白い月の光を浴びた少女は、とてもこの世に存在しているとは思えない程の―――儚さ、だった。
何かを待ち侘びるような希望と、それが決して来ないことを悟っている諦め。
その想いを乗せ、歌になって現れたその―――声。
透明な、硝子のような美しさと脆さ。
「―――誰?」
その声が、今度は怯えを含んで発せられた。
少女が佇んでいるのは、月の光の差し込む真下、白哉の位置は木々に隠れた暗闇の中。少女の目には、誰が、何が居るかもわからないのだろう。もう一度「誰」と震える声がして、白哉は一歩前へ出た。
同じ月明かりの下に立つ。
瞬間、少女が息を呑んだのがわかった。
視線が合う。
距離は―――まだ、離れている。
一歩、踏み出した。
少女はまだ、じっと白哉の姿を見つめている。
もう一歩。
足元で折れた小枝が小さな音を立てた。
その音で呪縛を解かれたように、少女は白哉から視線を外した。如何したらいいのかわからないのか、右手を口元に当て、戸惑うような表情を見せる。
唐突に少女は頭を下げると、くるりと白哉に背中を見せた。すぐに走り出す―――一刻も早く、この場から立ち去りたいという思いが見て取れた。
「―――待て」
命令しなれた白哉の声に、びくんと少女が立ち竦んだ。そのまま暫く逡巡し、恐る恐るといった様子で白哉に向き直る。その怯えに苦笑し、白哉は「此処で何をしている」と尋ねた。
「あの―――申し訳御座いません」
「質問の答えになっていない」
その白哉の返答に、びくんと少女は震え、再び「申し訳御座いません」と小さく呟いた。
「その……一人になりたくて……部屋は、同僚の方と同じなものですから……申し訳御座いません」
「何故謝る?」
「―――申し訳御座いません」
怯える少女に「名は?」と尋ねると、目に見えて少女は蒼褪めた。月の光の下でもわかるほど青白くなったその少女に、白哉の方が内心驚く。
「申し訳―――御座いません。お許しください、二度と―――致しませんから。荻原さまにご報告するのは……」
「何を許すと?何か許されないことをお前はしたのか?」
「二度と―――お屋敷の中を出歩きません。お許しください……」
「―――それを咎めれば、私とて咎められねばならぬだろう。出歩いているのは私も同じ。何故そう怯えているのだ、お前は」
白哉に責めるつもりはないとようやく悟り安心したのか、少女はほっと息を吐いた。緊張感はそのままだが、怯えの影は消えた。それでも視線は伏せたままで、「申し訳御座いません」と呟く。
「余程謝りたいらしいな」
呆れたように白哉が笑うと、つられた様に少女も小さく笑った。
どくん、と―――白哉の心臓が大きな鼓動を伝える。
目の前の少女が微笑んだだけで―――ただそれだけのことで。
―――なんだ、これは?
心が騒ぐ。
歓喜―――そう言ってもいいような。
見つけた、と―――心が、血が、記憶が、細胞が―――叫んでいる。
「お前は―――」
「あ―――あの、先月から勤めさせていただいております。今は北棟で―――」
朽木家の従者は、基本的に未婚の男女……16歳から30歳くらいまでのものが多い。給金も良く、待遇も良いが、基本的に住み込みで働くことが求められている。
そして勿論、身辺調査は徹底的に行われ、ある程度の容姿の良さがなくては奉仕を許されない。
朽木家の従者として勤めたいという希望が引きもきらないのは―――しかも社会的身分のある家の少女が朽木家に勤めることを希望するのは、あわよくば白哉の目に叶えばという野心があるに他ならない。実際、朽木邸には朽木家ほどではないが名の通った家の子女たちが数多く従者として勤めていた。
しかし、そういった少女たちは決まって個人部屋を与えられる。この少女は先程、自分は相部屋と言った。つまりこの少女は後ろ盾なくこの朽木家の従者に応募し受かったということなのだろう。
北棟勤務ということも、その後ろ盾のなさを証立てている。
良家の子女が従者として朽木家に入った場合、勤務する場所は南棟から始まる。能力を認められれば、やがて東棟、本棟と移動していく。北棟は他の棟に比べ、疎外された場所なのだ。
「先月から」
「はい。覚えることが多すぎて―――」
「荻原の指導は厳しいからな」
「貴方も、荻原さまに?」
「かなり―――子供の頃から」
その言葉に、少女は目に見えて緊張を解いた。微笑みも自然な笑顔へと変わる―――微笑んだ途端、怯えの中にもどこか気品があった雰囲気があどけないものへと変わり、白哉の胸が再びざわめいた。
「ですので―――少し、その、あの―――気分を向上させるために」
「落ち込んだ気分を?」
くすりと笑った白哉に頬を染め、少女は「はい」と頷いた。
「私、要領が悪いようで……同僚の方にも良く叱責されます。なので、こうして」
「夜に、気晴らしに?」
「……恥ずかしいです」
「何故?」
「変じゃないですか?」
「別に―――変ではないと思うが」
そう言いながら笑う白哉に、「やっぱり……変ですよね」と落ち込む少女へ、「あの歌は」と白哉は無理矢理話題を変えた。
「あの歌は―――」
「何の歌か……知りません。聞き覚えた歌なので。ただ、綺麗な歌だな、と……」
瞬間、少女のその目に、歌っている時と同じ諦めの色が浮かぶ。
そして―――白哉の胸に、刺すような痛み。
「―――貴方は?南棟の方ですか?」
気を取り直したようなその声に、白哉は初めて少女が自分を朽木白哉と認識していないことを知った。
確かに、現在は白いシャツにグレイのズボンで、ここの男性従者の制服とあまり変わりない。制服にはこれにベストが付くが、休憩時間ならばそれを脱ぐ姿も当たり前だ。
この怯えやすい少女ならば、自分が白哉だと知った途端「申し訳御座いません」以外何も話さなくなるだろう。
「―――東棟の方でしょうか」
小首を傾げる姿には、既に怯えの表情はない。深夜に男と二人きりのこの状況でそれも如何かと白哉は思ったが、怯えられるよりも微笑む姿を見る方が良い事は当然で、その点を指摘して再び脅かすこともない。
「―――ああ」
「そうだと思いました。とても―――」
綺麗な方だから、という声は小さく―――少女の口の中に消えた。
「―――もしよろしかったら、お名前を……聞かせていただけませんか?」
躊躇い、何度も言いかけその度に口を閉じ、やがて思い切ったように真直ぐに視線を合わせそう尋ねた少女に、白哉は―――直ぐに答えることが出来なかった。
朽木白哉と―――正直に告げたなら、この少女は今と同じように話してくれるだろうか。
白哉を見る人々の視線は皆同じだ。
畏怖と―――服従。
朽木白哉だと答えたら、この少女は、今と同じ笑顔を自分に向けてくれるだろうか。
その白哉の無言を拒否と捉え、少女に哀しみと羞恥の表情が浮かぶ。「図々しかったですね……ごめんなさい」とぺこりと頭を下げた。
「相手をしてくださってありがとうございました。あの、私……もう戻ります」
「檜佐木」
「え?」
「檜佐木―――修兵という。お前は?」
少女の顔に、再び笑顔が―――嬉しそうなその笑顔に、白哉は目を奪われた。
心を動かすものなど何もなかった。
心を惹きつけるものなど何もなかった。
―――先刻までは。
「ひさぎ……さん?」
少し驚いたように目を見開いて、少女は「私の名前と似ています」と微笑んだ。
「よく、『ひさぎ』と間違えられるのですが……『くぎ』と言います。久しいに儀式の儀。久儀緋真」
「久儀……緋真」
「はい。檜佐木、修兵……さん」
見詰め合う二人の真上に、変わりなく月は白く輝いていた。
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STAYW章でーす!(ハイテンション)
第W章「白哉」は、白哉と緋真のお話です。過去編になります。
白哉の過去に何があったのか、緋真との恋の行方は、こっそりばら撒いていた伏線を回収しつつ、全14話予定の白哉・緋真編になります。
前々から言ってました白緋連載はこちらになりますー。パラレルですが。
いや、パラレル以外のネタもあるんですが、とりあえずSTAYの白緋を先に。
甘く!切なく!そしてエロく!お送りしたいと思います!!
それでは、今回はこの辺でー。
2007.12.19 司城さくら