その声だけでルキアの小さな世界を粉々に破壊した朽木白哉は、ルキア、と愛しげに名前を呼んで白く美しい手を差し伸べた。
 その手を、その姿を、息を詰め震えながら見ることしか出来ないルキアに、白哉は微笑みながら一歩近付く。
「怖かっただろう、もう大丈夫だ」
 怯える仔猫をなだめるように、白哉の声は酷く優しい。
 ルキアの前に立つ恋次の姿は全く目に入っていないかのように、ただルキアだけを見つめて手を差し伸べる。
 一歩。
 また、一歩。
 近付く白哉を、ルキアはただ震えながら見つめていた。
「―――どうした、ルキア?」
 初めて白哉の顔が訝しげに顰められた。蒼白なルキアの顔を見つめ、ああ、と納得したように頷き、白哉は「大丈夫だ」と繰り返した。
「あの日お前に付いていた無能な屑は処分した。もう二度とこのようなことが無いように、お前の傍には片時も離れずに私が付いていよう。だから安心して戻っておいで、ルキア」
「……処分……?」
 ルキアの小さな声に、白哉は頷いた。その秀麗な顔に怒りが浮かぶ。それでも白哉の美しさは比類なく―――その美しさ故に、一層白哉の怒りの激しさが際立った。
「私に連絡をせず、一人でお前を捜していた無能者。お前がいないと解った時点で私に連絡すれば、すぐにお前を保護できたものを」
 事の重大さを理解せず、己の処分を恐れ一人で解決しようとした為に、お前の居場所を見失ってしまった。
 そう続けた白哉の言葉に不自然さを感じて、ルキアは小さく息を呑む。
 一ヵ月半、一歩も外に出なかった自分。
 恋次の部屋から初めて外に出た途端現れた、兄のそのタイミング。
 偶然などでは、在り得ない。
「お前の行方がわからないと、私の元にあの無能者から連絡が来たのはあの日の7時。すぐにお前を追ったが、電波の遮断された場所にお前は隠されたのだろう、受信機は何の反応もしなかった」
 無言のルキアに、白哉は許しを請うように言葉を続ける。
「この一月半、私は片時も受信機から目を離さなかった。そうして先程ついに反応した受信機に狂喜しお前を迎えに来ることが出来た」
 遅くなって悪かった、怖かっただろう、でももう大丈夫だ。
 繰り返される謝罪。差し伸べられた手。
 ルキアの頭にリピートするのは、けれどその三つの言葉ではなく。
 ―――受信機。
 受信するものがあるということは、発信するものがあるということ。
 電波。遮断。受信機、―――反応した受信機。
「私の、私の身体に」
 発信機が―――マイクロチップが。
 電波を、知らずに。
 今現在も絶え間なく。
 一月半、過ごした硝子の部屋。
 ああ、そこに最初に足を踏み入れたときに、恋次はなんと言っていた?
 そう、この部屋はあらゆる電波を遮断すると。
 あの硝子の筐は二人を護る完璧なシェルター。
 その部屋から何故二人は外へと出てしまったのか。
「私―――私、が」
 外に出たいと言ったから。
 二人で外を歩きたいと、言ったから。
 二人の世界はあの部屋だけだったのに。
 あの部屋さえあれば、それでよかったのに。
 あの部屋にさえいれば、世界は壊れずにすんだのに。
「私―――私の所為、で」
 世界は壊れた。
 粉々に―――!
「私が―――私が!!」
 悲鳴を上げるルキアの身体を抱きすくめ、恋次は「違う」と耳元で言葉を繰り返す。違う、お前の所為じゃない。お前の所為じゃない、大丈夫だ、何も怖いことなんかない、何も変わらない。
「おいで、ルキア」
 ルキアを抱きしめる恋次の姿は、まるで目に映っていないかのように―――白哉は怯える仔猫を安心させるように優しくルキアの名前を呼ぶ。
「大丈夫だ、もう怖いことなど何も無い」
 同じ言葉を。
 恋次と白哉が繰り返す。
 大丈夫。
 怖いことなど、何も無い。
 お前の傍には俺がいる。
 お前の傍には私がいる。
「兄様」
 恋次の腕に抱かれたまま、ルキアは茫然と目の前の白哉を見つめていた。最後に会ったあの時と同じ美しい姿。ただ、記憶の中の兄と違うのは、明らかに体重が落ちている、更に細くなった身体だった。どれだけ心配を掛けたか解る程。
 それでも―――自分は。
「ご心配をおかけしたこと、何も言わずに姿を消したこと、心からお詫びいたします。こんな言葉で許していただけると思ってはおりません、でも……許していただけなくとも良いと、私は思っております、兄様」
 言葉を続ける内に、ルキアの瞳に光が戻る。
 恋次の腕の中に抱かれ、何度も囁かれる恋次の言葉、恋次の声に、ルキアは護られるだけの無力な少女から「朽木ルキア」に戻っていく。
 恋次を護る。
 白哉の背後では、先程から変わらずに、檜佐木が銃口を恋次の胸へと向けている。
 恋次を護ることができるのは―――自分だけだ。
「私は自ら望んで恋次の元に居りました。監禁されていたわけではございません。兄様のところへ戻ろうと思えばいつでも戻れました。けれど、私は―――恋次の元にいたかった」
 ルキアの言葉に、白哉の表情が消えた。
 あらゆる感情が消え去った、完全な無表情。
「ここに来い、ルキア」
 感情に流される兄の姿を初めてルキアは見た。
 無表情の下に流れる感情が、憤りであることはルキアにもわかっている。
 自分の両親を殺した阿散井家の跡取り、何度も生命を狙った阿散井の家の次期当主。
 その男に朽木家の娘が恋をするなど、許される筈はない。
 白哉が怒るのも無理はない。
 けれど、とルキアは思う。
 きっと兄様は解ってくれる。
 心を込めて、自分の心を伝えれば―――すぐには無理でも、必ず。
 それでも駄目ならば―――その時こそ、何もかもを捨てて恋次の元へと走ればいい。
 何年かかっても。
 十年でも二十年でも。
 必ず、恋次の元へと帰る。
「ルキア」
 名を呼ぶ兄の背後に、変わらず銃口を恋次の胸に定めたままの檜佐木の姿がある。
 冷酷なほど、冷静な瞳。
 ルキアが見たことの無いほど、酷薄な檜佐木の目。
「私が戻れば、恋次に何もなさいませんか」
「約束しよう」
 即座に返った言葉に、逡巡するように恋次と白哉の顔を交互に見つめ、やがて意を決したようにルキアは小さく頷いた。
「はい、兄様」
 その腕を恋次は背後から掴んで引き止める。振り返るルキアに恋次は「行く必要はねえ」と掴む腕に力を込めた。
「この程度、俺に取っちゃ何でもねえよ。あいつらの誰一人、俺を傷つけること何ざ出来やしねえ」
「ルキアに触れるな」
 氷のような声が響き渡る。決して大きくは無い声は、そのそこに孕んだ恋次への怒りの深さを如実に表していた。
 檜佐木の、引き金に添えられた指に力が籠る。
「檜佐木!」
 鋭い制止の声が、ルキアの唇から発せられた。焔のような瞳でルキアは檜佐木を睨みつける。
「恋次を傷付けたら許さない」
「檜佐木」
 白哉の言葉に、檜佐木は無言で引き金に込めた力を解いた。それでも変わらず、銃口は恋次の胸を狙っている。
「お前が戻るなら、この男は無事に返す。だが、お前が素直に戻らぬのならば」
 途中で途切れた言葉に先を、ルキアは充分に理解した。
 腕を掴む恋次へくるりと振り返り、爪先立ちで恋次の首へ自由な片手を回し恋次の顔を引き寄せる。
 唇を重ね、恋次の舌を求め激しく絡ませる。
 悲壮なほど、全身で、恋次への愛を恋次へとルキアは伝えていた。
 恋次の腕が解け、両手でルキアは恋次の頬に触れ引き寄せる。閉じた瞳から涙が零れ、ルキアの頬を濡らす。その涙を無視し、ルキアは恋次の唇に自分の唇を合わせ、貪るように貪欲に、いつまでも恋次への想いを伝え、そして恋次の想いを受け取った。
 長く短い時の後、唇を離したルキアは恋次の顔をじっと見つめる。
 愛しい深紅。
 何よりも大切な紅い色。
 離れる事など、出来るはずがない。
「私はお前から離れない。ずっと傍にいる」
 恋次が笑う。
 そうだ、と頷く恋次の笑顔。
「ああ、あいつのところへ行く必要なんざ―――」
 言葉の途中でもう一度、唇を重ねる。軽く、触れるだけの―――込める想いは深く、重く。
「だから―――必ず帰ってくる。きっと」
 短く囁いて、ルキアは素早く恋次の腕から抜け出て走り出す。
 ―――白哉の元へ。
「ルキア!」
 引き止める恋次の手は一瞬遅く―――。
「兄様」
「車で待っていろ」
 そうルキアに告げて、白哉は恋次の元へと近付いていく。
 二人は至近距離で向かい合った。
「―――ルキアの身体にマイクロチップか」
 蔑んだように恋次は言った。白哉の表情は何も無い。変わらぬ無表情で、目の前の恋次を、凍るほどの憎しみを底に孕んだ目付きで凝視する。
「ルキアが知らねえってことは、ルキアを連れ去った時に処置したな?6歳の子供の身体に埋め込んだのか、あんたは」
 白哉は何も言わずに、スーツの内ポケットに手を差し入れた。
「つまりあんたは―――ルキアを人間として扱っちゃいねえんだよ。犬か猫みたいなもんか。管理し、逃がさないように。ルキアがあんたの元から逃げ出せないように。―――あんたは最初から、」
 白哉の手が何かを掴んで取り出した。
 それを見ても、恋次の瞳に驚きは無い。
 ただ、憎しみの焔を眩めかせ、白哉に向かい言葉を吐き捨てる―――心底蔑みきったその声音で。
「ルキアをただの玩具としか見ちゃいねえんだ」
 白哉の人差し指に、力が籠る―――。







 白哉に命じられるまま、ルキアはすぐ背後に止められた車に向かって歩き出した。恭しく開かれる後部座席のドアの前で一度立ち止まり、ルキアは最後にもう一度、恋次の姿を目に映すために背後を振り返る。
 その目が大きく見開かれた。
「―――恋次!」
 銃声が―――響き渡る。
 恋次の身体は動かなかった。表情も変えず、目の前の白哉を睨みつけている。その左肩から、紅い、恋次の髪と同じ色の液体が溢れ出るのを、ルキアは蒼白になって見つめ。
「何を―――何をなさいますか!兄様、お約束が違います!!恋次には何もしないと、そう仰ったではないですか!!」
 ルキアの視線の先で、白哉が檜佐木に向かって合図を送る。檜佐木は頷き、恋次へ銃口を向けたまま近付いた。
「すぐには殺さぬ。相応の咎をその身に受けてから死ぬがいい」
 恋次の視線が四方へと向けられた。この状態でも、決して諦めることの無い強い瞳。痛みを感じないかのように不敵に笑う。
 この程度の危機ならば、阿散井の名を受け継ぐ前に何度も遭遇し切り抜けている。
 その笑みが、白哉の言葉で凍りつく。
「ここでお前が抵抗すれば、ルキアがお前に代わりその咎を受けることになる」
 氷のような―――声。
 刃のような―――瞳。
「下衆野郎」
 恋次の言葉に、白哉は無言で右手を振り上げた。銃の台座で、容赦なく恋次のこめかみを殴りつける。
 紅い飛沫が飛び散った。
 ルキアの唇から悲鳴が上がる。
 恋次の名を呼び、恋次の元へと走るルキアの身体は、背後の男に絡め取られ引き戻された。車へと押し込まれそうになるのを必死で抗い、ルキアは絶叫する。
「恋次!恋次!!兄様、お約束が違います!恋次には何もしないと、だから私は!!―――離せ無礼者!!私に触れるな、離せ下衆!!恋次、大丈夫か、恋次……!!」
 半狂乱で暴れるルキアは、ちくりとした痛みを首筋に感じ息を呑んだ。途端に目の前が白くなっていく。薬を打たれた、そう認識したルキアの手は必死で恋次に伸ばされる。
「恋次―――!」
「ルキア!」
 倒れこむルキアの異変に気付き、恋次がルキアに向かい走る―――己の傷、全身を駆け抜ける痛みを完璧に無視し。
 その背後から、檜佐木が恋次に襲い掛かる。
 薄れていく意識の中で、ルキアの瞳は崩れ落ちていく恋次の姿を映していた。







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