「いつまで立っているんだ?」
楽しそうな弘次の声に我に返り、緋真は自分が周囲の視線を浴びている事に気がついた。硬い表情のまま椅子に腰を下ろし、目の前の男を見据える。
最後に見た時と変わらない―――明るい髪の色、長めの前髪から覗く茶色の瞳。細い身体は、鍛えるということをしたことのない事実の所為だ。けれどひ弱という印象は受けず、スタイルは良いと皆に思われる体型。
常日頃から、弘次の一番の関心事は「自分」が如何に美しく見えるかの研究だ。
洋服、髪型、―――最新の流行。元々の顔立ちが良い故に、弘次を見た殆どの女性たちは弘次を「美青年」だと評するだろう。加えて家が資産家―――勿論、白哉とは比べ物にならない程の家柄と資産だが、一般の女性たちにしてみればそれは充分な家柄と資産だ。その背景も上手く使い、弘次は大学で様々な女性と浮名を流している。
弘次を初めて見た時に緋真は、自信に溢れた人だと思った。
緋真自身はあまりはっきりと自分の意思を他人に伝えることが出来ない気質なので、弘次の半ば強引と言える言動に、ただ頷いて付いて行くだけだった。当時は上埜門もそう資産がある訳ではなく、久儀家の方が格式も資産も上だった為に、上埜門の家の者たちも弘次も、緋真には随分と気を使っていたのだろう、と今になれば緋真にも解る。
自分が大事にされていたのは、「緋真」という自分ではなく「久儀」という名前と、弘次が緋真と結婚した時に流れてくる資金の為だったのだろうと、独りになった朽木家の使用人の部屋で思い知らされた。
そう、緋真の両親が事故でなくなったその瞬間に―――上埜門の人々は緋真のことなど如何でも良かったのだろう。上手く動いて久儀の財産を上埜門のものとすること―――相手は世間知らずの気弱な17歳の少女。それは呼吸をするよりも簡単なことだったのだろう。
それまで優しく接していた弘次が豹変したのは、全ての手続きが済んでからだった。
独りきりになった緋真に毎日付き添い、優しい言葉をかけ、励ますように抱きしめ、俺がついているから、と甘く囁いた唇は、緋真が財産の管理運営を婚約者である上埜門の家に任せると書類にサインした瞬間に、禍々しい笑みを浮かべる別のものへと変わっていた。
その笑みに相応しい、初めて聞くその悪意に満ちた笑い声に、緋真は驚き見つめるしかなく……それ以来、緋真が弘次を見る事はなかった。
電話をしても繋がる事はなく、両親の思い出の詰まった家を追い立てられ、行く当てもなく立ち尽くす緋真に、朽木家の従者になれば衣食住は保障されると伝えてきたのも弘次ではなく上埜門家の弁護士だった。
その最後に見た笑顔と同じものを浮かべて、弘次は緋真を見つめている。
身体を緊張させながら、緋真は目の前の男を―――かつて婚約者だった男を凝視した。
そんな緋真の態度は気にする様子もなく、弘次はオーダーを取りに来たウェイトレスに自分用の珈琲と緋真の紅茶を頼むと、やはり笑みを浮かべたまま硬い表情の緋真をゆっくりと眺める。
「―――そんなに堅くなることもないだろう。久しぶりに会った婚約者同士なのに」
「婚約の話は既になくなっている筈です」
堅い緋真の声に、弘次は「そうだったか?」と素知らぬ顔で応えた。
「俺にそのつもりはないけどな」
「お話がその件でしたら話す必要はありません。婚約はなかった事に。それでは」
立ち上がろうとした緋真の気配を敏感に察して、弘次は緋真の手を掴んだ。掴まれた手を振り解こうと思い切り手を引いても、非力な緋真の力では如何しようもない。睨みつける緋真の目に怯むことなく、逆に面白そうに緋真を眺めながら笑う。
「まあ、お茶くらい飲んでいけよ、丁度来たところだしな」
緋真からそらした視線の先に、喫茶店のウェイトレスが、困惑したように銀のトレイに載せたカップに触れている。テーブルの真中で緋真の腕を掴む弘次の所為で、カップを置く場所がないのだろう。
「……わかりましたから離して下さい」
弘次に、というより店の者に悪く、緋真は立ち上がりかけていた椅子に再び腰を下ろした。それを見て取って、弘次はようやく手を離す。
何事もなかったようにそれぞれの前にカップを置くウェイトレスに向かって「ありがとう」と弘次は微笑み、ウェイトレスが微かに頬を赤く染めるのを緋真は硬い表情で見守っている。
目の前に置かれた紅茶を飲んだら席を立つ、と言わんばかりにすぐに口を付ける緋真を見つめながら、弘次はゆっくりと珈琲を口にした。
「……随分印象が変わったな、緋真」
緋真は何も応えない。
無言で紅茶を口にする。
「たった8ヵ月の間に随分変わった。以前は何も知らないつまらない子供だったのに、今のお前は……」
緋真を、そうせざるを得ない状況に追い込んだ元凶の男は、その事に罪の意識を感じることもなく平然とそう口にする。
やはり緋真は何も応えず、無言で紅茶を喉に流し込む。
「正直、今のお前なら俺も婚約を解消する気はない。お前を」
「お断りいたします」
きっぱりとそう応えて、緋真はカップをソーサーの上に置いた。紅茶は飲み干されている。
財布から自分の分の代金を取り出しテーブルに置くと「失礼します」と緋真は立ち上がった。
「まあ待てって。暫く話を」
「この後の予定がありますので」
「大丈夫だよ、朽木邸にはこれを送っておくから」
その言葉に訝しげな表情を浮かべた緋真の前で、弘次は手元で弄っていた携帯電話の液晶画面を緋真に向けた。
「よく撮れてるだろ?」
そこに写っていたのは、数分前の二人の姿……テーブル越しに手を掴まれた緋真と、手を掴んでいる弘次。
緋真は俯いた横顔で写っている。これではその前後のやり取りを知らない者が見れば、二人が手を握り合っているようにしか見えないだろう。
緋真は周囲を見回した。この写真を撮り、弘次の携帯電話に送信した第三者が周りにいる。
「これを送っとけば、婚約者と楽しく過ごしてるってのが相手にも伝わるだろう?」
その相手というのが誰を指しているのか、それを知らせる為に弘次はスーツの内ポケットから数枚の写真を取り出し、テーブルの上に置いた。どの写真にも楽しそうに笑う緋真と、その横で穏やかに微笑む―――
「―――お前が最近付き合っているこの相手に」
きっと睨みつける緋真の視線を平然と受け流し、弘次は珈琲を啜る。
「写真と一緒に、今日お前と何をしたのか―――どんな時間を過ごしたか、事細かに送っておくから。多少事実と違うことを書くかもしれないけどな」
「―――っ」
「そうしたらこの写真の男は、俺とお前どちらを信じるかな?」
その本性のままに、酷薄な笑みを浮かべて緋真を見遣った。唇を噛み締める緋真を見つめる弘次の瞳の奥深くには、嗜虐の光が揺らめいている。
「―――お前にやってもらいたいことがあるんだよ、緋真」
一転、婚約時のままの優しい声で弘次は緋真に話しかける。写真をじっと見つめる緋真の目に入るように、写真の上に小さなUSBメモリーを投げ置いた。
「朽木白哉の部屋のPCからこれにデータを落としてくれ」
朽木白哉―――この日本を支配する朽木家の御曹司。近い未来、頂点に立つことが約束されているたった一人の男。
朽木白哉と懇意になる為の機会、それを逃す者がいる筈もない。
相手に気に入られる為に、若しくは相手の弱みを握るための機会。
PCに何が入っているかはわからない。―――仕事上のデータ?白哉の趣味趣向?朽木家の人間にしか扱えない情報?朽木白哉の日記?―――何が入っていても、弘次にとって無駄なデータは1バイトもないだろう。
「簡単なことだろう?お前なら―――部屋に入ったときにこれを差し込めばすぐに終わる。それにこれから俺がお前に言うことの答えを朽木白哉から聞きだし」
「お断りします」
毅然とそう言い放ち、緋真は弘次の言葉を遮った。同時に、写真とメモリを弘次の方へと押し遣る。
弘次の目が冷たく光った。
「―――この写真を」
「どうぞ。私はあの人に嘘は吐きません。あの人も私を信じてくれます」
あの人は嘘を吐かない―――その言葉に「あなたと違って」という痛烈な皮肉を込めて、緋真は真正面から弘次と向き合った。婚約者時代には無かったことだ。人と視線を合わせることを、遠慮深く自分の意思を強硬に通そうとすることの無かった緋真はすることがなかった。
その緋真が強い意志で弘次を見つめる。
「檜佐木さんはあなたとは違う」
その一言に、弘次は動きを止めた。
「お話は終わりましたね。では」
今度こそ、と立ち上がる緋真の腕を、先程とは比べようもないほど強い力で掴み無理矢理椅子に座らせると、弘次は目を爛と光らせた。獲物を捕らえた光る目で、緋真を見据え問い質す。
「ちょっと待て緋真。―――この男の名前は?」
「―――あの人に何かする気なのですか?そんなこと絶対―――」
「調べればすぐわかるんだぞ?この写真を撮ったようにな。―――この男の名前は……檜佐木というのか」
暫く応えるか逡巡した後、調べればわかるという弘次の言葉に隠す意味もないと結論を出したのだろう、緋真は頷いた。
途端―――目の前の弘次の顔に浮かぶ、悪意に染まった笑みに緋真は思わず息を呑んだ。
「『あの人は嘘を吐かない』?はっ!これは―――そう信じてるお前が憐れだよ、緋真」
口元を押さえ、馬鹿にしたように喉を鳴らし、心底楽しそうに笑う弘次の姿に、緋真の心は不安に揺れ動く。
その瞬間、机の上で軽やかなメロディが流れ出した―――檜佐木が緋真に渡した、ただひとりとしか繋がらない携帯電話。
このまま席を立って、この男から離れた方がいい。
電話に出て、檜佐木さんが心配するような事は何もありませんでした、と笑顔で言って。
檜佐木さんは心配性ですね、と笑いながら言えばそれでいい。
―――目の前のこの男の話に耳を傾けてはいけない。
そう警告する心に反し……足は動かなかった。動きたいのに動けない。凍りついたように一歩も前に進めない。
目の前で笑い続ける弘次を見つめるしか、出来ない。
「この男、お前には檜佐木と名乗ったんだな?」
聴いてはいけない―――聴かない方がいい。
電話に出なくちゃ、檜佐木さんが心配する。
「その時点でこいつは嘘を吐いている」
自分にはもう、檜佐木さんしかいないのに。
「この男が―――」
信じられるのはもう、檜佐木さんしかいないのに。
「朽木白哉だ」
信ジラレルノハ、モウ……
テーブルの上の電話の着信音が途絶えた。
「―――嘘」
蒼褪めた緋真の顔を楽しそうに見つめながら、弘次は哂う。
揺れ動く時点で、緋真はたった今聞いたこの話が本当ではないかと、愛する男を疑い始めている―――調べればすぐにわかるような嘘を吐く必要が弘次にはない故に。すぐに露呈する嘘を吐く必要はない故に。
それでも信じないと口にするのは、その真実を見つめたくないからだ。
騙されていたという現実を見つめたくない故に、緋真はそれを信じない。
「嘘だわ、あの人は檜佐木修兵―――あの人が私に嘘を吐くなんて、絶対」
「檜佐木修兵は朽木白哉の護衛、右腕だ。一番近い男の名前を使ったな。―――いや、檜佐木修兵といえば女が言い成りになると思ったか……あの男の名前は俺も聞いている」
檜佐木修兵―――その名前は、出逢う前に緋真も耳にしていた。
女性の姿が絶えることのないというその噂―――危険な香りを振り撒く男性。けれどその噂はあくまで噂だと、檜佐木に逢って緋真は思った。檜佐木にそんな気配はなかった。緋真と付き合っている間に、他の複数の女性と付き合っている様子はなく、一途に純粋に、緋真に接していた―――噂とはまるで違うその人となり。
そう、まるで―――緋真の耳にした「檜佐木修兵」とは別人のような。
「最初からお前は遊ばれてたんだよ」
無言の緋真の手が、テーブルの上で震えているのに気がついて、弘次はその手に自分の手を重ねた。今の話に衝撃を受けているのか、緋真は振り解こうとはしなかった。恐らく弘次の手が自分に触れていることさえ、緋真には認識されていないのだろう。
「金持ちの道楽だろう。何も知らない小娘を誑かして、その気にさせて放り出す―――人を思い通りに動かして、自分は他人を支配する側の人間だと下等な女を嘲り笑う。―――お前は騙されていたんだよ」
「信じない……っ」
そう口にした緋真の声は、緋真の本当の想いを映したように小さく、そして震えていた。
「信じない」のではなく―――「信じたくない」。
「確かめればいい、自分の目で」
はっと顔を上げる緋真の前で、弘次は立ち上がった。緋真に触れていた手はそのまま、誘うように引き寄せる。
「ネットで調べればいい。―――検索すれば一発だろう?」
ポケットから取り出した、このホテルのキーを前にして緋真は途方にくれたように弘次を見上げる。誰を信じたらいいのかわからない、そんな迷子のような怯えた瞳で。
「それとも……真実を知るのが怖いか?」
揶揄するような弘次の声に、強張った表情のまま緋真は立ち上がった。
自分が信じるのは婚約者だった目の前の男ではなく、檜佐木なのだと緋真は―――知っていた。
わざとらしいほど恭しく、弘次は緋真をエスコートした。緋真の右手を自分の右手の上に置き、左手を緋真の腰にさり気なくまわす。身を堅くする緋真を面白そうに見下ろし、ウェイターに向かい料金は部屋につけるよう意思を込めて頷くと、年配のウェイターは承知したように頷いた。
「真実に優るものは何もない。―――どんなことでも」
くくっと笑いながら、歴史あるホテルに相応しい重厚な扉のエレベーターのボタンを弘次は押す。するりと閉まった扉の向こう、硝子張りの喫茶室の窓の外で、緋真の名を呼ぶ白哉の姿を、扉に背を向けていた緋真は気付くことがなかった。
途中の階で止まることなく、エレベーターは滑らかに最上階へと到達する。
電子音と共に開いた扉の向こうに、最上階だけが持つ景観が拡がっている―――磨きぬかれた透明な硝子、品の良い色合いの空間。
弘次は緋真の腰に回した手に力を入れ、真直ぐに歩くように促した。一瞬何かを言いたそうに緋真は唇を開きかけたが、結局何も言わずに人気のない廊下を俯いて歩く。
その表情は憤り、微かに紅潮している。
「どうぞ」
開けられた扉の先の部屋を前にした、弘次が連れ込んだ女たちは恐らく一様に歓喜の声を上げたに違いない。広々とした室内と、壁一面が硝子張りの窓、そこから下へ目を向ければ、車がまるで玩具のような大きさで行き交っている。遠くまで見渡せる広い展望。その最上階のスウィートに、この若さで部屋を取ることが出来る「上埜門弘次」と知り合えた幸運を、この部屋に足を踏み入れた女性は皆思っただろう―――ただひとり、緋真を除いて。
部屋の様子に全く意識を払うことなく、緋真は硬い表情のまま、弘次が導くままに部屋の中へと足を踏み入れた。すぐに机の上のノートパソコンへと視線を走らせ、傍らの弘次を振り返る。
楽しそうに笑いながら、弘次はノートパソコンの電源を入れた。スリープ状態になっていたのだろう、画面はすぐに立ち上がり、慣れた手付きで弘次は検索サイトを画面に呼び出す。
「此処から先は自分の目で確かめるといい」
どうぞ、と気障に椅子を引いて緋真に座るように促すと、弘次はその場から離れた。隣の部屋に向かうその背中を気にすることもなく、緋真は真剣な眼差しでディスプレイを見つめる。
白く細い指がキーボードの上を行き来する。
『朽木白哉』
一瞬躊躇うように手が止まり、画面を見つめ唇を咬み―――緋真はEnterを押した。
途端、画面に現れる膨大な検索結果の一番上を緋真はクリックする。
「―――っ」
大きく息を呑み、緋真は画面を凝視する。
其処に現れた画像は―――其処に現れた写真は、紛れもなく……緋真の知る『檜佐木修兵』だった。
緋真の知る表情とは違う、冷たい氷のような―――けれど見惚れる程の、月のような美しさ。
『朽木財閥の御曹司 社交界デビュー』
恐らく女性向けの雑誌の一部なのだろう、堅苦しい記事は全くなく、ただ朽木白哉の経歴やその容姿の美しさに重点を置かれた記事を目にし、緋真の顔から血の気が引いていく。
震える指で一つ前の画面に戻り、検索結果から次の記事をクリックする。
そして再び一つ前の画面に戻り、次の記事を開く。
そのどれもが、緋真の知る『檜佐木修兵』は『朽木白哉』だと言っていた。
強大な支配者一族、朽木家の御曹司、ただひとりの嫡男。
類稀な頭脳と美貌に恵まれた、奇跡のような人物。
かたかたと小さく震えながら、緋真はクリックを繰り返す。そうして四度目の繰り返しに、緋真はその記事を目に映した。
『朽木財閥の嫡男 朽木白哉氏の婚約者』
『―――以前から噂のあった通り、朽木白哉氏と結婚の噂のあるY嬢は白哉氏の従妹にあたり、この秋にも正式な婚約が発表されると―――』
『―――のパーティで、仲睦まじく言葉を交わす二人の姿が何人もに目撃され―――』
「騙されていたと―――思い知っただろう?―――可哀想に」
背後から両肩に置かれた手に反応せず、ただ緋真は画面に映る檜佐木を―――白哉を見る。
黒い礼服を身に纏った白哉の前で微笑む自分よりも一つ下の少女を、緋真はよく知っていた―――中等部に在籍中、既に高等部を含めた学院全部を仕切っていた、玖珂家の長女。
玖珂百合子。
「朽木白哉には婚約者がいる。これ以上ない程その身分に吊り合った玖珂家の御令嬢だ。―――お前にない物をすべて持っている、朽木白哉の婚約者。これでわかっただろう?お前は朽木白哉に遊ばれていたんだよ。当然だな、朽木白哉がただの下働きのお前を本気で相手にするはずもない。それはお前にもわかっているだろう?」
肩に置かれた手に力が籠る。
緋真は何も言わず、ただ画面を虚ろに見つめていた。
「お前は騙されていたんだよ」
弘次は何度も繰り返す―――緋真がそうと認めるまで、何度も、何度も。
「―――この男に、復讐したいとは思わないか……?」
耳に唇を寄せ、触れるほどの近さで弘次は囁く―――唆すように、否、傷付いた緋真を唆す為に。
「お前が朽木白哉の部屋のパソコンからデータを落としてきてくれれば、お前に代わって俺が」
「出来ません」
初めて弘次の顔から笑みが消えた。驚きの色を浮かべて見つめる弘次の前で、緋真はもう一度「出来ません」と繰り返した。
「……あの方のご迷惑になるような事は、私には……出来ません」
「騙されてたんだぞ、お前はッ!腹が立つだろう、いいように遊ばれてたんだぞお前はッ!!」
自分が朽木白哉に近づける唯一の手段なのだ。それを簡単に手放すわけには行かない。何としてでも朽木白哉のみが知る情報を手に入れ、利用し活用するのだ。
緋真が朽木白哉の目に留まったその僥倖を、何としても利用しなくてはならない。
それなのに目の前の女は、自分が騙されていたと知ったにも拘らず、自分の手伝いをしようともしない。
激昂する弘次に気圧されることなく、緋真は虚ろに「出来ません」と繰り返す。
荒い息を吐き、弘次は背後から緋真を見下ろした。
蒼褪めた白い肌が、緋真を人形のように見せている。紫色の大きな瞳は感情を失くしてしまったように光を失っている。
下等な人間―――たかが人形の癖に、自分の思い通りにならない苛立ちに、弘次の中に破壊衝動が巻き上がる。
―――壊してやる。
役に立たない人形は、一度完全に破壊しないと使えない。
叩き壊して、主人が誰なのかを思い知らせれば―――その身体に絲を巻きつけ、自分の意のままに動く操り人形に仕立て直す。
黒い思惑に―――再び弘次は笑みを取り戻した。
肩に置いた両手を、ゆっくりと緋真の首に回していく。細い緋真の首は弘次の両手で容易く隠れた。
「朽木白哉の迷惑になる事は出来ない、だと……?」
再び緋真の耳元に唇を寄せ、弘次はその滴る毒を緋真の身体に注ぎ込む。
「……お前と朽木白哉の写真を、あらゆる場所に流したら―――どうなるだろうな?」
びくんと緋真の身体が震えた。
「このご立派な婚約の話はどうなると思う?それに、朽木白哉の評判も―――何も知らない小娘を、名前を騙って騙して弄ぶような男だと、あらゆる場所に流したら―――朽木白哉の迷惑にならないか?」
縋るような表情で、何かを言おうと弘次へ顔を向けた緋真の唇を、弘次は荒々しく唇で塞ぐ。
「―――っ」
咄嗟に逃れようと身を引いた緋真の首を抑え、逃さないようより深く緋真の舌を貪り絡めとる。椅子に固定された緋真の身体に逃げ場はなく、嫌悪に顔を歪めながら緋真は硬く目を瞑る。
数分の間、弘次は緋真の唇を犯し続け―――ようやく離したと同時に「如何する?緋真」と囁いた。
あの写真を公表されたくなければ、と―――弘次は強要する。
弘次にとって、緋真は自分の今後を決定付ける大事な駒だ。
弘次にとってさえ、朽木白哉との距離は余りに遠い。そこに近づく為の貴重な手駒、それが久儀緋真なのだ。自分の思い通りに駒が動かなければ、この幸運を逃してしまう―――それは絶対に避けなければならない。
駒を支配しなければならない。
自分は選ばれた人間だ。
小娘など、一度抱いてしまえば思い通りになると―――今までの経験で弘次は確信していた。
無理にでも抱いてしまえば、どんなに嫌がっていた女も以降は従順に弘次に従った。それが処女なら尚の事―――朽木白哉が既に緋真を抱いているかもしれないが、それならそれで、朽木白哉を裏切ったという負い目から、それを知られないように緋真は自分の言いなりになるだろう。
「如何する?緋真」
舌で緋真の首筋をゆっくりと舐め上げる。傷付ける程の強さでその白い首に歯形を残す。
―――緋真は抵抗しなかった。
「いい子だな、緋真」
くくく、と耳元で哂う弘次の顔を、緋真は硬く目を瞑りその瞳に映そうとはしなかった。
無抵抗にベッドの上に横たわる緋真をシャツのボタンを外しながら見下ろして、弘次はこれから行う行為を楽しんでいる自分に気が付いた。
婚約をしていた時の緋真は、弘次の好みではなかった。何も知らない少女だった緋真は余りにも子供で、弘次の食指も動かなかったのだが、こうして見下ろす緋真は―――以前に比べると格段に違っている。
憂いを身に着け、大きな瞳に哀しみを湛え、小さく震える緋真の身体は弘次の嗜虐心を煽った。もう決して子供ではない、人に裏切られることを知った少女。
自分にではなく、他の男との初めての恋に、その魅力をその美しさを見事に開花させた美しい花。
それを踏みにじることの悦びに、弘次の顔に笑みが浮かぶ。
「抵抗したいならしてもいいぞ?その方が俺も楽しいしな」
シャツを脱ぎ捨て、弘次は横たわる緋真の胸に手を当てた。ふわりとやわらかい感触と、怯えて身を竦ませる緋真に興奮の度合いが上がる。
ワンピースの釦を引き千切りながら、弘次は露わになった胸に顔を埋めた。容赦なく二つの胸を力を籠めて揉みしだき捏ね上げる。痛みに歪む緋真の頬を舌で舐め上げ、嫌悪と苦しみを表す綺麗な顔に欲情した。
小さな顔を抑え付け、舌を差し込む。ぴちゃぴちゃとわざと響かせる卑猥な音に、緋真は弱々しく抵抗した。両手で遠ざけようとするその手首を抑え付け、片手で易々とベッドの上に縫い付ける。
開いた片手で胸を弄り、舌で舌を侵し、膝を割って白い太腿を外気に曝す。
「ん……―――っ」
身を捩る緋真を戒める手はそのままに、胸を弄っていた手を太腿に這わせる。何度も撫でさすり、反射的に暴れる身体を力で捻じ伏せ、悲鳴は唇で塞ぐ。
下着越しに触れたその場所に、緋真の顔が恐怖で歪んだ。
「……楽しませてもらうよ、緋真」
するりと指が下着の中に入る。
余りの恐怖に助けを呼ぼうと開いた唇は、「檜佐木さ……」と言いかけ消える。
檜佐木修兵は―――自分の知る檜佐木修兵は、現実ではないのだ。
幻のようなもの―――この世に存在しない人。
誰も呼ぶことが出来ない、呼ぶべき人は誰もいない。
緋真は唇を噛み締め、ただひとり恐怖に震えていた。
鳴らした電話。
出るはずの電話に出なかった緋真に常にない不安を覚え、白哉は躊躇うことなく緋真の居るホテルへと足を向けた。早足だったその速度はすぐに駆け足のそれに変わる―――先程まで白哉が居た庭園からホテルは近い。アスファルトを鳴らし疾走する白哉に、すれ違う人々は驚きの視線を―――最初はそのスピードに、次いでその美貌に―――向ける。そんな周囲を気にすることなく、白哉はホテルに向かって走った。
大きな道路を挟んで向かいにある目的のホテルを目にして、白哉は苛々と信号が変わるのを待つ。視線の先にはオープンエアの喫茶店が見えた。室内だけでなく、天気の良い日は外で飲食できるようになっているその喫茶店の客の中に緋真の姿はない。
室内に居るのだろうと目を凝らしてみる。境目は硝子で透明だったが、店内の様子は流石にここからでは見ることが出来ない。逸る胸を押さえながら、信号が変わった瞬間に白哉は道路に足を踏み出した。
真正面にあった喫茶店の、白哉の胸の高さの生垣越しに、店内の様子を窺い見る。
―――緋真が居た。
華奢なその背中だけが見える。
そしてもう一人―――その白い手に触れ、細い腰に手を回し、笑みを浮かべて緋真の傍らに立つ男。
「―――上埜門……!」
緋真の婚約者であったその男の顔は、白哉も調査書で承知している。何枚かの写真で観た同じ顔の男が、緋真の手を取り、身体に触れ―――店を出て行くところだった。
「緋真!」
思わず呼んだ白哉の声は、硝子に阻まれ緋真には届かない。僅かに俯いた緋真は、取られた手に抵抗する様子も見せずに上埜門と共に歩いていく。
このホテルは白哉も何度か利用していた―――ホテルの内部を記憶力の高い白哉は熟知している。そして緋真と上埜門が喫茶店を出て左に向かったのを見、白哉はホテル入口に向かって走り出した。
ホテルの出口は喫茶店を出て右。その真反対の方向、緋真と上埜門が向かった方向は、客室に向かうエレベーターのある場所だ。
素直な緋真に何を言い丸め込んだのか―――上埜門の現在の所業はやはり調査書から知っている。緋真との婚約時代には、久儀家を慮って大人しくしていたのだろう。けれど緋真との婚約を解消し、久儀家の資産を手に入れた現在、上埜門は派手に遊び始めていた。
ホテル内に足を踏み入れエレベーターの前へと向かう。その前に既に二人の姿はなく、白哉は唇を咬み5基あるエレベーターを睨みつける。
そのエレベーターは、階の表示されないタイプのものだった。何処に止まったか確認することが出来ない。
すぐに白哉はフロントに足を向けた。
「宿泊客に『上埜門』という男が居る筈だ。部屋番号を教えてほしい」
ホテルのフロント係の男は、そう口にした白哉に「大変申し訳ございませんが」と商業的な笑顔を向ける。
「お客様のプライバシーに関わることですので、お答えすることは出来ません」
「ある女性に身の危険が迫っている、一刻を争う」
「そう仰られましても……大変申し訳ないのですが」
実際、こうした問答は決して珍しいことではない。有名人が宿泊すれば、それを探ろうとするファンも居る。浮気現場に乗り込もうとする配偶者や恋人が、部屋番号を教えろと詰め寄ることはよくあることだ。
フロント係は動じることなく、マニュアル通りに頭を下げながら「申し訳ございませんが、お教えする事は出来ません」と繰り返す。
「支配人は」
「は?」
「ホテルの支配人を呼べ。それに直接命じる」
実年齢通りに見られることのない白哉だったが、それでも『青年』の域を出ることはない。自分よりも年少の青年のその言い様に、フロント係は気分を害したのだろう。または、その美貌への多少の嫉妬はあったのかもしれない。
「お客様、それは」
「早く呼べ。時間がない」
広いロビーに点在する利用客たちが、奇異の目を向けている。白哉の声は決して大きくはないが、近くを通る客にはやはり内容が聞こえてしまう。格式高いこのホテルで揉め事などあってはならないことだ。
机にあるボタンをさり気なく押しながら、「畏まりました」とフロント係は慇懃に笑う。
「お話をお聞きしますのでどうぞこちらへ」
「聞かせる話など何もない。上埜門の部屋を……」
自分に近付く気配を俊敏に察知して、白哉は勢いよく振り向いた。青い制服を着た警備員二人の姿を確認し、白哉の顔は苛立ちの表情を浮かべる。
焦りに任せて行動した為に余計な時間を取っている。最初から支配人を呼べば済むことだったのだ。
上埜門―――この男が関わると、白哉は冷静になることが出来ない。
「別室にご案内致しますので」
丁寧な口調ながら、その顔付きと体格で威圧感を発する警備員にちらりと目を向け、白哉は緋真と繋がる携帯電話ではなく、以前から使用している携帯電話を取り出した。登録してある数少ない番号を呼び出し、通話ボタンを押す。
「檜佐木。至急++ホテルの支配人、若しくは現時点での最高位の者にロビーへ来るよう連絡してくれ」
『はい。直ぐに』
余計な言葉は何も挟まず、檜佐木は通話を切った。言葉通りこれから直ぐに白哉の命令を実行する為に手を打つのだろう。
唖然とするフロント係と警備員の視線を無視して、苛々と白哉は責任者が現れるのを待つ。
やがて慌ただしく壮年の男が現れ、その男は白哉の姿を見た瞬間に、表情を緊張に引き締め駆け寄った。
「朽木さま……ご無礼を致しました、誠に申し訳」
「そんな事は如何でもいい。このホテルに上埜門が部屋を取っているはずだ。その部屋のキーを」
「直ぐに」
支配人が目線で命じると、茫然と事の成り行きを見守っていたフロント係は慌てて手元のノートパソコンで検索し始めた。目の前の青年はとんでもない身分の存在だったらしい。普段従業員に尊大に接している支配人が平身低頭しているその姿に、自分が青年に対してしてしまった態度に蒼褪めながら、震える声で「……2303です」と告げた。
「部屋を一つ取れるか」
「只今、同じ最上階の2301しか空いておりませんが……」
「構わない」
差し出されたキー……すべての部屋を空ける事が出来るカード型のマスターキーを俊敏に……けれど自然に優美になる動きで受け取ると、後は支配人にも警備員にも目をくれずに白哉はエレベーターに向かって走り出す。後を追い共にエレベーターに乗り込んだ支配人に無言で目を向けると、小柄な支配人は「何か問題が……」と蒼褪めた顔で白哉を見上げた。
「個人的なことだ。ホテルに問題はない」
その一言にほっとしたのだろう、支配人の身体から緊張が解けた。白哉の一言で、自分の首が飛ぶことを支配人は承知している。無礼を働いた部下の責任を取る羽目になるかと冷や汗をかいていたが、どうやら自分の首は無事繋がったようだ。
それにしても、と無表情に見える白夜の顔を盗み見ながら、支配人は考える。
上埜門、と白哉が口にした客を支配人も承知している。一週間ほど前から最上階のスウィートに宿泊している客だ。女の出入りが激しいという話を従業員から耳にしている。
上埜門―――最近急に羽振りの良くなった一族だ。それ以前は名前を聞くこともなかったが、今ではある程度の家柄のものとして支配人の頭の中にある上客リストに名を連ねている。
けれど朽木の家とは直接繋がりを持てるほどの家柄ではまだないはずなのだが、と訝しく思っている内に、エレベーターは最上階に澄んだ音を立てて辿り着いた。
「―――今日の事は他言無用だ。いいな」
言外に共にこの階へ降りることを拒否し、白哉はエレベーターから足を踏み出した。真直ぐに2303へと向かう。
黒いカードを取り出し、扉に差し込み認識させる。ピッと軽い音を立てて、扉が解錠した。
広い室内に足を踏み入れ、躊躇うことなく部屋の中を進む。真中の部屋、ソファが据えつけられた部屋には誰も居ない。
その時、気配を探る白夜の耳に、奥の部屋から小さな物音がした。迷わずにその部屋に足を向け、白哉は扉を開いた。
夜景がよく見えるように、壁一面が硝子になったその部屋は明るく―――室内に踏み込んだ白哉の目に、一瞬ですべてがはっきりと写りこむ。
ベッドの上に二人。
組み伏せる男と、その下で震えている少女。
少女の唇に唇を重ね、少女の口内を舌で犯しながら、左手は胸元に差し込まれ猥褻な動きを、右手はスカートの中に差し込まれ、白い太腿を撫でさすっているその光景に、白哉は―――感情を乱すことがないと言われ続けた白哉が、一瞬で焔と化した。
「―――貴様!」
突然現れた人の気配に驚き振り返った男の肩を掴み、そのまま床へと―――片手だけで白哉は弘次を緋真から引き離した。そのまま床へ突き落とす。
驚きの表情を浮かべていたのは緋真も同じ……ベッドの上で上半身を起こし、蒼褪めた顔で白哉を見つめる。その緋真の乱れた衣類に唇を噛みながら、白哉は「大丈夫か」と緋真に手を伸ばした。
びくっと身を竦める緋真の顔に怯えの表情を見て取り、白哉は安心させるように「大丈夫だ、緋真」と繰り返す。
「おいで、緋真」
乱れた胸元を手で押さえながら、緋真はただ震えている。動こうとしない緋真の代わりに、床に放り投げた弘次が立ち上がる気配を感じて白哉は振り返った。
「貴様……」
有無を言わせずに白哉は弘次を殴りつけた。その速さに避けることもできず、弘次はまともに白夜の拳を顔で受け再び床に昏倒する。ベッドの上で緋真が悲鳴を上げた。
「やめて―――やめてください!」
その声が―――緋真の発したその声が、ただ怯えているのではなく恐怖の響きを持っている事に気がついて白哉は振り上げた拳を止めた。
「―――言っておきますが」
殴られた時に唇を切ったのだろう、右手でその血を拭いながらよろよろと立ち上がった弘次は、それでも抵抗する様子もなく―――朽木家の者に手を出せるはずもないのだ、上埜門程度の家では―――白哉に相対した。
抵抗する事は出来ない。けれど、弘次が憤っている事は明白―――その目に燃える憤怒の色を白哉は臆することなく受け止める。
自分の力を白哉は知っている。それは「朽木」という力ではなく、自分自身の力。幼い頃から積み上げてきた自身の能力を、白哉は正確に把握している。目の前の男が、自分に対して脅威になり得る力―――腕力も格闘も頭脳も―――を持っていない事は看破していた。
「言っておきますが―――彼女は」
唇の血を拭い、顔を傷付けられたことに激怒しながらそれをぶつけることの出来ない憤懣に腸の煮えくり返る思いを表した低い声で弘次は言う。
「抵抗しませんでしたよ。むしろ、彼女から誘ってきたのですから。―――誤解しないでいただきたい」
ちらりと投げ掛けた僅かな視線それだけで、緋真は弘次が何を示唆しているのか理解した。
「そ……うです。私から……弘次さんに」
俯きながら、小さな声で呟くように緋真が言うと、弘次は「そういうことです」と白哉を見遣る。
「緋真」
未だベッドの上の緋真の手を引き、身を堅くする緋真の身体を引き寄せる。何か言いたげな弘次にはもう目もくれず、白哉は緋真の釦の千切れたワンピースの上から自分のジャケットを羽織らせた。
白哉に支えられ出口へと向かう緋真とすれ違いざま、弘次はその白い腕を掴んだ。はっと振り返る緋真の耳元に、弘次は白哉にも充分聞こえる大きさで素早く囁く。
「この方の誤解を解いてくれ」
「……はい」
緋真を奪い返すように白哉が強く引き寄せると同時に、弘次は緋真の腕から手を離した。鋭く睨みつける白哉の視線に、弘次は丁重に頭を下げる。その口元に浮かんだ笑みを隠す為に。
それ以降は引き止められることもなく、白哉は緋真を連れ弘次の部屋を出た。そのまま、二つ隣の部屋「2301」の扉にキーを通す。
戸惑うように足を止めた緋真の肩を抱き、優しくそっと部屋へと促す。やはり身を堅くしたままの緋真に、白哉は緋真の心の傷の深さに唇を噛む。
殆ど同じつくりの部屋のソファに緋真を座らせて、白哉は緋真の姿がよく見えるように自分は床の上に膝を付いた。膝の上に握り締められた緋真の手を、自分の手で包み込むように握り締め、白哉は「怖かっただろう」と囁く。
「もう大丈夫だ。あの男には二度と会わないで済むようにする」
「怖く……なかったです。あの人が言った通り、私は、望んであの人に……抱かれようと」
俯く緋真の頬に手を触れ、白哉は「緋真」と名前を呼ぶ。
「あの男に何を言われた?」
「何……何も」
震える声でしか応えられない緋真に、白哉は「私に本当の事を言ってくれ」と諭すように言う。
「何を言ってあの男はお前の自由を奪った?大丈夫だ、私がすべて解決する」
「何も言われておりません」
「緋真」
小さな子供に言い聞かせるように、優しく白哉は繰り返す。
「ならば何故私を見ない。何故真直ぐ私の目を見ないんだ?」
その言葉に、躊躇うように視線を彷徨わせた後、緋真は顔を上げた。目の前の白哉と視線を合わせる。
「―――私はあの人に何も言われておりません」
視線を合わせたまま、緋真はそうはっきりと口にした。
「今までの―――両親が亡くなって以降のことは、私の誤解だったと―――あの人に会ってわかったんです。あの人は今でも私を……そして、私も、あの人を……再会して、やはり私が愛してるのはあの人だと……だから、私は……自分からあの人に抱かれようと」
白哉の目を見ながら、次第に強く緋真は言葉を発する。
まるで何かを振り切るように―――まるで何かに決別するように。
「あの人に会ってわかりました。あの人を愛しています。やはり私の待っていたのはあの人だった―――」
「―――緋真!」
緋真の言葉を遮るように、白哉は緋真の肩を強く掴み、唇を重ねて言葉を封じた。抗う緋真を組み伏せるようにソファの上に押し倒す。顔を背けようとする緋真にそれを許そうとせず、深く舌を差し入れ緋真のそれを捉え絡め取る。
「ん……っ!」
苦しげに声を上げ、白哉を押し返そうとする緋真に、白哉は冷静さを失う。今まで緋真が白哉を拒絶した事はなかった。自ら求めることはなかったが、白哉が抱きしめるといつも幸せそうに微笑み―――何度抱きしめても何度口付けても慣れることはないのか、必ず頬を染め恥ずかしそうに俯いて、それでも白哉の背中におずおずと両手を回し、甘く絡む白哉の舌にぎこちなく応えた。緋真の初々しさに愛おしさが募る、そんないつもの緋真とは違う―――完全な拒絶。
白哉の脳裏に、先ほどの緋真と弘次の光景が―――抵抗せずにベッドの上で弘次の口付けを受け、胸元を肌蹴け身を委ねていた緋真の姿が浮かぶ。
何故自分を受け入れない。
あの男は受け入れたのに。
「何故嘘を吐く―――!」
緋真への想いと、あの男への嫉妬に身を焦がし、白哉は低く強く呟いた。白哉の腕の下で緋真が必死に抵抗する。触れられることを全力で拒む緋真に、白哉は「何故」と繰り返す。
「何故私に嘘を吐く、緋真!」
糾弾するようにそう叫んだ途端、緋真が突然抵抗をやめた。
身を委ねる―――愛しい者へ信を置き、何もかもを委ねるのではない、諦めたような虚ろなその無抵抗に白哉は一瞬前の激情が消え、腕の中の緋真を見下ろした。
緋真が真直ぐに白哉を見つめている。
その絶望に彩られた紫色の瞳に、白哉の動きも止まった。
「―――何故嘘を吐くのかと、私に仰るのですか」
ふと白哉は気が付いた―――緋真のその物の言い様。
いつも緋真はこんな風には話さない。
この口調は知っている―――余りにも馴染みのあるその言葉使い。
「それならば、貴方の……」
ほぼ全ての者が自分に対して使う言葉使い。
「―――貴方の名前を、お教えください」
従者が主人に使う、その言葉―――!
「緋、真」
すべてが露見した。
自分から伝えるのではなく、最悪の形で―――他人からの伝聞で。
「違う―――私は、緋真を騙していたわけでは」
「名前をお教えください」
真直ぐに白哉を見つめ、緋真は言う―――絶望と、微かに揺れる僅かの希望の光。
騙されていたのではないと、そう信じたい緋真の心の微かの希望。
その光に気付きながら、それでも白哉は―――その名を口にすることしか出来ない。
「―――朽木白哉だ」
微かな光は一瞬で粉々に壊れ―――紫の瞳は絶望の色ただ一色に染まった。
ゆっくりと緋真は目を閉じる。視界を遮断する緋真のその行為が、自分を心から締め出したのだと理解し白哉は「違う!」と叫んだ。その声は白哉らしくない、ひどく苦しげな声だった。
けれど緋真は目を開けない。
「―――最初から……騙していたのですね、初めて逢った時から。―――何も知らない私をお嗤いになっていたのでしょう?」
「違う―――違う!」
「……責めているわけではありません。私如きが白哉さまに異を唱えることなど……」
「違う緋真、違うのだ―――ただお前が―――私が朽木白哉と知ったお前が笑顔を向けてくれないのではないかと―――お前が離れてしまうのが怖かった、だから私は!」
抱きしめる―――その強さに緋真は拒絶することなく、けれど想いを返すわけでもなく、ただ虚ろに無抵抗だった。
「すまない、緋真……許してくれ、お前を傷付けるつもりはなかった。必ずいつか本当の名を伝えるつもりだった、お前が私を嫌うことがないと、私自身が自分に自信を持てたときに必ず本当のことを伝えようと―――!」
どんなに言葉を連ねても、どんなに真実を告げても、言葉は何故か偽りの響きを持ってしまう。
たった一つの嘘が、他の全ての真実を偽りに変えてしまう。
「―――もう、よろしいですか」
感情のこもらない平坦な声で緋真は言う―――白哉に抱きしめられたまま、白哉を見る事はなく、緋真は宙を見つめ淡々と言葉を発する。
「失礼してよろしいでしょうか」
「緋真……」
胸が痛む―――身を切られるほどの激しい痛みを感じながら、それでも白哉は緋真を抱きしめていた両腕を離すと、緋真は白哉から身を離した。
一度、丁重に礼をする。
「―――失礼致します」
乱れた服の胸元を押さえ、緋真は白哉に背中を向けた。
小さな身体全体で白哉を拒否し、白哉に何も言うことを許さずに、緋真は部屋を出て行った。
ぱたんと閉じられた扉を前に、白哉は身動き出来ずに立ち尽くす。
緋真を傷付けた。
涙を浮かべることすら出来ない、あの絶望した瞳。
すべての事実を目の当たりにしていても、最後まで自分を信じていた緋真の心を壊したのは―――他の誰でもない、自分だ。
緋真の愛も信頼も、すべてこの手から消え去った。
そしてそれは―――他の誰でもない、白哉自身の所為でしかなかった。
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もしも待っていてくださった方がいましたらお待たせいたしました、過去最高に一話の長くなったSTAYですー。
白哉さんの章もあと半分になりました。
量的には2章分くらいの長さになるのではないかと思うのですけど(笑)
T章U章と比べると、一話の長さが3倍くらいありますので(笑)
その分書くのに時間がかかり、更新が遅れてストレスです、はやくアップしたいのに!
名前がばれちゃいました白哉さん。
緋真さんとの明日はどっちだ!
2008.5.28 司城さくら