照明を落とした長い廊下を、ルキアは走る。
毛の長い豪華な絨毯は、軽いルキアの足音を完璧に消していた。それでも周囲に意識を集中し、ルキアは仄暗い屋敷の中を走り抜ける。
『―――この後の手筈を申し上げます』
花太郎の言葉を、ルキアは何度も反芻する。
『これから、松永氏を自宅へと送らせます。その後、私はこの部屋でルキアさまの目覚めを待つということで泊り込む旨伝えます。今日は白哉さまはお戻りにならないようです。―――昨日、彼を―――』
言い辛そうに花太郎は言葉を切った。その先の言葉はルキアも承知していたので、唇を噛んで頷く。
昨夜、白哉は恋次を傷付けに屋敷へと戻ったのだろう。
その傷の手当に医師は呼ばれた。
恐らく、すぐに恋次を殺す気は白哉には無いのだろう―――苦しめて苦しめて苦しめて、そして最後に―――生命を奪う。
それには、連日痛めつけることはない。
死には至らぬ、けれど数多の傷を負わせ、治療し、その傷が落ち着いた頃に再び傷付ける。
その繰り返しの中で―――白哉は、報復するのだろう。
ルキアの心を奪い、身体を重ねた恋次を。
『あの部屋の電子キーが違うと、数日中に発覚するでしょう。時間はありません。ルキアさまは彼の元へ行き、彼の腹心の少年への連絡方法をお聞きください』
『私はこの部屋から出られません―――ルキアさまの様子を見に来る方がいるかもしれません。実際この2日、幾人もこの部屋へ来訪者がございます。一番危険なのが、家令の荻原様です。日に何度もいらっしゃいます―――恐らく、深夜も。それらは私が此処で食い止めましょう』
『ルキアさまは御一人で、地下の部屋へと向かうことになります。時刻は2時―――その頃には、屋敷中の者ほぼ全てが休みます。廊下を出歩く者も少ないでしょう。ただ、正面玄関には近付きませんように。あそこは24時間体制で監視者が居ります』
『出来ればなるべく早くお戻りください―――くれぐれも、御一人で彼を助けようとなさらないでください。それはあまりにも無謀です。彼を助けたいのならば、今は堪えてください』
『私は此処で、あちらと連絡が取れる手段は無いか探ってみます。相手は相当な電脳の天才のようですから、もしかしたら向こうから気付いてくれるかもしれません』
お気をつけて、と―――苦しそうな瞳で花太郎はそう言った。
ルキア本人が危険な橋を渡ること、その事実が花太郎を悔やませている。
けれど現時点、恋次を助け出すために動けるのは二人しかいない。
これしか方法が無い、そしてルキアは何よりも恋次を助け出すことに重点を置いている。それが解っているから、花太郎はルキアを一人で行かせるしかない。
ルキアならば、例え見つかったとしても生命を奪われることは無いだろう。
ただ、その場合―――自分は当然だが、阿散井恋次も生命を落とす。恐らく、ルキアの目の前で。
そんな自体を前に、少女が正気でいられる筈もない。
精神が―――崩壊する。
阿散井恋次の後を追うかもしれない。
何にしろ、行き着く先は―――主の不幸だ。
『お気をつけて―――ルキアさま。誰にも見咎められることのないよう―――どうか、ご無事で』
その花太郎の言葉を背に、部屋を出たのは数分前のことだった。
深夜2時―――照明は普段よりも暗い。
その廊下を音も立てずに走るルキアの耳に、声が聞こえた。前方からふたつ。敏捷に足を止め、左右を見回したルキアは、普段使っていない部屋に目を留めするりとその身を滑り込ませた。
ドアの影に身を潜め、呼吸すらも止め気配を殺す。
扉にしつけられた小さな覗き穴から廊下を見ていると、20代ほどの女性が二人、これから仕事なのか並んで歩いているところだった。
朽木の家は広く、それに従事する人間も多い。また、突然帰宅するかもしれない主を迎えるために、やはりある一定の人数の従者達は、昼間と変わりなく待機し仕事をしているのだ。
小声で何かを話している二つの気配が消えるまでルキアは隠れていたが、その気配が完全に消えると、ルキアは廊下に出、来た方向へと戻り始めた。
周囲に気を配りながら、ルキアは廊下の一番端の小さな部屋へ忍び込む―――そして数分後、現れたルキアの姿は先程と完全に変わっていた。
黒を基調としたエプロンドレス―――首までかっちりと覆ったタイトな上半身とは逆に、スカートはふわりと拡がっている。袖口のカフスとエプロン、ヘッドピース、オーバーニーソックスは白く、靴はエナメルの黒という朽木家の従者と同じ制服に身を包み、ルキアはやや俯きながら、今度は人目を憚ることなく静かに歩き始める。
暗い照明と、自分は今自室で眠らされているという対外的な事実から、これが一番目立たないだろうというルキアの読みは当たり、それから北の屋敷へ行くまでの間すれ違った幾人かの従者達は、それがルキアと気付くことなく通り過ぎていく。
人目を気にすることなく移動できることはルキアにとって助かったが、今度は逸る気持ちを抑えることに苦心した。すぐにでも駆けつけたい気持ちを抑え、他の従者達と同じように、静かに、淑やかに廊下を歩く。
かちゃかちゃとキーボードを叩く音だけが、静かな部屋の中に聞こえている。
花太郎はディスプレイに表示されている、阿散井グループの子会社のHPに見入っていた。
その作業は、ルキアが部屋を出る2時より前から、もう既に何時間も前から繰り返されている地道な探求だった。
当てがある訳ではない。
むしろ、途方もないことだろう。
けれど、花太郎は一縷の望みをかけてディスプレイに向かっている。
何十個目、もしくは何百個目かになる阿散井グループの関連企業のHPを見つめながら、花太郎は次のサイトを表示させるために画面をクリックする。
当たり障りの無い企業。
何処にでもある一般企業。
阿散井グループは、元々は西に拠点を置くグループだ。それが一代で急成長させた阿散井武流によって、関東に―――つまり朽木の勢力圏へその手を伸ばしている。
今まで、「比類ない」と謳われていた朽木に、初めて肩を並べた―――阿散井。
子会社、関連企業は数多く、全てをチェックしていくのは不可能。
そして、そのトップにアクセスすることも、花太郎程度の知識では不可能―――だが。
あの少年―――理吉、とルキアが知らせたあの少年。
あの少年ならば、もしや―――こちらからのアクセスに気付き、自ら探査してくるのではないかと、花太郎は賭けていた。
阿散井恋次が消え、その行方を血眼になって捜しているだろうその彼が、主の行方を捜す方法は―――間違いなく自分の能力を最大限に発揮できるこの電脳の世界だろう。
あらゆる情報をチェックし、調査し、セキュリティを破壊し必要なデータを手に入れ、彼は電子世界から自分の主を追っている筈だ。
この現代社会に、彼の目から逃れる方法は皆無だろう―――あらゆる家庭に浸透した端末、全ての会社に繋がっているケーブル。
あの少年は、それら全てを掌握することが出来る。
花太郎はひたすら阿散井関連の情報をディスプレイに表示させていく。
今この時期、阿散井の情報だけを引き出そうとしているこの端末―――しかも、発信元は朽木邸の一区画。
それに、あの少年が気付いてくれれば―――
藁をも掴む思いで、花太郎はディスプレイに見入る。
少しでも早く、一秒でも早く、阿散井恋次を救い出す。
それが、主である朽木ルキアを救う道だと、花太郎は知っていた。
俯き、焦れる心を宥め、ルキアはようやく目的の場所へと辿り着いた。
中心にある白哉の部屋から真北に位置するその場所、重い鉄製の扉を、ルキアは渾身の力で押し開ける。
幸い音が響くこともなく、ルキアは細い隙間に身を滑り込ませた。
―――初めて入るその場所は、周囲の壁が石造りの所為か、酷く圧迫感を感じ取る場所だった。
この場所、この地下室の話は、幼い頃に一度だけ聞いたことがある。
まだ歳若い、ルキアの世話係だったメイドたちが恐ろしげに話していたのを、小さなルキアは耳にしていた。
―――北の地下室は、人を閉じ込める場所らしい。
―――朽木家に仇をなす者を闇へ葬るための、秘密の部屋。
―――一度入った者は、生きて出られない……
―――最近は使われる事はないけれど、先代は良く使用していた……
その真偽を兄に問うたルキアに、兄は「そんなものは無い」と穏やかに笑った。
ただその日から、ルキア付きだった二人のメイドが姿を見せる事はなく―――幼いルキアは、それ以上何も聞く事は出来ずに、日々は流れ、半ばその存在を忘れていた―――けれど。
今、暗い階段を下りていくルキアは、その噂が真実だったと痛感した。
淀んだ空気、呪詛が染みこんだ石の壁。
一体、幾人の、幾十の、幾百の幾千の人の生命が此処で絶たれたというのだろう―――この長い、永い「朽木」という歴史の中で。
その犠牲者の一人に、恋次をすることは出来ない。
自然急ぐルキアの歩調に合わせ、甲高い音が石造りの狭い階段内を反響する。
いつまで続くかと思う、延々と続いた下り階段がようやく終わり、ルキアはもどかしげに壁に備え付けられたカードリーダーに電子キーを読み取らせる。
ピ、という場違いに明るい電子音と共に、電磁ロックが外れる音がした。
身体ごとぶつかるように、ルキアは重い扉を押し開く。
ぎいい、と軋んだ音がして―――その部屋は、ルキアの前に姿を現した。
何時間も画面を見続けた花太郎の目は疲労を訴えていたが、花太郎はそれを無視してサイトからサイトへと飛び続けている。
全ては、あの少年にこちらの存在を知ってもらうため。
この果てし無い零と壱だけの空間で、たった一人の少年に気付いてもらうのは不可能だろう。……普通ならば。
けれど、相手はこの朽木のセキュリティをたった一人で突破した少年だ。
この二進法の世界の中で、彼にしか出来ない罠を仕掛けているかもしれない―――そう考えたところで、花太郎は息を飲んだ。
もっと単純に考えればいいのではないか?
もっと直接的に、彼にコンタクトを取る方法があるのではないか―――?
花太郎は一度全ての画面を消し、大手検索サイトを立ち上げる。指がキーボードの上を踊る―――検索フレーズを入力する。
『 阿散井恋次 連絡待つ 』
少し考え、花太郎はもう一度キーボードを叩く。
『 阿散井恋次 救出 連絡請う 』
同じような単語を、思いつく限りの検索サイトに何度も入力する。
もし彼が、この世界の細部に入り込める程の人物ならば、この検索フレーズが張り巡らされた蜘蛛の絲に絡みつくかもしれない。
そこからこのパソコンを割り出し、情報を引き出し―――途方もないことだと自分でも思う。有り得ないだろうということも。
けれど、彼は―――この屋敷のセキュリティを、いとも容易く突破したのだ。
突然、花太郎の動かしているパソコンの画面右下に、小さな紅い円が点滅し出した。
「―――!」
先程まで、このようなアイコンはなかった。
そして―――このタイミング。
「―――繋がった!」
思わず歓喜の声を上げ、花太郎は紅いアイコンをクリックする。
小さな別窓が表示された。その中央にたった一行―――
『何を知っている?』
花太郎の指が動く―――カタカタというキーボードを叩く音は、すぐに消えた。
『紅の所在』
そして、Enterキーを押す―――入力画面が消え、花太郎の打ち込んだ文章が別窓に表示された。
それを確認し安堵の溜息を付く花太郎の眼前で、突然ディスプレイが漆黒に変わる。
真暗な画面に狼狽し、花太郎は立ち上がった。
―――電源が落ちている!
「何―――何が、一体」
「―――それは俺の台詞だ、花太郎」
疲れたような―――否、哀しそうな声だった。
弾かれたように振り向く花太郎の視界に、廊下の灯りを背に、扉の前で立つ人物。
逆光でその表情は見えない。
「何が、一体―――お前に起こったんだ?」
蒼褪め、身動きの出来ない花太郎に向かい、影は右手を上げていく。
返事は期待していないのか、淀みない動きだった。
ぴたりと自分の胸に向けられた銃口を、花太郎は蒼褪めながらも真直ぐに見つめる。
「お前を白哉さまに推薦したのは俺だった」
哀しさに満ちた声が、回顧の想いを滲ませる。
「まだ子供だったお前の中の、優しさの中に在る芯の強さ、それを見つけたから俺は―――ルキアさまの影としてお前を選んだ」
目の前に在る銃口を見つめながら、花太郎は酷く落ち着いていた。
現実感はまるで無い。
まるで夢の中にいるようだ。
そう、夢だったのかもしれない。
あの日、朽木ルキアという少女に逢ってから、ずっと自分は夢を見ているのだろう。
「10年も前になるのか……あの時から」
ここで自分が死んだら、ルキアさまが―――ルキアさまは……
あのメッセージは……無事に届いただろうか。
それが、少女を助ける命綱。
「お前は、白哉さまに雇われたルキアさまの盾。ルキアさまの危険に身を投じ、その身でルキアさまの危険を回避する。それ以上でもそれ以下でもない筈。―――それなのに、―――何で、一体」
だからこそ。
ルキアさまをお護りするために、盾となるために。
ルキアさまの、傷付く姿は見たく無いから―――
「―――弟のように、思ってたんだけどな」
哀しそうに呟き、
―――檜佐木は引き金を、引いた。
―――部屋の中は、思いの他明るかった。
橙色の照明が続いていた階段とは違い、白い灯りが煌々と付いている。まるで昼間のように明るいその照明は、この部屋に囚われるものの睡眠を妨げるためだとは、ルキアは知らない。
暗い場所から明るい部屋へと飛び込んだルキアの目は、しばらく眩んで何も見えなかったが、ようやく光に慣れた時、広い部屋を見渡したルキアの目が大きく見開かれた。
「―――恋次!!」
それは、悲鳴―――身を切られるような、痛みを持った悲鳴。
「こんな―――こんな、酷い……酷い……っ」
恋次の身体に、無事な箇所はひとつもなかった。
斬られ、抉られ―――無数の傷口が恋次の身体に刻み込まれている。右肩に巻かれた包帯も、滲んだ血で紅く染まっている。
そして―――両手が。
鎖に繋がれ、壁に貼り付けられている。
座ることも許されず、立つことを強いられたまま、恋次は両手を高く縛められ、がくりと首を落としている。長い紅い髪が恋次の表情を覆い隠し、ルキアの目に映るのは、血の流れた跡を滲ませた唇だけだ。
「恋次、恋次……っ!」
泣きながら駆け寄るルキアの声が耳に届いたのか、恋次の身体がぴくりと反応した。
ゆっくりと顔が上がる―――瞼が開く。紅い瞳がルキアの姿を映し―――
「ルキア」
恋次は―――微笑んだ。
泣きじゃくるルキアに、安心させるように―――力強く、「泣くなよ、ルキア」と笑う。
「俺は大丈夫だ」
「恋次―――恋次!」
ぽろぽろと涙をこぼすルキアに、恋次はにやりと微笑む―――ルキアの見慣れた、自信に溢れた表情で。
「この程度じゃ死なねえよ。―――それに、約束しただろ?」
「や―――約、束?」
嗚咽を洩らすルキアに、恋次は「約束しただろ?」と繰り返す。
「ずっとお前のそばにいる、ってよ」
何度も請い、何度も耳にした言葉だった。
寄り添いながら、口付けを交わした後に、ベッドで抱き合いながら、何度も何度も願い、その度に恋次が必ず言ってくれた約束。
『ずっとそばにいる―――何があっても、お前のそばに』
「うん―――約束、した」
「だから大丈夫だ。泣くな、ルキア」
強い恋次の言葉に、あまりにも酷い恋次の様子に動揺したルキアの心が落ち着きを取り戻す。
そう、恋次の助けが要る。
恋次を助け出すために。
「―――お前を助け出す。必ず」
痛みを与えないよう、ルキアはそっと恋次の唇に唇を重ねる。傷に触れないように、触れるだけに止めたルキアの意思を無視し、恋次は深く唇を重ね―――激しく舌を絡ませる。
想いをぶつけるように、激しく熱く―――焔のような口付け。
ルキアも同じ想いを伝えるために、両手で恋次の首をかき抱き、激しく唇を重ねた。狂おしく恋次を求め、深く、深く。
長い口付けのあと、惜しむようにルキアは恋次の唇から自分の唇を離した。舌に微かに血の味がする―――それが痛みとなってルキアの胸を締め付ける。
「必ず助け出す」
恋次の身体を抱きしめ、その傷だらけの胸に顔を埋め、ルキアは呟いた。
「―――誰を?」
その静かな声に、ルキアは一瞬で血の気が引いていく―――
今、決して聞いてはいけない声。
ここに在ってはならない存在。
静かな、底の知れない深い深い湖の黒い瞳。
「に、い、さ―――ま」
恐怖に強張ったまま、ぎこちなく振り返ったルキアの視線の先に―――美しい、姿。
黒いスーツに身を包み、真直ぐにルキアを見るその姿。
「誰を助けると?―――ルキア?」
優しく問いかける兄の声に、ルキアは唇を噛み締めた。
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