただ相手がいればいいと――ただあなたさえいればいい、と。
あなたのそばにいたい。
あなたにそばにいて欲しい。
願うことはそれだけなのだ――権力も財産も富も名誉も力もいらない。必要なのはあなただけで、あなたさえ傍にいてくれたら他に何も要らない。あなたさえ傍にいてくれたらそれは、自分にとってただ一つの大切なものを手にしているという事だから。
「はい――白哉さま。私を白哉さまの妻にしてください」
涙の後を頬に残しながら緋真は微笑む。
「私も、永遠に白哉さまを愛しています」
それは一生共にいるという誓い。
永遠に傍にいるという誓い。
枕元の橙色の灯りがぼんやりと周囲を照らしている。その明るさは小さくても暖かさを伴った光だ。
その光の中、白哉はベッドの上に座る緋真を抱き寄せる。僅かに緊張した面持ちの緋真は、それでも従順に白哉の腕の中に収まった。
抱きしめた緋真の身体は小さく震えている。それは緋真も自分で解っているのだろう、白哉の胸に顔を埋めながら「ごめんなさい」と呟いた。
「嫌ではないんです。誤解しないでくださいね。ただ、……あの、どうしたらいいかわからなくて」
「どうしたらいい、とは?」
緋真の髪を撫でながら白哉は問う。外の風が樹々の葉を揺らす音も、厚い家の壁に遮断され部屋の中は二人の声以外に何の音も聞こえない。
「あ、の……私、……何も知らなくて、その、……私、何をしたら」
不安そうな、申し訳なさそうな、そんな緋真の言葉を聞いて白哉は嬉しさに小さく笑みを浮かべる。
緋真と上埜門の関係が何処までのものだったか、白哉には知る術はなかった。上埜門の身辺調査の結果は派手な女性関係を窺わせるものだったし、実際緋真を組み伏せている現場を目にもしたのだ。勿論、緋真が過去に上埜門との間に何かがあったとしても、白哉の緋真への気持ちは微塵も揺らぐことも変わることもないが、もし上埜門と関係を持っていたとしたら――そう考える都度、白哉の胸を熱い焔が身を焦がす。それが激しい嫉妬だということを白哉自身も自覚していた。
それが杞憂だったと知り、白哉は嬉しさに緋真を抱きしめる。
「緋真は何もしなくていい」
「……はい」
白哉の胸に埋めていた顔を上げ、緋真は素直に、白哉を信頼しきった目で見上げた。
その珊瑚色の唇に白哉は唇を重ねる。
小さく開いて迎い入れる緋真の唇を割って、白哉は舌を差し入れ緋真の舌を求め絡める。今までにない深い口付けに緋真の身体がびくっと震えた。無意識に離れようとする緋真の細い腕を右手で掴み、左手は腰に回し自分へと引き寄せる。
「……ん、……ん」
白哉が舌を絡める度、重ねた唇から小さく緋真の声が漏れる。緊張に強張った身体は徐々にその力が抜けて行き、緋真自身もぎこちなくながら白哉の舌に応じ始める。
口付けだけを長い時間、二人は交わし続けた。舌を絡め、離し、再び唇を重ね――熱い想いを伝えるように何度も何度も唇を重ねる。
白いブラウスのボタンを白哉が外す間も、白哉は仰向いた緋真に何度もキスをする。するりとブラウスが落ち、白いスリップの肩ひもを落とし、白哉が同じ白の下着のホックを外したことも緋真は気付いていないようだった。
完全に力が抜けてしまっている緋真に覆い被さるように深いキスをして、白哉はそのまま緋真をシーツの上へと横にした。与えられる本格的な口付けに、既に忘我にあった緋真の身体はうっすらと上気して白い肌がほんのりと色を帯びている。その美しさに感嘆し見下ろす白哉に、緋真はようやく自分の状態に気付き、小さな悲鳴を上げ両腕で胸を隠した。狼狽しながら白哉を見上げる。
「緋真?」
「あっ、……あまり見ないでください」
「それは無理だ」
こんなに綺麗なのに、と続く白哉の言葉に緋真の顔が真赤に染まった。慣れない緋真にはもう僅かな余裕もない。何をしたら、どうしたら、とうろたえる緋真が白哉には可愛くて仕方がない。
「でも、あの……恥ずかしいです」
「緋真にそんな事を考える余裕を与えている私が不甲斐無いのだな」
真顔で白哉にそう返され、緋真は「え?」と問い返した。その次の瞬間、身体に走った甘い感覚に悲鳴を上げる。
「えっ? やっ、あっ……何っ……」
白哉が緋真の胸の突起を口に含み、優しく舌で触れたその一瞬で、緋真はその意識から羞恥という感情を弾き飛ばされた。白哉が舌を動かす度、同時に反対の胸にやわらかく触れる白哉の手に、緋真は甘い声を漏らす。
「あ……あっ、びゃくや、さま……っ」
今まで体験したことのない感覚に怯えしがみつく緋真の髪を撫でながら、白哉は耳朶を軽く噛む。ん、と声を上げる緋真の額にキスをして、再び軽く唇を合わせ、しがみつく緋真の腕の力がゆるくなったのを見計らい優しく緋真の秘所に触れる。
初めて触れたその場所は、すでに充分な潤いを白哉の指に伝えていた。指を沈めれば抵抗なく奥へと導かれていくだろう。けれど白哉はそれをせず、軽く沿わせる様に指を何度か行き来させる。慎重に、丁寧に、繊細に触れる白哉の指は、緋真にこの先の行為の恐怖を感じさせることなく、ただ快感を緋真に伝えて行く。緋真の吐息は速く熱く、その白く細い身体も熱い。
やがて緋真自身も、自分が何を欲しているのか悟り始めた。下腹部がじんわりと暖かくなり、欠けたその部分にぴたりと収まる筈のものを待っている。
自分が女に生まれたのは、この為だと思った。
白哉に逢い、愛し、愛され、共に生きる為に生れて来た。
怯える必要はないのだ。恥ずかしいなどと感じる必要も。自分は全てをこの人に差し出す。自分の過去も現在も未来も、全てはこの人の為に存在する。自分の何もかもが、目の前の愛しい人の為に存在するのだ。心も身体も、生も死も、何もかも――全て。
「白哉さま……」
白哉の与える甘さに自分を見失わずに、緋真は白哉を見上げた。
目の前にいる愛しい人。
自分の全てを捧げるべき人。
自分に全てを捧げてくれた人。
「愛してます、愛してます白哉さま……本当に、心から、貴方を、貴方一人を、永遠に」
「私も愛している、緋真。心から、お前を、お前だけを、永遠に」
重なる唇――そして。
「……っ」
誰も迎い入れたことのないその場所が緋真に与える痛みは、あまりにも激しく――堪え切れずに零れた小さな悲鳴に動きを止めた白哉に、緋真は激しく首を横に振る。止めないでください、とかすれた声で懇願し、緋真は白哉の腕を強く掴む。
「私を愛してください、白哉さま」
苦痛をこらえた声で、微笑みながら見上げる緋真に一瞬白哉は苦しげな表情をし――再び緋真へと身体を深く沈めて行く。
ゆっくりと、せめて緋真の感じる痛みが最小限のものであるように――緋真の苦しさを和らげるように、唇を重ねて徐々に緋真の奥へと進んでいく。
挿入した瞬間以降、緋真は声を上げることはなかった。ただ目を閉じ、引き裂かれる身体の痛みに必死で耐えている。
どんなに愛しくても、どんなに傷付けたくなくても、男は女に痛みを与えてしまう。女がそれを受け入れる事が出来るのは、その痛みも何もかも全てを受け入れられる程男を愛している事に他ならない。
「白哉さま……」
名前を呼ぶ声が小さく儚い。自分が緋真に与えるのが苦痛だけだと、そんなことが許せる筈はない。
最後まで緋真の中に己を沈めて、白哉は緋真を抱きしめた。
「……愛している。緋真しかいらない……緋真さえいればいい。緋真が傍にいてくれたら、もう私に欲しいものはないんだ」
「私もです、白哉さま。白哉さまさえ居てくれたら、他には何も望みません……」
白い手で白哉の頬を撫で、緋真は静かに微笑んだ。そしてその両手を白哉の背中に回す。
自分の欠けた場所にぴたりと収まった、白哉の熱さが素直に嬉しいと思う。痛みもあるがそれ以上に幸福感が緋真を包む。幸せで幸せで、それはまるで夢のように。
やがて白哉が動き出す。緋真を傷付けないようにとその想いが感じられる動きに、緋真は全てを委ねて目を閉じる。
白哉を感じる。白哉の吐息も、自分と同じように速い鼓動も。重なった肌は熱く、しっとりと汗ばんでいる。同じように白哉も自分を感じてくれている事を確信し、緋真は微笑んだ。
白哉を信じ信頼し、全てを受け入れている緋真の身体は、やがて痛み以外のものを白哉から受け止め始めた。撫でられる髪、ついばむように触れる唇、頬を撫でる手、身体の線に沿って触れる手、胸を含む唇、愛撫する舌、秘裂の奥の、一番鋭敏な場所を優しく撫でる指。それらすべてに自分が感応していくのが解る。その歓びと歓喜を伝える為の声を、緋真はもう恥ずかしいとは思わなかった。愛しいという感情のままに白哉の全てを求め、愛しいと伝えられる白哉の感情のままに全てを曝け出した。白哉さま、白哉さまと何度も名前を呼び、愛していますと何度も告げた。そして緋真の腕は白哉の身体をかき抱く。まるで今この瞬間が全てのように、白哉の与える全てを余すところなく受け取るように、自分の何もかもを白哉に渡そうとするように。
このずっと先の未来まで、今この瞬間の自分を覚えてもらうかのように。
貴方さえいれば他に何も要らない。
神さま、他に何も望んだりは致しません。
私はこの方を、何よりも大切に想います。
貴方に逢えたのは必然。
目に見えない糸で定められた絆。
それは過去も現在も未来も揺ぎ無い、たったひとつの真実。
白哉に愛されながら、緋真の瞳は一瞬遠い世界を仰ぎ見る。
常人には決してみることの出来ない世界を、刹那の瞬間その目に焼き付け、緋真は瞼を閉じた。
自分の未来は全て、白哉のもの。
自分は白哉の為に存在したのだ。
そして白哉は自分の為に存在する。
余人の介入する余地などどこにもない、それは幸福すぎる楽園のような。
二人きりの世界、二人だけの世界。
「――愛しています、永遠に」
そう、それは永遠に。
時が続く限りいつまでも――――――――――――――――――――――
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