夜の9時から11時までが、白哉と緋真、二人が二人きりになれる大切な時間だった。
勿論毎日逢える訳ではない―――雨の日はその場所に行く事は出来なかったし、白哉も両親の命で行かねばならないパーティの出席や、朽木家の一員として出席しなければならない様々な事象が、週に一度はあった。
それでもそれ以外の日はこうして二人で会い、緋真の休日には白哉も学校を休んで共に出かける。元々今までも白哉が学校に行く日はそう多くはなく、白哉が登校していたのは、既に始まっている支配者としての実践、その合間の息抜きのようなものだった。
現在、白哉にとって学校へ行くというのは、家の誰にも知られずに自由行動を取るための方便に過ぎない。例えこの先一日も出席しなかったとしても、学校側が朽木家に連絡を入れるはずもなく、それ以前に、白哉は高校の課程は既に中学で終了しているのだ。今更勉強する必要もない。
二人が交わす会話はそんなに多くはないかもしれない。どちらもそう口数の多い方ではない故に、無言の時間も普通の恋人たちよりは多いだろう。けれどもそれは気まずい無音ではなく、幸せを感じられる無音だった為に、二人は穏やかに優しく時を過ごしている。
想いが通じ合ったばかりの恋人たちには、2時間はあっという間に過ぎていく。
今日もすぐに経ってしまった時間に内心溜息をつき、白哉は緋真を西棟へと送る為に立ち上がる。
「緋真」
軽く両手を広げた白哉は、緋真に向かい「おいで」と促す。その腕の中へ緋真が頬を染めながら身を寄せ、白哉に抱きしめられるのが二人の逢瀬の終わりの合図。
「―――私が南棟勤務になれば、ずっと一緒に居られるんですよね」
一見華奢な、けれど実際にはしっかりと筋肉の付いた白哉の胸に頬を寄せて、緋真は恥ずかしげに目を伏せる。
「私、がんばりますから―――南棟に行けるように」
「緋真―――」
南棟―――主に白哉の住居となるその棟。
その棟で働けるのは、朽木邸の従業員全てを束ねている荻原の眼鏡に適った者だけだ。全て完璧にこなす事が出来なければ、南棟、そして白哉の両親の住む本棟には立ち入ることさえ許されない。
緋真ならば、そう遠くない内に南棟に上がってくるだろう。素直な緋真は教えられたことをすぐに飲み込み、元々良家の子女だった緋真には、上流階級のルールもマナーも自然に身に着いている。そして元来の控えめな性格が、口の軽い、好奇心旺盛な他の少女たちと一線を画し、既に荻原に将来有望な侍女として目をかけられているのを白哉は知っている。
南棟に緋真が上がれば―――そこで、否応なく顔を合わせることとなるだろう。
『朽木白哉』として。
そして、自分が嘘を吐いていたことを緋真が知ったのならば―――緋真は何を思うのか。
「緋真、私は―――」
「でも、白哉さまの元で働くのは緊張しますね」
言いかけていた言葉は、途切れて消えた。
「―――緊張?」
「ええ、だって―――『朽木白哉』さまですよ?私とは住む世界が違いますもの―――きっと私、あの方の顔さえ見る事は出来ないと思います」
檜佐木さんはすごいですね、と白哉の胸に顔を埋めて言う緋真には、白哉の表情は見えない。
結局何も言う事は出来ず―――白哉は無言で緋真の髪に顔を埋める。
このぬくもりを手放したくはなかった。
グラスの触れ合う音と、談笑する男女の声、控えめに演奏される音楽。
煌びやかな世界の中心で、白哉は物憂げに……けれどその屈託を他人に気付かせることなく、怜悧な美貌で人々の輪の中心に居る。
このくだらない催しがなければ、今頃は緋真と共に居られたはずなのに、と腕の時計を見ながら白哉は考えていた。
今頃緋真は何をしているのだろう。
私が感じている半分でもいい、緋真も淋しいと思ってくれているだろうか―――そう考えながら、白哉は機械的にグラスの中のカクテルを口にする。
ひっきりなしに挨拶に現れる、白哉のふたまわり以上も歳の離れた男たちに頷き返し、少しでも白哉と言葉を交わしてもらおうと現れる同年代の青年、微かにでも白哉の意識に留めてもらおうと入れ替わり存在を誇示する着飾った少女たち。
それらに興味のない視線を向けながら、時の過ぎることだけを白哉はただ待っている。緋真と共にいる時間とは違い、今の時間は酷くのろのろとしか経過してくれない。
今日のこのパーティに出席するよう、両親直々に言われていた白哉は、違和感を持って会場を見渡した。
厳命されるほどの重要なパーティではない。
出席者の位もそう高くない。白哉と同年代の若い世代も数多い。普段ならば白哉が出席する必要のないパーティだった。
壁際に立つ檜佐木に肩を竦めて見せ、白哉に少しでも近付き知己を得ようとしている人々の群れに視線を戻し―――その表情が動いた。
「白哉さま」
目の前に立つ、記憶にある少女の顔を目にして白哉の顔は厳しくなる。その瞬間に両親の思惑に気付き、白哉は激しく憤った。
「一年振りですわ―――百合子です」
白哉の趣味には合わない、装飾の多い派手なドレスに身を包んだ、お世辞にも美しいといえない少女がしなを作る。媚を含んだその視線が、男を悩殺すると信じているのだろう―――その姿を真正面から見ないよう意識しながら、白哉は少女に向き合った。
「いつこちらに?」
「まあ、伯母様から来ていらっしゃらないのですか?―――意地悪な伯母様!きっと白哉さまを吃驚させようとなさったんでしょうね」
その、芝居がかった大仰な言葉遣いも白哉の気に障る。あまりにも白哉の趣味と正反対のその少女は、白哉の不興に気付くこともなく、自分が一番美しく見えると信じている下から見上げるその角度で、「一週間前ですわ―――早くお会いしたいと思っていましたのよ!」と流し目をくれた。
「五日後、お招きを受けて光栄ですわ。伯父様に会うのも一年ぶりですもの……伯父様伯母様白哉さまと一緒にお会いできるなんて、百合子、緊張してしまいますわ!」
「―――失敬、何か連絡があったようだ。檜佐木が呼んでいる」
無表情に会話を打ち切っても、その美貌が災いし、相手は何も気付かない。特に不機嫌になることもなく、百合子は「白哉さまはお忙しいですわね―――でも、五日後は絶対、絶対に百合子と居てくださいませね?」と念を押し、彼女にとって取って置きなのだろう笑顔で白哉を見送った。
胸の憤りを抱えたまま、ホールの真中に白哉を迎え出た檜佐木の元へ歩く。片時も目を離すことなく白哉を見守っていた檜佐木には、白哉の不快さにすぐ気付いていた。それ故に白哉を呼び戻す合図をし、不愉快な会合から白哉を救い出したのだが―――
「これでは解決になりませんね」
「解っている。早急に手を打つ」
両親の思惑が知れた今、もうこの場に居る必要もない。怒りを靴音に響かせて、白哉は人気のない廊下を出口に向かって歩いていた。
「でもまあ、あの様子じゃ数ヶ月中に云々、って訳でもないでしょうから―――まあ、第一歩って処じゃないですか」
百合子、と名乗った少女は、勿論檜佐木も知っている。
―――玖珂百合子。
白哉の母の実家―――玖珂家の当主、白哉の母の弟の長女。つまり白哉の従兄妹にあたる。
そして―――現在、白哉の婚約者第一候補だ。
玖珂家は西に拠点を置く。その玖珂百合子がこちらに出てきたということは、当分白哉の近くに居る気なのだろう。学院はもうすぐ夏季休暇に入る。その間中屋敷に居るつもりなのかもしれない、と白哉の目付きは更に剣呑になった。
確かに一時は、この玖珂の長女を娶ることに異議を挟むつもりはなかった。朽木白哉としての自分に必要な妻は、ただ家柄と血筋、そして朽木家の益になるかどうかだけ―――そう思っていたのはたった2ヶ月前だ。
緋真に出逢う前の時期。
けれど、緋真に出逢った今―――白哉に、玖珂百合子を妻に迎える気は、全く、完全になかった。
「五日後、そのつもりがないことを伝える。玖珂側にも、父上母上にも」
それで自分の意見が通らなければ、兼ねてから密かに進めていた計画の速度を上げるだけのこと―――そう呟く白哉の瞳には、十八の青年とは思えない程の、冷徹な、冷静な色が浮かんでいた。
車の後部座席に優雅に座っている白哉の表情が、その物腰とは裏腹に投げやりになっている事に気付くことが出来るのは、この世界では檜佐木と緋真の二人だけだろう。
完璧な美貌は、普段からあまり変化することのない表情の所為で、相手は白哉が内心どんな気持ちでいるか知ることはない。元々他人に興味を持つことのない白哉の性格は知れ渡っていたので、他人が取った行動ならば無礼といわれる態度も、白哉が取った場合はそれが白哉の「普通」になってしまうのだ。
それは普段ならば白哉にとって都合のいい事柄だったが、今日に限ってみれば、多少すら相手に自分の不快を告げることが出来ないことが腹立たしい。
屋敷で顔を合わせて1時間、車に同乗して20分、既に白哉はこの従兄妹、玖珂百合子と共に居ることが耐えられなくなっていた。
両親、特に母親から、夕食時までの間の時間を百合子の為に使えと言われている。この辺りを案内して欲しい、という百合子の願いに不承不承付き合っている―――のだが。
とにかくこの少女はよく喋る―――静けさを好む白哉にとって、それは全く相容れない性質だった。声が良ければまだ耐えられたかもしれないが、その声も妙に甲高い耳障りな声だったので、雑音と意識から追い出すことが出来ない。
朽木家の長男の婚約者として選ばれるだけの家柄である玖珂家、その本家の娘なのだから、その矜持、自尊心は相当のものなのだろう。言葉の端々に、他人を見下す態度が見て取れる。そして我儘放題に育ったその環境が、自身を「絶世の美女」なのだという誤った認識を植え付けたのだろう、やたらに向ける流し目と耐え難いしなの数々に、流石の白哉も心底うんざりとしていた。
百合子と朽木家の顔合わせの今日が、緋真の休みの日と重なっていたことも、白哉の不愉快さを上昇させていた。週に一度しかない、丸一日緋真と過ごせるはずの貴重な時間を、他者に奪われるのは我慢がならない。けれど、今日の夜、両親も同席する夕食時にはっきりと婚約の意思がないことをその場の全員に告げなければ、この話は更に先へと進んでいくだろう。不本意だが仕方がないと、百合子と遭遇したパーティの次の日の夜、いつもの場所で緋真に次の休みには一緒に出かけることが出来なくなった旨を謝罪しようとした白哉より先に、何故か緋真が「ごめんなさい」と謝った。
「今度のお休み―――用事が出来てしまって」
「用事?」
申し訳なさそうに身を竦める緋真が愛らしいのと同時に、まだ自分に遠慮が見える緋真に多少焦れる思いが白哉にはする。けれど今はその事よりも、緋真の用事のほうが気になった。
緋真の生家である久儀家は西にあった。そこから一人でこちら側に来た緋真には、この辺りには誰も知り合いが居ないはずだ。その白哉の考えがわかったのだろう、緋真は小さく首を傾げて、
「両親が亡くなった時の弁護士から連絡があって……手続きしなければいけない書類がまだあるそうなんです」
白哉の形のいい眉が顰められる。その弁護士は、緋真から何もかもを取り上げた、上埜門の息のかかった弁護士の筈だ。
「しかし―――その弁護士は」
「ええ、……あまり、いい印象はないんですけれど……もう、私は何も持ってはおりませんし。それに、父が会社で使っていた私物を渡してくれるそうなので……受け取ってまいります」
「……私の部下……私の友人も同行させよう」
「大丈夫です、何もありませんから……それに、会うのは++ホテル1階の喫茶店ですし」
都心の一流ホテルの名前を挙げ、緋真は「大丈夫です」と繰り返した。
「もし、複雑な書類でしたらその場でサインはしないで持ち帰ります。そうしたら見てもらっていいですか?」
「勿論。……いや、どんな書類でも、その場でサインせずに持ち帰った方がいい。私が確認する」
「ありがとうございます」
くす、と笑ったのは、白哉が心配を隠そうとしないからだろう。白哉のそんな表情を見た事は、緋真も初めてだった。
「何時に会う?」
「13時に、との事でした」
「14時に電話する」
「……大丈夫ですのに」
くすくすと笑う緋真に、本当ならば、ずっと傍に置いておきたいと思っていることを告げたら、この少女は如何思うだろうかと白哉は思う。
ただ自分の傍に居て欲しい。
ただ自分だけに笑って欲しい。
それは紛れもない独占欲だ。
緋真の全てが欲しい。
けれどそれは、力尽くでは意味がない。
緋真を泣かせたくはないのだ―――いつも、自分の腕の中で笑っていてくれたらいいと思う。幸せにしたい―――どんな事からも、すべての事から緋真を護り、愛し抜く。
隣のシートで自分を見上げ、全く興味のない話を何時までも続けている百合子を時折冷淡に見つめながら、白哉はこの苦痛だけの時間を紛らわす為に緋真のことを考える。
緋真ならば、こんな風に必要以上に自分に触れてくることもないだろう。何度抱きしめても、その度に緋真の頬は薄紅色に染まり、恥ずかしそうに顔を伏せる。腕の中に抱きしめた緋真の鼓動はいつも速く、あまりの速さに心配してしまうほどだ。
17歳というのに、あまりにも純粋で純真な緋真―――そう考えて、ふと白哉はそれに気付いた。
「貴女の学校は確か―――」
「貴女だなんて……百合子、と呼んで下さいませ、白哉さま」
縋るように触れる腕とその言葉に全く応える気のない白哉は、社交辞令そのままの薄い笑顔で「貴女の学校は確か秀瑛でしたか?」と尋ねた。
百合子は上目遣いで「意地悪な白哉さま!」と訴えた後、「ええ、そうですわ」と自分に興味を向けてくれたと勘違いしてにっこりと微笑んだ。
「西で白哉さまの通う英黎に吊り合う学校と言ったらそこしかありませんもの。百合子も勿論秀英ですわ。私が入らなければ秀瑛も納得しませんでしょうし、何しろ玖珂家は―――」
続く百合子の言葉を全く耳に入れずに、白哉は檜佐木が渡した緋真の調書の文面を思い出す。
緋真も、両親が事故にあうまでは秀瑛の生徒だった。
ただ、緋真は17、百合子は16……百合子はまだ秀瑛に入学して3ヶ月だ。緋真と顔を合わせたことはないだろう。
やはり過去の自分を知っている者に緋真は会いたくないだろう……その点は大丈夫か、と安心した白哉はちらりと時計に目を走らせた。
もうすぐ14時になる。
「・・苑に」
指示した白哉の声に、運転手は「はい」と返事をし、車は滑らかに進路を変える。
自分が一番可愛らしく見えると信じている小首を傾げるポーズで見上げる百合子に、白哉は「・・苑の庭は今一番美しい。見て行くといい」と告げる。
「ま……あ!素敵ですわ!ええ、是非!」
白哉の誘いに有頂天になった百合子を見ずに、白哉はシートに身を委ねる。・・苑は++ホテルに程近い。
車は微かの振動を伝えることなく、やがて・・苑に辿り着いた。
車から降り、庭園へと向かう。途端、白哉の来訪に気付いた支配人たちが、慌てたように白哉に向かい、深々と頭を下げる。
「これは白哉さま、ようこそおいでくださいました。事前にご連絡いただければ、門までお迎えしましたものを」
丁重に挨拶をする支配人に、白哉は百合子の手を取って引き合わせた。百合子は白哉の触れた手に陶然とした表情を浮かべている。その表情を完璧に無視し、白哉は支配人だけを見つめ「私の従兄妹だ。庭園の案内を頼む」と小百合を押し付けた。
「え―――白哉さま?」
「私は暫く後に戻る。それまで堪能してるといい」
「え、そんな―――白哉さま!?」
白哉の命は絶対だ。恭しく百合子を庭園へと案内する支配人に後を任せ、白哉は足早にその場を去る。
駐車場を迂回して、正門から徒歩で白哉は++ホテルに向かう。歩きながら携帯電話のボタンを押した。緋真だけと繋がる携帯電話だ。
呼び出し音が続く。
『ただいま電話に出ることが出来ません。御用の方はピッという音の後にお名前とご用件を……』
感情の見えない女性の声に切り替わった電話を手に、白哉は立ち止まる。
時計を見る。―――14時を僅かに過ぎている。
14時に電話をすると伝えてある。緋真ならば、相手に謝罪をしてから必ず自分の電話に出るはずだ。
酷く厭な―――予感が、した。
緋真は指定された喫茶店で、困惑したように腕にはめた時計を見る。
約束の時間は13時……既にその時間から20分が過ぎていた。
席に着いた時にオーダーした紅茶はカップの中で温度を失っている。相手に連絡しようにも、相手の電話番号はわからない。向こうも自分の電話番号を知らないのだから連絡の取りようがないのかもしれない。そう気を取り直して緋真は目の前の携帯電話に触れた。
この電話番号は白哉しか知らない。白哉が緋真に渡した、二人同じデザインの携帯電話。白哉の電話には緋真の番号しか登録されておらず、緋真の電話には白哉の番号しか登録されていない。
二人だけの繋がり。
いつもの場所で会った後、「また明日」と一言告げて切れた電話。
いつもの場所で会えないとき、「お休み」の一言だけを告げにかかってきた電話。
そんな些細なことがひどく幸福だと思う。
両手でそっと握り締め白哉を想う緋真の、目の前の席が引かれた。
腰掛ける音に顔を上げる。
「―――っ!」
がた、と椅子が鳴る。
思わず立ち上がった緋真の前で、悪びれる様子もなく、男は緋真に笑いかける―――記憶のままの……既に緋真にとっては遠い過去の、思い出したくないあの時と同じ笑顔で。
「久し振りだな」
長い足を組み、背中を椅子の背凭れに預け、鷹揚に男は言う―――驚きに声もない緋真を見つめ、楽しそうに。
「どうした?まさか俺を忘れた訳でもないだろう?」
緋真に向けた笑顔の底に黒い思惑を隠しながら、上埜門弘次は―――呼ぶ。
「緋真」
緋真は何も言えず―――ただ立ち尽くす。
縋るように、手の中の携帯電話を握り締めながら。
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