自分が何処を歩いているかもわからないまま、緋真は街を歩き続けた。
 弘次に引き千切られたワンピースの釦は、羽織ったカーディガンで隠した所為で、道行く人々に不審がられる事はなかった。ただ時折、俯く緋真を見た者が、その顔に浮かぶ虚無に息を呑んだくらいだろう。
 その紫の瞳に絶望を宿らせ、緋真はあてどなく歩き続ける。
 今朝までは幸せだった。
 何もかもが光に溢れていた。愛し、愛され、抱きしめ、抱きしめられ、口付け、口付けられ……その幸福に酔いしれていた―――僅かも疑うことなく。
 けれど今。
 その幸福は―――もうこの手には、ない。





 何時間も彷徨って、空の色が黒く変わるまで緋真は歩き続けていた。身体の疲労は、心の重さに比べれば取るに足らないものだ。
 目の前の大きな門―――従業員や業者の車が使用する裏口、それでさえ他に類はないほど大きく立派な門を前に緋真は立ち止まる。
 この門を暗い気持ちで見上げたことが以前にもあった。
 それは初めてこの屋敷に足を踏み入れたとき―――両親に先立たれ、屋敷も財産もその手から離れ、信じていた婚約者に裏切られ―――辿り着いたこの場所。あの時と同じ想いで同じ門を緋真は見上げている。
 何もかもを失った、絶望的な―――その心で。
 何時間も独り街を彷徨って、緋真は結局―――この朽木邸に戻ってきた。
 何処にも行く当てがなく、帰る場所もない緋真には、戻る場所は此処しかなかった。
 本来ならば戻って来るべきではないのだろう。
 白哉と同じ場所に留まるべきではない。
 それは解っている。―――けれど緋真には如何しようもなかった。
 自分の心の弱さに唇を噛み締め、それでも如何することも出来ずに緋真は門の前に立ち、奥にそびえる大きな屋敷に目を向ける。
 あの屋敷の中央部に、白哉はいるだろう。
 もう二度と逢いたくなかった。二度と言葉を交わしたくはない。二度と視線を合わせたくはない。
 門の向こうに遥かに続く道と、その両脇に連なる樹々。夜も更けたこの時間に人の気配はない。ふと時計を見れば、日付が変わる時刻に近い―――重い足取りと重い心で、緋真は門の脇に設置してある掌紋識別の台に手を乗せ、門の横の小さな扉―――人が出入りする為の小さな扉のロックを解除する。
 ガチリと電子錠の外れる陰鬱な音と共に扉が開いた。
 俯きながら朽木邸に一歩足を踏み入れる。扉は閉めれば鍵のかかるオートロックだ。振り向くことなく歩き出した途端、突然背後から声を掛けられ緋真は息を呑んだ。
「―――久儀緋真さん」
 人の気配はなかったはずだ。この静かな夜、樹々の葉の風に揺れる音さえ明瞭に聞こえる。それでも微かさえ音も気配も感じさせず、ずっと、暫く門の前で逡巡していた自分をその人物はただ見ていたのか。
 振り返った緋真の目に映ったのは、長身の若い男だった。身形はきちんとしている。顔は暗闇に紛れてはっきりと見えないが、声はとても耳に心地好い。
「帰ってくれたんですね―――よかった」
 心底ほっとした声だった。偽りなく、緋真が戻ってきた事を喜んでいるその声。そして自分へと近付く男に、咄嗟に緋真は後ずさる。
 昼間の出来事―――弘次に組み伏せられた時の恐怖を思い出し身が竦む。
「ああ」
 怯える緋真の様子に気がついたのか、男は近付く足を止めた。一定の距離を保ったまま緋真を見詰める。
 門に備え付けられた灯りの範囲に男は足を踏み入れていた。影だった男の風貌ははっきりと緋真の眼に映る。
 長身の若い男。整った顔立ち―――男らしく精悍な。静かな物腰に潜んだ何処か危険な雰囲気―――それを身に纏った男。
 その男が、緋真に丁寧に頭を下げた。淑女に対する正式な礼……そんな応対を受けることは両親を亡くして久しく無かった。自分が現在、その礼を受ける身分でない事は充分承知している緋真は、戸惑いながら男を見詰める。
 その緋真の前で、頭を垂れたまま男は恭しくその名を告げた。
「私は檜佐木と申します。檜佐木修兵」
 緋真はその名を聞いた衝撃に息を止めた。




 名前を名乗った途端、檜佐木は目の前の緋真が息を呑むのがわかった。目を見開いて檜佐木を見上げている。
 こうして真正面から緋真を見る事は初めてだ。
 華奢な身体、吸い込まれそうなほど大きな瞳。その瞳は憂いを含んで、けれど今は衝撃に眼を震わせている。
 ―――白哉がその心を奪われた少女。
 この少女の存在が、冷たく無気質だった白哉の心を人のそれへと変化させた。
 以前、夜に二人きりで逢っている白哉と緋真を遠くから見詰めた。それは遠くからでも充分にわかる、幸福な恋人達の姿だった。月のように美しい青年と、花のように可憐な少女。まるで一枚の絵のような、二人の姿を覚えている。
 その追憶を振り切って、目の前の緋真の驚きに気付かない振りをし、檜佐木は緋真に手を差し伸べた。
「部屋までお送りいたします、緋真さん」
 その檜佐木の言葉に緋真の顔から驚きの表情は消え、変わって現れたのは強い怒りの表情だった。何故檜佐木が此処にいるのか、その理由を一瞬で理解したのだろう。
「結構です」
 緋真ははっきりと口にすると、檜佐木を振り切るように歩き出した。その素気ない態度を気にする様子も無く、背後に従う足音に緋真は唇を噛む。
「一人で戻れます。付いてこないで」
 振り返らずに背後の檜佐木へと言葉を投げつけると、丁重に「女性の一人歩きは危険です」と檜佐木の言葉が返ってくる。その丁重さも緋真の怒りに火を注ぐ。自分は決してそのように扱われる身分ではないのだ。
「ここはもう屋敷の中です。部外者はいないでしょう。危険な事はありません」
「従業員には男もおります。万一の事があっては―――」
 あくまでも身分が上の者に対する言葉使いで返事を返す檜佐木のその態度に耐え切れず、緋真は立ち止まり振り返った。
 真正面から檜佐木と相対する。
 道沿いに置かれた灯の下、檜佐木の顔がはっきりと見える。
 あまりにも真剣な表情だった。
「―――部屋まで送らせてください」
「―――それは、あの方のご命令ですか」
 否定の声はない。ただ一瞬、哀しそうな表情を檜佐木は浮かべ、真直ぐに緋真を見つめる。
「貴女の怒りは尤もだと思います。騙されたと貴女が思われても仕方ない。―――けれどあの方にそんなつもりはなかった。貴女に惹かれたから、貴女を失いたくなかったから、だからあの方は本当の事を言えなかった。貴女を愛していたからこそ、本当の名前は言えなかったんです。随分と悩んでおられたのですよ―――あの方は」
 不意に溢れそうになる涙を堪える為に、緋真は唇を噛み締めた。拳を握り己の肌に爪を立て、崩れ落ちそうになる自分を叱咤する。
 もう何度も考えて導いた結論だ。決してその結論を違えることはない。
 紫色の瞳を燃え上がらせ、緋真は檜佐木を睨みつけた。まるで、自分の正面にいるのが白哉その人であるかのように。
「―――婚約者のある身でありながら、私に名を騙り、何も知らない女を見て哂っていたのでしょう。その場限りの遊び。ご立派な遊戯ですね―――人の心を弄ぶ、気品溢れる行為だわ」
「緋真さん―――」
「貴方も一緒になって見ていたのね。あの人と一緒に私を哂って―――それであの方は何と?余計な事を外部に言わないよう、私を見張れと仰ったの?こんな夜中まで大変ですね、お疲れ様です。けれど安心なさってください、このことは誰にも申しませんし、もう二度とあの方にお会いする事はありません」
「緋真さん、あの方は―――」
「だからもう二度と私に構わないで―――放っておいて」
 何かを言いかける檜佐木の言葉を遮って、血を吐くようなそんな声で檜佐木に言葉を叩き付けると、緋真は勢いよく振り返り走り出した。石畳の上を走る緋真の靴音が夜の空気に響く。
 追おうと思えば、檜佐木ならば充分追いつける。
 けれど檜佐木は悄然と、ただ緋真の背中を見送った。
 小さな背中―――哀しみを色濃く纏ったその背中。
『檜佐木―――』
 その同じ背中を、つい数時間前に檜佐木は見ている。
『―――檜佐木、緋真の誤解を解いてくれ』
 打ちひしがれた、そんな主の姿を見たのは檜佐木は初めてだった。常に感情を表に出さず、月のように孤高の存在だった白哉が、檜佐木の目の前で苦悩している。
 椅子に座り正装した白哉は、苦悩という名の彫刻のように微動だにしない―――俯いた顔は流れ落ちる黒い髪に隠れてその表情は見えない。
「本来ならば、私が直接迎えに行かなくてはならない……出来るならばそうしたい。今すぐにでも緋真を探しに外に―――」
 扉を叩く音に白哉は右手で片目を覆った。今日この後、白哉に自由はないのだ―――未だ白哉を支配する朽木家の力―――現当主である両親の絶対の命は逆らえない。
 昼間、百合子を置いて姿を消した白哉を、白哉の両親、特に百合子の伯母である白哉の母が酷く立腹していた。百合子を白哉の妻にと強く押しているのは白哉の母だった。自分の弟の娘、その百合子を朽木家に嫁がせ実家の力を不動のものにしたいのだろう。この後行われる夕食会には必ず出席するようにと白哉は厳命されていた。
 ここで緋真を探しに街へと抜け出せば、その原因を両親は探り出すだろう。そうしてあっさりと緋真という原因に辿り着き―――緋真の存在を知った両親の取る手段は、白哉には解りすぎるほど解っていた。
 金を渡してこの場から追い出す、等という手段を取る筈がない。
 もう二度と、決して、白哉が緋真に逢えぬように手を打つはずだ。
 この家の血塗られた過去。否、それは過去ではなく現在も続いているのだ。呪詛に塗れたこの家系―――それを受け入れ、昂然と顔を上げ歩いていくのが、この家に生まれた者の宿命だ。
「頼む、檜佐木。緋真を―――」
 今、白哉がすべき事は、緋真を探すことではなく、昼間姿を消した理由の説明とその埋め合わせをする事だ。僅かも疑われることの無いように、普段の白哉らしく、無機質に尤もらしく理由を説明し、謝罪と共に昼間出来なかったエスコートを百合子にすること。焦燥する心を押さえ込み、心配する想いを押し殺し。
 広間へと向かう白哉の姿は、まるで刑場に向かう姿のようだと檜佐木は胸を痛めて見送った。
 そして檜佐木は白哉の代わりに緋真を探し、街を歩き回った。朽木の名前は使えない。朽木の力は使えない。他の誰かの手を借りることも出来ない。途方も無く広い世界をただ己の足で捜し歩くしかなく、檜佐木は数時間を歩き続け、一度屋敷に戻り緋真が戻っていないことを確認し、次は門の前で待ち続けた。
 緋真には帰る場所は此処しかない。知人もなく、手持ちの現金もない緋真には、帰ってくる場所は此処しかないのだ。そう祈るような気持ちで待つ檜佐木の前に、小さな姿が現れたときには、檜佐木は安堵で大きく息を吐いた―――時刻はもう直ぐ日付が変わる時間だった。
 間を置き、緋真の後を檜佐木は追う。その気配を緋真に感じ取らせずに距離を縮め、緋真が自分の部屋へと戻った事を確認して檜佐木は主の部屋へと足を向けた。―――檜佐木が戻るまで、主は決して休むことはないと檜佐木は確信していた。そしてそれは、叩いた扉の音にすぐ帰ってきた入室の許可で裏付けられる。
「失礼致します」
 数時間を歩き回った疲れを微塵も見せず、檜佐木はいつもと変わらぬ声で返答し扉を開ける。開いた扉の先には、夕食会の正装のまま着替えることなく待っていた、憔悴しきった白哉の姿があった。
 その憔悴した黒い瞳が、狂おしく強い光を浮かべる。
「緋真は?」
「先程、部屋に戻られました」
 その言葉に、ようやく安堵の溜息を吐き白哉は椅子に倒れこむように腰を下ろした。その背中を背凭れに預け、そのまま天を仰ぎ目を閉じる。
 それに痛ましげな視線を向け、檜佐木は白哉の机の上のパネルを押した。通話を示す緑色のランプが点灯し、「白哉さまにお茶を」と短く檜佐木は命じ直ぐに通話を切る。
 暫く二人は無言だった。白哉は椅子に身体を預けたまま目を閉じ、その前で檜佐木は直立したまま静かに立っている。
 やがて運ばれた紅茶のセットを入口で受け取り、檜佐木は白哉のためにその琥珀色の液体をカップに注ぐ。
「如何ですか」
 差し出したカップを、白哉は何も言わずに受け取った。口を付け、僅かの量を体内に流し込んでから、ぽつりと「緋真は―――私を許さなかったのだな」と呟いた。
「……まだ心が落ち着いていないのでしょう。今日は色々な事がありすぎました」
「数多くの、今日緋真を傷付けた事象の中で、尤も緋真を傷付けたのは……私だ」
 嫉妬に狂い力任せに緋真を組み伏せ、そして―――
 本当の名前を告げたときの緋真の瞳。
 微かにあった希望―――自分を信じていてくれた緋真の心を、自分の言葉が打ち砕いた。
 許されるだろうか。
 これほどまでに緋真を傷付けてしまった自分は。
「明日、もう一度謝りたい」
 明日が無理なら明後日。明後日が無理なら三日後に。一度で無理なら二度でも三度でも―――緋真が許してくれる、その時まで。
「すまないが檜佐木―――どこか屋敷内で場所を作ってくれないか。私が直接緋真に逢いに行けば、緋真に迷惑がかかるだろう」
「了解いたしました。必ず」
 即答し檜佐木は言葉を続ける。
「今日はもうお休み下さい。白哉さまもお疲れです―――そんな顔色をしていては緋真さんに逢わせることが出来ませんよ」
「―――わかった」
 疲れきったように、異を唱えずに白哉は頷き立ち上がった。すまなかった、と檜佐木に言葉をかける。
「お前も休んでくれ」
「はい、白哉さま」
 静かに部屋を退室しながら、檜佐木はこの後白哉が眠ることはないだろうと知っていた。




















 二人が初めて逢った場所。
 二人がいつも逢った場所。
 その場所に独り、白哉はいる。






 何度足を運んでも、あの日以来緋真がこの場所に来る事は無かった。
 二人で見上げた月は輝きを失い、
 二人で語り合った花に価値は無く、
 大切なものはたった一つ、
 そばで微笑んでいてくれた存在なのだと、
 世界があれ程美しく見えたのは、
 月があんなにも輝いていたのは、
 花があんなにも可憐だったのは、
 風があんなにも優しかったのは、
 空があんなにも澄んでいたのは、
 ただ緋真がそばにいてくれたからだと、
 ただ優しく微笑んでくれたからだと、
 そしてその微笑を失った今、
 もう二度と世界はあの輝きを取り戻すことはないと、
 緋真を取り戻すことは出来ない、と―――。


 



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