景気の悪さがまともに収入に直結する身としては、何とかはやく景気がよくなって欲しいものだが、こればかりは個人の力でどうする事も出来ない。
世の中が不景気だと言われ始めてもう随分経つが、一向に状態が変わる様子も無く、街には仕事を解雇された、もしくは勤め口が倒産して職を失った人間の数が増えていく。それは、こうして毎日街頭に立って芸を売る自分にはよくわかる。
男は溜息を一つ吐いて、それでもいつものように道具をセットし、身体をほぐして準備をした後、いつものように口上を始めた。
以前ならば――景気の良かった数年前ならば、こうして前振りの言葉を発しただけで人は集まってきた。けれど今はそんな心の余裕など無いのだろう、大抵の人間は素通りしていく。立ち止まって見ているのは子供二人だけだ。子供が見ていても当然金など払うはずも無いから、結局のところ誰も見ていないに等しい。今日の収入も期待できねえな、と憂鬱になりながら、男は芸を披露し始める。
男の得意な技はジャグリングだ。ありとあらゆるものを空中に放り投げては受け止め、更に投げ、円を描くようにくるくると回す。まずは簡単なもの、4本のクラブを空中に放り投げて道行く人の視線をこちらに向けさせようとするがあまり効果はなかった。
「すごい!すごいね!!」
小さな少女が目を輝かせてクラブの軌跡を追っている。空中に円を描くクラブにあわせて視線もくるくる回っている。目の大きな可愛らしい顔立ちの少女だ。
「クラブなんてつまんねーよ、やっぱやるならナイフとかでなくちゃ面白くねー」
少女の隣にいた、生意気そうな赤い髪の少年が憎まれ口を叩いた。その声は大きく、あからさまな侮蔑がこもっていた為に、「何事だろう」と通り過ぎる人々の足を止めさせる。
少年のその口調に男は半ばむっとしながら、表面上は笑って見せ「じゃあナイフでやってみるかな」と鞄から良く研いだナイフを4本取り出す。よく他のジャグラーが使う見せ掛けのナイフではなくて、投げナイフにも使える本物のナイフだ。ナイフの刃が太陽の光を受けてきらりと輝いた。
「本物じゃねーよ、どうせ」
少年の大きな声に、また道行く人々の足が止まる。
「本物だよ、じゃあ君こっちに来てご覧」
男の呼びかけに、少年は臆することなく男の目の前に来ると「なんだよ?」と見上げた。赤い目が強い光を放っている。少年らしからぬその視線の強さに、一瞬息を呑んだが、少年の雰囲気に飲み込まれる前に何とか自分を立て直した。
「ここに雑誌があるから、本物かどうか試してご覧」
分厚い雑誌とナイフを少年に渡す。少年はしばらく弄ぶように右手左手と持ち替えた後、くるりとナイフを右手で回転させて雑誌の真中に突き立てた。
「……うん、本物みてえだな。しかも良く切れる」
少年の声は大きい。これが地声なのだろうか、だとしたら彼の家の人間は余程耳が遠いのだろう。
「これで出来るのかよおっさん?」
喧嘩を売るように少年は言う。
その声につられて、また人々の足が止まる。
「ああ、見てろよ小僧」
その挑戦的な少年の物言いに、男の口調もつい荒いものになる。
男は4本のナイフを手にすると、一瞬目を閉じ神経を集中させた。1本目を空中に放り投げる。次いで、2本目、3本目、……4本目。
ナイフはきらきらと太陽に光を受けて空中に円を描く。
「すっごーい!!」
少女の声が、純粋に感心の声を上げて手を叩いた。つられて周りの人々も拍手をする。
気付けば、男の周りには沢山の人だかりが出来ていた。
「小僧、その台にあと2本ナイフがあるだろう、それを出せ」
「なんだよ客を使う気かよ、おっさん」
「あとで礼はするから、ほら早くしろよ」
人使い荒ぇな、とぼやきながら少年はナイフを取り出した。やはりその重さを手に確かめているようだ。
「いいか、俺の言うタイミングに合わせてそれを投げろ」
「ああ?そんな事俺にやらせるのかよ?大丈夫か、こんだけ人が居るのに失敗したらやばいぜー?」
「舐めんな、こっちだってこれで飯食ってんだよ。いいから投げろ」
少年のナイフを持つ手に、何となく手馴れたものを感じていた男は、自分の勘に賭けてみることにした。
観客の子供にナイフを投げさせ、それをジャグリングする。成功すればかなりのアピールになるだろう。
「……3、2、……投げろ!」
少年のナイフを投げるタイミングは文句を付けようもなかった。高さも強さも。
「次、6本目、用意しろ……3、2、……よし!」
再び、絶好のタイミング。
6本のナイフは完璧に等間隔で宙を舞う。
「すごい、すごーい!!」
その言葉しか解らないように、少女は目を丸くして手を叩き続けている。その姿に人々は微笑を向け、そしてナイフを操る男に向かって拍手を送った。
順にナイフを片手に受け止め、ジャグリングを終わらせる。男が頭を下げると、再び一斉に拍手が鳴り響いた。
次々に金が放り込まれるのを目にして、男は満面の笑みを浮かべた。久々の大収穫だ。
「ありがとよ、小僧。おかげで盛り上がった」
「そう思うんなら、俺にそのナイフ貸してくれよ」
「あぁ?」
「いいじゃねえか、演技までして集客に手ぇ貸してやったんだからよ。それ位してくれても罰は当たらねえだろ」
「……演技だったのか」
「当たり前だろうが」
ふん、と腕を組む少年は全く可愛げが無い。それ故に、あのナイフの扱いの手馴れた様子に、男はなんとなく納得したような気分になった。
「……壊すなよ、大事な商売道具だからな」
「誰に物言ってんだよ」
少年はナイフを受け取ると、すたすたと歩いて壁際に先程の雑誌を置いた。そしてまた男の元へと戻ってくる。
「俺はあの男が嫌いだ」
少年は雑誌の方に指を向け、足を止めている人々に向かって朗々と告げた。
雑誌にはこの国の政治家が満面の、いかにも作り笑いめいた笑顔を浮かべて表紙を飾っている。
「あの男の所為でこの国は一向に景気がよくならねえ。口ばっかりの大言壮語は聞き飽きた。はやく何とかしろっての。……と、まあよく大人たちが言うのを聞いてるんだけど」
少年がそう言うと、周りの大人たちは声を上げて笑った。
「子供の俺には良くわからねえ。だからまあこの程度で許してやろうかな」
少年は何気なく右手に持ったナイフを振り上げた。
そのまま、す、と振り下ろす。
特に力を入れた様子も無い。狙った様子も無い。
――ナイフは、写真の男の頬の横に突き刺さった。
少年から雑誌までの距離は8メートル程。
恐るべき正確さだった。
「これで許せそう、お姐さん?」
少年は、人の輪の中の、やや派手な姿の女に声をかける。女は面白そうに、
「ううん、全然足りないわよ。政治がよくないから私みたいな純真な女の子が道を踏み外すんじゃない」
「じゃあ、お姐さんの分」
少年は再び無造作とも思える動作でナイフを投げた。
ナイフは写真の男の頭の上に突き刺さる。
「……これでもう大丈夫かな?」
「だめよ、もっとやっちゃって!私の分も!私も政治の所為で道踏み外したんだからあ!」
「俺の分も投げろ、坊主!」
「じゃあ、あっちのお姐さんの分とお兄さんの分」
右手と左手、両方に持ったナイフを、少年は同時に投げた。
ザク、という音と共にナイフが写真の輪郭に沿って突き刺さる。
見事に写真の男の顔には傷が無い。
全てぎりぎりの線で突き刺さっている。
「……と、いう訳でおしまい。すっきりした方はこちらへ御代をどうぞ」
コートを持ち上げ即席の受け皿を作ると、少年は人の輪に沿って歩いた。その中にどんどん金が放り込まれていく。小銭だけでなく札が折りたたまれて投げ入れられ、見る間に少年のコートの中には溢れそうなほどの金が溜まっていった。
最初に少年に声をかけられた女が、財布から札を数枚取り出して少年を手招きする。それに気付いた少年は「サンキュー」と近寄ると、女は笑いながら少年の頬に口付けた。
「面白かったわよ、少年」
「どーも」
少年は動じる事無く受け流すと、次の客へと向かっていく。その態度に更に面白がったのか、幾人かの女が少年に金を渡し、頬に口付けた。
人々が掃けると、少年は雑誌とナイフを持ち主の男に返し、「ありがとよ、おっさん」と声をかけた。
「お前、俺より稼いでるじゃねーか」
「まあ、面がいいからな」
「生意気な奴だな、お前は」
「このくらい図太くなきゃやってけねーよ」
肩をすくめて少年は、「じゃ、頑張れよおっさん」と手を上げ、連れらしい少女の方へと歩いて行った。
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