人の気配に振り向いた緋真の表情には、初めて出逢ったときの誰何の怯えはなく、心待ちにしていたとわかる満面の笑顔で「こんばんは」と頭を下げた。
「今日のお仕事は終わりましたか?檜佐木さん」
「ああ。―――緋真は。仕事には慣れたか?」
「はい、……まだ色々怒られてしまいますけど。来月には西棟に移れるかもしれません」
嬉しそうに両手を合わせる緋真を見つめる白哉の目は、普段の白哉を知る人々が見れば驚きに声をなくしただろう。
あまりにも優しいその瞳。
無機質な、と評されていた冷徹な光は其処にはない。
穏やかな月の光と同じように、静かに緋真を見つめている。
初めて出逢ったあの日、西棟の近くまで緋真を送った白哉から、これからもあの場所で逢えるかと問われた緋真は、戸惑いながらも頷いた。
約束はない。
時間が出来た天気の良い夜の10時から11時の間に、初めて逢ったあの場所で、二人は言葉を交わしている。
緋真の仕事、白哉の朽木家嫡男としての仕事ですれ違うことも多かったが、逢えない日々は逆に逢いたいという想いを募らせる。
自分でも不思議なほどに、今、白哉の心の内は、久儀緋真という少女が大部分を占めていた。
緋真よりも美しい少女も、艶やかな女性も、白哉は限りなく見てきている。その着飾った美しいどんな女達よりも、白と黒の朽木家の制服を着た、化粧気のない緋真の方が美しいと思う。
従者という身分ながら、緋真からは気品というものが感じられる。凛とした美しさは生来のものなのだろう。決して我の強い訳ではなく、むしろ謙虚すぎて焦れるほどだが、それでも時折ふとした瞬間に見せる意志の強さに、白哉は興味を覚えていた。
今日も部屋を出、二人だけのその場所へと向かう白哉の耳に、細い鈴の音がする。
今日は来ている、そうわかると自然に速くなる鼓動と歩調。
音を気にせず緋真へと向かうと、緋真は大きな木の幹に背中を預け、頭上の月を見上げ何かの歌を口ずさんでいた。
その声が、初めて出会った時のあの歌だと気付いて白哉は足を止める。
あの日聴いた名前も知らないその歌に、何故ここまで気になるのかもわからないまま、白哉はその歌を聴こうと歩を進める。途端、ぱきんと足元で小枝が折れ、緋真の歌声が途切れた。
振り返った緋真の顔に浮かぶ笑顔に、白哉の顔にも笑顔が浮かぶ。
そうして始まった短い逢瀬に、二人はいつもと同じように大きな樹の幹に背中を預け言葉を交わす。
「いつか、南棟に移って……というのが目標なのですけれど」
その言葉に複雑な笑みを浮かべた白哉に、視線を足元に向けていた緋真は気付かなかった。
檜佐木修兵と―――緋真に名乗ったのは、正しいことだったのか。
間違いないのは、朽木白哉だと伝えたならば、緋真はこうして白哉と口を聞くことも夜に二人で会うこともなかっただろう。緋真にとって白哉は主人なのだ。こんな風に気軽に口を聞く事は出来ない。
しかし、檜佐木修兵と名乗っている今―――白哉が緋真を騙している事に変わりない。
悪意はない。
事実を今告げたら―――どうなるだろうか。
自分は朽木白哉だと。
「―――檜佐木さん?」
不思議そうに顔を覗きこむ緋真に、白哉は「いや」と首を振った。
「緋真なら、直ぐに南棟に行けるだろう。本邸にも問題ないと思う」
「―――私の仕事、見たことないじゃないですか」
「……荻原に聞いた」
「荻原さまに!?」
「あ、いや……荻原はよく南棟にいる。その際に」
「……檜佐木さん……私に言ってないこと、ありますよね?」
不意に強く見つめられて、白哉は―――あの白哉が、視線を背けた。
「……言っていない……こと」
「白哉さま」
びくりと白哉の肩が震えた。驚きに思わず息を呑む。
騙していたつもりはなかった、と口に出そうとした瞬間に、
「―――付きであること、何故言ってくれないんですか」
そう続いた緋真の言葉に、白哉は密かに安堵の溜息を吐く。
「あ……ああ」
「私が何か、特別処置をしてもらおうと考えるのが困ると思うからですか?檜佐木さんは、私を―――そんな風に思っているんですか?」
「いや、そんな事は思っていない。―――何となく……そう、白哉……さま付きの檜佐木と知られたら……私の噂は、あまり緋真に聞かせたくない、と」
「噂?」
大きな目を見開いて少しだけ考えた後、緋真は「あ」と呟いた。それから「ええ、あの……でも」と困ったように笑みを浮かべる。
「噂とは全然印象が違いますから……あ、でも……本当の事なのでしょうか?」
「……どんな噂だ?」
「ええと……女性に、その」
「…………」
確かにその檜佐木の噂は事実だ。白哉はそれを知ってはいるが、それを肯定してしまうと、緋真にとっては自分が檜佐木なのだ、「自分は女性に手が早い」と緋真に認めてしまうことになる。
返事に窮する白哉の前で、「でも、あの、本当にそんな風には見えませんし、私は信じてませんから」と、にこりと微笑む緋真に白哉の胸の鼓動は速くなる。
何故、この少女が自分に微笑む度に胸が高鳴るのか―――そう自問したのは、三度目の逢瀬の事だったか。
少女の言葉、少女の表情ひとつが酷く気にかかる。
初めて見たときのあの哀しげな顔をさせたくないと、少女を見るたびに心に思う。
あの哀しい歌を、あの哀しい声で歌わせたくないと。
つまり自分は―――この少女に惹かれているのだと、そう気付いたのは五度目の逢瀬。
逢う度に愛しさが募る。
自分も人としての感情というものがあったのだと、今まで抱いたことのない想いの深さに苦笑する。
緋真の笑顔に心が震え、緋真の憂う表情に胸が痛む。
「―――白哉さまって、どんな方ですか?」
話題を変えようとしているのか、そんな質問をする緋真に、やはり白哉は返答に窮する。
「―――緋真には……どんな風に見えている?」
苦し紛れにそんな言葉を返すと、緋真は小さく首を傾げ「そうですね」と呟いた。
「実際お見かけした事はないのですけど……綺麗な方だと聞きました。眉目秀麗、頭脳明晰。気品ある方で、……でも」
「でも?」
「白哉さまの、……内面のようなものは聞いたことないんです。優しい方とか、厳しい方とか、冷たい方とか、怖い方とか……そんな内面に関するお話は全く聞いたことがないので……まるで人形のような印象しかもてなくて。同じ『人』なのかしら、って。だからどんな方なのか、ちょっと聞いてみたかったんです。でも、興味本位でしたね、ごめんなさい」
「……普通の男だ」
「え?」
「普通の『人』と変わらない。普通の……何も特別じゃない」
「……檜佐木さん?」
自分を見つめる白哉の視線の強さ……切なさと言っていいその強さに、緋真は不思議そうに目を見張る。
月は変わらず二人を照らし、初夏の風が二人の間を通り過ぎていった。
翌日も仕事の緋真の身体を気遣って、二人の逢瀬は日付が変わる前に終わる。
今日も11時過ぎには西棟の緋真の宿舎近くまで送っていき、夜に紛れるように南棟の自室まで帰ってきた白哉は、部屋について間を置かずに叩かれた部屋の扉に眉を顰める。
「失礼致します」
白哉の了承の声と共に部屋へと入ってきた檜佐木の前には、いつもと同じように紅茶のセットが置かれたワゴンと、そのワゴンの下の段には茶色い封筒があった。かなり厚みのあるその封筒を、白哉は目敏く気づいていたが、それに対しては無言で通す。
慣れた手つきで紅茶を用意する檜佐木の前で、完全な無表情で通していた白哉は、目の前にカップを置いた檜佐木の手が小刻みに震えているのを目にして「不愉快だな」と冷たく言い放つ。
「笑いたければ笑え」
「何故私が笑うのです?」
そう応えながら、檜佐木は堪えきれずに笑い出した。
「そんなに私の噂は酷いものなんですか。―――少し、行動を改めた方がいいかもしれませんね」
「今更だ。緋真の耳に届く程だ、屋敷中の全ての者が知って居るということだろう」
豊かな香りを楽しみながら、白哉はカップを手に取った。薄い白磁のカップは繊細な音がする。
「ですが―――白哉さま」
笑いを収め、檜佐木は真面目な顔で白哉を見つめた。これ以上ないと言うほどの真剣な声で、檜佐木は言う。
「名前を―――偽ってはいけません。白哉さまの気持ちはわかります。白哉さまの恐れも危惧も不安も―――けれど、偽りはいけません。意識して故意に騙すこと、それは如何なる理由があっても、愛する人にしてはなりません。何故なら、ひとつの偽りがある故に、全てを信じてもらえなくなるからです。たったひとつの偽りが、他の全ての真実を偽りに変えてしまう」
その言葉に、白哉は無言だった。しばらく無音が豪奢な部屋の中を支配する。
「―――わかった。近い内に、本当のことを話す」
暫く後にそう告げた白哉の言葉にほっとしながら檜佐木は笑みを浮かべた。
「大丈夫ですよ、白哉さまが心からの想いを伝えたら―――どんな相手だってイチコロです。私が初めて貴方に逢ったときのようにね」
その楽しそうな檜佐木の笑顔を変わらぬ無表情でやり過ごしながら、白哉は「いつから気付いていた」と問いかける。
「貴方が夜中に抜け出しているようだと気付いたのは一月前くらいですね」
それはほぼ最初の頃からだな、と白哉は動じずに言葉を返す。
「どこへ行かれているのかはわかりませんでした。それで失礼ながら後をおつけして、貴方と彼女を見つけたのが三週間前」
「全く気付かなかったな」
「それは、私がそういった訓練を受けているからですよ。簡単に気付かれるようでしたら貴方の護衛は出来ません」
肩を竦め紅茶を飲む白哉に動揺はない。
「私は嬉しいんですよ。白哉さまが誰かに心を動かされた、その事実が」
真実、心から嬉しそうに檜佐木は言う。
「貴方が誰かを愛しいと思う、その事実が」
「…………そう言いながら調査はするのだな」
ワゴンの下の封筒に目を向け、皮肉気に笑う白哉に、悪びれる様子もなく檜佐木は「それは勿論」と微笑み、ワゴンの下から封筒を取り出した。
「白哉さまの身に危険があってはなりません。白哉さまに近付く者の身辺調査は徹底させていただきます。これは、相手が誰であっても」
一転、冷徹な瞳でそう言い放ち、そしてまた次の瞬間にはその氷を自ら溶解させ、檜佐木は「調査結果です」と書類の束を取り出す。
「後ほど目を通していただきますが、大まかな所だけ報告させていただきます。―――久儀緋真。19××年2月11日生まれ、現在17歳。元は―――白哉さまはご存じないかもしれませんが、それなりの家柄でした。朽木グループの一端、中枢部から程遠いですが、それでもグループ内に名を刻むことを許された家です。兄弟はなく、一人娘。父の久儀明義氏は、会社創設者の孫で三代目社長ですね。母の比沙子さんは、公家の―――これもまた傍流ですが血を引いているお嬢さまらしいです。明義氏は三代目ということですが、血族承継にありがちな、二代目以降は無能者ということもなく、明義氏の父も明義氏本人も、目立った才はなくとも劣る要素もなく、まあ、野心もなく温厚な人物だったようです。後継者争いで泥沼になるようなずば抜けて大きな会社でもなく、上流のなかの中流、と言えばいいですかね。緋真さんは私立秀瑛学院に入学、成績は上位50位以内に毎回入っていたようです。特に目立つこともなく―――秀瑛は『西の秀瑛、東の英黎』と言われるほどうちの学院と肩を並べる学校ですからね、彼女程度の家柄ではそう目立つことも許されなかったでしょう。そうそう、玖珂の長女も秀瑛、つまり緋真さんと同じ学年にいたようですね。まあ今となっては白哉さまには如何でもいい事ですが。……人柄は温厚、よくもまあこんな腐った人間の集う、特権意識の凝り固まった連中と同じ学院に通っていながら綺麗な心でいられるものだと感心するほどに、優しい少女のようです。気弱なところもあるようですが、美点に比べたら些細なことです。このまま行けば幸せな結婚をして、恐らく何処かから婿養子を取って、久儀の家で平凡な生活を送る予定だったのでしょうが……半年前に、彼女の全てが変わってしまった」
一度檜佐木は言葉を切り、白哉へと目を向けた。その檜佐木の視線の先に、椅子に深く腰掛け、静かに耳を傾ける白哉の姿がある。
「―――発端は、彼女の婚約話でした」
ぴくりと白哉の組んだ指が小さく動いた。
「白哉さまにはご説明するまでもありませんが、ある程度の家柄に生まれたものは、学生の頃に婚約を済ませ、成人してから結婚となるものも少なくありません。緋真さんもそうだったのでしょう、相手は明義氏の仕事上の付き合いのある上埜門家の次男。歳は20、現在秀瑛の大学に通っています。時期が来たらこの次男が久儀の家に入り、行く行くは明義氏のあとを継ぐ、ということで話は整っていたはずなのですが……半年前、明義氏と妻比沙子さんは交通事故で亡くなりました」
書類の中から新聞を取り出すと、檜佐木は白哉に手渡した。
大破した車の白黒写真。
「―――ここから緋真さんの全てが変わって行きます。原因は上埜門弘次、彼女の婚約者です。この男が―――久儀家の全てを奪い取った。はっきり言えば、乗っ取ったと言っていいでしょう」
書類の束をめくり檜佐木は書面に集中した。恐らく緋真の婚約者と聞いて動揺しているだろう白哉に意識を向ける事はしない。それは主が一番気に障ることだろうからだ。
「久儀家には驚くほど親戚が少ないんですね。いる事にはいますが、全て遠縁。ひとりきりになってしまった緋真さんに、葬儀の手配や相続の手続きを助けたのは、上埜門の家―――上埜門の弁護士でした。実際、緋真さんも弘次を頼ったようですね。形ばかりの婚約者と言うわけでもなく、彼らは頻繁に会っていたようですし、緋真さんも弘次を憎からず思っていた節もありますし―――その弘次が、裏切った。ええ、裏切ったと言っていいでしょうね―――この乗っ取り劇が20歳の若造一人が考えたとは到底思えませんから、裏で糸を引いていたのは彼の父親である事は間違いないでしょうが、弘次は父親の策謀に反対することなく、逆に喜んで手を貸していますから。緋真さんを助ける風を装い、上埜門に有利なように事を進め、最終的に全ての財産を上埜門の物としてしまった事実を見ればそれは明白です。そして最後には婚約を解消し、緋真さんを捨てた。家族も家も財産もなく、信じていた男にも裏切られ―――ただ、流石に世間知らずなお嬢さんを放り出す事は気が咎めたんでしょうね、最後に朽木家の勤め口を紹介し―――紹介と言っても口利きをしたわけではなく、この職場ならば衣食住は確保されると告げただけでしょう。他に生きていく方法のなかった緋真さんは、勿論学校に行く状態ではありませんし、ここに住み込みとして働くことになった。そして、貴方と出会ったというわけです」
言葉を切り、白哉へ視線を戻した檜佐木が見たものは、指を組み椅子に深く腰掛けた、先程と同じ姿勢の白哉の姿だった。
―――待てど暮らせど、来ぬ人を……
白哉の耳に、初めて緋真と出逢った時の、切ない歌声が蘇る。
胸を打つような哀しみの声。
胸を抉るような諦めの声。
そしてつい一時間前にも聴いた、同じ歌。
視線を宙に固定させたまま、白哉は耳に残る緋真の歌声を聞いていた。
仕事が終わり食事を取り、入浴と洗面を済ませ、緋真はいつもと同じように黒と白の制服を身に着けたまま外へと足を向けた。
仕事が終われば勿論私服に替えてもいいのだが、緋真には手持ちの服がほとんどと言っていい程何もなかった。ここに勤め始めてようやく二月、給料は他の仕事よりも良いとはいえ、外出する暇もなかったし、外出する気分でもなかった故に、緋真が持っている私服は2、3着しかない。支給される制服は何着もあるので普段の生活に支障はないが、こうして檜佐木に会いにいく時は少し残念に思う自分の心に、緋真は慌てて首を振る。
増長していると自分を戒め、けれど足取りは軽い。今日は来ているだろうか、と考えると胸が鼓動を早くする。
相手は、この家の時期当主の幼馴染で護衛官でもある、自分とは比べ物にならない程の重責者だ。
生半な者が「朽木白哉」の一番傍にいられるはずもない。能力も性格も頭脳も体力も、全てが優ってなければそのポジションにはいられないだろう。
檜佐木といると、心が休まる。
いや、休まると言うのは違うかもしれない―――真逆なのかもしれない。檜佐木といると胸が痛いほど鼓動を速める。その目に見つめられると頬が紅くなる。その声を聞くと胸がときめく。逢えない時は酷く哀しい。
初めて檜佐木を目にしたときの衝撃を、今でも緋真は覚えている。
月明かりの下に現れたその美しさに、この世のものではないのではないかと疑った。
世の中にこんなに美しい人がいるとは想像もしていなかった。
そして同時に湧き上がる想い―――『見つけた』と。
心が歓喜し、ようやく出逢えたと言う喜びに泣きそうになった。生まれたときから感じていた心の欠片、それを見出した歓び。
けれど、今ではその感情は違っていると知っている。
見つけた、等とはあまりにもおこがましい。相手は自分とは格が違う。
気紛れでこうして付き合ってもらえるだけで充分なのだ。
少しだけ切なくなった心も、いつもの場所に人の気配があることに気付いた瞬間に、嬉しさだけが支配する。
小走りに駆け寄った緋真の目に、いつもと同じ美しい姿がある。
月の光よりも尚美しいその姿が。
「―――檜佐木さん!」
声をかける、それもいつもと同じ。
「……檜佐木さん?」
けれど、今日は―――何かが違う。
緋真を見れば、微笑んでくれていたその顔に笑顔はない。ただじっと緋真を見つめる瞳の黒さに、緋真は小さく息を呑んだ。
「あ、の……?」
無言で見つめられ、緋真は戸惑ったように視線を彷徨わせた。景色はいつもと変わらない。重なる樹、通り過ぎる風、頭上の月。違うのは、彼の人の纏う空気だけ。
それ以上言葉を発することも出来ず、立ち尽くす緋真の耳に、ようやく静かな声が届いた。
「―――お前は」
立ち上がった白哉に気圧されて、緋真は一歩後ずさる。
それを追うように白哉は緋真との距離を縮めた。
「今でも待っているのか?」
「ひ……檜佐木さん?」
「あの歌―――あれは、あの歌は……お前の願い、なのか」
緋真の腕を掴んで引き寄せる。突然の、力任せのその行為に緋真の唇から小さな悲鳴が上がった。
「何を……何を言って……」
「まだ待っているのか―――あんな声で歌うほど。哀しみと諦めの声で―――それでもまだ待っているのか、あの男を」
見下ろす緋真の表情が、初めて逢った時と同じ―――否、それ以上の怯えの表情だと知って、白哉ははっと我に返った。
細い緋真の腕から手を離すと、緋真は怯えの表情を浮かべたまま、何も言わずに一歩白哉から遠ざかる。
「緋真……」
「あの、今日は……帰ります」
「緋真、待っ……」
「ごめんなさい」
引き止める手が空を切る。
背中を向け走り去っていく緋真の後姿を、白哉は為す術なく見送るしかなかった。
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