「――もう一度、言って御覧なさい」
怒気を孕んだその声に、かすみは心の内で嘲り笑った。
かすみはこの本家の百合子が大嫌いだった。百合子と同じ歳だった所為もあり、かすみは幼い頃から百合子の話し相手として玖珂本家に赴いていた。その幼い頃からずっと――かすみは百合子が大嫌いだった。
話し相手。そう言えば聞こえはいいが、要するにそれはただの従僕だ。
本家の百合子に分家のかすみは逆らえない。
かすみは我儘放題の百合子に何度も煮え湯を飲まされている。最近も、百合子が瑛黎に転入したいと言い出した我儘の所為で、秀瑛に通っていたかすみが先見として強引に瑛黎に転入させられたのだ。百合子が転入してきた暁には、百合子の便利な道具として動くことを命じられる筈だ。
「本当に名前の通り――かすみ草は百合の添え物にすぎないのよ。大輪の百合の前で霞む小さな花。――かすみと私の関係そのままだわ」
かすみが仄かな恋心を抱いていた上級生の前で、恐らくかすみの想いを知っていた故に、そう高らかに笑った百合子を――心底憎いとかすみは思った。
その時の報復が出来る喜びに震えながら、かすみは感情を表に出さないように注意しながら視線を床へと向ける。――百合子は決して同じ目線の高さで自分が百合子を見ることを許さない。
「何ですって――白哉様が、何?」
「はい。――学院はその話で持ちきりです。白哉様の笑顔を初めて見たと。その笑顔を向けられた少女は誰だろう、と」
百合子の顔が醜く歪んでいく――恐らく、百合子は白哉の笑顔を見たことがないのだろうとかすみは密かに嗤った。百合子が手にした珈琲カップが微かに震えている。それは衝撃よりも悔しさの所為だろう。
震える手を隠しながら、百合子は手にしたカップをソーサーへと戻した。
婚約者と非公式に認められている自分を差し置いて他の者をエスコートする白哉――しかも、白哉はその相手に笑顔を向けたという。
屈辱以外の何物でもなかった。
その怒りは白哉ではなく、名前も知らない相手の女へと向かう――烈しい怒りの矛先は、その少女へと向けられた。
「誰なの。その女は」
「さあ――ただ、檜佐木さまの遠縁の方だとか」
「檜佐木の?」
不快気に百合子の眉が跳ね上がる。檜佐木の一族もある程度の家柄ではあるが、朽木や玖珂などとは並ぶべくもない。まして檜佐木は白哉の従者ではないか。それの遠縁――そんな女に、何故。
「写真は?」
「え?」
「その女の写真も用意していないの、この愚図!」
苛立った感情は捌け口を求め、そしてこの部屋にはかすみしかいない。躊躇なく苛立ちをぶつけた百合子に怒りの表情を見られまいと、かすみは一層俯いた。
「何分、学園祭でのことですから――」
「携帯電話があるでしょうッ、それくらいも解らないのあんたは!?」
「……朽木家の御曹司にカメラを向けて、不興を買えばどうなるか皆よくわかっておりますし」
「写真を手に入れてくるのよ、今すぐに!」
かすみの言葉を聞く気もなくヒステリックに叫ぶ百合子の顔を見ないように深々と一礼し、かすみは百合子の自室を出る――その途中で既に百合子は受話器を取り上げていた。
指が覚えている番号を、腹立ち紛れに強く押す。
――電話は1コールですぐに繋がった。
『玖珂のお嬢様、お電話ありがとうございます』
自分よりも30以上も年上の男が、電話の向こうで深く頭を下げているのが如実に解る声音だった。
『私共に何か出来ることが?』
「檜佐木の家系を調べて。私と同じ年頃の女がいるかどうか、居るのならば写真も一緒に持って来なさい」
自分の子供と同じ年代の少女から居丈高に命じられることを相手がどう思っているのか、百合子は斟酌しない。自分は選ばれた人間であるという自負がある。身分も地位も金もない相手など、感情を持っていることすら思い浮かばない。それは百合子にとってただの道具でしかないのだから。
畏まりました、と恭しく答える男の言葉を最後まで聞かずに受話器を置いた。
行き場のない感情が、腹の中で渦を巻いている。自分に見せたことのない笑顔を、誰かに見せた白哉。あの白哉が微笑むなど――しかも、同じ年頃の少女に。
パーティに出席する度、白哉の周りには少女たちが群がった。それを快く思っているのかいないのか、表情を変えない白哉からは誰も読みとれない。邪険にすることもなければ喜ぶ様子もなく、言葉を口にすることも滅多になく、そしてその声を聞けるのは従妹の百合子だけだという事実は、百合子の虚栄心を大いに満たした。
どんな時でも百合子だけは特別だったのだ。白哉の従妹、そして白哉の母が百合子を白哉の妻にと望んでいる所為もあり、話しかければ一言二言ではあるが必ず白哉から返事はもらえた。例えそれが端的な、事務的なものであったとしても、それすらも貰えないほかの少女たちにしてみれば、百合子は羨望の的だったのだ。
百合子の父は、白哉の母の弟であり、玖珂家の長男だった。その実家の為に、白哉の母は百合子を白哉の妻にと望んでいる。現在の玖珂家の地位は、朽木に嫁入りした白哉の母の存在があってこそだ。その事実がなければ、玖珂家は他の家と肩を並べる程度だろう。朽木家には及ばなくても他の家から頭一つ抜き出ているのは、朽木家の現当主の妻の実家だというだけであることは、百合子でもわかっていた。
自分が白哉の妻にならなければ、この地位もなくなってしまう。皆が首を垂れる「玖珂百合子」ではなくなってしまう。他の者たちと同レベルに今更なるなどプライドが許さなかった。
如何しても、白哉の妻にならなければならない。何をしてでも。
白哉が笑みを向ける、名前も知らない女。
百合子は机の上のカップを壁へと投げ付けた。
翌日には、檜佐木の家系の調査結果とかすみの手に入れた女の画像が手元にあった。
どちらも百合子の気性の激しさを知っている所為だろう、出来得る限り早く仕事を終わらせたようだ。それについては何の感謝も労いの言葉もなく、百合子は当然とばかりにそれぞれから尊大にただ頷いて結果を受け取り机の上に無造作に放り投げる。
従者に珈琲を持たせてから、まずはかすみが手に入れた女の写真を取り出した。
携帯電話からプリントアウトしたのだろう、画像は良いとは言えない。それでも白哉と相手の顔は判別できる。
瑛黎の制服を着た白哉と、その奥に同じ瑛黎の制服を着た少女が映っている。白哉は微笑み相手の少女を見つめている。白哉を見上げる形のその少女は、やはり嬉しそうに微笑んでいた。
誰が見てもすぐにわかる――互いを愛するその視線。
その時初めて逢ったなど在り得ない。
深く、静かに、確かに、揺ぎ無く――相手を想うその瞳。
――白哉様!
声は呻き声となって、喰い縛った唇から漏れ落ちた。
誰、この女は。何故白哉様の前に居る。何故白哉様にこんな顔をさせている。その場所に居る筈は私、白哉様に微笑まれるべきは私、それなのにこの女は図々しく――!!
激怒した百合子は、その感情のままに写真を握りしめそうになり、その瞬間に何とか自分を押し止め、忌々しそうに写真を机の上に投げ捨てた。
実際に目にした今の方が、話を聞いた時の何倍も腹立たしい。
暫く気を落ち着かせるために、飲みたくもない珈琲を口にして衝動が収まるのを待つ。ようやく全てを引き裂きたいという欲求を静めて、もう一度百合子は写真を手にした。
「――?」
見覚えがある、と思った。
どこかで自分はこの女を見ている。大人しげな顔――整った顔。大輪の艶やかな花ではなく、清楚な小さい白い花。――踏み躙ってしまいたくなる、百合子の一番嫌いなタイプの女。
何処で見た?――秀瑛、ではない筈だ。ごく最近見たような気がする。こちらに来てから――そうだとすると、何回か出席したパーティに限られる。
あの会場に居たのだろうか?――記憶を辿るが、百合子と言葉を交わした相手にこの写真の女はいなかった。そうだとすると、言葉は交わしていない、つまりそう大した家柄の女ではないということか。それは「檜佐木の遠縁」という言葉と矛盾はない。あの場所に檜佐木の家から誰か出席していただろうか――?
苛立ちを抱えたまま、もうひとつの封筒を取り上げた。書類には目を通すことなく、同封されていた写真だけ取り出して机の上に広げる。どれも百合子と似た年代の少女たちだった。檜佐木の家系も整った顔立ちの者が多い。標準以上の顔立ちの少女たちの写真の中で、やはり白哉の横で微笑んでいたあの女の顔はなかった。
つまり、檜佐木の遠縁というのは嘘になる。
間違いなく、周囲の生徒たちに聞かせるためのカモフラージュだろう。白哉がエスコートしても違和感がないようにする為に。白哉と檜佐木は主従関係だが、彼らの結び付きの強さは周りの者すべてが知っている。檜佐木の遠縁であれば、白哉が好意的になるのは当然の流れだろう。それを見越しての、嘘。
ではこの女は一体誰だ?
睨むように見つめるその女は、やはり何処かで見た記憶がある。
檜佐木もこの女を知っているとなれば、白哉も共に参加したパーティか。白哉と檜佐木は常に共に居る。そうなると二週間前に出席した多々良家の婚約披露パーティだろうか。
多々良家の長男の婚約披露という性質上、確かに参加者は若い者が多かった。ほぼ全員、百合子と白哉と同じ年代だった筈だ。
あの中に。
もしかすると、あの時に。
白哉はこの写真の女と出逢ったのだろうか。そうして親しくなったというのか――?
ぐしゃりと紙の潰れる音がする。
もうこの女の顔は忘れない。完全に記憶した。この記憶を消去するために、この女を排除しなければならない。
そして――この紙と同じように捻り潰してやるのだ。
昨日と同じ番号に電話して、昨日と同じく1コールで出た男に、二週間前に行われた多々良家の長男の婚約披露パーティに出席した者のリストとその写真を手に入れるよう命じた。
今回も同じく、余計な詮索はしないまま男は恭しく承諾して電話を切った。――これで数日中にあの女の素性がわかるだろう。
勿論その間、無為に待ってるつもりはない。こういったことは時間が勝負だ。先に攻撃した方が有利になる。誰にも何も気づかれていない今の内に、出来るだけ有利に立っておきたい。
車を下に回すように告げると、百合子は立ち上がった。
その身分には相応しくなく、事前に来意も告げず突然現れた百合子に、侍従長の荻原はその完璧な作法で驚きを表すことはなかった。「いらっしゃいませ、百合子様」と頭を下げる。
「白哉様にご用でしょうか?」
「ええ、白哉様がお好きな紅茶が手に入ったの」
小さな箱と花束を軽く上げ、「いらっしゃるかしら」と微笑んだ。
「生憎、まだお帰りではございませんが……」
「でももう直ぐに帰ってくるでしょう。待たせてもらうわ」
返事を待たずに歩き出すと、荻原は何も言わずにもう一度礼をした。荻原は確かにこの屋敷を取り仕切っているが、百合子の勝手を咎める立場にはない。まして近い将来、白哉の妻――荻原の仕える立場になるかもしれない女性なのだ。
「白哉様の私室でお待ちするわ」
畏まりました、と荻原が先に立って歩き出す。白哉の私室と言っても、この棟全てが白哉の私室と言ってもいいが、本当にプライベートな空間は、3階のフロアになっている。
その3階の応接間に案内され、百合子は革のソファに腰を下ろした。
「白哉さまにご連絡いたします。少々お待ちください、すぐに戻ります」
慇懃に頭を下げ、荻原は部屋から出て行った。白哉自身に百合子への扱いを尋ねるのだろう。このまま待たせるか、丁重に帰宅願うか――恐らく後者になるだろう。
白哉がいないのは承知の上だった。その方が都合がよい――白哉の部屋を調べるには。
流石に本当にプライベートな、寝室や居間には白哉がいてもいなくても案内されることはないだろう。それでも応接間に一人になることは可能だ。そしてそうなれば、その奥の室内に僅かの間ならば滑り込むことが出来る。その部屋が何に使われているかは入ったことのない百合子にはわからないが、少なくともこの応接間よりは白哉のプライベートがわかるだろう。
それに、と百合子は小さな機械を手の中で握りしめる。
まさかこんな場所に盗聴機が仕掛けられるとも思わないだろう。
ここまで入れる者は限られている。他の場所では厳重なセキュリティも、懐に飛び込んでしまえば案外手薄なものだ。万一機会が見つかってしまったとしても、罪はこの屋敷の従者が被ってくれるだろう。まさか誰も百合子が設置したなど思うまい。
録音式の盗聴機は回収しなければならないというデメリットはあるが、盗聴した会話を飛ばすには電波が届く範囲内にいなければならない。朽木邸に滞在することを白哉に拒否されている以上――言葉では百合子を危険から遠ざけるためという気遣いの白哉の言葉は、今にしてみればただ百合子が邪魔だったに違いない――その方式の盗聴機は使用できない。
周囲の様子を探りながら、百合子は奥へ続く扉を開けた。そこは小さな部屋で、壁際に小さな机と小さめに活けられた花、その反対側の壁に姿見があった。恐らく私室から客人の待つ応接間に行く前のワンクッションの為に作られているのだろう。
小走りに扉の反対側にある同じような扉に手をかけ息を潜めて開くと、百合子でさえ驚くほどの広さの部屋があった。百合子が通された応接間よりもゆったりとしたその調度から察するに、白哉の居間になるのだろう。大きな革張りのソファが目を引いた。オーディオセット、曲線の多く使われたアールデコ調の机の上には花瓶に鮮やかな花が活けてある。
その机の下に機械を設置する。機械が小さいため、録音できる日数はせいぜい3日だろう。その間に白哉と檜佐木の間で何か決定的な会話が録音されればいい。今後白哉が如何するつもりか。自分との結婚はどう考えているのか。そして――万一の時の為に、何か白哉の弱みになるような話を。
その時、居間の奥の、扉の向こうで微かな音がした。陶器が触れ合うような僅かな音。
――誰かがいる?
百合子は慌てて最初に通された応接室へと戻った。背中を流れる冷汗は、自分がかなり危ない橋を渡ったと気付いた所為だ。
居間の奥となると、完全な白哉のプライベート、従者すら入れない場所の筈だ。以前、荻原だけが掃除の為に入れると聞いていた。あとは勿論、檜佐木。その2人しか入れない空間に誰かがいたということは、荻原が自分を案内した後に白哉に連絡を取るため下がった以上、檜佐木が居たという事になる。
檜佐木修兵――幼い頃から白哉のそばにいる男。白哉の右腕。SPとしての訓練も受けており、その能力は専任のSPの中でも群を抜いているという。射撃の腕も超一流、有事には普段のフェミニストは掻き消え、冷静沈着に――場合によっては非情になることを全く辞さない男。
その檜佐木に、自分が今したことを知られたとしたら――
流れる汗と共に震えだす百合子の前で扉が開いた。
息を止めた百合子の前に一礼して室に入って来たのは、ティーセットを乗せた銀の小さなカートを押した小柄な少女だった。
お仕着せの黒と白のメイド服に身を包んだ、年若い少女。
檜佐木ではなかった、と安堵で深く息を吐き、ソファに身を預けた百合子の前で、メイドは「失礼いたします」と頭を下げポットからカップに琥珀色の液体を注いだ。
やわらかで芳醇な香りは、珈琲ではなく紅茶なのだろう。その静かに注がれる音を聞きながら、百合子はふと疑問が湧き上がった。
檜佐木と荻原しか入れない部屋に、何故。
眉を潜め、紅茶を淹れるメイドの顔を椅子にかけたまま見上げた百合子の目が――驚愕に見開かれた。
写真の女。――白哉の前で恥ずかしそうに笑っていた、白哉が今まで見たことのない優しい笑顔で笑いかけていた――
あの、女。
檜佐木の遠縁と、白哉と檜佐木が嘘で護ったその相手。
その女が、今、百合子の前に居る。
「只今荻原が参ります。――もう少々お待ち下さいませ」
驚きに硬直する百合子の様子は、百合子と目が合わないように目を伏せていたメイドは気付かなかったようだ。静かに深々と頭を下げ、メイドは静かに部屋を出て行く。
奥の居間へ――白哉のプライベートな空間へ。
誰も入れない筈のその場所へ。
呼吸が速くなる。
呼吸が荒くなる。
唇を噛み締め、両手を握りしめ、わなわなと震えたその姿、その顔を映す鏡がこの部屋になかったことで、百合子のその表情を誰も見ることがなかったのは僥倖だったろう。
百合子のその顔、それは――嫉妬と屈辱と妬みと苛立ちと腹立ち、激怒と呼ぶにはまだ温い、全ての負の感情を込めた――憤怒の表情だった。
「お待たせいたしました、百合子様」
丁重に室内に入った荻原は、椅子に腰かけた百合子の様子に先程は感じなかった異常を感じ、そうと気付かれないように注視した。
その窺う荻原の視線に百合子は全く気付く余裕がなかった。たった今手にした事実と、それに伴い甦った怒りに気を取られ、恐らく目の前に荻原が居ることすら意識していない。
「……百合子様?」
重ねて問いかける荻原の声に、百合子ははっと顔を上げた。怒りに上気した顔の色はどす黒く、お世辞にも美しいとは言い難い。
未来に己の主の妻になるかもしれない少女に、荻原は「大変お待たせいたしました」と頭を垂れ、その引き歪んだ顔からさり気なく視線を反らした。
「あ――あ。荻原」
煮え滾るどろどろとした感情からようやく現実へと返ると、百合子は取り澄ましたように一つ咳をした。そのわざとらしさにも荻原は丁重に気付かない振りをする。
「白哉さまは? お帰りになられる?」
「生憎お仕事の方が忙しく――直ぐに戻れないそうでございます。百合子様のご訪問を大変喜ばれ、またお会いできないことを大変残念がっておられました」
一瞬、百合子の拳が握りしめられた。その力の強さに肌は白く色を失う。収めた筈の怒りの炎が再び勢いを増す。それを何とか深呼吸で鎮め、百合子はぎこちない笑みをその顔に浮かべた。
「まあ、残念だわ――白哉様も本当に残念だと思って下さるといいのだけど」
「勿論でございます。白哉様は“大変申し訳ない、私に代わり丁重に謝罪するように”と仰いました」
「――そう」
立ち上がった百合子の目の前の扉が開く。写真の女が頭を下げて立っていた。
何も知らなければ従者が高貴な自分にすべき当然の行為、追随――けれど目の前の女が白哉の寵愛を受けていると知った今では、その行為が百合子には何処の馬の骨とも知れない下賤な女に勝ち誇られた屈辱感を湧き立たせる。
「お前」
鋭く発せられた声に、メイドは「はい」と返事をし僅かに頭を上げた。それでも視線は合わせない。それは当然だ、メイド如きが玖珂家の長女と視線を合わせられる筈もない。
それとも、その瞳に浮かぶ勝ち誇ったその感情を自分に知られない為の行為か。
「下に行って私の車を呼んで来て頂戴」
本来ならばそれはこのメイドの仕事ではないだろう。白哉付きともなれば恐らくメイドの中でも必然的に位は高くなる。もっと下位のメイドの仕事だろうが、百合子はあえて目の前の女にそれを命じた。女も異を唱えることなく「畏まりました」と丁重に深々と一礼をして部屋から出て行く。
怒りを呼気と共に吐き出して、百合子は再びソファへと腰を下ろした。あの女と同じ空間に居ることなど侮辱以外の何物でもない。
それでも、怒りだけに感情が支配されている訳でもない。冷徹な部分はきちんと残り、百合子は荻原に視線を向けた。
「――今の子だけれど」
問い掛けに荻原は畏まって百合子に向きあう。自分よりも年配の男を目の前に直立させ、百合子はソファの背に身を預け下からゆっくりとねめ上げた。
「どんな子なの? ――何故白哉様の部屋から出てくるのかしら?」
「あの者は白哉様付きとして先日から働いております」
完璧な作法故にその感情は読みとることが出来ない荻原の声に、百合子の苛立ちは募る。
「身元はしっかりしているの? 白哉様に危険はなくて?」
「はい、身元調査はしております。元はそれなりの家の出なので礼儀作法もしっかりしております。1年程前までは百合子様と同じ秀瑛に通っていましたので」
「秀瑛に?」
「はい」
慇懃に荻原は頭を下げる。やはり何を考え何を感じているのかは分からない。
「――名前は?」
「久儀緋真、でございます」
覚えはなかった。つまりはその程度の家柄と言う事なのだろう。
図らずも相手の女の情報が手に入った。居場所と名前、これだけあれば後は調べるのは容易い。
「そう。――そう、ね。それならいいの。身元をきちんと調べているのなら――」
そう、きちんと調べて、禍の芽は摘み取らなければならない。雑草に相応しく、根こそぎ引き抜いて踏み潰さなければ。
「問題ないわ」
くっ、と咽喉を鳴らして百合子は笑う。荻原はやはり無言で頭を下げるだけだった。
久儀緋真という名前、そして一年前には秀瑛に在籍していたという事実。
この二つさえ判ればすぐに情報は手に入った。例の如く電話一本かけた翌日の午後には百合子の前に分厚い書類の束が届けられる。
その届けた男を前にして、百合子は椅子に深く腰掛け右手に珈琲カップを持ち、ゆっくりと調査書を読み進めていく。
久儀緋真、現在17歳。久儀家の長女。一人娘。性格は温和、やや気弱と言っていい程の大人しい性格。秀瑛学園に在籍時の成績は上位50位以内。
その平穏な生活が一変したのは、1年程前に久儀緋真の両親が自動車事故で同時に落命したことに起因する。
その後婚約者の上埜門弘次により、財産全てを奪われ――身一つとなって朽木家の住み込みとして働く事を余儀なくされた。
「久儀――? 知らないわ、そんな家」
「一応、朽木傘下の会社を経営しておりました。大して重要な仕事を任されていたようではないですが」
百合子の疑問に即座に補足したのは、百合子が日頃から便利に使っている興信所の所長だ。金払いの良い百合子には絶対服従という態度を取っている。
宮間と言うその男の名前を百合子は知らない。道具に名前は必要ないからだ。
「どちらにしても現在は只の小娘――地位も身分も財産もない」
その何もない筈の小娘に白哉が心を捕らわれている――その事実に百合子の感情は苛立ちへと針が振れる。
「――気に入らないわね」
その一言で、宮間は己が何をすべきなのか自覚する。恭しく頭を下げる宮間に、「準備が整ったら連絡なさい」と百合子は無造作に言い捨てた。その一言に、宮間が窺うように視線を向ける。
今まで百合子が同じ命を下した時――「気に入らないわ」と誰かを名指しにした時、それは即ち「この者を排除しなさい」という命に他ならない。そして宮間は何度となく百合子の気に障るもの――百合子より上位の成績を取り勝ち誇ったように笑った同級生、そうとは知らず百合子と同じドレスを着てパーティに出席してしまった少女、百合子よりも目立っていた下級生、百合子に挨拶をしなかった子息、百合子と白哉を釣り合わないと噂していた数人のグループ……悪意があってもなくても、故意でなくても過失でも、百合子の不興を買えば彼女らはそれへの報復は迅速に行った。宮間に一言、「気に入らないわ」と告げるだけで数日後には名指しされた誰もが百合子の視界に入らないようになった。勿論生命を取ることなどはしない。けれどそれに等しい程度の事を宮間は遂行していた。上流階級に属する彼らにとっては醜聞一つで生命を断たれたも同じ事になるのだ。単純に暴力で、または脅して、姦計にはめて、その時々で宮間は百合子の依頼を忠実に実行していた。
けれど一度として、その現場に百合子が居た事はない。百合子が今までした事は、自室で一言「気に入らないわ」と発するだけだ。
それが今回に限り連絡をしろという。
ああと宮間は納得した。
現在この「久儀緋真」は朽木家の従者として働いている。そして目の前の百合子は非公式ながら朽木白哉の婚約者であることは宮間も知っていた。
恐らく朽木白哉とこの「久儀緋真」の間に何かがあったか、何かがあると百合子は思っているのだろう。それが事実かどうかは宮間には関係がない。雇い主であるこの傲慢な少女の言うが儘に動くのが一番得策だ。
ちらりと机の上に置かれた「久儀緋真」の写真に視線を向ける。一年前、秀瑛での学園行事の際に撮ったらしい写真の中で、少女はやわらかく微笑んでいる。
目の前で苛々と唇を噛む同じ年の少女とは比べるべくもない、可憐な少女だ。
恐らく百合子は、この少女が苦しむ姿を実際に目にしたいのだろう。少女が泣き叫ぶ姿を目の前にして、笑いながら溜飲を下げたいのだろう。
悋気の激しい百合子にここまで憎まれたのだ、この少女の未来は酷いものになることは間違いない。
その感想は胸に押しとどめ、宮間は慇懃に頭を垂れる。
百合子の意に添わなければ自分が被害を受ける――それだけは何としても避けなければならないことだ。
「畏まりました、お嬢様」
「この女だけを屋敷の外へ出す事が出来るかしら?」
「そうですね――秀瑛に『久儀緋真』を姉のように慕っている下級生が居ますので、それを使おうかと思います」
この展開を予想して、百合子の部屋に来るまでに在る程度の算段は頭の中で組み立ててある。無言で先を急かす百合子の前で、宮間は自分の考えを述べて行く。その一言一言が、写真の少女の暗い未来を決定付ける事を知りながら。
「その少女はずっと『久儀緋真』の行方を捜しているようなので……朽木邸に居ると耳にすれば恐らく『久儀緋真』と接触しようとするでしょう」
「どう耳に入れるの」
「『久儀緋真』の元婚約者――上埜門家の次男ですね、その男が最近何処で知ったか『久儀緋真』が朽木邸で下女のような仕事をしているとそこかしこで吹聴してますので、そこから伝え聞くのが自然ではないかと」
朽木白哉が本当にこの『久儀緋真』に関わっているかは分からない。もしかしたら手を出しているかもしれない。女嫌いとして有名な朽木家の嫡男だが、全くその手の事に関心がない訳ではないだろう。そして欲求を満たすだけの相手ならば、手近に居るこの身寄りのない美しい少女は格好の相手だ。本気で心をかけている事はその立場上あり得ないだろうが、自分の所有物を他人が破壊するとすればそれなりに不愉快になるだろう。そして僅かな不興でも「朽木白哉」が抱いたとしたら、その先にあるのは破滅の道だ。故にこの「久儀緋真」襲撃に関して、決して百合子の影をちらつかせてはならない。百合子の姿を補足されれば、必然的に百合子お抱えである自分の事も露呈するからだ。
「上埜門が流しているこの話、百合子様のご友人が耳にしたということで――ご友人に頼めますでしょうか」
「ああ……構わないわ」
ふふふ、とようやく楽しそうに百合子は笑った。学院中にばら撒く噂、久儀緋真という一年前まで西の名門校、上流階級の子女が通う秀瑛に在籍していた少女が、今では朽木家の下働きとして住み込んでいる――元々ゴシップ好きな者たちが集まる学院だ、他人の不幸は何よりも甘い蜜としてあっという間に学院の誰もが知る事になるだろう。
そして恐らく、緋真を慕う下級生の耳にもその噂は入る。
調査書通りなら、確実にこの下級生は緋真に連絡を取るだろう。
「――この……『小幡香菜』? これがこちらに出てきたら連絡して頂戴」
「畏まりました」
宮間は再び頭を下げる。
この後手配しなければならない様々な事柄を頭の中で整理しながら部屋を辞す宮間の姿を、百合子は既に意識になく、頭の中で如何すれば緋真を一番苦しめることが出来るかという陰惨な考えに没頭していた。
お休みを頂きたいのですが、と緋真が白哉に尋ねるのは、緋真が白哉付きという立場上当然のことだった。白哉が屋敷内に居るときは常に白哉の身の回りの世話をするのが緋真の仕事だからだ。今では白哉の口にする紅茶は緋真が淹れたものと決まっている。そして紅茶を好む白哉にとってそれは重要な事柄だった。
「休み?」
勿論緋真が望むのならば休みなどいくらでも取って構わないが、自分に関係しない休みを欲しがるとは、と白哉の心はいささかざわめいた。その白哉の疑念に気付いた様子もなく、緋真は素直に「手紙がきたんです」とエプロンドレスのポケットから封書を取りだした。
「秀瑛の頃、私を慕ってくれた下級生で……その子が私に会いに、こちらに来るというのです」
来週の土曜日なのですがお休みを頂いてよろしいですか、と緋真は両手を組んで白哉を見る。意識はしていないだろう、その形が「おねだり」をしているように見えるなどと。けれどそのポーズは白哉に対して強力な力を発揮する。
「……構わないが」
「ありがとうございます!」
嬉しそうに笑顔を浮かべる緋真に、自分は緋真の自由を奪っているのだろうかとやや考え込んだ。それは今夜ゆっくり考えることとして、白哉は緋真に優しく微笑む。
「緋真を慕う下級生?」
「はい、小幡香菜さん。一つ下の子で、小等部の頃から私を慕ってくれて……」
照れたように緋真は俯く。
「ずっと私を探してくれていたようです。私、何も言わずにこちらへ来てしまいましたから……」
緋真の笑顔がほんの僅か、淋しげな色を帯びた。信じていた婚約者に裏切られ、両親と幼い頃からの思い出が詰まった自宅を奪われ、財産も詐取され、身体一つでこの朽木邸に来ざるを得なかった当時の不安や哀しさを思い出したのだろう。
「……白哉さま?」
抱き寄せられて緋真が慌てたように身を引こうとする。既に何度も口付けを交わしているというのに、緋真は未だに抱きしめられると顔を赤くして逃げようとする。いつまでもなれる事のないその緋真を、白哉は可愛らしさと若干のじれったさを感じている。
「昔の事は出来れば思い出して欲しくはないが――」
腕の中の綺麗な黒髪を撫でる。予想通りに顔を赤くした緋真の額に唇を落とし、「だが、久々に会う友人だ――ゆっくりしてくると良い」とそう告げた。
「は、はい、ありがとうございます!」
腕の力を緩めた途端に、緋真は白哉の腕の中からすり抜けた。耳まで赤い緋真は「あの、紅茶、淹れてまいります!」と言い訳のように呟いて白哉の前から逃げ出して行く。
その背中を見送る白哉の笑顔は、緋真が部屋から出て行った瞬間に消えた。直ぐに机の受話器を取り上げる。
「私だ。――小幡香菜、秀瑛の一学年に在籍している少女だ。すぐに調べてくれ」
それだけを告げて直ぐに受話器を置く。そして緋真がその上気した顔を落ち着かせて紅茶を乗せたワゴンを押して部屋に入った時、再び白哉の表情は穏やかなものに変わっている。
「今日の葉は?」
「はい、ニルギリです」
白く細い手で丁寧にカップへ注がれた琥珀色の紅茶を口に運びな、白哉は「美味しい」と緋真の上達ぶりを誉める。その言葉に緋真は嬉しそうに微笑んだ。
「特に問題はありませんね」
その日の夜、白哉の部屋へ訪れた檜佐木は白哉へ封筒を手渡した。緋真は既に自室へと戻り、広い部屋には白哉と檜佐木しかいない。
渡された封筒から書類を取り出し、すぐに白哉は目を通す。
「家柄も思想も問題ありません。確かに小等部の頃から緋真さんに――言葉は悪いですが懐いていたようですね。姉のように慕っていたとのことです」
すばやく読み進める小幡香菜の調査書に、特に不審な点は見当たらなかった。添えられた写真の少女は、高校生と言うよりも中学生と言った方が通りがいいようなあどけない容姿をしている。
「この少女は緋真が此処に居ると何故知った?」
白哉が一番気になったその点は、やはり檜佐木も一番気になったらしい。眉を潜め、檜佐木は「――あの男です」と嫌そうに告げた。
あの男、と固有名詞を出さなくても白哉にはすぐに解った。その顔に凍るような怒りの表情が浮かび上がる。
「先日の件があって以来、色々な場所で緋真さんの事を吹聴しているようですね。流石に白哉さまとの関係を口にしてはいませんが――」
それをすれば冗談ではなく生命の危機だと上埜門も解っているのだろう。そして緋真自身を貶める噂を流しているようだが、それとて利口なやり方とは言えない。
白哉の、緋真への想いの深さを知っているのならば。
「――相応の報いをくれてやれ」
「はい」
檜佐木は軽く頭を下げる。卑小な上埜門に相応しい一番の罰を瞬時に檜佐木は組み立てる。
「そちらはお任せ下さい」
頷き、白哉は書類を机の引き出しに仕舞った。緋真の友人を影で調べるという行為に罪悪感を覚え小さく溜息を吐く。
「仕方ありません。緋真さんの安全の為ですから」
慰めるように檜佐木は言う。それには苦笑で返し、白哉は指を組んだ。
「あと僅かだ」
「ええ、あと僅かです」
緋真を迎えるための算段――それがあと少しで終わる。事が為せば誰も緋真を迎える事に異を唱える事は出来なくなるだろう。あの両親でさえ。
まだ誰も白哉と緋真の関係を知らない。上埜門という例外はいるが、あの男にはそれを暴露する勇気はないだろう。それにあと数カ月経てば隠す必要もなくなる。上埜門はそれまで口を噤んでいれば十分だ。
まだ緋真は一介の使用人にすぎない。故に、緋真という個人にどれ程の価値があるのか誰も知らない。そう、緋真さえ手に入れれば、この強大な「朽木」全てが手に入るのだ。白哉は緋真の為ならば、全てを惜しげもなく差し出すのだから。
だが緋真はまだ一介の朽木家の使用人に過ぎず、その外出時に護衛を付けることは出来ない。そんな事をすれば逆に緋真の価値を宣伝する事になってしまう。本来ならば檜佐木を付けたいと思う白哉だったが、それをすると逆に緋真の身が危険になる。
「――大丈夫です、緋真さんと白哉さまの関係を知る者はありません」
安心させる様に檜佐木は言う。心配性な、と笑う事は出来ない。檜佐木も緋真の存在の重要さは身を持って知っている。
上埜門の出現で緋真に白哉の本当の名が知られた時、白哉の背負う朽木の名の大きさに自ら身を引いた緋真。そして緋真が居なくなった後の白哉の空虚さ。
白哉は緋真がいなければ、もう「白哉」でいる事が出来ない。
「護衛は付けられませんが、別の方法で緋真さんを護りますから」
頷く白哉に檜佐木は一礼する。
早く全ての準備を――緋真を気兼ねなく護れるようになる為の準備を檜佐木は整えるために、今夜はもうしばらく仕事をするつもりだった。
一年振りに見る妹のようなその少女は、記憶の中の少女よりもほんの少し大人になっていた。
けれども緋真を見た瞬間に、みるみるその大きな瞳に涙を浮かべて泣き出した姿は以前と変わりない。
「緋真さま、姉さま――香菜はどれだけ心配したか――如何して何も言わないで……」
待ち合わせのホテルのラウンジで泣き出した少女に、緋真は「ごめんなさい」と頭を下げた。心配をかけたのは解っていた故に目の前で泣かれると胸が痛む。
しばらく涙を流した後、香菜はようやく落ち着いたようだ。赤くなった目元を恥ずかしそうに擦りながら、「でも、お元気そうでよかったです」と微笑んだ。
「ああ、でも――お辛くはないですか。姉さまはそんな方ではないのに」
そんな方ではない、というのは従者として人に仕えるという立場ではない、という事だろう。それには困ったように緋真は笑って「辛くはないの……本当よ?」と首を傾げた。
「元々家事は好きだったし――以前から家の事はやっていたし。だからそう苦でもないの。皆さんとても優しい人ばかりだし」
「うちにいらしていただければいいのですけれど」
しょんぼりと項垂れる香菜に、緋真は「そんな、貴女が気に病む事ではないわ」と香菜の手に自分の手を重ねた。
縁も所縁もない少女、しかも引き取っても何の得にもならない赤の他人の面倒を見ようとする奇特な人間がいる筈ない事は解っている。香菜自身の緋真への思慕は疑ってはいないが、それだけで香菜の両親が緋真を引き取ることはあり得ないことは緋真にも解っている。
「本当に今私は幸せだから――気にしないで?」
そう微笑んだ緋真の笑顔が本物だった所為もあるのだろう、ようやく香菜は納得したようだった。
「幸せですか? 姉さま」
「ええ、とても」
くすぐったそうに微笑む緋真は、秀瑛に居た頃の緋真とはやはり違う。
どこが、と具体的に言えるには、香菜自身が恋愛という物に長けていなかった所為もあり、香菜はただ漠然と「変わった」と感じるだけだった。
それでも姉と慕う緋真が幸せならばそれ以上の喜びはない。
テーブルに置かれたオレンジジュースを口にしながら、香菜は久しぶりに緋真と言葉を交わせるこの先暫くの時間に、嬉しそうに微笑んだ。
話す事はたくさんある。
聞きたいこともたくさんある。
姉妹のように仲の良い二人は、時を忘れて語り合った。場所はラウンジから香菜の宿泊するホテルの部屋へと移り、心おきなく二人は存分に空白の一年を語り合う。
「――朽木白哉さまってどんな方ですか?」
一瞬ぎくりと固まった緋真には気付かずに、香菜は無邪気に前に座る緋真を見上げる。
「ほら、あまりあの方の話って聞かないでしょう? 勿論、あの方自身は有名ですけれど、あの方が言った言葉とか、何が好きとか何が嫌いとか、そういった事は何も聞かないから」
そういえば自分も最初の頃、相手が当の朽木白哉本人だとは気付かずに、同じ理由で「朽木白哉」はどんな人物か白哉に聞いたのだったと緋真は思いだして小さく笑った。あの時白哉は相当困っただろう。自分の噂話を自分でする羽目になったのだから。
「紅茶が好き、かしら」
「紅茶ですか?」
「ええ、紅茶。あとは――そうね、何が好きかしら。あの方が好きと仰っていたのは他に――」
――好きだよ、緋真。
――愛している。
耳元に囁かれる低い声。
その声を思い出して緋真は慌てて首を振った。
「姉さま?」
「あ、いえ、何でもないわ。後は――よく、解らないわ」
唐突に話を終えた緋真を、香菜は不思議には思わなかったようだ。元々白哉はあまり感情を表に出さないことで知られている。また、いかに良家の子女とはいえ、久儀家も小幡家も朽木に比べればまるでレベルが違う。例え同じパーティに列席したとしても、白哉に近付く事も出来なかっただろう。
「そうですよね。偉い人にはあまり近付かない方がいいと思いますし」
「え?」
「ほら、何か失敗しちゃったら……姉さま、ちょっと……あれだし」
「あれ? あれって?」
「いえ、気になさらないでください」
香菜の脳裏で、紅茶を注ぐティーポットを傾け過ぎて紅茶を溢して「きゃあっ、ごめんなさいっ!」と慌てふためく緋真の姿がリアルに思い起こされ、香菜は慌ててその予想を吹き飛ばした。
そんな香菜を、緋真は不思議そうに見ている。
自分も大概子供だが、目の前の年上の女性はどこか庇護欲をかきたてる存在だと、香菜は苦笑しながらストローに口を付けた。
名残惜しそうな香菜を置いて帰るのはやはり胸が痛んだが、時刻は夜の7時を回っている。8時までには帰ると白哉に伝えていたので、今でこそ既にぎりぎりの時間になっている。時間までに帰宅しなければ白哉が心配する事になるのは解っていたので、緋真はごめんね、と口にした。
「でもまた会えるわ。必ず」
「絶対ですよ? また会って下さいますか?」
「もちろんよ。私も香菜がまた会いに来てくれたら嬉しいわ」
いつまでも背中を見送る香菜に何度も振り返って手を振り、とうとうその姿が見えなくなってから、ようやく緋真は鞄の中の携帯電話を取りだした。たった一つしか登録していない番号をそっと押す。
暫くの呼び出し音の後、留守番電話の応答に切り替わった。白哉がこの時間まだ仕事をしているのは知っていたので、緋真は「緋真です。今から帰ります」とメッセージを残して通話を切る。
最近、以前に増して白哉の仕事量が多くなっているのが心配だ。たかが一使用人の緋真には何も口出しできないが、それでももう少し身体を休めてくれたらいいと思う。
自分にできることは紅茶を淹れる事しかない。それくらいしか役に立たない。だからせめてそのたったひとつの仕事は完璧にしたい。
――今度ちゃんとした教室に通ってみようかしら。
考え込みながら歩く緋真の隣に、音もなく黒のワンボックスカーが横付けになった。
大きな駅の近くのこの辺りには駐車場は少なく、路上に車を止める者は多く珍しい事ではない。緋真も特に意識はしないまま、心持ち視線を下げて考えに没頭していると、右腕が突然強く引っ張られた。
「――っ」
声を上げる暇もなかった。一瞬で口元を布で覆われ、声自体を封じられる。暴れる隙もなく緋真は真横に停められた車の中に引き摺りこまれた。只でさえ夜の色に染められた中、丁度街灯と街灯の間の明かりが一番届かない場所で、驚くほど素早く無駄なく拉致しえた男たちの所為で、恐らく少し離れた場所を歩いていた人々は異常があったことすら気付いていないだろう。
一言の声も立てずに男たちは全員車に乗り込み、すぐに車をスタートさせた。
「――っ、――っ!!」
必死で抵抗する緋真に覆い被さるように男が一人跨って、左手で口を塞ぎ、右手で緋真の両手を抑えつけている。ばたつかせた足はすぐに別の誰かによって抑え込まれた。
車内に抑え込まれている所為で、車の振動が直に身体中に伝わってくる。自由になる目だけを必死で動かして緋真は逃げ場を探した。けれど目に入るのはスーツを着た男たちばかりで、やはり一言も発しない。彼らのごく普通の勤め人に見えるその姿とこの行動のギャップが、緋真の恐怖を更に際立たせる。
力尽くで抑えつけられているこの状況は、上埜門に乱暴されそうになった時の恐怖を思い出させたが、周囲の男たちにはそういった空気はなく、ただ事務的に緋真を抑えつけている事に気付き、緋真はやや落ち着きを取り戻す。
自分に価値がないのは知っている。身寄りもなく財産もなく身分もなく、今では只の召使にすぎない。際立った資質もなく、誰かに意識を向けられることのない、平凡な、取るに足らない人間。自分は誰にとっても価値のない人間だと知っている。
ただ―― 一人を除いては。
白哉だけが何故かこんな詰まらない自分を大切にしてくれる。あの月のように美しい人が、何故か自分に好意を寄せてくれている。
自分の所為で、白哉さまが危険に晒されるのでは――自分の身の危険よりも先に緋真はその方向へ意識が向いた。
自分を盾に、白哉さまが何か酷い要求をされたなら。
車は尾行を恐れているのか、尾行がないか確認をしているのか、何度も頻繁に角を曲った。その度に男の体重が緋真にかかり、小さな緋真の身体にはその負荷が激しく、意識を失いそうになる。だがこんな異常な状況の中で意識を失うことほど無策な事はない。せめて何処に連れて行かれるのか、僅かに見える景色から、微かに聞こえる音から探るしか緋真に出来ることはない。
やがて車のスピードが落ち、静かに止まった。香菜と別れた駅前から、そう遠くはないようだった。乗車していた時間は30分ぐらいだろうか。それでも真直ぐにこの場所に来たのならば、かかった時間の半分程度で来られただろう。
口は抑えられたまま緋真は車外に引き摺り出された。どんな廃屋に連れ込まれるかと思っていた緋真の目に入ったのは、庭に木の多い、ごく普通の一軒家だった。洋風の、建売らしい何処にでもある一戸建て。二階建の家の部屋に灯りは殆ど点いておらず、一階だけに明かりが灯っている。
チャイムを鳴らすことなく運転していた男がドアを開けた。鍵もかかっていなかったらしくすんなりと扉は開く。連行されるように――事実連行され、緋真は廊下を奥へと進んだ。
硝子の填め込まれた扉を開ける。その先にはキッチンとダイニングがあった。フローリングの床を靴音を立てながら男たちは歩いていく。更に奥へと引き摺られ、もうひとつ扉を開けたその先に。
「お待たせいたしました、お嬢様」
初めて緋真は自分を抑えていた男の声を聞いた。やはり当たり前の、普通の壮年の男性の声。恐らく自分の父と同じ位の年の。
「遅い」
苛々と、癇癪持ちである事が解る声だった。人に命令しなれた声。緋真も何度か耳にした事のある声。
声を聞く前にわかっている。目の前の椅子に座る少女の顔。忘れることなど出来る筈もない。
白哉の婚約者――白哉自身は否定したが、そう世間で思われているたった一人の少女。
自分とは違う、地位も財産も揃った、白哉の隣に相応しい少女。
玖珂百合子。
深々と頭を下げる男にはもう目も向けず、百合子は緋真に視線を向けた。思わず緋真が息を呑むほど――烈しい憎しみの込められた視線。
「お前」
全ての負の感情が込められた声だった。怒り、妬み、嫉み――それらを噴き上がらせながら、百合子は緋真を睨みつける。
「お前――お前が、」
言葉は続かない。けれど言葉のないその無音が、面に浮かぶその憤怒の表情が、雄弁に百合子の心情を語っていた。
不意に椅子から立ち上がると、百合子は緋真の前まで詰め寄った。思わず身動ぎした緋真を男が力を込めて抑えつけ、腕を後ろ手に捻り上げられる。思わず苦痛に顔を歪めた緋真を百合子は見下ろし、無言で手を振り上げた。
甲高い音と共に、緋真の顔が勢いのままに横に振れた。続いて反対の頬を。更にもう一度。
荒い息を吐く緋真を顔を歪めて見下ろしながら、もう一度渾身の力で緋真の頬を打ち据える。背後から抑えつけられている所為で、勢いを殺す事も出来ずにまともにその衝撃を頬に受ける。口の中に鉄の味が広がった。
「……よくも、よくもよくもよくも……」
百合子の食い縛る唇から呪詛の声が漏れる。
「あの方の傍に居られる身分じゃない癖にッ! あの方に声をかけてもらえる身分じゃない癖にッ! 何の価値もない存在の癖に……ッ!」
一度口にした怨嗟は、途切れることなく流れ続けた。決して今まで自分で認めなかった自身の容姿について、目の前の緋真の姿を見て狂ったようにその不公平さを何の関係のない緋真にぶつけ、百合子は更に狂乱していく。
「その顔であの方を誑かしたのでしょう、何も知らない、私は悪くない、そんな顔して……ッ! 私は騙されないわよ、この雌豚!」
はあはあと荒い息を吐きながら罵倒し続ける百合子の顔を、初めて緋真は真直ぐに見た。唇の端からは血が流れている。それでも緋真の可憐さは揺ぎ無い。
「……私は、私の身分をわかっております。私は白哉さまの横になど立てない」
何度も百合子に打ち据えられた緋真は、憔悴したように呟いた。その緋真の言葉に、僅かながら百合子の表情に落ち着きが戻る。
「――少し気付くのが遅いけれど、お前のような血の巡りの悪い馬鹿には仕方ないかもしれないわね。そう、わかっているの、自分の立場を。白哉さまの横にはいられないという事を。それならば今すぐ――」
「けれど、私はあの方の傍から離れない」
静かに、僅かな迷いもなく。
その言葉を口にしたらどうなるか、わかっていながら。
百合子の目を真正面から見詰め、緋真ははっきりと口にした。
「傍に居ます。あの方の――白哉さまの傍らに」
「き……貴様ッ……!!」
怒りに我を忘れ――恋に狂い、否――百合子が恋し執着しているのは、白哉もさることながら朽木という名前それ自体だった。白哉の妻とならなければ――正式な話が進まぬ内から百合子があらゆる場所で吹聴した白哉との婚約話、それが為されなければ、百合子に待つのは周囲の者たちの嘲笑だ。プライドの高い百合子には、そんな状況など想像することさえ耐えられなかった。
「貴女は、白哉さまを愛していない」
気が弱く優しすぎる――そう誰からも言われ続けていた緋真の目に、初めて強い意志が現れる。
初めて緋真が手にした唯一の誇り――それは、「白哉」という存在。
何物にも何者にも代えられない、たった一つの至高のもの。
その白哉を穢すものを、緋真は許容する事が出来ない。
此処に連れて来られた時の恐怖も忘れ、この後自身の身に降りかかるであろう全ての恐怖を忘れ、緋真は毅然と頭を上げ百合子と対等に向かい合った。
「貴女が愛しているのは――『朽木』という名前だけだわ」
紫の瞳を燃え上がらせ緋真は言う。
「私は違う。私は白哉さまを愛している。誰にも負けない。白哉さましかいない。白哉さましかいらない。他の誰にも渡さない。貴女にも」
「貴様――貴様――ッ!!」
爪が長く伸ばされ手入れの行き届いた、働く事をした事のない傷一つない手が、鋭く緋真の細い喉に向かって伸びた。逃げようのない緋真の首に、蛇のように纏いつき――蛇のように締め上げた。
ぐ、と力任せに締め上げる。
緋真は、一言も口にはしなかった。
懇願もせず、許しを請う事もせず、苦痛の声も、非難の声も、恐怖に怯える声も。
ただ無言で百合子の目を見詰める。
人形のように無抵抗に百合子に首を絞められながら、瞬きもせずに百合子を見つめ続ける。。
その緋真の態度が更に百合子の逆鱗に触れた。
泣き叫び、泣き喚き、無様に這いつくばる姿を見たかった。その緋真に自分の靴を舐めさせ、その顔を蹴り飛ばす。そうするつもりだったのに、緋真の顔には卑屈なものもおもねる態度も恐怖も怯えもない。
ただ、揺ぎ無い自信だけが浮かんでいた。
どんな状況にあっても、白哉を愛するという自信だけが。
「この……――ッ!!」
更に力を込めようとした指を、上から無理矢理阻止された。元々そう力のある訳ではない百合子は、あっさりとその手を緋真の首から離されてしまう。
「何するのよッ!!」
普段の取り澄ました言葉の欠片もなく、百合子は目の前の男――緋真をたった今まで拘束していた宮間を睨みつけた。勢いよく宮間の頬に平手が飛ぶ。
それを敢えてかわさずに左頬に受けながら、宮間は「この場で殺すのはあまりにも短絡です」と感情を殺して口にした。
「今ここで殺す事が得策とは思えません」
「煩いッ!!」
地団駄を踏んで癇癪を爆発させる百合子の足元で、緋真が咳き込んでいる。首を押さえ、苦しそうに肺に酸素を送り込むその姿に、僅かに百合子は溜飲を下ろした。
「まあいいわ――確かに今ここで殺すことはないわ」
百合子は勢いよく足を踏み落とした。緋真の肩に乗ったその足に体重をかけ、緋真を床に踏みつける。
「そんな簡単に殺すものですか――そんな苦しませずに殺すものですか! もっと、もっともっともっともっともっともっともっともっと――苦しんで苦しんで苦しんで苦しませてから殺してやるわ」
百合子の顔に残忍な笑顔が浮かぶ。暗い情熱に彩られた、あまりにも陰惨なその表情。
「この女に薬を打って。一番強いのを、ギリギリまで、何度も何度も。薬なしで生きていけないようにして」
緋真の黒い髪を掴み、勢いよく百合子は持ち上げた。強制的に上げられた顔に、百合子は愉しくて仕方がない、そんな笑顔で緋真を見下ろす。
「お前のこれからの未来を教えてあげるわ。お前は薬中毒になって、男たちに股を開くのよ。金なんか受け取らないで、誰かれ構わず股を開くのがお前の仕事よ。一番最低の、醜くて汚くて愚かで不潔な、そんな男たちがお前の相手よ。醜ければ醜い程、汚ければ汚い程、愚かなら愚かな程、不潔なら不潔な程お前に相応しい。薬なしではいられない身体になって、何百何千の男たちの精液を注ぎこまれて――それでもお前は白哉さまの傍に居ると言えるのかしらね……?」
「――貴女は病んでいるわ」
睨むことなく、ただ真直ぐに百合子を見詰め、緋真は言った。
「直ぐにこの女に薬を打って!」
金切り声を上げて百合子は緋真の肩口を蹴り飛ばした。入れ替わるように宮間が緋真の上に跨り、百合子の命を受けて更に二人が緋真の手足を抑えつける。
「二度と生意気な口を聞けないようにしてッ!」
喚き散らす百合子の声を背後に、宮間が懐から長方形の小さなケースを取りだした。蓋をスライドさせた中に、小さな注射器とアンプルが入っている。
「――直ぐに全てが何もわからなくなる」
まるでそれが謝罪のように、宮間は小さく囁いた。
緋真はじっと宮間を見詰める。やはりその紫色の瞳に恐怖はなかった。
自分を盾にして、白哉が何か被害を受ける……その身を危険に曝される事を一番恐れていた緋真にとって、自分への危害は恐怖ではなかった。
自分以上に大切なもの――大切な人。
それさえ護られるというのなら。
助けは請わず、緋真はアンプルに突き刺さる針を、吸い上げられる透明な液体を、そして自分の腕に刺される針を、逸らすことなく見据えた。
宮間の指が、ゆっくりと動く。――百合子の目が歪んだ愉悦に塗れて輝く――液体が、緋真の体内に侵入する――その瞬間。
激しい、世界が爆発したかのような音が家中に響き渡った。
その硝子が砕け散る連続音に隠れるように、押し殺したような破裂音が4度立て続けに起きたのは、その場にいた誰も気付かなかっただろう。
そして――音は消えた。
音が消えたその後には、動く者は3人。
百合子と、緋真と――
「ひ……檜佐木……っ!!」
咽喉を引き攣らせて後ずさる百合子には目を向けず、リビングの窓を乗っていたバイクごと突き破って室内に飛び込んだ檜佐木は、素早い動きでバイクから降りると、床に散らばった硝子を踏み、正確に側頭部を撃ち抜かれ横倒しになった宮間の死体を蹴り上げその下に居た緋真の腕に刺さった注射器を引き抜き、静かに緋真を助け起こした。
「檜佐木さん……」
「遅くなって申し訳ございませんでした。こんな助け方しか出来ず……本当に申し訳ございません」
丁重に支えられ、緋真は頭部を撃ち抜かれ足元に倒れる3人の男と、窓近くに倒れる男に哀しそうな眼を向けた。どの男たちも何が起こったかわからないまま息絶えたのだろう、その面に浮かぶのはごく静かな表情だった。何かに少し驚いたような、そんな表情。
自分を拉致した男たちだった。
けれど、百合子が命じさえしなければ、この男たちがここで生命を落とすことなどなかった筈なのに。
「こんな場面を見せて良い方ではないのに」
項垂れて檜佐木は言う。そんな檜佐木に、緋真は静かに首を横に振った。
「助けてくださってありがとうございます」
「ご無事ですか。身体の調子は――この、薬は」
未だ手の中にあった注射器を、床の上に落ちていたケースに収納しながら檜佐木は尋ねた。万一この液体が緋真の身体に入ってしまったのならば、直ぐにその成分を調べられるように慎重に懐へと仕舞う。
「大丈夫です。何ともありません」
「すぐに屋敷へ帰らなければ。医者に診せます」
その前に、と檜佐木は背後を振り返った。
大きな窓は全て粉々に壊れ、床に散らばった硝子や木片の残骸の中で、百合子は呆然とへたり込んでいた。視線は四つの死体に向けられている。どれも頭から額から血を流し、ピクリとも動かない。先程まで自分の命に従って動いていた筈の人間が、今ではもう微かにさえ動かない。
見開いた瞳。濁っていく水晶体。流れて行く血。
広い屋敷の奥で、過保護に甘やかされ育てられてきた百合子にとって、初めて見る「人の死」だった。穏やかに迎える死ではなく、他者の手によって強制的に終了させられた、恐ろしい死。
檜佐木は硝子の破片を踏みしめる音にびくっと身を竦める百合子につかつかと歩み寄り、乱暴にその胸倉を掴んで引き上げた。完全に宙吊りになった百合子は、バタバタと両足を動かし檜佐木の手から逃れようと身を捩る。
「檜佐木……お前、こんな事をして許されると……この私に……っ!」
怯えと恐怖を隠すために虚勢を張る百合子の言葉に耳を貸さず、檜佐木は更に百合子を吊り上げる。堪えかねたように百合子が無様に悲鳴を上げた。
「豚が人間の言葉を口にするな。俺の方が恥ずかしくなる」
「…………っ!」
蒼白になる百合子に、檜佐木は無言で右手を振り上げる。勢い良く振り下ろす直前、緋真が「檜佐木さん」と制止した。
「私は、もう」
「お許しになるのですか」
「私のことは構いません。でも」
緋真は百合子を見上げた。檜佐木に右手一本で吊り上げられながら、百合子は卑屈に助けを請うように緋真を見下ろす。
「――貴女はこの方たちの死の責任を負わなければいけません」
厳しい声だった。自分がされたことよりも、彼らを巻き込んだ事こそに緋真は怒っている。
「人を物のように見るのはやめてください。貴女も、彼らも、誰もが同じ存在だと、貴女は知らなければならない」
檜佐木は百合子を掴んでいた右手を離した。檜佐木の支えをなくした百合子の身体は、重力に従いそのまま落下する。
這いつくばるその百合子の足元に水溜りが広がっていく。安堵の所為か極度の恐怖の所為か、震えながら失禁した百合子を冷やかに見下ろし、檜佐木は今までの百合子に対する社交辞令を一切捨て、蔑みきった声で「貴様は馬鹿だから念の為に言っておくが」と吐き捨てた。
「次にこの方に手を出したらその日が貴様の命日だ。直ぐに今ここに転がっているお前の手下共に会わせてやろう」
檜佐木の言葉には、隠す気のないあからさまな侮蔑が宿っていた。
恐怖と怒りに百合子は青ざめた。その百合子に向かい、檜佐木は更に言葉を続ける。
「お前が誰かに余計な事を言わなければ、俺も余計なことなど口にしない。例えば、過去にお前が醜い嫉妬から傷付けてきた者たちの話とか、無様なお前の今の姿などは」
百合子の顔色が、青から白へと変わっていく。
プライドの高い百合子には、今のこの状況を誰かに知られる事こそ最大級の恐怖だった。
がたがたと震える百合子から視線を反らし、檜佐木は緋真に向かい「失礼」と抱き上げた。慌てる緋真を問答無用で外へと連れ出した。
携帯電話で車を手配すると、檜佐木はもう一度緋真に「申し訳ございませんでした」と深々と頭を下げた。緋真が言葉を返す前に、檜佐木の指が緋真の襟元に伸びる。
驚く緋真の後ろ襟から、檜佐木は何かを取りだした。それを見て緋真は小さく驚きの声を上げる。
「発信機です。――音も拾える」
確かに出掛ける前に白哉の部屋を訪れた時に、檜佐木に襟を直された事を緋真は思いだした。時間はほんの僅かな、2、3秒程度の事だったのにと目を見張る。
「一日、追っていました。申し訳ございません」
確かに、そういったものがなければ緋真の身に異変が起きた途端に、その場所へ駆け付けることなど出来なかっただろう。知らない間に全ての会話が他人に筒抜けになっているのは素直に頷ける事柄ではないが、そのお陰で事なきを得たのだ。苦情を言うのは筋違いだろう。檜佐木は自分の身を護るためにしてくれた事なのだから。
「――これが、白哉さまの傍に居るという事なんですね」
発信機、盗聴機、拉致、身の危険、そして――殺人。
そう、人が死んだ。目の前で4人も。
その事実にようやく気付き、緋真はふらりとよろめいた。
僅かに薬が体内に入っていたのかもしれない。それとも、あまりにも的確に冷静に正確に他者の生命を奪った檜佐木に、瞬時に生命を落とした男たちに、現実感という物がなかった所為なのかもしれない。
人が死んだのだ。自分の所為で、4人もの人の生命が。
死の責任を負うべきは百合子だけではない。自分もなのだ。自分の所為で4人の人が死んだ。家族も愛する人もいる筈の、4人の人たち。
4人の生命と引き換えにするほど、自分に価値があるとは思えない。
あの人たちの生命と引き換えに、あの人たちを踏み台にして自分は今生きている。
そして恐らくこういった事態はこれからも続く。
緋真が白哉の傍に居る限り。
「――此処から離れますか」
血の気が引き、蝋のように真白になった緋真の顔を痛ましげに眺め、檜佐木は一人では立っていられない程動揺している緋真の身体を支えながら尋ねた。俯いていた緋真の顔が上げられる。それに向かい、檜佐木は言葉を続けた。
「貴女はこんな世界に耐えられる方ではない。人が死ぬ瞬間など、本当は見てはいけない筈なのに。けれど、貴女の事をあの女に知られてしまった。貴女を完全に護りきるにはまだ時間が少し足りない」
檜佐木の声は僅かに苦しそうな響きを帯びている。緋真の身を案じている事、白哉の身を案じている事がよくわかるそれは声だった。
「あと数年経てば、白哉さまは完全な力を得ます。誰も白哉さまに異を唱えられない。白哉さまの両親でさえ。あと数年……そうすれば貴女は堂々と白哉さまの妻となり、いつでもいつまでも白哉さまの傍に居る事が出来る。――けれど、それはあと数年」
だから、と檜佐木は続ける。緋真の不安に揺れる紫色の瞳を見下ろしながら。
「暫く白哉さまから離れては如何でしょうか。誰の手も届かない場所へ――数年の間、外国へ。勿論私が選んだ護衛は付けます。何不自由なく過ごせるよう手配いたします。外国ならば玖珂の手も届かない。あれが力を持てているのは、朽木という後ろ盾がある所為で、あの一族単体には大した力はないのです。どこか穏やかな気候の静かな国で、全ての準備が整うまで、白哉さまから離れて――」
「私の白哉さまへの想いは、この程度で揺れる物ではありません」
はっ、と――檜佐木が、何事にも動じることのない、そう訓練を受けてきた檜佐木が息を呑んだ。
先程までの不安そうな紫色の瞳は既に其処にはない。変わって其処にあるのは、揺ぎ無い自信と、激しい想い。
「一度は諦めようとしました。――白哉さまの本当の名前を知った時。白哉さまの背負う物の大きさを知った時。白哉さまに私は相応しくないと諦めようとしました。けれど、――如何する事も出来なかった」
ただ一つのものだけを想う、紫の瞳。
「想いが、魂が、私の存在全てが、白哉さまを想って、白哉さまを慕ってしまうのです。白哉さまがいなければ、私は生きている意味がない」
神々しくとさえ、檜佐木の目には映る。
いつもの、何に対しても何処か遠慮がちな緋真と同じ人物とは思えない程、それは激しい想いだった。
たったひとつの、一つだけの、決して譲れないもの、想い。
自分の生命よりも、世界よりも大切なものを見付けられた者だけが持てる強い想い。
「私は白哉さまの傍に居ます」
ああ、と檜佐木は嘆息する。
この方が主の選ばれた方なのだと。
この方が主を選んだ方なのだと。
それならば、自分にできる事はただ一つ。
「仰せのままに。――貴女に従います、緋真さま」
膝を付き、その白い手を抱き恭しく檜佐木は口付けた。
屋敷に戻って直ぐに檜佐木は白哉に連絡を取り、次いで極秘裏に松永という医者を――腕は確かだがまだ若く、朽木家には今まで関わりのないその医者を選んで連絡を取り、緋真の診察を任せた。気丈に振るまってはいたが、やはり起きた出来事は緋真の精神に負担が大きく、屋敷に戻るまでの車の中で緋真は高い熱を出していた。意識が朦朧としている緋真の体内にはやはり僅かだが薬が入っていたようで、屋敷に着いた時点で緋真に意識はなかった。ただ、幸いなことに本当に微量だった所為で、これ以上の副作用はなく、依存する事もないだろうという松永の言葉に、駆け付けた白哉は安堵したようだ。
だが、強く絞められた緋真の首の周りには赤い痕が残っている。
その赤い筋に、それを付けた百合子への抑えきれない憤怒を白哉は浮かべる。
その痕も数日すれば消えるだろうと松永は言い、治療は終わり檜佐木は松永を玄関に付けた車まで送っていく。他言は無用と念を押し帰宅を見送った後、白哉の私的なフロアまで戻った檜佐木は、寝台に眠る緋真の髪を優しく撫でている白哉の背後に立った。
「話せ」
「は」
簡潔に、的確に、檜佐木は全ての報告をした。
その美しい顔に怒りの表情を浮かべながら全ての報告を聞き終えると、直ぐに「来るな」と呟いた。
「はい。――恐らく、近日中に」
「準備は完璧ではない。が――」
眠る緋真の頬にそっと触れる。
誰も緋真を傷付けることは許さない。
そのためならば。
「私は、『朽木』の全てを手に入れる」
一礼し、檜佐木は部屋を出て行く。
時間は限られている。早ければ明日にでも、遅くとも一週間の内には全てが動き出す。
それまでにできる事を檜佐木は全てするつもりだった。
白哉と、緋真の為に。
そして――五日後。
「白哉さま。……皓成さまがお呼びです」
全ての歯車が――回り出す。
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