男は長い廊下を、お仕着せの服に身を包んだ少女の後を追って歩いていた。
案内がなければ迷ってしまいそうなほど、この屋敷は広く複雑に入り組んでいる―――その様式それ自体が、この屋敷に代々住まう一族の敵の多さ、危険と隣り合わせの日常を物語っている。
実際この屋敷の先代夫婦は、突然その生命を他者によって奪われていたことを男は知っている。
某有名ホテルの爆発事故―――それが事故ではなく、彼らに敵対する勢力の攻撃であった事は、ある程度の地位にある物ならば周知の事実だ。
目の前を歩く少女の背中を眺めながら、男はこの家の血塗られた歴史を思う。
そしてこの歴史は過去ではなく、現在も続いているのだ。
自分もその歴史に関わっている―――そう考えて男は首を振った。
―――躊躇することが何処にある。
朽木がバックに付けば、彼の未来は安泰だった。行く行くはこの朽木家の主治医として登用されるかもしれない。それはつまり、彼の属する世界での頂点を意味している。
莫大な利益、莫大な権利。
その為ならば、多少の違法行為も目を瞑る。
先程までの陰惨な仕事中に湧き上がった良心を、男は無視することに決めた。
自分の考えに浸る男の気付かぬ内に、少女は目的の場所へと辿り着いたようだ。音も立てずに歩いていた少女の足がぴたりと止まる。
目に見覚えのある扉の前で、少女は丁寧に2回ノックをしてから、その重厚な樫の扉を開けた。
―――まず目に入るのはロココ調の机と椅子、そして毛足の長い絨毯だった。
この部屋の主はまだ十六歳の少女だったが、少女らしさ、子供らしさは全くない。
洗練された家具と色彩。
落ち着いた雰囲気。
その部屋に人の姿はなく、少女は更に奥へと先に立って進み、もう一枚の扉の前に立ち同じようにノックをする。
「はい」
返事をしたのはこの部屋の主の少女ではなく、同じ年代の少年の声だった。それに驚いた様子もなく、少女は深々と頭を下げると扉を開け、男を中へと促した。
「よろしくお願いいたします」
足を踏み入れる客に向かって慇懃無礼にそう頭を下げると、少女は中の少年に視線を向ける。
「先生がお帰りの際にご連絡するように、と」
「わかった」
もう一度少女は頭を下げ、音を立てずに扉を閉めた。直ぐにこの部屋から少女の気配は消えてなくなる。完璧なまでの礼儀作法、完全に音を消した歩き方。
この屋敷に使える者たちは、皆がその技能を取得している。
先生と呼ばれた男は、少年に目を向けず真直ぐに壁際のベッドへと歩を進めた。
広い天蓋付きのベッドに、童話の登場人物のように、一人の少女が眠りについている。
小さな顔は血が通っていないのではと思う程、白く透き通って見えた。
黒い絹のような髪がその秀麗な顔を包んでいる。
規則正しく繰り返される呼吸を聞きながら、男は「起きる気配は無いか?」と少年―――花太郎に尋ねた。
「はい、松永先生。ルキアさまはずっとお変わりなく―――」
脈を取り、松永は鞄から聴診器を取り出した。その身体に掛けられた布団をずらし、黒いワンピースの胸元から聴診器を差し入れ心音を聞く。
「―――体調に問題は無い」
鞄を開け、注射器と薬剤を取り出す松永に、花太郎は逡巡したように口を何度か開き―――やがて、意を決したように「先生」と呼びかけた。
「いつ―――薬をお止めくださるのでしょうか」
無言で見返す松永に、花太郎は躊躇しながらもその言葉を止めようとはしなかった。
「薬を打ち続けて―――ルキアさまのお身体に負担はかかりませんでしょうか」
「まあ―――負担はかかるがね」
松永は肩を竦めてそう言った。だが、と言葉を続ける。
「そういう依頼なので仕方が無い」
事が終わるまで少女が眠り続けるよう―――そう依頼したのは、この家の当主。言い換えれば、この世界の支配者だ。
誰も逆らえない、絶対的な君主。
「いつまで―――続くのでしょうか。まだあの男は処分されないのですか」
花太郎の言葉に、松永は驚いたような顔をする。
その件については、この屋敷で知っているものは片手の数にも満たないはずだ。
当主白哉とその側近の檜佐木修兵。そしてこの屋敷を取り仕切る老執事。
その三人だと聞いていたが、と不審に思う松永の顔を見て花太郎は「ああ」と声を上げた。
「昨日、檜佐木様より。私がルキアさまのお世話をしております故、知っていた方がいいだろうと」
阿散井の男でございますね、と花太郎は怒りを込めてその名前を口にした。
「阿散井、恋次。ルキアさまを拉致し監禁した男。まだ処分はされないのですか」
吐き捨てるような少年の言葉に、松永は先程の陰惨な光景を思い出す。
血塗れの―――その見事な紅い髪と同じ色に染まった身体。
「あの男が処分されれば、ルキアさまのこの状態も終わるのでしょう?一体いつ」
「まあ―――まだ先になりそうだね。まだ当分―――あの男の精神力と生命力には感心するよ。それはかえってあの男の苦痛を引き伸ばすだけかもしれないがね」
多分、あの男は生命を落とすことになるだろう。
この世界の支配者の怒りを買って。
執拗なまでに痛めつけられた阿散井恋次の身体を思い起こし、松永は再び陰鬱な気分になる。
「治療は余さずしている。撃たれた肩の傷も縫合はしている。―――麻酔なしでね」
その痛みは想像を絶するものだろう。
麻酔も掛けずにあの傷を縫合したのだ―――それは治療ではなく拷問だ。
それでも、あの男は呻き声すら立てずに―――施術が済んで意識を失った。
あとは感染症予防の注射、それぐらいしかしていない。
その投薬も、すぐに死なすことのない様に、という配慮―――更なる苦しみを与えるために講じられた策。
そして一日置いた今日、同じ部屋に通された松永の見たものは、最初に目にした時よりも、更に身体中に傷を負った阿散井恋次の姿だった。
壁に繋がれ意識を失った男の傷の治療―――決して致命傷にはならない、けれど数多の傷―――鋭利なナイフで傷付けられた傷、鞭で打たれたような裂けた傷。
白哉の怒りの凄まじさをその傷から感じ、松永は背筋が寒くなる。
「―――睡眠薬では、駄目ですか?」
訴えるような花太郎の声に、松永は意識をあの陰鬱な地下室の光景から豪奢な少女の部屋へと切り替えた。
「その薬では―――ルキアさまの身体の負担が大きすぎるのでは、と。睡眠薬では駄目でしょうか?私が傍についております―――ルキアさまが目覚めたならば、食事を差し上げ―――そしてお薬で眠っていただくのは―――無理でしょうか」
「まあ―――確かにこの薬は負担が大きい。一日二日ならばともかく―――それ以上はね。だが、睡眠薬となると―――効力が不安定なんだ。いつ薬が切れるかわからない」
「私はずっとルキアさまについております。お目覚めを見逃すことはございません」
松永はしばらく考え込むと、「―――そうだな」と頷いた。
栄養剤だけでは、少女の体重は落ちるばかりだ。
朽木白哉は、この少女を溺愛してると聞く。
少女の身体に何かが起きた場合―――その責任は自分に降りかかる。
「わかった、そうしよう」
ほっとしたように微笑み、花太郎は頭を下げた。卓上の電話を取り上げ、小声で何事かを命じ、「薬の説明をお願いいたします」と松永の傍に寄る。
「一回何錠を?」
「そうだね……まずは一錠。それで効力がどのくらい続くか見て欲しい。普通は12時間ほどだが、人によっては数時間の誤差が出る。常用すれば効力も徐々に落ちていくが、まあ、そんなに継続することもないだろう……あと数日かな」
阿散井恋次の生命が尽きるのは、あと数日。
それ以降は、朽木ルキアを眠らせておく必要は無い。白哉の依頼は、ことが終わるまでの間のルキアの意識不明だ。
「薬を飲んで効果はどの位ででるのですか?」
「ああ、即効性のある物にしておいたから。錯乱されても困るからね。今の薬が切れて起きる頃―――もうすぐだと思うがね、起きたばかりはぼんやりしてると思う。様子を見て、食事が出来るようならスープ状の物を与えて。それから薬を一錠。効力が何時間か量ること。時折、劇的に効く体質のものが居るからね、15時間過ぎてもおきなかったときはすぐに連絡をくれ」
「はい、解りました」
薬を花太郎へと渡し、帰り支度をする松永の耳に扉を叩く音がする。すぐに花太郎が席を立ち、隣の部屋へと消える。
扉を開け放したままの隣の部屋から、香ばしい香りが流れてくる。
芳醇な香りに松永が気を取られていると、花太郎が「珈琲をご用意いたしました」と一礼して松永を見る。
「あちらで如何ですか。お疲れでしょう」
「ん?ああ、じゃあ頂くか」
「あの男の場所では、お茶も出せませんし―――あの男の居る部屋はあそこですよね、あの―――」
「そう、北側の、地下のね。やはりあそこはセキュリティが厳重だね、入れる人間は限られてるんだろう?あの部屋の電子鍵を渡されたが、必ずすぐ返すように言われるからね。何でも、3つしかないとか」
「そうなんです。白哉さまと檜佐木さまがお持ちで、その他には屋敷の予備でひとつだけ」
「これだけなのか?まあ、あの部屋の性質から考えるとな……」
「私共も触れることは禁じられております。先生に代わって私が執事にお返しするのが礼儀だと思うのですが、それは出来なくて……申し訳ございません。こんな夜分に来ていただいて、お手数をおかけいたします」
「いや、玄関で渡すだけだからね。手間じゃないよ」
鷹揚に笑って見せ、松永は上着の胸ポケットを叩いた。花太郎が微かに微笑む。
「本当に申し訳ございません。せめてものお詫びにあちらで珈琲を」
花太郎は穏やかにそう言って、どうぞ、と隣の部屋へと松永を誘い、ルキアの寝室から出て行った。
「―――ルキアさま」
隣の部屋から掛けられた声に、寝台に横になっていた少女の瞳が開かれた。
「医者は?」
「眠っております」
す、と開けられた扉に、ルキアは震える足を踏みしめ隣の部屋へと向かう。
2日の間、強制的に眠らされていた身体は、自分でも頼り無いほど力が抜けていた。
よろけそうになる身体を唇を噛んで身体を起こす。
弱音を吐いている暇は無い。
今この瞬間にも、恋次は鎖に繋がれているのだ。
身体中に傷を負って。
―――私の、所為で。
あの部屋から出たいと言わなければ―――こんなことにはならなかったのに。
けれど今はそんなことを言っている場合では無い。とにかく恋次を救出することが第一だ。
きっと顔を前に向け、踏み出した足は、揺らぐことはなかった。
「花太郎」
寝室を出、私室に入ったルキアの視界に、ソファの背もたれに寄りかかり眠り込んでいる中年の男の姿がある。
「これが?」
「はい、松永氏です。―――先程処方していただいた睡眠薬で眠っていただきました」
机の上に、飲みかけのコーヒーカップがある。即効性というのは本当だったのだな、とルキアは小さく笑った。
「―――聞いておられましたね、松永氏の話を」
「ああ」
花太郎の誘導によって松永から知り得た事実。
―――恋次はまだ生きている。
そして、この屋敷の北、地下室に捕らえられている、と。
「―――如何なさいますか」
「行く」
きっぱりと告げられたその言葉を予想していたのか、花太郎は冷静だった。説得する様子も見せずに、ただ無言で頭を垂れる。
「しかし、ルキアさま。今はまだあの部屋から彼を救い出すことは出来ません」
「―――無理だろうか」
「圧倒的に人が足りません―――この屋敷中の全ての人間が障害となります。そしてこの屋敷のセキュリティ。私たち二人では、彼をこの屋敷から出す事は―――いえ、あの部屋から連れ出すことすら不可能です」
花太郎の言葉に、ルキアは唇を噛んで俯いた。
自分の非力さを痛感する。
兄が居なければ、恋次が居なければ自分は何も出来ないのだ。
兄と恋次の持つ財力も人員も知識も知能も能力も、何も、何も無い。
「ですので―――私は、阿散井に力を借りることを考えました」
「阿散井―――に?」
「はい。向こうでも彼の不在は発覚しているでしょう。恐らくその行方を血眼で捜していると思われます。その阿散井に、彼が此処にいると知らせるのです。出来れば―――あの、彼と共にこの家に来た少年に」
「あ―――」
小柄な、恋次の傍に従っていた少年。名前は―――
「理吉、と―――恋次が言っていた」
「その少年ならば、この家のセキュリティも突破できると思います。阿散井恋次の居場所と引き換えに、秘密裏に彼を運び出すこと―――そう持ちかければ、可能性はあるかと」
「でも、どうやって連絡を?」
「正攻法では無理ですね―――他に洩れれば、秘密裏など望むべくもなく一斉に阿散井の者たちがここへと襲撃するでしょう。とりあえず、私の出来る限りであの少年と連絡が取れるよう図ってみます。ルキアさまは阿散井恋次にお聞きください。あの少年だけに通じる連絡先、方法があるかどうか」
「わかった」
「今日はとにかくその連絡先を知ることと、阿散井恋次に諦めるなということをお伝えください。諦めは死期を早めることになります」
最後の一言に、ルキアは蒼褪める。
死期。
―――恋次が、死ぬ?
させない。
そんな事は、絶対にさせない。
ルキアの目の前で、花太郎は松永の上着の内ポケットに手を入れ、そこに収まっていたカード型の電子キーを取り出した。先程の会話の中、電子キーの話題の時に松永が叩いた場所、確かにそこにキーはあった。
代わりに花太郎は自分に支給されたIDカードを、松永の内ポケットへとしまいこむ。
「猶予はありません。次に松永氏がこの家に来るのは2日後―――その日が来れば、このキーが地下室のキーではないことが明るみに出てしまいます。それまでに私たちは彼を助け出さねばなりません」
この行為―――朽木白哉を裏切るこの行為に加担しているという明らかな証拠を残すことになるこの行為にも、花太郎は動じる様子も見せずにその選択をした。
電子キーは必要だ。
この後、執事に返さなければいけない電子キー、それを、一見しただけではまったくわからない同じカードキーにすり替えねばならない。
代用できるものはIDカードしかない。
だから、花太郎はそれを代用する。
発覚すれば、―――どうなるかはわからない。
「―――すまない、花太郎」
両手で顔を覆い、震える声でルキアは呟く。
自分の所為で、花太郎が危険に身を曝している。
その最低な自分を、ルキアは自覚している。
「何故謝るのですか?」
静かに微笑み、花太郎は跪く。
「ルキアさま―――我が主。貴女の為ならば、どんなことでも致しましょう」
ルキアが恋次へと向ける想いと同じ強さで。
花太郎はルキアへ想いを向ける。
「貴女の幸せが私の幸福」
立ち上がり、花太郎は言う。
その一歩を踏み出させるために。
けれど、花太郎は知らない。
この後の煉獄、―――そこへ到達する最初の一歩を、花太郎はルキアに踏み出させていることを。
「では―――覚悟はよろしいですか?ルキアさま」
ルキアは―――静かに頷いた。
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