小さく軽いノックの音に、白哉は手元の本に落としていた視線を上げ、「ああ」とだけ声をかけた。
 元よりこの部屋に、この時間に来訪できる人物は限られている。その三人の内、二人は滅多に言葉を交わすこともないので、実質的にはただひとりと言っていい。
「失礼致します」
 白いシャツに黒い折り目の入ったズボンという、全く何の特徴もない服が、この男が身に着けたというだけで途方もなく洗練されたものに見えるのは何故だろう、と白哉は思いながら、幼馴染で部下で親友という檜佐木の来訪を受け入れる。
「紅茶をお持ちいたしました」
 毎夜の読書は白哉の日課で、そして唯一の趣味と言っていいのが紅茶という白哉のために、檜佐木はこうして何日かに一度、自ら淹れた紅茶を白哉の元へと運んでくる。そのまま下がることもあれば、白哉と言葉を交わすという夜もある。
「明日は如何なさいますか?」
 今夜は暫く白哉の部屋に滞在することに決めたらしい。白哉に対して自分の意思を通すことを白哉自身に認められているのも、この広い世界に檜佐木ただひとりだ。
「……面倒だな」
「そう仰っては……確かにあの場所に何のメリットも御座いませんが」
 苦笑しながら檜佐木は白磁のカップに紅茶を注ぐ。琥珀色の液体から、芳醇な香りが部屋中に溢れだした。
「白哉さまに目通りしたいと望む者たちの為にも、週に一度くらいは登校されては」
「お前が気になるのは、学院にいる女生徒たちの方だろう」
 カップに手を伸ばし、口元に運ぶ。たったそれだけの動作が、まるで絵に描いたように優雅で美しい。
「一学年に一人。そう聞いているが」
「一クラスに一人、です」
 悪びれた風もなく、檜佐木は笑う。
 檜佐木の女性遍歴は、学院内の友人が皆無である白哉の耳にも入るほど、その年齢に見合わないほどの多さなのは事実だった。これは、上流階級の子息達が通う学院という特異な環境では珍しい上に、檜佐木自身は学院を占めるハイソサエティの部類には入らず、ただの一従者であるという事実からも酷く特異なものだった。
 学院中の美女は檜佐木の手中にある、という噂もあながち嘘ではない程―――それは当の女生徒たちも承知の上で、その中で己が檜佐木の心を自分だけに向けようと日々自分を磨いている。他人を蹴落とす方法、それは容易いが、それをした途端に檜佐木に見向きもされなくなることを、女生徒たちは過去の事例から知っている。
 そんな女生徒たちも知らない事実―――それは、檜佐木は彼女達をいつでも切り捨てることができるということ。
 どんなに己を磨いても、どんなに願っても、檜佐木の心を自分に向ける事は出来ないということを、少女たちは知らない。
 檜佐木の心は、ただひとり―――「朽木白哉」唯一人に向けられたものなのだから。
「―――私にはわからぬ」
「何がです?」
 自分の分も紅茶を注ぎ、檜佐木は白哉の部屋のソファに腰を下ろす。芳香に目を細めながら紅茶を口にすると、満足そうにひとつ頷いた。
「お前のしていることだ。―――まあお前だけではないが」
「ですから、何がです―――はい、わかってます、口にしなくても結構です」
 その単語を白哉から引き出そうとした目論見はあっさり主人に見透かされていたようで、冷たい白哉の視線に檜佐木は笑いながら自分の非を詫びる。
「まあ―――貴方は完璧すぎますから。貴方以外の人間は全て劣っていると感じるのも無理はない―――事実貴方以外の人間は全て劣っているのですから無理もないですね」
「その言葉だと、完璧という時点で既に欠陥と同意語だと思うがな」
「何を仰いますか」
 心外そうに檜佐木は眉を顰めた。
「その顔ひとつにしたって、大抵の女性よりも美しいのだから性質が悪い。自分以上の美しい女性が居ないのだから、女性に魅かれないのも仕方ないと思いますよ。不幸だとは思いますが」
「不幸―――か」
「先日のお話は―――如何なりましたか」
 檜佐木の言葉に、白哉は表情を変えることなく「進んでいるのではないか?―――私には関係のないことだ」とカップに唇を寄せる。
「関係ないって―――白哉さま自身の話でしょうに」
「別に誰でも構わないのだから、関係ない。―――玖珂の長女あたりが最有力らしいな。母上の親戚ということで、母上が推しているらしい」
「玖珂の―――あれでは」
 檜佐木が嘲笑を浮かべる。白哉とは違った、男らしい檜佐木の美貌が歪んだ笑みを浮かべると、それは酷く酷薄に、そして魅力的に映るその笑顔で檜佐木は嗤う。
「とても白哉さまの横に立つ器量じゃないでしょう―――容姿も、中身も、頭脳も」
「私の妻に必要なものは、ただ家柄と血筋、そして朽木家の益になるかどうかだけだ。それ以外の要因は不必要」
 その点、玖珂家といえば全く条件に叶っている―――興味なさそうに紅茶を飲む白哉に、檜佐木は溜息をつく。
「貴方はそれでいいのですか」
「構わない」
「俺はいやですよ」
 本音で話すとき、檜佐木は「私」から「俺」に変わる。この時は主従というよりも、友人としての檜佐木が強く出ている証だ。
「貴方が好きでもない女性と並ぶなんてね。それこそ冒涜ってものでしょう」
 檜佐木の言葉にも、白哉は表情を変えずに視線を向けただけだった。その無機質さに、檜佐木は内心溜息をつく。
 この世界の頂点に立つ家に生まれ、類稀な美貌と頭脳を持ち合わせた稀有な存在。
 それは神の祝福ではなく、呪いではないだろうか。
 愛する対象を見出せず、無機質な世界で孤独を孤独と悟ることなく生きていく存在。
「―――明日は登校する。たまには外に出るのもいいだろう」
 今までの会話を全く気にする様子もなく―――事実、白哉にとって己の結婚話など、全く何の意味もないのだろう。元から、両親の手によって決められる事は承知していたし、誰かに心を動かしたこともない白哉にとっては、如何でも良い瑣末な事象のひとつに過ぎない。
 檜佐木は頷くと、空になったカップを皿に戻した。立ち上がって白哉のカップを下げ、トレイに乗せる。
 実際、自分が何かを言える立場ではないのだ。これは白哉自身の問題だし、どのような結果になったとしても、自分は白哉の傍を離れる事はないだろう。白哉がそれを望んだ時以外は。
「では、そろそろお休みを」
「ああ。―――では、明日」








 檜佐木が部屋から退出して、一人に戻った白哉は読みかけだった本に目を向けたが、その専門書とたった今檜佐木と交わしていた会話の内容があまりにも対極にあった為に読む気が失せ、立ち上がって机から離れた。
 自分は人として欠陥があるのではないかという事は、随分前から気付いてはいた。
 何かひとつに執着することも、何かに心を動かされることも、何かを憎むことも何かを羨むことも、何かに喜ぶことも何かに怒ることも何かに哀しむことも何かを楽しむことも、一度としてなかった。
 人として当たり前の感情が欠落していることを自覚してはいる。
 けれど、それによって不利益になる事は皆無、逆に有利に働くことは多かった。朽木という家の嫡男として生まれた以上、人間らしい感情は在っても邪魔になるだけだとわかっている。如何に冷静に冷徹に居られるか、それが非常に重要だと、祖父が常々言っていたことを思い出す。
 その点、白哉は申し分ない朽木家の正当な跡取りだった。本家に嫡子が一人しか居ないという事実を母は様々な場所で責められたようだったが、それを補って余りある白哉の才。
 恐らく、外に父の庶子は居るのだろう。朽木家の直系を絶やす事は許されない。けれどその庶子たちが表舞台にでてくることはないだろう―――白哉が存在する限り。
 綿々と続く「朽木」という血。
 それを厭わしいと思うことも鬱陶しいと思うこともなく、白哉はそれが当然の事と思い生きてきた。
 これからも、変わらずそう思って生きていくだろう。
 自分は紛れもなく朽木の血を受け継ぎ生きている。
 朽木の血―――それは夜の血。
 明るい太陽の継承者ではなく、暗い闇の末裔。
 血塗られた歴史と共に歩み、闇と共に繁栄した血族。
 白哉は歩を進めると、部屋の扉に手を掛けた。
 







 頭上の月は円く、青い光を地上に落としている。
 深と静まり返った夜の中を、白哉は何の痛痒も感じずに歩いていく。
 夜の闇は白哉にとって親しいもので、何の脅威も感じない。
 夜と同じ色の瞳を前へと向け、白哉はゆっくりと歩いていく。
 何処にという目的もなく、時折、ふらりと白哉は一人敷地内を歩くことが多かった。
 敷地内と言ってもその広さは相当なものだ。朽木邸は、白哉の住む南棟、客室のある東棟、従者たちの居住と生活の為に動く部屋―――厨房や洗濯室といった―――のある西棟、そして普段は人通りのない北棟、それらが白哉の両親の住む本棟を囲むように建てられている。
 それぞれの棟に行くにも時間がかかる。対角にある北塔と南棟は、歩いていけば30分はかかるだろう。屋敷の周囲には木々が植わり、外界を完全に遮断している。
 その木々の中を、白哉は一人歩いていた。
 部屋から出、足の向くままに歩いていた白哉の耳に入るものは、木の葉を揺らす風の音だけだ。
 季節は5月―――最も心地好い季節。
 人に心を動かすことのない白哉も、自然には極普通に心を動かす。
 頭上の月。
 頬に触れる風。
 木々の音。
 植物の香り。
 白哉が生まれるずっと昔から存在した自然の在り様は、白哉の心にすんなりと入ってくる事象たちだ。
 建物という人工物が目に入らないように、白哉の足は更に奥へと向かっていく。木々の中に分け入ると、そこが個人の―――個人というには語弊があるかもしれないが―――庭とは思えないほどの、紛れもない林がある。
 森という程の鬱蒼さはなく、幾分開けたその場所に足を向けるのは久しぶりの事だった。
 風が木々を揺らす音楽が聞きたくて、白哉は林の奥へと入っていく。





 ―――― ………………





 白哉は足を止めた。
 風の音以外に微かに聞こえた細い音。
 誰も居ないはずのこの場所に聞こえた、鈴のおと。
 



 ―――― ……………… ……………





 止めていた歩を静かに動かす。
 小枝を踏まないように、音を立てないように、風の音に紛れて静かに歩く。
 何か音を立てたその瞬間に、この音が消えてしまうことを白哉は知っていた。





  
 ――――待てど暮らせど、来ぬ人を……





 鈴の音が人の声の形を取る。
 高く細く、透き通った銀の声。





 ――――宵待ち草の遣る瀬無さ





 酷く哀しげな声は、夜の空気を震わせて、空高く舞い上がり月へと歌い上げる。






 ―――今宵は月も出ぬそうな






 月の光を浴びて。
 その少女は、白哉の前に現れた。






next