身体中に纏わり付く泥のように重い何かを振り切るように、ルキアの意識は覚醒した。
 頭が酷く重い。
 込み上げる吐き気に口元を押さえながら、ゆっくりと目を開け周囲を見渡す。
 見慣れた空間。馴染みのある家具。壁一面の大きな窓の外は夜の闇が広がって、外の景色はわからない。
 ―――違和感。
 自分の居場所は此処ではない。
 自分の居るべき場所は、白い壁の連なった閉じた部屋。
 誰も知らない硝子の部屋。
 ―――何時の間に部屋を変えてしまったのだろう。
 ルキアはぼんやりと自分の腕を見る。
 白い腕、紛れもない自分の腕。指を動かしてみると、ぎこちなく動いた。
 次いで、視線を下へと向ける。
 横たわっている自分の身体。
 着ている洋服は、黒のワンピース……袖はなく、肩紐だけのワンピース。さらりとした肌触り、滑るような光沢を持った生地は最高級のもの。
 身体の線に沿って作られた完璧なライン。
 黒い生地に合わせて縫い付けられた、繊細な黒いレース。派手ではなく控えめに飾るそのレース。
 生地を惜しみなく使ったスカートは、白いシーツの上に広がっている。
 華美ではなく上品な―――ルキアがつい先日まで一番気に入っていた黒いワンピース。
 この服は知っている。
 この服は―――そう、これは兄が贈ってくれたもの。
 兄が家に戻る時は、必ずこの服を着て出迎えた。 
 何故、自分はこの服を着ているのか? 
 ―――此処は……何処?
「……恋次?」
 小さく問いかけたルキアの声に応えたのは―――「ルキアさま!」と勢い込んで名前を呼んだのは。
「―――ッ!」
 横になっていた寝台から、勢いよくルキアは上半身を起こした。途端襲われる眩暈にふらりと身体が傾ぐ。
「ルキアさま!」
 倒れそうになった身体を抱きとめられ、ルキアは額に手を当てたまま、自分を支える腕を押さえ拒絶を示した。
「離せ、花太郎」
「失礼致しました」
 それでも花太郎の手は直ぐには離れず、ルキアの手が寝台の上に付き、その身体を自らが支えるまでルキアの身体を支えていた。
 ルキアがふらつく身体を支え、体勢を立て直してようやく花太郎の手がルキアの身体から離れていく。
「お身体の具合は―――如何ですか?……ご気分は」
 聞き辛そうに花太郎は問いかける。今目の前のルキアの様子を見れば、気分が悪いのは一目瞭然で、そしてルキアがこうなった原因は聞かされているのだろう。
 薬を、打たれた。
 唇を噛み締めながら、ルキアは意識を失う最後に見た光景を思い出す。
 轟く銃声。
 飛び散る紅い血。
 崩れ落ちる恋次の姿。
 けれど、ルキアは恋次の生命が失われたとは思ってはいなかった。
 恋次は生きていると確信する。
 目覚めた時に、何も感じなかった。
 もしも恋次の生命がなかったのならば、必ず自分には―――解る。
 果てしない絶望感、魂の半身をもぎ取られたような虚無感を―――目覚めた時に感じなかった。
 恋次は生きている―――そう確信するルキアと同じ想いを、以前恋次が抱いたことを、ルキアは知らない。
 その時の恋次と同じ、―――ルキアは同じ想いの強さで確信している。
 ―――恋次は生きている。
 ルキアの紫の瞳が燃え上がった。
「今、医者を呼びます―――どうぞ横になっていてください」
 ルキアが目覚めたら直ぐに医師を呼ぶよう命じられていた花太郎は、机上の電話を手に取った。短縮番号を押そうとしたその時、
「電話を離せ」
 その声の持つ、あまりにも切羽詰った響きに、花太郎は―――視線を向けてしまった。
 あと1秒、遅かったのならば―――その後の展開は、違ったものになっていただろう。
「電話を置け、花太郎」
 紫の瞳が焔を内包し、激しく燃えている。
 その手に、寝台横のロウテーブルに置かれていたペーパーナイフを握り締め。
 ナイフの先端は、自分の首に。
「ル―――ルキアさま……!」
「医者も、誰も呼ぶ必要はない」
 その目に浮かぶ決意の強さに、花太郎はそろそろと電話を机の上に戻した。
 自分の生命を賭け、ルキアは闘う。
 恋次の生命を救う、そのために。





「花太郎」
 以前と変わらぬ、支配者の声―――朽木ルキアの声で、ルキアは問う。はっと花太郎が息を呑んだのがわかった。
「私はどれだけ意識を失っていた?」
「それは―――」
 言いよどむ花太郎を見つめ、もう一度「花太郎」と名前を呼ぶ。
 その声は決して大きくはなく、強くもない。けれど花太郎は打たれたように目を伏せた。
「私が、聞いている。―――応えは?」
「―――白哉さまに、止められております」
 ルキアの前に跪く花太郎の前で、ルキアは自分の首に当てたナイフに力を込める。ぷつ、という感触と共にルキアの首から血が流れた。
「ルキアさま……!」
「もう一度聞く。私が意識を失っていた時間は?」
 ルキアの首を流れていく紅い血に花太郎の顔色が蒼白になった。静止する言葉を発する前に、ナイフの先がルキアの首に沈む。
 更に溢れる血の色に、花太郎は屈した。
「―――ルキアさまがこの部屋に運ばれて、2日―――経過しております」
「2日……!」
 小さく息を呑み、ルキアは唇を噛み締めた。
 ―――恋次……!
 生命は―――失っていない。
 けれど、あの怪我―――あの傷、あの出血の多さ。
 直ぐに助けなければ―――危ない。
「私と共に運ばれた者は?」
「私は―――何も」
 再びルキアの首に当てられたナイフに力が込められるのを感じて、花太郎は「お止めください!」と悲鳴を上げた。
「本当に―――本当に存じません!!私はただ、ルキアさまが目覚めたら白哉さまにお知らせするように、と……!!」
 その叫びに、ルキアは首に当てたナイフの切先を離した。それでも、いつでも首に刺せる位置に切先を置く。
「ルキアさま……ナイフをお放しください」
「恋次は何処だ?」
「恋次……阿散井、恋次?」
 思いもよらぬ名前に目を見開く花太郎に向かい、ルキアは「恋次は何処だ?」と繰り返した。その姿―――強い視線、燃え上がる瞳に、ルキアが狂ってしまったのではないかと花太郎は恐怖する。
 それ以外、何も必要としない目だった。
 阿散井恋次以外は何も要らない、と―――叫んでいる目だった。
「この家に運ばれた筈だ―――此処に居る筈だ。恋次は何処だ―――恋次は!!」
「ルキア……さま……」
「お前は誰に忠誠を誓う?」
 不意にルキアの声が―――戻った。冷静に、冷徹に、花太郎を魅了する「朽木ルキア」に。
「お前は誰に従う?兄様か―――私か」
 圧倒的な威圧感。
 全てを魅了する紫の瞳。
「今、此処で選べ。花太郎―――兄様か、私か」
 無意識に花太郎は跪く。
 誰に従うか、誰に忠誠を誓うか、誰を選ぶか―――そんなことは、10年前から決まっている。
「以前申しました、あの教会で―――お忘れですか、ルキアさま」
 紫の瞳の奥に、激しく泣きじゃくるルキアの姿が見える。
 幼い子供のように、如何していいか解らずに泣く小さな少女。
「貴女が望むのでしたら、私はどんなことでも致します。貴女のためならば、私の生命さえ惜しくはありません」
 一度繰り返した言葉をもう一度繰り返す。
 紫色の瞳に浮かぶ強気な光が消え、変わって現れたのは―――歳相応の、否―――恋にすべてを賭ける少女の、純粋な、愛するものを助け出そうとする必死な瞳。
「ですから、どうか―――貴女自身が、貴女自身を危険に晒すようなことは―――お願いですから、どうかお止めください」
 あの時、あの教会で伝えた同じ言葉を、花太郎は繰り返す。
「貴女のためならばどんなことでも致しましょう。―――貴女が望むのであれば、どんなことでも」
「……花太郎」
 項垂れるルキアの手に口付けて、花太郎は問いかける。
「どうか、私に命令を。―――どんなことでも、致しましょう」
 愛する貴女の為に。
「ご命令を」
 跪く花太郎を見下ろし、ルキアは一度目を閉じる。
 時間をかければ、兄も二人を認めてくれると信じていた。
 その時間は……持てそうにない。
 事は一刻を争う。恋次の生命が失われるよりは、兄に許されないままの方がいい。
 優しい兄の、怒りに満ちた瞳。
 もう、決して許されないだろう。
 ルキア、と優しく名前を呼び、微笑んでくれることもないだろう。
 あの美しい白い手が、自分の頬を撫でる事は、もう二度とないだろう。
 ―――それでも。
 選んだ道を後悔はしない。
 浮かぶ決意の色に、ルキアは小さく息を吸う。
 再び兄を裏切り、恋次を取り戻す。
「調べて欲しい。―――この屋敷の何処かに、必ず恋次は居る筈だ。その場所を―――そこに入る手段を」 



 運命は加速する。世界を取り戻すかのように、急激に。






 ―――終焉に向かって。

 




 

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