緋真にはいつも笑顔でいて欲しい、そう思った。
 初めて出逢ったあの時の哀しい歌声、身を切られるようなそんな切ない歌を、緋真に歌わせたくなかった。
 あの憂いの表情を消し、常に笑顔でいて欲しいとそう願った。
 焦れるほどの奥ゆかしさ、それでもようやく浮かべた笑顔の愛らしさに胸が躍った。
 自分に徐々に打ち解けてゆく緋真に、心が弾んだ。
 いつまでもその姿を見ていたいと、
 何時までもその声を聞いていたいと、そう、思った。
 けれど―――
 ―――あの歌。


『待てど暮らせど、来ぬ人を―――』


 あの歌が―――緋真を置き、去ってしまった婚約者への想いの歌ならば。
 待ち侘び、願い、諦め、それでも僅かの望みを込めて歌う、それがあの歌だったのならば。
 緋真は―――今でも待っているというのか。
 婚約者を待ち侘び、変わらぬ想いを胸に、此処から早く連れ出して、と……そう願っているのか。
 自分に出逢ってからも歌われたあの歌。


『待てど暮らせど、来ぬ人を―――』


 自分では緋真の歌を止められない。
 そう、思い知らされた昨日の夜。
 緋真の生い立ちを知り、その歌に込められた緋真の想いを知り、自分は緋真の中に何の影も落としていないことを知った。
 緋真の心は―――別の男に向いている。
 何度も緋真と二人で出かけていたという、その男。
 自分よりも前に緋真と出会い、緋真と過ごしていた男。
 婚約者という肩書を持つ男。
 緋真もそれを認め、頻繁に会っていたという―――そして、家族を失ったときに緋真が頼った男。
 信頼し、全てを委ねたという男。
 全てを、委ねた?
 途端、制御できない熱い想いが―――今まで一度としてコントロールできない感情など持った事は無かった。いつでも冷静に、どんな時でも感情に流されることなく、機械のように理性だけを所持していた自分が、我を忘れた。
 緋真を手に入れた……否、今でも緋真を手にしている男。
 そして今でも、男を待ち続けている緋真。
 胸の中に白い炎が燃え上がる。
 緋真を誰かに渡すことなど考えられなかった。
 緋真の笑顔が自分以外に向けられることも、緋真の声が誰かの名前を甘く呼ぶことも、
 緋真が誰かの腕に抱かれることも―――許すことなど、出来るはずがない。
 緋真という全てが欲しかった。
 自分を見つめて欲しかった。
 緋真を捨てた男などよりも、自分は遥かに緋真を愛している。
 決して泣かせない。決して一人にしない。
 いつでも自分の腕の中で、緋真には笑顔だけを浮かべさせることが出来るはずだ。
 目を―――覚まさせなくては。
 緋真を幸せにするのは自分だと。
 緋真のそばにいるのは自分だと。
 暴走する感情、その想いのままに緋真に接し―――結果。
 緋真を怯えさせた。
 自分を見上げる、恐怖を帯びた大きな瞳。
 掴んだ細い腕から伝わる身体の震え。
 振り返ることなく走り去った背中。
 ただ見送ることしか出来ない緋真の姿に、胸の内の焔は消え失せ、後悔の念だけが自分を襲う。
 緋真は二度と、自分に笑顔見せることはないかもしれない。
 もう二度とこの場所に来る事はないかもしれない。
 もう二度と緋真に逢えず、
 もう二度と緋真の声を聞けない。
 自分たちの関係など希薄なもので、確かなものなど何もない。
 約束も無く強制も無く義務も無く、厭ならば来なければいい―――その程度の関係。
 もう二度と、緋真は現れないだろう。
 もう二度と、微笑みかけてくれることはないだろう。
 そしてもう二度と―――自分は誰かに心を動かすことも無く。
 後悔だけを胸に、生きていくのだろう。
 毎日毎日、来ない緋真を待ち続ける。二人だけの時間を過ごしたあの場所で。
 そして自分が口にするのか、あの歌を。
 緋真が口にしたように、哀しみと絶望と、僅かな希望を込めて。


『待てど暮らせど、来ぬ人を―――……』












   





 決して居ないだろうと―――来ないだろうと思っていた。
 あの瞬間に緋真が浮かべた表情はそれ程恐怖に彩られ、怯えてたのだから。
 それでも、と一縷の望みをかけて足を運んだその場に、小さな姿を見つけて白哉は目を疑った―――驚きに歩みも止まり、呼吸も止まる。
 月の下に俯く緋真は本当に儚く、親とはぐれた小さな子供のように寄る辺無く、緋真の天涯孤独のその身の上を否応無く思い出させた。
 思わず小さく名前を呼んだ白哉の声に、緋真は顔を上げた。
 そこに浮かぶ表情に怯えの色はなく、恐怖の色もない。
 ただ―――浮かぶのは。
「檜佐木、さん……」
 親も無く、帰る家も無く、頼れるものも無く、たった一人、まだ17歳の身の上で―――その緋真が浮かべていた表情、それは怯えでも恐怖でもなく……
「私……檜佐木さんを、怒らせてしまったのでしょうか」
 泣きそうな心を必死でこらえている、大きな……潤んだ瞳。
「ごめんなさい……私、何をしてしまったんですか。昨日、一晩考えたんですけど、全然……わからなくて」
 理不尽だと怒ることも無く、ただ、ごめんなさいと呟く震える身体。
「……如何して怒ったのか、教えてくれませんか。そうしたら、私、檜佐木さんを怒らせるつもりじゃなかったこと、ちゃんと説明して、それから―――」
 緋真の声が途切れた。零れそうになる涙を堪えているのだろう、俯き地面を見つめ、呼吸を整えている。
「―――きちんと説明して、それから……謝、」
「緋真は何も謝る必要はない。―――謝るのは、私だ」
 緋真の言葉を遮って白哉は言う―――泣き顔を見たくないと、いつも笑顔でいて欲しいと願っているはずなのに。
 緋真を泣かせているのは自分自身だ。
 嫉妬―――そう、紛れもなく嫉妬心から、緋真に八つ当たりをしたようなものだ。
 人の心は、思い通りになる筈もないのに。
「謝るのは私の方だ―――緋真。昨日はすまなかった。私が悪い……緋真が謝ることはない。お前は何もしていないのだから」
「何も……してない筈がないです。私が何かしたから、だから檜佐木さんが」
 まだ緋真に笑顔は戻らない。もう二度と笑顔を向けてもらえないのではないだろうかと白哉は不安になる。
 もう二度と逢えないのでは、と不安に駆られ、それが杞憂に終わった今―――直ぐに他の欲が出る。
 また、緋真の笑顔が見たい、と。
「―――歌、が」
「歌?」
「緋真が―――歌っていた、歌。―――あの歌は、誰かを待つ歌なのだろう」
「―――……」
「緋真は……此処から違う場所へ還りたいのではないか、と―――そう、思った。思って、―――憤った。身勝手だな」
「檜佐木さん……」
「後悔した。緋真を怖がらせた自分が腹立たしい―――緋真?」
 突然両手で顔を覆った緋真を見、白哉は言葉を止め緋真の名前を呼んだ。緋真の細い身体が震えているのを見てうろたえる。
「もう……二度と、ここに来てくれないかと……思っ……」
「緋真」
「嫌われたと……思って……もう、話も出来な……」
 氷のような、機械のような、と評された白哉の乱れることの無い感情が、たった一人の少女の言動で掻き乱される。
 肩を震わせてなく目の前の少女の涙を止める術がわからず、彼らしくもなくその顔に困惑の表情を浮かべて立ち尽くす。
 ここにいるのが本当の檜佐木修兵ならば、さり気なく少女を抱き寄せ、自身の体温を相手に伝え落ち着かせるだろう。けれど白哉にそんなことが出来るはずもない。
 何とか緋真の涙を止めようとその方法を考える。けれど、少女の涙の前では、天才と謳われた白哉の頭脳も働かない。それでも、普段の働きの5%も動かない頭を何とか働かせて、ようやく白哉は言葉を口にした。
「何処か、緋真が行きたいところはないか?行ってみたい所や、やってみたいことがあれば……」
 緋真の涙は止まらない。まだ両手で顔を覆い、肩を震わせている。
「こんなことで許されるとは思っていないが……何か、緋真の望むことをさせて欲しい」
 少しだけ、緋真の身体の震えが止まった。それに勇気を得て、白哉は不器用に話しかける。
「欲しいものがあれば言ってくれ。いや、金で許しを請おうとしているわけではなくて……私の所為で緋真を泣かせてしまったから……お詫びに、と……如何したらいいのか、何をしたらいいのか私にはわからないのだ」
 両手で顔を覆ったまま、緋真は首を横に振る。許してくれる気はないのか、と悄然とする白哉の耳に、「お詫びなんて……」と小さな緋真の声がした。
「お詫びなんて……必要ないです。私はただ、これからも……檜佐木さんと此処でお話できればそれで充分です。ありがとうございます、お気持ちだけで凄く嬉しいです」
 笑顔はまだ両手に隠して見せてはくれないが、その声からはもう涙を流していないことが分かった。ようやく涙を止めることに成功し、白哉はほっと息を吐く。
「欲しいものがないならば……何処か、行きたい場所を。何か、してみたい事を」
「いえ、本当に何も……」
「私の気が済まない。何かをさせてくれないか。何処へでも―――緋真が行きたい場所へ。緋真がしたいことでも構わない。何か私にさせてくれ」
 決して引かずに、必死と言える白哉のその言葉に、緋真は暫く逡巡した後、「本当に、我儘言っていいのですか?」と応えた。
「勿論。何でも言ってくれ」
「あの―――私、行ってみたい場所があって。こちらのお世話になる前は、私、西の方に住んでいましたから……行く機会が中々なくて。こちらに来ても、友人もいなくて、独りでは行き辛くて……もし、よかったら……」
「行こう」
 即答する白哉に、やはり暫く言うか言うまいか躊躇った後、緋真は「……マジックキングダムに、行きたいです」と、俯いたまま恥ずかしそうに呟いた。
 マジックキングダム……その名は白哉にも聞き覚えはある。
 海に面した広大な敷地に拡がる、架空の世界をイメージしたテーマパーク。現実感を来客に与えないように、徹底して造られた非現実の世界。7つに分けられたエリア、アトラクションやパレード。
「次の休みは何時だ?」
「え……あの、明後日です、けど」
「明後日、行こう。良いか?」
 躊躇うことなくそう言う白哉に、緋真は驚いたように顔を上げた。冗談かと思ったが、見上げる白哉の顔はひどく生真面目で……からかわれているとも思えない。
「でも檜佐木さんのお仕事は……」
「そんなものは如何でもいい」
 事も無げにそう言う白哉に、緋真は首を横に振る。「仕事は本当に大丈夫だ」と慌てる白哉に、「違うんです」と恥ずかしそうに緋真は再び俯いた。
「私、私服って持っていなくて……ごめんなさい、直ぐに、と言ってくださるのは嬉しいんですけど……明後日は、檜佐木さんと出かけられるように、ちゃんとした洋服を買ってきます。その後でも良いですか?」
「明後日の次の休みは?」
「10日後になりますけど……あの、檜佐木さんの予定が合わなければ、何時になっても私、構いませんので……」
 勝手ばかりごめんなさい、と謝る緋真を前に、白哉は暫く考え込んだ後、「わかった」と顔を上げた。
「では、10日後……その日は間違いなく、私と出かける。いいな?」
「はい。……檜佐木さんがよろしければ」
 俯く緋真に、白哉は表情を曇らせる。
 緋真は意図して白哉の顔を見ないように視線を避けている。泣き止んだとはいえ、笑顔を見てもいず、緋真は俯き顔を隠したまま―――未だ緋真に許されていないのではと不安に駆られ、白哉は「怒っているのか?」と、白哉らしくもなく問いかける。
「怒ってなんて―――いません」
「では何故、私を見ない」
「―――酷い顔、してるから。檜佐木さんに見られたくないんです」
「酷い顔?」
「あの、……泣いた、から。酷い顔になってるから……」
 俯いた顔を両手で隠し、うっすらと頬を染め、緋真は消え入りそうにそう言った。恥ずかしそうに身を縮めているその手を取って、白哉は優しく、隠していた顔を露わにさせる。
「そんな事はない」
 大きな瞳は涙に濡れたまま、恥ずかしそうに白哉を見上げている。
 月の光に照らされた、清楚で可憐な少女。
 途端に胸に湧き上がる愛しい想い。
 大切にしたいと、心から想う。
「……とても綺麗だと、思う」
 白哉の言葉に、驚いたように緋真は目を見開き―――頬を真赤に染めて、恥ずかしそうに微笑んだ。
 それは白哉が望む、緋真の笑顔だった。 






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